妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
再び、夏祭りの活気の中を歩く。汗ばんできたシャツに夜風が当たり、暑いような寒いような、そんな不思議な感覚が迸る。
いろいろな出店を回り、ときどき空腹を満たしたり、賑わっているイベントの方に足を運んだりして、いわゆるデートらしいことを行った。隣を見れば、いつもよりも機嫌がよさそうな妹がいる。
けれど、そんな時間もあっという間に過ぎていく。遠くから聞こえる音楽の音や、イベントを仕切っている司会のマイクの音も、少しずつ薄れている。そろそろ終わりの時間かもしれない。
「っ……」
つないでいた手が、急な引力によって引かれた。
「遥?」
「ごめん……ちょっと足が痛くて」
少しかがみながら、足首のあたりをさすっている。慣れない下駄を履いて、負担がかかってしまったのだろう。
「少し休もうか」
近くの空いているベンチに座り、遥の足の状態を確認する。特に外傷はないみたいで、単純な疲労の蓄積だと判断した。
「……彼方。今日はありがとう」
ぽつりと、声が響く。
それはいつになく素直な声音だった。
「夏祭りに来てよかった」
そう言ってくれるなら、夏祭りに来た甲斐があったというものだ。僕たちは以前、こういうイベントにはほとんど参加してこなかった。遥との断絶が起きた後は、会話すらほぼなかった。そういう意味では、大きく前に進んでいると言える。
歩き回ってるとき、遥は普段よりも目を輝かせて周りを見ていた。楽しいという気持ちが、こっちにもはっきり伝わってくる。遥が憧れていたものはきっと、こういうデートなんだとやっと実感できた。
「この前も話したけど、彼方は前に一緒に夏祭りに来たこと覚えてないのよね」
そういえば、そんな話もしていた。僕達がまだ幼いころのことで、熱で倒れた時のことだと。
「あのときの夏祭り、すごく楽しかった。そして今も……」
ちょこんと、僕のシャツの袖を掴んだ。
「だから……彼方も楽しんでくれてたら、すごく嬉しい」
長い黒髪が、ゆっくりと右肩に乗るのを感じる。火照った身体は、幼い子供のように体温が高かった。
「……」
遥の言葉に、ふと考え込んでしまう。
昔の僕は、本当に楽しんでいたのだろうか。
今の僕は、純粋に楽しめているのだろうか。
はっきりと答えることができない。別に不満なんてないはずなのに。そもそも遥をここに連れてきたこと自体、僕の意思だ。だったらなおさら文句なんてあるはずない。
なのに、どうしてだろう。楽しいという言葉がすぐに出てこない。
「僕も……楽しいよ」
出た言葉は、空虚なものだった。
遥の表情が和らぐ。一見ごく自然に放たれたそれは、遥には額面通りの意味で届いた。
発した言葉とは正反対に、中身は空っぽだった。あるいはそれは、本当は後ろめたさでさえあったのかもしれない。
「……」
何に対する後ろめたさなのか、なんて、そんなことはわかりきってる。何度だって、あの頃に傷つけてしまった
彼女を傷つけた僕が、何かを楽しんでいいのか。こんな僕が、素知らぬふりをして生きていていいのか。ふとした拍子に、閉じ込めた気持ちが溢れてしまう。
唾を呑むと同時に汗が滴り落ちて、シャツを濡らした。彼女が流してくれた涙は、きっと今も沁み続けている。
大学に入って、勉強して、いろいろな人と知り合いになって。そんな、慌ただしくも充実した日々。望んでいた生活を、望んだ通りにできていたはずだった。
しかし、それはもしかすると、何かの積み重ねではなく、何かの喪失を繰り返すことで削られた一本の細い道だったのかもしれない。少しずつ、少しずつ。不要な何かをその場に置き去りにしていって……。
それでも、あの頃の何もかもを笑いあえるはずだと、そう思っていた。確かに彼女なら、優しく笑ってくれるかもしれない。
じゃあ、自分はどうなのだろう。
彼女と再び会ったとき、本当に笑顔でいられるだろうか。
「……」
……いや。
僕のことなんてどうでいい。遥が幸せならそれでいい。僕が今感じているこの罪悪感なんて、自身が勝手に塗りたくった下手なペンキだ。いつかはボロボロと剥がれ落ちてくる。
これは僕だけの問題だ。だったら、遥を悪戯に不安にさせるわけにはいかない。
「このあと、花火があるのよね。見に行かない?」
言われて思い出した。確かに、夏祭りのチラシをもらったときに、そんな話を聞いた。
「足は大丈夫なの?」
「……痛いけど、折角だし見たい」
湿っぽい声が耳をくすぐる。妹の髪から、シャンプーとコンディショナーの香りがした。
会場内に放送が入った。どうやら、ちょうどこれから始まるらしい。ここは花火の打ち上げ場所からは遠い場所だ。他の人たちは、放送を聞くや否や、次々とそこへ向かい始めた。
通り過ぎるの人の声が、たまに耳を通り抜けていく。黄昏時が終わり、夜空には星が点在し始めた。
遥とただ、道行く人たちを眺める。動き出す彼らはみんな楽しそうだったり、嬉しそうだったり、ちょっぴり寂しそうな顔もしていそた。この夏祭りはどうやら、花火が最後のイベントのようだ。
しばらく待っていると、ドン、と大きな音があたりに響いた。
「あ……打ちあがったわね」
一筋の光が空に昇り、枝分かれして花を咲かせている。次いで、パチパチと弾ける音が届いた。
「綺麗だね」
その花は、一瞬の輝きのために生まれたもの。でもきっと、その一瞬だけだからこそ、色褪せない美しさと共に記憶に残るのだろう。
花火が次々と上がる。遠く離れているのに、花火が打ちあがるたびに体が熱くなっていくような気がした。
「……ねぇ、彼方」
しっとりした声。心なしか、隣に座る遥の身体も熱くなってるような気がする。
「私……ずっと忘れない」
「……何を?」
「彼方が、私を嫌わないでくれたこと」
遥を嫌うことなんてあるわけない。遥は僕の大切な双子の妹。誰かが言った言葉じゃなくて、僕自身の気持ちとして思っていることだ。
ずっと、母さんの言葉だけに頼って生きてきた。ただそれだけを道しるべとして歩んできた。でも、今は違う。
「……」
だから、かもしれない。さっき梓さんに言ったように、自分たり得るものをまだ見つけられていないから。まだ、空っぽな自分のことを許せていないから。満たされない器の中でみっともなく足掻くたびに、何度でも記憶を思い起こしてしまう。
七色の光が夜空に浮かび上がる。一瞬で散らすその花を前に、遠くから歓声が聞こえた。夜空に光る星の花に、みんな見惚れている。
茜や美玖はどうしているだろう。連絡自体は取り合っていたけれど、それでも細かいエピソードというものは、実際に会わないと分からないものだ。けれど、彼女たちは間違いなく充実した大学生活を送っていることだろう。
今度帰省したら、語りつくせないほどの話をきっと聞かせてくれる。こういう花火をみんなで見たり、どこかに遊びに行ったりするのも悪くないかもしれない。
……なんて。そんなことを、空っぽな僕が話す権利があるのか。
「……すぅ」
泥沼に沈み込んでいると、気づけば隣からは、穏やかな寝息が聞こえ始めていた。起こさないように首を動かさず横目で見やると、瞼を閉じて規則正しい呼吸をしている。
詰まりそうになっていた息を、徐に吐きだす。遥に気づかれないように、そっと。
だめだ。どうにも頭がまとまらない。
茜と美玖に会うのが楽しみなのに、会うのがちょっとだけ怖い。本来同居し得ないものが、コーヒーに注いだミルクのように混ざり合い、濁っている。
何故、今になってこんな……。
「あ……」
ポケットから、小さなバイブ音。
偶然左ポケットに入れていた携帯端末を、遥を起こさないように引き抜く。画面に表示されたメッセージの差出人は、さっきまで想像していた彼女たちではなかった。
『彼方くん。今日は話を聞いてくれてありがとう。今はゼミのみんなと花火を見てるよ』
さっぱりとしたメッセージ。けれど、わざわざそんな文章を送るほど大した出来事でもなかったはず。丁寧にメッセージをくれるとは思っていなかった。
『僕の方こそありがとう。こっちは妹と一緒に休んでる』
利き手じゃない左手で、少しもたつきながら返信する。
彼女は、ゼミの人たちと一緒に花火を見ているらしい。彼ら彼女らの普段の様子を見るに、おそらく近いところまで足を運んでいることだろう。僕はそこまでしたいとは思わないし、遥が足を痛めてしまったからここから動く気はないけれど。
そういえば、彼女も遥と同じように下駄を履いていた。彼女も遥と同じように、足が痛くないのだろうか。
続けざまにメッセージを打つ。
『打ち上げ場所の近くにいるの? 結構遠そうだけど、足は大丈夫?』
送信してから、疑問が並ぶ文章であることに気づいた。こういう聞き方だと、鬱陶しがられるかもしれない。
『やっぱり彼方くんは人のことよく見てるね。ちょっと足が痛いかなぁ』
割合早くメッセージが返ってくる。空には今も花火が打ちあがっているけれど、頻繁にメッセージを返信してくれる。
と、思っていた矢先。そんな気持ちを見透かしたようにメッセージが飛んでくる。
『今はみんなから離れたところに一人でいるよ。首をあげてるのも疲れちゃうからね』
言われてみれば納得だ。僕も梓さんも、空に咲く花ではなく、無機質な液晶画面に目を落としている。梓さんは首の疲れ、僕は遥に肩を貸しているから不用意に動かせない、と理由は異なるけれど。
他愛もないメッセージを送りあう。遠くの花火の音と、遥の鼓動を感じながら指を幾度も滑らせる。
学生らしく、ゼミのことや興味のある分野のこと。プライベートとしては、趣味や好きな食べ物のこと。
彼女の声と花火の音が交互に入り乱れる。賑やかな周りの声は、少しずつ耳から遠ざかっていく。
ただの知り合いよりも、そこそこ踏み込んだ関係。同じゼミに所属しているくらいでは、全く知ることのなかった彼女の一面。
一つ、また一つと見えてくると同時に、あっという間に時間が過ぎていく。
……
……
どれくらい時間が経っただろう。暗闇で画面を見続けて、目が疲れを覚えた始めた頃だろうか。いつのまにか、辺りの人の気配は薄らいでいた。
夢中になってメッセージをやり取りしたからか、花火の音がいつの間にか消えかけていることに今更気づいた。
そこまで長い時間ではなかったけれど、たくさん話をしたような気がする。もっとも、ただのメッセージのやり取りではあるけれど。
『そういえば、帰省の予定なんだけどやっと決まったよ。バイトとかもあるけど、それ以外だったらいつでも空いてる』
携帯端末を操作してスケジュールを送る。僕の方からも、友達として彼女を遊びに誘うべきだろうか。でも、どうにも具体案が思いつかなかった。
『ありがと! 空いてる日が私と結構被ってるね』
『そうなんだ。奇遇だね』
知り合いの多い彼女のことだから、てっきりスケジュールは埋まっているものだと思ってた。僕自身もあまり予定は入ってない方だから、彼女も同様に予定がないのかもしれない。
「あ……」
メッセージの画面が暗くなり、小さな着信音が鳴り始めた。一瞬、遥を起こしてしまったかと焦ったけれど、どうやら気づいてないようだ。
画面を操作して、音量を調節しながら耳許にあてた。
『もしもし? ごめんね、いきなり電話かけて。いま大丈夫?』
「大丈夫だよ。妹は隣で休んでるから」
遥を起こさないように、小声で話す。一時間ほど前に聞いた声が電話越しに聞こえるのは、ちょっと不思議な気分だった。
『早速なんだけど、お出かけのお誘いしようかなって』
「お出かけ?」
『うん。と言っても、厳密にはちょっと違うかもだけど──』
花火が消えゆく空には、その残滓が時を止めたように瞬いている。それは、儚く散りゆく粉雪のようだった。夏の夜風と共に、火照った肌を冷ましていく。
『──今度、一緒に飲みに行かない?』
電話越しに、周りの雑踏が聞こえる。けれど、彼女の声はそれでもはっきりと聞こえた。
『落ち着いた場所で、もっと話がしたいし……どうかな?』
ゼミの飲み会のときの彼女の様子を思い出す。僕自身もそうだけれど、彼女もあまり飲む印象がない。けれど、こうして誘ってくれるということは、本当はそれなりにお酒が好きなのかもしれない。
悪酔いはしたくないけれど、梓さんと一緒なら無理に飲ませるようなこともないだろうし、心配ないだろう。
「いいね。僕も行きたい」
『やった! 実は行きつけの店があるから、そこに行こ!』
弾む声。梓さんと出会ってから、初めて聞くタイプの声音だった。
『じゃあ、詳しいことはあとでまた連絡するね!』
「うん……誘ってくれてありがとう。またね」
別れの挨拶をして電話を切った。
遠くからは、出店で飾られている風鈴の音と、回る風車の音が小さく響いている。
……またね、か。
我ながら珍しい言葉を口にすると思った。久しく使わなかった言葉は、時間の乖離とは裏腹に思ったよりもしっくりとくる。
左手に握りしめたままの携帯端末は、まだ熱を帯びている。時折吹く夏風に涼しさを感じるけれど、手に残る熱は消えそうにない。
「遥。そろそろ帰ろうか」
「ん……」
そっと、遥を揺り起こす。眠そうな声をしながらも、ゆっくりと意識を取り戻していった。
「私、寝てた……?」
「ぐっすりとね」
「……ごめん」
遥は少し気まずそうにしながら目許を擦った。眠ったせいか、額にはじんわりと汗が滲んでいて、綺麗な濡羽色の髪が少しだけ乱れていた。
肩から遥の髪が離れていく。熱の籠っていた肩に夜風が吹いて、その熱さを攫っていった。その代わりに、浮かび始めた月の淡い光がそっと空を照らしている。
「歩けそう?」
「……ええ、大丈夫」
嘘だな、と直感的に理解した。けれど、それを直接言うと意地っ張りになってしまうのは、日ごろの生活から分かっていることだった。頑張れる範囲でゆっくり歩いて、どうしても無理そうなら背負っていこう。
……
……
風呂上がりの体を冷ますために、リビングに隣接するベランダに出る。
家に帰宅したのは、深夜にも近い時間帯だった。歩き疲れで足を痛めた遥を背負いながら帰った関係で、思ったよりも時間がかかってしまった。遥は早々にお風呂に入り、今はもう眠っている。浴衣はレンタル品だから、明日には返却しないといけない。
……遥が喜んでくれてよかったな。
無事に一日を終えたことに、ほっと胸をなでおろす。心地よい疲労感と、眠気を誘う夜風。輪郭が不確かな月が、ぼんやりと夜空に浮かんでいる。
思い浮かべるのは、偶然出会った友達のこと。
品行方正で真面目で、けれど柔和で誰にでも優しい彼女の姿。そして、それだけが彼女の本質ではないこと。それを彼女は、僕に話してくれた。
僕と梓さんが似ているのならば、僕の本質とはいったい何だろう。ずっと追い求めていた理想の自分。それをがむしゃらに探していた僕を、そっと止めてくれた大切な友達。
導いてくれた彼女たちは、今は目の前にいない。もう、一人でも大丈夫だよって、そう送り出してくれた。
それなのにやっぱり、真っ暗な道を歩み続けるのはどうしても怖い。前を歩いてくれる人が欲しい。弱い自分が、そうやって我儘を言ってくる。
遥と歩く道に、良い未来が待っているとそう信じていたいのに。いつだって、急に怖くなってしまう。
僕は臆病者だ。照らしてくれる光がないと、進む方向が分からない。進む方向が間違っているときに正してくれる人がいないと、立ち止まってしまう。
ゆっくりと深呼吸する。胸いっぱいに広がるのは、夏の匂い。昔母さんが、たった一度だけ海に連れていってくれた思い出の季節。
だけど、いつまでも思い出に浸ってはいけない。進む道が分からなくても、間違っていても、前を向いて歩くしかない。
立ち止まってしまうと、きっともう……。
「……」
首を振る。脳を侵食してくる強迫観念に必死で抵抗する。ちゃんと切り替えないとだめだ。もう、いつまでも引きずってちゃいけない。
ポケットにしまっていた携帯端末を取り出す。起動してトークアプリを開くと、梓さんからもらった待ち合わせ場所や時間の連絡が羅列する。
それらをぼんやり眺めながら、今はただ、夏風に心をゆだねた。