第1話「運命の分岐点」
『神』とは得てして理不尽な存在である。
一つ次元の違う、人知を超えた『
元より天界に住まい、下界の
歳も取らず姿も変わらない彼らは、まさにこの世の理から外れている超越者。
人間が泣こうが喚こうが、神々はそれを単なるゲームの一場面として捉え、嘲笑を以て賑やかす。
所詮全ては神が用意した、壮大にして滑稽な舞台に過ぎない。人類は頭上から糸を垂らされ、舞台裏で囁かれ、戯曲を書き換えられ、宿命を左右されてしまう。見えない神意に導かれてしまう。全ての背後には、神々が厳然と存在するのだ。
——ならば、
あるところに、一人の女がいた。
この世に生まれ間違えた、一人の女がいた。
彼女は世界を憎んでいた。
彼女は歪なこの世を憂いていた。
彼女は腐りきった運命に抗おうとした。
彼女は——志半ばで力尽きた。
とある青年に全てを託し、この世を去った。
去った筈だった。
きっと、神々は物足りなかったのだろう。
彼女が辿る筈だった劇的な人生——
だが、彼女は敢え無く途中退場してしまった。
壮大な
だから、神々は
本来の戯曲に手を加え、あるべき運命を歪め、自らの神意の赴くままに物語の結末を操った。
全ては『娯楽』のために、一人の女の宿命を左右したのだ。——これが『
——そうして、彼女は再びこの世に降り立つ。
神々に踊らされた一つの傀儡として、彼女は再び世界に抗う役目を担わされた。
その神意に従うも従わないも、全ては彼女次第。
これは、語り継がれることのない物語。
密かに存在した、一つの
◇◇◇
——瞼が重い。
最初に頭に思い浮かんだ言葉はそれだった。
闇に沈んでいた意識が覚醒し、体が活動を再開し始める。自身の五感が働き、感覚を取り戻し始める。
そのまま瞼を開けて視界を確認しようとするが、上手くいかない。眼球に隔てられた肉の扉ごときが重い筈もないが、何故か目を開けることができない。
ならば手足を動かそうと試みるが——これも立ちゆかない。まるで鉛を取り付けられているかのように、手足が重たいのだ。そして同時に、微かに痙攣しているのを感じる。まるで死に際の昆虫のように、力無く震えている。
何故、と疑問が浮かび上がる。
そう言えば、呼吸も苦しい。いつものように深く息を吸い込むことができない。ヒュッという、自身の短く儚い呼吸音がかろうじて聞き取れる。虫の息という表現がまさに適切であるように思えた。
「——おい! あそこに誰かいるぞ!」
誰かの声が聞こえた。
声を聞き取るぐらいのことはできるらしい。
耳鳴りが酷く、甚だしい耳閉感が今も自分を襲っているが、何とかかろうじて音を拾い上げた。
「おい、大丈夫か!!?」
こちらに近づいて来る、複数の気配を感じる。
バタバタと慌ただしく足音を踏み鳴らしながら、誰とも知れぬ者達が必死に呼びかけてくる。
「酷イ怪我ダ……!! 人間共ニヤラレタノカ……!? ダガ、マダカロウジテ息ガアルゾ!」
「ああ、分かってる! レイ、今すぐ皆を集めてくれ! 『隠れ里』に連れて帰って治療をしねーと!」
「分かりましタ!」
何者かが己の身体を抱き寄せる。
どうやら自分は誰かの太い両腕に抱きかかえられたらしい。死にかけの自分を慮る余裕が無いのか、随分と忙しない動きだった。
「グロスはフェルズを呼んでくれ! こんな深い怪我を直せる
騒がしい話し声。
焦燥感に包まれた大きな声が、やけに耳の奥で響いている。だが、それも一瞬の間だけ。徐々に耳の機能は失われていき、彼等の声が薄れていく。
「くそっ……! 間に合ってくれよ……!!」
一体何と言っているのか。こんな至近距離に居てもなお、やはり彼等の言葉は聞こえてこない。それほどまでに体力が失われているのか。腕はダラリと力無く垂れ下がり、段々と呼吸も止まっていく。
先程意識が戻ったのも束の間、というやつだ。
せっかく覚醒した五感も、全てが嘘のように失われていく。コップから零れ落ちるミルクのように、手で掬い上げることもままならない。まさに風前の灯火。いつ命が消えてもおかしくない。
どうでもいいか——と、考えるのをやめる。
どうやら思考力も消えていってるらしい。様々な疑問が頭に浮かんでいた気がしたが、それら全てを放り投げて意識の沈下に身を委ねる。
目が開けられないのは、例えようのない強烈な睡魔があるからだ。体の部位一つとっても動かしたくないほど眠たい。瞼さえ開けない。
このまま、ドロリと意識が溶け落ちて——。
再び、闇に沈んだ。
◇◇◇
とある青年がいた。
名を″ササキハイセ″——否、″カネキケン″と言う。
人間の身から喰種に堕ち、周囲の思惑に巻き込まれ続けた悲劇の青年。弱さを捨て、喰種としての本質を受け入れ、冷酷な強さを得た。
そんな彼に自分は——エトは、全てを託した。
己の半生をかけた悲願、喰種達の希望、世界の行く末、その他全てを″カネキケン″に託した。
彼には自罰的で己を顧みない弱さがあるが、有馬貴将との戦いでそれを克服した。死人だった青年は死神を超えたのだ。恐らくは彼ならば、いびつの根源を破壊してくれるだろうと願って。
『世界は卵のようなもの』
『何かを生み出すには、目前の世界を破壊しなければねらない』
確か、エトはそんな言葉を彼に言い放った。
『卵は世界だ』とは、誰の言葉だったか。
世界に抗うというのは、文字通り世界を破壊することだ。世界の均衡の天秤を水平に戻すために『歪んだ鳥籠』を壊す——そして、それには相応の力が必要なのだ。
彼は有馬貴将を殺し、この世で最も力を持った喰種となった。玉座に座るべき新たな″隻眼の王″として、彼にはその資格が与えられた。充分な理由が与えられた。——全ての喰種達の希望を背負った。
『座すも壊すも君次第だ』
『やるか、やらないか、選べ』
それは半ば一方的な押し付けだった。
あの状況で彼が玉座に座らない選択肢は無い。強引に意見を通すエトに対し、彼は「乱暴」という言葉さえ使ったのだ。思わず苦笑が漏れてしまう。
とにもかくにも、″カネキケン″が作り上げる新たな世界を——見守るとまではいかなくとも、地獄から見上げるぐらいのことはできるだろう。先立った先輩を安心させるために、青年にはぜひとも頑張って貰いたいものである。
……ついでにあの″
エトはそう思った。
そんな夢を見た。
——もうすぐ、夢は醒める。
◇◇◇
ゆっくりと瞼を開ける。
今度は別段重くなかった。元々肉の皮一枚動かす程度に苦心することは有り得ない筈だが。
視界は霧がかかったようにボヤけている。どこからか発せられる光に照らされながら、徐々に視界が鮮明になっていく。
「ん…………」
深く息を吐きながら、身体を起こした。
自分の半身には、薄い掛け布団のような物がかかっている。いくつかの布で繋ぎ合わせているようだ。繋ぎ目は粗く、少々雑な作りではあるが。
下半身には冷たく硬い感触が伝わってくる。フッと視線を下に落としてみると、目に入るのはゴツゴツとした岩肌。自分と地面の間には何も敷かれていない。どうやら自分は地べたに直接寝かされていたらしい。
そういえば枕も無い。あるのは申し訳程度の薄い掛け布団のみ。物資に恵まれていない劣悪な環境なのか何なのか、とにかく異常な状況に感じる。
「…………?」
——イマイチ、頭が覚醒しきっていない。
寝覚めが悪い。未だにうつろな意識のままだ。低血圧な人間は寝起きが悪いというが、自分はその類に含まれない筈。欠伸は出ない。眠気を引きずっている、というわけではないようだが。
そんな事を考えながら、周りを見渡そうとする。
そこで——はたと気づく。
「……………………」
自身の手や腕を視界に映す。
傷一つない綺麗な肌。血の塊のようなものこそ付着しているが、痛む箇所は無い。本当に、傷が一つも無い。
次に、パラリと下半身にかかっている布をめくる。
足がある。これもまた傷一つなく、しかし多数の血が乾いた跡が見られる。
改めて思い直す。呼吸もしやすいし、体も軽い。疲労も全くと言っていいほど感じない。
こんなことは、おかしい。
同時に強烈な疑問が湧いて出た。
何故自分は五体満足でいるのか。あの旧田とかいうピエロ野郎にいいようにやられ、再生が追いつかないほど体にダメージを与えられた。両足は吹っ飛び、片方の羽赫ももがれていた。まさに虫の息だった筈だ。
「——ここは、どこだ?」
あの後、自分は一体どうなったのか。あのまま死に果てると思っていたが、今自分は生きている。まさか、あの状況で何者かに命を繋がれたのか。
急激に意識が覚醒し始める。
目を大きく見開き、バッと周囲を見渡した。
『キュー!』
「…………兎?」
側には、一匹の兎がいた。
だぼだぼの青い衣服に身を包み、首には懐中時計を吊り下げている。赤色のつぶらな瞳がこちらを見つめており、目が合うと長い耳がピンと立ち上がる。
——
その後ろ姿を、ポツンと目で追う。
「……兎が二本足で立ってる、だと」
どこか気の抜けた呟きが口から漏れ出た。
唖然とした表情を浮かべながら、先程まで兎が立っていた場所を見つめる。
何だ今のは。何の冗談だ。
夢か、夢なのか? 死に際に脳が見せた幻覚か?
ギュッと頬を指先で摘み、力を込める。
痛みはある——夢じゃない。
「……んんん?」
盛大に眉を顰め、怪訝な表情を浮かべる。
まだ頭が寝てるのだろうか。状況が理解できないまま、周囲をクルリと見渡す。
場所は、まるで鍾乳洞のようなところ。
どこかの洞窟の中なのか、いやに広い空間だ。辺りには懐中電灯のような見た目の光源が複数個置かれており、この空間内を淡く照らしている。
特に目を引くのは——神秘的な光を放つ
それぞれの濃緑水晶がうっすらとした光を放つ光景は、どこか幻想的な情緒に包まれるほどの。
思わず目を奪われる。
思考を忘れ、視界に広がる風景に惹き付けられる。
——そんな時に、野太い声が響き渡った。
「おお! 目が覚めたか!」
バタバタと慌ただしい足音が聞こえて来る。
ボンヤリと聞き覚えのある声音に反応し、半ば反射的にそちらの方をバッと振り向いた。
「意識が戻って何よりだ、同胞!」
「リド、コイツハ目ガ覚メタバカリナンダ。モウ少シ静カニシロ」
「……言ってモ聞かないでしょウ」
こちらに向かってやって来た、三体の
二本足で立つ大きな人型の蜥蜴。人にあるまじき羽を有する、人の体をした美しい鳥。そして、まさしく石でできた体躯の竜らしき人型。
ファンタジー作品に登場するような、怪物の姿形を成している生き物達。喰種とはまた違う人外の存在。なおかつ人語を話しているという、強烈な違和感。
「…………あー」
そして、彼等のそばには先程の兎が。
自分が目覚めたことを彼等に知らせに行ったのか。
己を見つめる四匹の
力無く口角を上げ、苦笑を浮かべる。
「……何じゃこりゃ」
今度こそ