孫悟飯、その青春   作:マナティ

1 / 11
第一章 少年の名は孫悟飯

 

 

 

   Ⅰ

 

 

 

 鳥はちゅんちゅんと。

 

 虫はりんりんと。

 

 風はそよそよと。

 

 草はさんさんと。

 

 開けた草地に無防備に寝そべりながら、幼子は森に息づく生命らのあらゆる唄に耳をすませていた。耳だけではない。空から降り注ぐ柔らかな木漏れ日はなんとも暖かく、風に混じる草と木の匂いはとても柔らかく、頬や手足に感じる草と土の感触は実に瑞々しい。やがて、草の陰から愛嬌のある顔をしたバッタがらぴょんと飛び出してきて、か細い前脚でつんつんと幼子の手の甲をつついた。こそばゆさに目をわずかに開くと、鼻先では悪戯げな蝶々がひらひらと誘うように踊っている。

 

(……、……)

 

 言葉にならない想いが、幼子の胸に染み渡った。齢三つになったばかりで、扱える言葉も数えるほど。世間のことなど何一つ知らないと言っても良い幼子は、しかしそれでも、いま自分が大いなる幸福の中にいることをしっとりと感じ取った。多くの命に囲まれ、多くの命に包まれ、多くの命と共に微睡む今という瞬間の、なんと暖かことか。

 

 無論のこと、森の中に住むのは無害な命だけではない。都会から千キロ以上も離れた僻地であるこの森には、狼や猪の類も数多く生息しており、一匹でも出くわしてしまえば三歳児などひとたまりもないだろう。しかし、仮にいまここに百匹の狼がいようと、幼子にとっては恐れるべきことではなかった。

 

「気持ち良さそうだなぁ、悟飯」

 

 すぐ隣でやや退屈そうに胡座をかいている父の声が夢現に聞こえる。

 

「ほんっと大人しい奴だな。オラ子供っちゅーのはもっとギャーギャー暴れるもんだと思ってたけどなぁ」

 

 彼自身がそのような子供であったためだろうか、幼子の父はしきりに首を傾げていた。彼がこの地上、この惑星において並ぶ者の無い武術家であることをこのときの悟飯は正確に理解しているわけではない。しかし太陽が昇れば朝になるように、父の姿がそばにあれば狼も猪も熊も恐竜も恐れる必要がないのだということだけは分かっていた。

 

 父の名前は孫悟空。強き父。誰よりも強い父。

 

「お前は将来どんな大人になるんだろうなぁ。うんと強くなってくれたら嬉しいんだけどなぁ」

 

 日頃何かと息子を鍛えようとして、そのたびに母に怒られている父の姿を思い出して、悟飯はくすりと笑った。

 

 ただひたすらに、悟飯は幸せだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 悟飯は目を覚ました。随分と懐かしい夢を見ていた気がする。時刻は五時三十分とあるので、いつもよりやや寝過ごしてしまったようだ。ひとつ伸びをしてから悟飯は身を起こし、隣のベッドで眠る弟を起こさないよう静かに部屋を出た。

 

 洗顔を済ませてから、一度家の外に出る。悟飯の家は山の麓、森と川に囲まれる人里離れた区域に居を構えている。最も近い村までエアカーでも一時間はかかってしまうほどの僻地であり、生活上不便な点も多々あるが、早朝の空気の味わい深さだけは他所では早々得られないものだ。森と川が近いゆえに水気を多く含む澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、軽く朝の体操を行うのが悟飯の日課だった。

 

 家の中に戻り、風呂場で汗を流してから普段着に着替え、今度は悟飯は台所に向かった。レストランにでも置いてありそうな業務用の大型炊飯器を開けて量を確認し、次にこれまた大型な冷蔵庫を開けて次々に食材を取り出した。

 

 この家の家事は昔から母親のチチが一切を取り仕切っており、とりわけ厨房は彼女の独壇場であった。しかし弟の悟天が生まれると、さすがのチチも育児に掛り切りにならざるを得ず、その頃から悟飯は母に代わって多くの家事を手伝うようになっていた。以降七年間の研鑽により母には及ばぬものの、簡単な朝食の支度なら問題なくこなせるようになっていた。

 

 孫家三人分、一般常識としてはおよそ十人分もの食材を慣れた手つきで切り分けつつ、悟飯はふと物思いに耽った。

 

(そういえば父さんが包丁を握ってるところって、見たことなかったな)

 

 例えばチチが体調を崩したときなどに、父・悟空が代わりに夕食の支度をしたりすることはあったが、そういうときでも父は台所に立つことはなく、家の外で焚き火を起こし、捕まえてきた巨大魚か猪あたりを丸焼きにするのを好んだ。

 

(あれはあれで美味しかったっけ。今度悟天にも食べさせてやるかな)

 

 一通りの材料を寸胴鍋に放り込み、煮込み始めたころにチチも参戦してきた。

 

「おはよう。いつもありがとうな悟飯ちゃん」

 

「味噌汁、仕込んでおきました。あとは昨日の残りのお肉を出そうと思うんですが」

 

「ああ、それでええ。あとはオラがやっとくから、悟天を起こしてけれ」

 

「はい。それじゃこれ」

 

 身につけていたエプロンを外して、チチに渡した。自分用のエプロンを買おうとしたこともあるのだが、「その必要はねえだ」と母に一蹴された。夫の死と次男の誕生を契機に長男をよく頼りにするようになったチチだったが、それでもまだまだ台所の主権を手放すつもりはないようだった。

 

 悟天も起こして家族三人で朝食を摂る。近年の孫家の食卓の会話は、大体が元気盛りの悟天の取り留めのない話に大人二人が相槌を打つ形で進むが、昨日の夜更かしが祟ってか今日の悟天は珍しく静かで、代わりにチチと悟飯の間で話に花が咲いた。

 

「悟飯ちゃん、学校は楽しいだか? いじめられたりしてねえか?」

 

「大丈夫ですよ。まだ転校したてですから、逆に親切にしてもらってます」

 

「んだども、オラ心配だ。周りはみんな都生まればっかしだべ? 馴染みづらいんじゃないかって。はぁ、やっぱりオラ達ももっと街の方に住んどくんだったかなぁ」

 

「逆に不便だったと思いますよ。父さんにとっては」

 

「んだなぁ」

 

 そうこうして食事を済ませ、身支度を整えた悟飯が家を出たのは七時半頃のことだった。悟飯が通学しているオレンジスター・ハイスクールはオレンジ・シティ(近年サタン・シティに名称が変わった)にあり、一般的な自家用飛行機でおよそ五時間、父から受け継いだ孫家のやや特殊な自家用飛行機ならば一時間程度の距離にある。始業時間は九時からなので余裕の出発というところだった。

 

「筋斗雲ー!」

 

 玄関先で大声で呼びかけると、やまびこが返るよりも早くに畳半畳ほどの大きさの黄金色の雲が彼方より飛来し、悟飯の足元に停まった。悟飯がひらりと飛び乗ると、一体何で出来ているのか黄金色の雲は難なく悟飯の体重を受け止めた。

 

(だいぶ手狭になってきたな)

 

 幼少時は筋斗雲の上に寝そべることも出来たが、十六歳ともなるとさすがに収まらず、あぐらを掻くことがせいぜいだ。そろそろ悟天に譲る頃なのかもしれない。父が死んだ九歳の頃からの付き合いのためやや名残惜しいが、自分以上に父に似る悟天の方にこそ筋斗雲は相応しいような気もする。さぞやよく似合うことだろう。

 

「今日もよろしく、筋斗雲」

 

 悟飯の挨拶に答え、筋斗雲は風よりも早く飛び立った。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 街の外れの適当な場所で筋斗雲から降り、さてと悟飯は気を入れなおした。ともすれば憂鬱になりかける気分を、肩をぐるぐる回して持ち直す。

 

(気が滅入るなー、学校行くの)

 

 各種族、民族の生活形態の違いを尊重するべく、国の法律から義務教育が撤廃されたのは随分と昔のことだが、よほどの事情がない限りはやはり四歳ほどから公共の教育機関に通学するのが一般的とされる。悟飯は数少ない例外の方に含まれており、つい先日にオレンジスター・ハイスクールに転入するまでは、通信教育での自宅学習を主としてきた。しかし高等教育ともなればいつまでも独学というわけにはいかず、またいずれ就職する時のための社会勉強として、今年から街の学校に通うことになったのだ。

 

 齢十六にして初めて経験することとなる悟飯の学校生活は、まだ始まって三日とはいえ順風満帆とは言い難かった。ずっと山育ちであった者が、初めての都会、初めての学校で生活習慣の違いに戸惑うのは当然と言えば当然であり、朝食の席での言葉は半分以上は母に対する見栄でもあった。

 

「おはよー」

 

「おう、おはよう」

 

 オレンジスター・ハイスクールの在校生は五百人を超え、校門近くまで来ると同じ学校の生徒たちで道が混み合うようになった。

 

「なぁ、昨日のドラマ見たか? ローズがほんと美人でさー」

 

「バカ、昨日はリーグの決勝だったろ? うちは家族総出でバーバリアンズの応援だよ」

 

 親しげな世間話があちらこちらで生じ、独り身の悟飯はやや居心地悪そうに肩を寄せた。彼と同じクラスの人間も何人か見かけてはいるのだが、まだ転校三日目では掛ける言葉も見つからない。また掛けたところで、次にもっと深刻な問題が生じる。

 

(ローズというのはきっと人の名前だな。多分、役者の名前だ。バーバリアンズっていうのはチーム名だと思うけど、何のチームだろう。野球? サッカー?)

 

 今時の高校生にとって、ドラマやスポーツ観戦などは空気と同じくらいあって当然の有り触れた娯楽であったが、悟飯にしてみればその手の話題は暗号の羅列に等しかった。孫家の娯楽は何かと、たとえば故人の父に問えば一に修行、二に狩猟と返るだろう。母に問うてもせいぜい釣りやピクニック、はたまた筋斗雲を使っての小旅行などが混じるくらいか。いずれにせよ孫家の生活様式は極めてアウトドア、もしくは非文明的な方向に偏りを見せており、悟飯自身もそれに疑問を持ったことがなかった。孫家にも一応テレビはあるのだが、ほんのたまにチチがニュースとテレビショッピングを覗くくらいで、家族揃ってドラマやスポーツ観戦に興じることなど無く、芸能人やスポーツ選手の名前が食卓の話題に挙がることもなかった。

 

 そんな生活であったから、通学路で周囲の世間話に耳を澄ませば澄ますほど、悟飯はさながら遠い異星にでも迷い込んだような気持ちになってしまうのだ。

 

(クラスのみんなもよくスポーツの話とかしてるもんな。ちゃんと勉強しておかないと、いつまで経っても話ができないぞ)

 

 三日前の苦い経験が悟飯の頭をよぎった。三日前、つまりは通学初日、転校生の通過儀礼として多くの級友からあれこれと話しかけられた悟飯だったが、半分以上はまともに返すことができなかった。もちろん出身地や家族構成など当たり障りのない質問であれば問題ないのだが、これまでの経歴などを尋ねられるとどうしても嘘や誤魔化しを混ぜねばならず、また趣味や娯楽といった方向に話が進んでしまうと今度は皆の言葉に全くついていけなくなり、頓珍漢なことを言っては失笑を買うばかりであった。これではまずいと変に焦った悟飯は、なんとか得意分野かつ全員共通の話題であるはずの勉学の方に話を持って行こうとしたものの、悟飯にとっては摩訶不思議なことに学校は勉強するための場所のはずだが、そこに通う生徒の多くは勉強の話を好まないらしく、場をしらけさせることにしかならなかった。結果、「ガリ勉の田舎者」だの「真面目カントリーマン」だのあまり喜ぶべきでは無さそうなレッテルを貼られるだけに終わってしまい、悟飯は顔から火が出る思いだった。

 

 自分がいかに世間知らずであるかを強かに思い知らされた悟飯は、以来周りから聞こえてくる知らない言葉を逐一メモに取るようになった。  

 

 カラオケ、マルボロ、ウォークマン。

 

 コンパ、ゲーセン、スーファミ、ジャンプ。

 

 そしてつい今し方に追記された、ローズにバーバリアンズ。

 

(まだ三日目なのにもう五ページも埋まっちゃった。参るなぁ)

 

 言葉としては知っていても子細をつかめないものもあれば、言葉自体知らないものもある。外国語や古文の授業のほうがよっぽど楽だと、悟飯は大きくため息をついた。すくなくともあっちは辞書というものがあるし、使う相手も教科書やペーパーテストで済む。

 

 

 

   ◇

 

 

 

「お、おはようございます」

 

 快活とはやや言い難い調子で、悟飯は教室の扉を潜った。多くのクラスメートたちは御構い無しに世間話を続け、何人かは悟飯の方を向いてくれたがそれもちらりと見ただけで、返事をしてくれる者はいなかった。

 

(さ、寂しい。つまらない奴だと思われてるんだろうなぁ)

 

 事実、悟飯も自分が面白味のある人間とは思っていないので、級友たちを責めるわけにもいかない。話に花を咲かせるいくつものグループの間を縫って、悟飯はそそくさと自分の席に向かった。こんな自分の姿を悟天などが見たらどう思うかと考えるとますます気が滅入るが、たとえ海を割れようが山を砕けようが人間どうしても苦手なことはある。

 

 この学校の教室は大学の講義室のように傾斜が付けられており、教卓側がもっとも低い位置にある。悟飯の席は教卓から見て手前から三列目の一番右側に位置し、一応窓際ではあるのだが教室の窓はやや高い位置にあるので景色を楽しむことはできず、やや息苦しいポジションにある。

 

 隣の席の子はまだ来てないらしく、二つ隣に座る女子生徒の姿だけが見えた。

 

「おはようございます。ビーデルさん」

 

「ん、おはよ」

 

 ビーデルと呼ばれた少女は、コミック雑誌から目を離しはしなかったものの、ごく普通に返事をしてくれた。あまり良いデビューを飾れなかった悟飯だが、さすがに名指しで挨拶をして無視されるほど疎まれてもいない。「真面目カントリーマン」などと揶揄もされたが、裏を返せば悟飯が至って真面目で無害な人物であることはそれなりに周囲に伝わってもいた。

 

「……」

 

「……」

 

 とはいえ、後の会話が続かない程度にはまだ疎遠でもある。カバンから教材を取り出し、一時限目の支度をさっさと終えてしまった悟飯はさてと困り果てた。人付き合いの仕方は人それぞれで、二つ隣の席くらいであれば話題が無ければ無理に話す必要も無いと考える者もいるだろうが、悟飯としてはそれくらいの距離にいる相手であれば何一つ話かけないのは失礼に当たるという考え方をした。話しかけない、というのは相手に興味がないという意思表示であり、さらには自分にも話しかけるなという遠回しの警告にもなってしまうのだ。

 

(ベジータさんなんかがそうだもんな。まずい、まずいぞぉ)

 

 ビーデルとはまだ一言二言しか言葉を交わしたことはない。長い黒髪を二つに括った結構な美人、などと柄にもなく悟飯は思っているが服装は至ってラフであり、今もTシャツ一枚にハーフズボンと女性的な洒落っ気にはやや乏しい格好である。いま彼女が読み耽っているのも、どうやら少年漫画の週刊誌のようだ。そんなビーデルが好む話題は一体どのようなものか、悟飯にはまるで見当がつかなかった。

 

(ああ、やっぱり昨日少しでもテレビを見とくんだった。悟天にせがまれて対決ごっこに付き合っちゃったもんだから)

 

 考えど考えどちっとも話題が思い浮かばない悟飯であったが、始業十分前になってようやく天の助けが舞い降りた。

 

「ハーイ、悟飯くん」

 

 明るい金髪をショートにした少女が、いつの間にか悟飯の隣に立っていた。

 

「あ、おはようございます。イレーザさん」

 

「おっはよー」

 

 気さくさ満開の笑顔で、イレーザは手をひらひらと振った。悟飯の隣人であり、ビーデルとは対照的に肩も背中も大きく開いたトップスにデニムのミニスカートとなんとも挑発的な服装をしており、またそれが実に様になっていた。隣席ということもあってか転校初日から何かと悟飯に声をかけてくれており、現在悟飯が多少気兼ねしつつも友人と呼ぶことのできる唯一の相手でもある。

 

「いやーあぶなく遅刻するところだったわ。悟飯くんって何時に起きてるの? とんでもなく家が遠いのに遅刻もしないですごいわね」

 

 先にも述べたが、悟飯の実家とこのオレンジスター・ハイスクールの校舎までは、一般的な自家用飛行機でも五時間ほどはかかる距離がある。

 

「だいたい夜中の三時ぐらいになっちゃいますね。計算すると」

 

「わお、信じらんない」

 

「いや、もう、ほんとですね、我ながら」

 

 筋斗雲のことを吹聴するわけにはいかないにせよ、それにしても取り繕うにも限度がある嘘に悟飯は冷や汗を抑えきれなかった。

 

「さすがに大変すぎるでしょ。街で一人暮らしとか始めらんないの?」

 

「一人暮らし?」

 

「そーよ。当たり前でしょ?」

 

「そーか、一人暮らしか」

 

 確かに言われてみれば当たり前のことだが、数時間もあれば地球を楽々一周できてしまう悟飯にとっては却って慮外のことであった。たしかに今のまま千キロ以上も離れた学校に家から通い続けるというのは、実情はともかくとして対外的には相当な無理がある。悟天がまだ小さいうちは母を一人にするわけにはいかないものの、名目上の下宿先を街に一つ持っておくというのは、今後のためにも何かと都合が良さそうである。

 

「そうですね。いいですね、一人暮らし」

 

「そうしなさいよ。そうしたら私たちも気兼ねなく遊びに誘えるし。ねぇビーデル」

 

「ん? んーまぁそうね」

 

 イレーザの一声で悟飯だけに見えていた見えない壁はあっさり打ち壊され、ビーデルはパタンと漫画雑誌を閉じた。

 

「結構いい街よ。名前は前の方が良かったけどね」

 

「けど最近は治安が悪いぜ。田舎育ちには辛いんじゃないか?」

 

「おいおい、世界最強のミスター・サタンが住んでる街だぜ。むしろここほど安全な街があるもんか。俺はイレーザに賛成だ」

 

 ビーデルを皮切りに、ビーデルのさらに隣のシャプナー、イレーザの前の席のノートンまでもが会話に参加してきた。

 

「ど、どこかお勧めの場所とかありますか?」

 

「そりゃ繁華街近くがダントツさ。ウォッカ・ストリートのあたりなんて特に最高だ」

 

「シャプナー、あんた夜遊びのときの泊まり先が欲しいだけでしょ」

 

「お、バレたか?」

 

「乗せられないでよ悟飯くん。あのあたりは夜でもうるさいし、柄の良くないのが多いんだから」

 

「シャプナーみたいにな」

 

「うるせえよ」

 

 どっと笑いが起こった。つい先ほどまでの疎外感や孤独感など嘘のように話が弾み、その呼び水となってくれたイレーザに悟飯は深い感謝と尊敬の念を抱いた。なにかと苦労の多い学校生活だが、こういう良き出会いもまたあった。

 

 

 

   Ⅲ 

 

 

 

 今更な話であるが、孫悟飯は普通の人間ではない。宇宙に名だたる戦闘民族サイヤ人、つまりは宇宙人と地球人のハーフとして生まれ、幼少時より高度な戦闘訓練を受けてきた極めて特殊な人物である。ほんの二十年ほど前までは武天老師やピッコロ大魔王など最上級の達人のみしか扱えなかった気功術を四歳にして会得し、地球に襲来した二人のサイヤ人を相手に初陣を飾り、さらに遠い異星であるナメック星においては宇宙最強とも称されたフリーザ軍と激戦を繰り広げ、見事に生還を果たした。

 

 その数年後、今度は地球において人造人間の脅威が勃発。とりわけ最後の人造人間セルについては彼自身がメディアの前に姿を現したこともあって世界中の人々がその名を知るところであり、一方的な惨敗に終わったものの世界最強の王立防衛軍が出動する事態にもなった。

 

 軍ですら手に負えないセルの脅威は、ではどのようにして幕を下ろされたのか。世の常識では格闘技世界チャンピオンのミスター・サタンが倒したことになっているが、これは事実ではない。セルに戦いを挑んだこと自体は確かなのだが、開始三秒で無惨に払い飛ばされてしまっている。戦闘民族サイヤ人、帝王フリーザ、その他地球のあらゆる達人たちの細胞を集めて作られたセルの力は途方もなく、仮に彼の基となった全ての戦士が力を結集させようとも、到底及ばない域にまで達していた。

 

 しかし力はより大きな力に打ち負かされるもの。星どころか太陽系を吹き飛ばすことすら可能に思われた魔人セルの猛威は、当時わずか九歳であった一人の少年によって打ち祓われた。言うまでもなく、その少年こそが孫悟飯。四歳の頃から地球の存亡を賭けた戦いに加わり、常に最前線に身を置き生き残り続けた少年は、齢九歳にしてついに父をも超えた地上最強の戦士となり、その力をもって人造人間セルをこの世より完全に消滅させた。小さな英雄。地球の救世主。空を飛び、山を割り、星々すらも撃ち落とす文字通りの超人。しかし所変われば品変わり、大が小を兼ねるとは必ずしも限らない。超人的な能力を持つ悟飯が、普通の人々に紛れて平凡な学校生活を送ろうとしたとき、色々と困り事が出てくるのも止むを得ないことだった。

 

(皆の話についていけないのは、これから地道に改善していくとして、問題はこれだなぁ)

 

 昼休みに一人、学校を出て街中を出歩きながら悟飯は心中で独りごちた。決して校則違反をしているわけではなく、悟飯の学校は昼休憩のときであれば外出を許可しているので、その時間を使って悟飯は学校外で昼食を取るようにしているのである。より正確に言えば、校内で食事を取ったあとに今度は校外でまた食事をするのである。

 

 悟飯は日頃からだいだい六~七人前を食べるかなりの大食漢であった。これはサイヤ人共通の特性であり、混血である悟飯の場合、幼少時はそこまででもなかったのだが九歳ぐらいの頃から急激に食事の量が増え始めた。超化を会得したのも同じ頃であるため、恐らくはそれによってサイヤ人の血が強まったのだろうが、純粋なサイヤ人である父は十人前以上を食べていたのでまだマシな方とも言える。

 

 オレンジスター・ハイスクールには学生食堂があり、食券さえ買えばサンドイッチやパスタ、日替わり定食などをそれこそ好きなだけ食べることができるのだが、転入初日に券売機のところで何気なく全メニュー分の食券を買い、近くにいた何人かにえらく変な目で見られて以来、悟飯は一箇所で満腹になるまで食事をとることを控えていた。ではどうしているかというと、今日のようにまず学食でイレーザらと共に普通に一人前を食べたあと、一人でこっそりと学内購買に赴きサンドイッチやハンバーガーなどを二つ三つ買い食いし、最後に学外へ繰り出してコンビニやカフェなどの店を梯子するのである。

 

(さっきのバーガーショップは結構美味しかったな。でもカフェの方は今ひとつだった。美味しかったけど、てんで量が少ないや)

 

 すでに二件の店を回った悟飯はカバンから街の地図を取り出して、それぞれの店のところに赤ペンで○、△と印を付けた。昼休みは限られているのであまり遠出をするわけにはいかないし、すると通える店も限られてくる。今日試してみた二軒で、近場のファストフード店はだいたい周ってしまったことになる。

 

(ちょっと物足りないけど帰ろうか。腹八分目っていうし)

 

 グルメ旅行じみたなんとも呑気極まる調子であるが、面倒といえば面倒ではある。昼休み中のほとんどが単独行動になるので級友と打ち解ける機会も減ってしまうため、なるべくならこれも改めたいと悟飯は考えていたが、こればかりは生理的な問題であり、日々の努力でなんとかなるものでもない。

 

(いっそ開き直って、学食で普通に食べようか。いや、でも初日にうっかり食券買ったときは、近くにいた人すごいギョッとしてたしなぁ)

 

 幸いそのときはイレーザたち級友には見られていなかったが、実際に目にしていればやはり同じように変に思われたかもしれない。彼女らに訝しげに見られてしまうのは他に友人らしい友人を持たない悟飯としては避けたいところだった。

 

(逆に、これを機会に食事の量を減らしてみるとか。家計も助かるし……いや、でもやっぱりご飯くらいは好きに食べたい。一応育ち盛りだし、だいたい僕は名前からして悟飯なんだし)

 

 チチが弁当を作ろうかと言い出したこともあるが、それは母の負担になるし大荷物にもなってしまうので悟飯の方から断っていた。結局、特に解決策は思い当たらず、今後も昼食行脚は続きそうだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 話題、食事に続いて困り事その三はスポーツだった。

 

 今日の最後の授業は、記念すべき悟飯初めての体育授業であった。この日はクラスを四つに分けてのベースボールを行なうことになり、クラス内でスポーツを得意とする四名がそれぞれのチームのキャプテンとなった。なおAチームのキャプテンはビーデル、Bチームのキャプテンはシャプナーが務め、悟飯はBチームに加えられた。

 

「お前、野球って知ってるか?」

 

「あ、はい。やったことはないけどルールくらいは」

 

「ほう、そいつは良かった」

 

 といったやりとりの末、キャプテンの指示のもと悟飯のポジションはライト、打順は八番とされた。毛ほども期待されていないことが如実に分かる采配であったが、幸いというべきか悟飯がそのことに気付くことはなかった。

 

「ストライク、バッターアウト!」

 

「いえーい!」

 

 AチームとBチームの試合は早くもスコア0対0まま三回表を迎えていた。一時間内に収めるために試合は三イニングまでとされており、勝負の瀬戸際というところである。

 

 試合の盛り上がりは上々だった。ともにピッチャー四番を務めるビーデルとシャプナーの運動神経は悟飯の目から見ても見事なもので、一回裏で起こった投手シャプナーと打者ビーデルの対決にはついついイレーザと一緒になって手に汗を握らせながら応援してしまった。スポーツにおいては二人は良きライバル同士のようだが、とりわけ悟飯が好感を覚えたのはビーデルの方だった。優れた能力を持っている点はシャプナーも同じだが、彼の方は明らかに運動を得意としなさそうな生徒に投げる時もあまり手加減をしない。それはそれで悪いこととは思わないが、対してビーデルの方はさりげなくではあるが相手に合わせて球のスピードやコースを調整しているようであり、そのため女子生徒でもビーデルの球を打てることがあった。優しい子なんだな、と悟飯は素直に思った。

 

「ストライク、バッターアウト!」

 

「いえーい!」

 

 ビーデルがまた三球三振に抑えた。相手は運動部らしき体格のいい男で、今度はビーデルも手加減しなかったのだろう。

 

「次は八番だろ? 君だよ」

 

「え?」

 

 チームメイトに言われて悟飯は一瞬呆けてしまい、すぐに慌ててバッターボックスに走った。打順が回ってくるのはこれが初めてであり、加えて守備では一度も球が飛んでこなかったためすっかり観戦者気分でいたのだ。

 

「頑張って、悟飯くん! 君が最後の希望よ!」

 

 イレーザの声援に、ますます悟飯は困った。生まれて初めてのベースボールは観る分には思った以上に楽しかったが、自分でやるとなると全く話は変わってしまうのだ。しかしイレーザの言う通り、いま局面は3回表ツーアウト。悟飯が打たねば良くて引き分けとなり、少なくともチームの勝利はなくなってしまう。

 

(な、なにもこんな状況で回ってこなくったって)

 

 打つべきか打たざるべきか、ビーデルが第一球を振りかぶってもなお悟飯は決めかねていた。正直に言えば打ちたくない。打てばろくなことにならないのは目に見えている。しかしチームスポーツであからさまに自分だけ手を抜くというのは悟飯にとってはどうにも引っかかることだった。

 

 ビーデルが力強く地面を踏みつけ、左腕が鞭のようにしなる。悟飯はまだ決められない。ビーデルの細い指から、ボールが弾丸のように放たれた。シャプナー相手に投げた時より明らかに速度は遅く、コースもど真ん中だ。縫い目の回転具合を見るに、変化球でもない。悟飯にも彼女は手加減をしてくれているのだ。その優しさが、悟飯に踏ん切りを付けさせた。

 

(そうだ。僕だってクラスの一員なんだ。自分だけ手を抜くなんてやっぱりよくない。ビーデルさんを見習ってゲームを盛り上げて、皆で楽しまないと)

 

 投げた球が迫る。マウンドからホームベースまでの中間地点を超える。

 

(とはいえ思い切り打つのもやっぱりまずいな。ボールを消し飛ばしちゃったらことだ。うーんと、うーんと)

 

 ぐんぐん迫る。ホームベースより三十センチ手前まで来た。どんな名バッターだろうと、ここからスイングを始めても普通は間に合わない。

 

(よし、当てるだけにしておこ)

 

 ようやく悟飯は動き、そしてその0.00何秒後、カキーンと小気味いい金属音がグラウンドに響き渡った。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 打球が描くあまりに美しいアーチに、ビーデルも含めてみながぽかんと呆気に取られた。そして一番驚いていたのは他ならぬ悟飯自身だった。間違ってもボールを粉砕などしないようさながらパターゴルフのようにそっとバットを振った悟飯だったが、フォームの滅茶苦茶さはさておきスイングのタイミング自体はほぼ完璧に近く、スピードは十二分に超人的、強いて言うなら角度がやや悪いか。ともあれ金属バットということもあって悟飯の打球は実に景気良く青空へと向けてロケットのようにかっ飛んでいった。

 

(これはもしや噂に聞くホームランってやつかな?)

 

 まさかこうも容易く打ててしまうものだとは知らず、珍妙なポーズのまま固まってしまった悟飯を尻目に、打球は高く高くひたすら高くまで打ち上がり……そしてセンターのミットの中にずどんと落ちた。

 

「ア、アウト?」

 

 と審判役の教師が疑問形で宣言してしまうのも無理はなく、確かに結果だけを見れば単純なセンターフライなのだが、対空時間二十秒を超える飛球などプロの世界でもお目にかかれるものではない。

 

「……」

 

「……」

 

 なんとも言えない沈黙がグラウンドを支配する。しかしそれを、一人の女子生徒の大笑いが打ち破った。

 

「なあに悟飯くんそのポーズ。おっかしー! あははは!」

 

 妙なツボに入ったかイレーザの哄笑は全く遠慮というものがなく、そしてそれはだんだんとクラス全員の間に伝播していき、最後にはクラス全員による大爆笑の大合唱となった。シャプナーやビーデルですら腹を抱えるほどだった。実際、パターゴルフと野球を足して2で割ったようなような悟飯のへっぴり腰はそれくらい可笑しなものだった。

 

 今のセンターフライは確かに誰が見ても異常なものだったが、結局のところそれを力学的に解説できる者などこの場にはおらず、間抜けなスイングでもぶつけどころによってはああなったりもするのだなと物理へのやや誤った認識を皆に植え付けるだけに終わっていた。

 

「あ、あはは」

 

 いつまで経っても治まらない笑いの渦に、悟飯はひたすら頭をかいて誤魔化すのだった。ちなみに対戦結果は、三回裏にビーデルがタイムリーヒットを打ったことで、結局ビーデルたちのチームの勝利に終わった。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 困ったときの占いババ、というフレーズを昔父から教わったことがあったが、それをもじった次のようなフレーズが悟飯の中で流行しだしていた。困ったときのイレーザさんだ。

 

「すみません、放課後なのに付き合ってもらっちゃって」

 

「いいわよこれくらい。それより君こそいいの? 家が遠いんだから、早く帰らなくちゃまずいんじゃない?」

 

「それなら大丈夫です。今日明日は親戚の家に泊めてもらうことになっているので、今日は電車です」

 

「あら、その人は近くに住んでるの? だったらその人のところに下宿すればいいのに」

 

「実家よりはマシですけど、その人の家もちょっと遠いんです。下宿するんならやっぱり街中がいいです」

 

 事前に準備していたこともあって、すらすらと嘘を言う悟飯だったが、その度に胸がちくちくと痛んでしまうのは抑えようもない。相手が初日から何かと親切にしてもらっているイレーザであれば尚更のことだ。こんなことをいつまでも続けるわけにはいかないと決意を新たに、悟飯はイレーザと共に図書館の扉を開いた。

 

 この学校の図書館は校舎に隣接する形で建てられており、地上二階・地下一階の結構な規模をしていて、蔵書も百万冊以上とちょっとした大学並みの品揃えを誇っている。小さい頃から本好きの悟飯もこの図書館に来ることは転入前から楽しみにしていたのだが、とりあえずのところ今日の目当ては本ではなく、図書館の二階の一角にあるPCコーナーの方だった。

 

「校内で自由にコンピューターを使えるのはここね」

 

「なるほど。案内してくれてありがとうございます。それじゃ、その、次もお願いできますか」

 

「はいはいっと」

 

 空いている端末の前に座り、イレーザはおほんと一つ咳払いした。

 

「一度しか言わないからよく聞くこと。いい? 最初のスイッチはここ。次にここ。画面が明るくなってなんか枠が出てくるから、そこに学籍番号を入力。すると枠が消えて画面に色んなマークが出てくるから、このネズミみたいな機械を使って矢印を一番上のマークに合わせて、左のスイッチを二回押す」

 

「わ、わ、わ」

 

 慌ててメモにペンを走らせる悟飯に、イレーザはクスクスと笑った。

 

「嘘よ。ゆっくりやって見せるわね」

 

「す、すみません」

 

 いくつかの質疑応答を経て、次のステップに進む。

 

「この画面でネットが使えるの。ここにキーワードを入力したら、まぁ大抵のことは教えてくれるわ。最初に何を調べたい?」

 

「それじゃ『バーバリアンズ』っていうのを」

 

「あら、悟飯くんフットボールが好きなの?」

 

「あぁフットボールのチームなんですか。いえ、実は……」

 

 登校途中のことを話すとイレーザは今度はころころと猫のように笑った。

 

「本当に君ってばおっかしーの。あれだけ成績がいいのに」

 

「いやもう、ほんと知らないことばっかりで」

 

 恐縮しながら、悟飯は検索結果に出てくる説明をノートに書き写していった。

 

「それでわざわざ調べちゃうんだ」

 

「みんなとお話、したいですからね。イレーザさんの助け無しでも」

 

 そう悟飯が言うと、イレーザはとても意外なものを見つけたように目をパチクリとさせた。そのまま悟飯を見つめたままでいるので、何か付いてるかなと悟飯は自分の頬を拭った。

 

「どうかしました?」

 

「んーん。なんでもない」とイレーザは笑って首を振った。

 

 次に「ローズ、ドラマ」と検索すると推測通りドラマのヒロインを務める役者のことだと分かった。

 

「これがローズっていう人ですか。確かに綺麗な人ですね」

 

「歌も上手いのよ。というよりもともとアイドル歌手だし」

 

「へー。エイジ752生まれ、西の都出身、代表曲は『バラ色の夏』と……」

 

 歴史の勉強のような調子でノートに付けていく。悟飯にとっては似たようなものなのだろう。

 

「これは、えー、CD屋さんとかに行けば買えるんですよね」

 

「そうだけど、たぶんネットでも見れちゃうと思うよ。良くないんだけどね」

 

「あぁ、聞いたことあります。分かりました。聞きたい曲があったらちゃんとお金を払うようにします」

 

「ちなみに、ほら」

 

 イレーザはバッグから手帳サイズの機械を取り出して、悟飯に手渡した。

 

「これは携帯用のコンピューターね。無線でネットにも繋がってるから、知らない言葉があったらその都度これで見れちゃうわ」

 

「へぇ、これが」

 

 ブルマなどメカに強い知人がよくこういったものを使っていたことを悟飯は思い出した。試しにイレーザに教えてもらいながら再び「バーバリアンズ」で検索すると、卓上コンピューターで調べたのとほぼ同じ内容が映し出された。あまりの便利さに悟飯はすっかり恐れ入ってしまった。

 

「これって幾らくらいで買えるんです?」

 

「お、欲しくなった? 本体だけなら七~八万ゼニーくらいかな。あとは日々の通信料で月五千くらい」

 

「は、八万ゼニーですか。あとさっきの話ですけど、ここいらで一人暮らしをしようとすると、家賃とかはどれくらいに……」

 

「調べてみたら?」

 

「どれどれ……うわ、お金が掛かるんですね、街で暮らすのって」

 

「もともとサタン・シティは結構な都会だけど、最近はちょっと色々とね」

 

 イレーザが説明するに、七年前にミスター・サタンがセルを退治したのを契機に、旧オレンジ・シティは急激に様変わりしたという。クラスメートのノートンも言っていたが、世界的英雄であるミスター・サタンと同じ街に住みたいと思う者は数多く、オレンジ・シティの人口は七年前と比べて二倍以上にもなっている。人が増えるところには物が集まる。ただでさえ東エリア有数の都市であったオレンジ・シティはさらに輪をかけて栄え始め、大手デパートやリゾート施設、高級マンションが次々に建設され、比例して土地の価格はうなぎ上りとなり、七年前はごく普通の中流家庭だったところが元々土地を持っていたというだけで一気に小金持ちになってしまうほどだった。

 

「恥ずかしながら、あたしんちもそうね。デパートを建てたいっていうんで死んだお婆ちゃんの土地を企業に売ったら、あら不思議。もう親はウハウハ状態よ。うちの学校には結構そういうのが多いわ」

 

「へぇ、バブルってやつですね」

 

「そう。サタンバブルなんて前は言われてたっけ」

 

 そのあまりの経済効果に、旧オレンジ・シティはついにサタン・シティへと名を改めることとなった。前代未聞のサタンバブルは、イレーザの家のように元々この街に住んでいた者には多大な恩恵をもたらしたが、反面、新たにこの街に転入してきた者、または住んではいたものの不動産を持っていなかった者に対しては不利益も生み出していた。賃貸アパートなどの家賃や敷金は高騰し、物価も上昇。人によっては一気に生活が苦しくなり、地代の値上がりに対応できず倒産・撤退する企業も多発、多くの失業者やホームレスを生み出した。突然の好景気と、それによる生活格差の拡大、さらにはサタン目当てで移住してきた者の中には当然ながら喧嘩自慢や格闘技経験者といった武闘派も多く、これらの要素が複雑に絡まりあい、結果近年のサタンシティは急激に治安が悪化していた。

 

「でもあんまり大袈裟に怖がらなくても大丈夫よ。柄の悪いのが溜まるところってだいたい裏通りだし、広くて明るい道を歩けば大丈夫だから」

 

「僕はすぐ実家にトンボ返りですから。イレーザさんこそ気をつけてくださいね」

 

「あら、ありがと」

 

「そうと分かれば、使い方も分かりましたし、もう帰りましょう。もうすぐ暗くなりそうですし、良ければ送っていきますよ」

 

「悟飯くんは電車でしょ? 駅から結構歩くから悪いわ。でも……」

 

 席から立ったイレーザは通学鞄をラフに肩に担ぎ、片目を瞑った。

 

「駅までは一緒に帰ろ?」

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

「そうそう、言おうと思ってたの。さっきのサタンバブルの話、ビーデルの前では言わないでね」

 

 夕暮れの通学路を二人で歩き、駅が見えた頃にイレーザはそう切り出した。

 

「いいですけど、どうしてです?」

 

「あら聞いてない? あの子、ミスター・サタンの一人娘なのよ」

 

「む、娘っ?」

 

「そんでビーデルもあの有名な天下一武闘会の少年部で優勝しちゃうくらい、すんごく強いんだから」

 

「武術をやるんですか。あぁ道理で」

 

「ベースボールでも大活躍だったでしょ? 君もだけど」

 

 あまり思い出したくない悟飯としては乾いた笑いを浮かべる他なかった。

 

「あの子のお父さんのおかげで地球は救われたけど、良くも悪くもそのことでこの街は色々なことが変わったし、ちょっとばかり物騒にもなっちゃったわ。あの子も昔からこの街に住んでるから、責任感じちゃってるみたい。だからボランティアで警察を手伝ってるの」

 

「警察を? 交通整理の手伝いとかですか?」

 

「ううん。強盗とかやくざを捕まえたりとか」

 

 悟飯は開いた口が塞がらなかった。

 

「危なくないんですかそれ」

 

「そりゃ危ないだろうけど、なんたって天下一武闘会の優勝者でしょ? そんじょそこらの悪者なんてホントに一捻りなのよ、あの子の場合。この前なんて、五~六人くらいの銀行強盗を一人でやっつけちゃって。もう最近じゃボランティアどころか、警察にしょっちゅう応援を頼まれてるくらいなんだから」

 

「へぇぇぇ」

 

 ボクシング部期待の星とされるシャプナーより、さらに一枚か二枚上手な印象はあったが、よもやそこまでとは思わず、悟飯は感心するばかりだった。

 

「ま、そういうわけだからこの街の変わりようについては、あの子も色々複雑なわけ。サタン・シティって名前も好きじゃないみたいだしね」

 

「なるほど、確かに身内だったら恥ずかしいと思うかもしれませんね」

 

 地球を救ったことのある父を持つという点では悟飯もまた同じであるが、ゴクウ・シティなどと名の付いた街には好んで住みたいとは思わない。ビーデルの大小様々な気苦労が偲ばれた。

 

 駅でイレーザと別れたあと悟飯は駅構内に向かったが、途中でくるりと踵を返してサタン・シティの繁華街の方へと向かっていった。家にはその気になれば数十分で帰ることができるので、まだ一度もきちんと歩いたことのない街を少しぶらついてみようと思ったのだ。大恩あるイレーザを騙してしまっている点については心苦しいが、そうせずに済むようにするためでもあるので、今は勘弁してもらう他ない。

 

 レストラン、ブティック、CDショップ等々、足が向くままに悟飯は色んな店の様子を見て回った。純粋な興味本位というところもあれば、今後のアルバイト先にどうかという下見の意味合いもまたあった。携帯端末を買うにしろアパートを借りるにしろ先立つものが必要である。どちらも母や祖父に頼めば買い与えてくれるかもしれないが、財政問題は孫家の昔からの悩みの種であるため、学費以外のことはなるべく自力で賄うべきと悟飯は生真面目に考えていた。

 

(でも良く考えれば、飛行機でも五時間かかるところに住んでる人間を雇ってくれるかな?)

 

 これはと思う店があればその店の名前などをメモしていき、三軒ほど控えたところで悟飯はようやくその点に気付いた。疑問の答えとしては普通はあり得ない。

 

(お願いしてみてダメだったら、やっぱり最初の下宿代だけはお母さんたちに頼ろうか。そのあと働いて返そう)

 

 そんなことする必要ねえだ、などと母に言われてもそこは固辞したかった。実際のところ、金銭抜きにしても悟飯は街で皆と同じように「普通の暮らし」というものをしてみたかった。それは悟飯がずっと昔から思い描いていたもの、ただ戦いに明け暮れていた幼少期の頃から密かに心に抱き続けてきた、悟飯のささやかな夢だった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 さてそろそろ帰ろう、と決めた矢先のことである。唐突にクラッカーのような破裂音が三回ほど鳴り渡り、悟飯は思わず音の鳴った方を振り返った。するとまたもや破裂音が数回響き、はてどこかで誕生パーティでもやってるのかと、悟飯はキョロキョロと辺りを見回した。

 

(あの店からか)

 

 音の方角から見当づけた悟飯だったが、入り口の上部に掲げられているオレンジ・バンクという看板に首を傾げた。レストランや個人宅ならともかく、銀行でパーティなどが開かれるものだろうか。好奇心に駆られて悟飯は銀行の方へ足を向け、対して近年のサタン・シティの治安状況をよく知る他の通行人たちは、最初の破裂音の時点でさっと顔色を変え、この場を離れるべく一目散に駆け出していた。周囲との深刻な温度差に気付かぬまま、悟飯は至って呑気に店の前まで歩を進めていく。

 

(あ、そういえば銀行口座っていうのも持っていた方がいいのかな。でも名前だけでどういうものかよく知らないんだよな。ちょっと聞いてみようか)

 

 そうして店の中にまで入って行った悟飯は、やはりというべきか案の定というべきか、思ってもみない歓迎を受ける羽目となった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 悟飯が自動扉を潜ると、即座に店の奥の方でまたもや破裂音が鳴り、ついで金属質の小さな物体が悟飯の顔面を目掛けて飛んできた。その結構なスピードにびっくりした悟飯は、思わずその物体を掴み取ってしまった。

 

(危ないな。なんだろこれ)

 

 手を広げると、飛んでいるときはなだらかな円錐状であった金属の塊が、先端をひどくひしゃげさせた状態で悟飯の手の平の上に収まっていた。悟飯の手に当たったことで潰れてしまったのだろう。山育ちの悟飯だがさすがに拳銃くらいは知っているので、すぐにこれが銃に使われる弾丸であることに気づいた。触ったことは無かったので、こんなにも「柔らかい」ものであるとは知らなかったが。

 

「てめえ、ぼうっと突っ立ってるんじゃねえ。手を頭の上に置いて床に伏せろ! さもねえと次は当てるぞ!」

 

 店の奥で、銃を構え覆面を被った大男が悟飯に向けてがなりたてた。次もなにも、先の弾丸は立派に悟飯に命中しているのだが、よもや弾丸を中空で掴み取ってしまう人間が存在するなど夢にも思わない大男は、自分が狙いを損なってしまったのだと信じ込んでいた。

 

 覆面をし、拳銃を携えた大男が一人。仲間らしき、似たような格好をした男達がさらに二人。うち一人は窓口の女性店員のこめかみに銃口を突きつけており、店員の顔は痛ましくも涙まみれになっていた。悟飯以外の客は、先の大男に命令されてか、手を頭の上に乗せた状態で床に這いつくばっている。

 

 血の匂いを感じた。父ほどではないが、悟飯は鼻が利く。幼少時に無人島へ放り出され、たった一人で半年間を生き抜いた際には、これを頼りとしていた。匂いの漂う先を見れば、銀行の管理職らしき背広を着た男が、腹部を血に染めて仰向けに倒れていた。

 

「おい、さっさとしろ! てめえも撃ち殺されてえのか」

 

 強盗の一人が声を荒げるが、悟飯には理解が出来なかった。本当にわからなかった。なぜこんなことが起きる。なぜこんなことをする。強盗の中の一人が、悟飯の方には見向きもせず、ひたすらバッグに札束を詰め込んでいるのが見えた。まるで好物を前にした悟天のように、彼の目は嬉しさに爛々と光り、口の端が三日月のように釣り上がっていた。こんな状況でさえなければ、見ている悟飯も嬉しくなるほどの笑顔だった。

 

 都会で暮らすのにはお金がかかり、そしてお金を稼ぐのは決して簡単なことではないと、悟飯も今日一日で僅かながらに学んだ。親の庇護を受けている半人前の悟飯ですらそうなのだから、独り立ちした大人はきっともっと大変なのだろう。

 

 それでも悟飯には分からない。なぜこんなことをする。せっかく助かった命なのに。ほんの少し何かが違っていれば、この場にいる全員が七年前に死んでいたというのに。父が、命を賭けてそれを防いでくれたというのに。

 

 心の中に生じたほんのささやかな怒りを機に、超化は速やかに行われた。意図してのことではない。しかし父の教えで、いっときは寝てる間も超化していられるよう修行を積んでおり、その日々の名残りが、さながら「よっ」と一つ気を入れるくらいの容易さで悟飯の肉体を光り輝かせた。

 

 気が巡り、満ちて、溢れる。溢れた気が黄金の火となって悟飯の体を覆い尽くす。瞳は碧くエメラルドに輝き、黒々とした髪は天を突くように一斉に逆立ち、金糸のごとく白熱した。黒髪黒眼の少年から、金髪碧眼の偉丈夫に……という表現は決して間違いではないのだが、悟飯の変貌ぶりはもはや単に東洋人から西洋人に変わったというだけには留められない。石が黄金に、星が太陽に変わった。それほどまでに悟飯の変化は劇的であり、一つの奇跡そのものだった。

 

 超サイヤ人、孫悟飯。かつて一つの巨悪を討ち果たした地上最強の戦士が、実に七年ぶりに街の片隅に姿を現した。突然発生した眩い光に強盗も客たちも目を眩ませ、たまらずに顔を覆った。そうでなくとも先程の弾丸の、さらに数倍もの速さで飛翔する悟飯の動きを捉えられる者など、この場には誰もいなかった。

 

 正体不明の金色の戦士。世界最強のミスターサタンと、その娘である正義の女子高生ビーデルに続き、新たなるヒーローとしてその名がサタンシティで噂されるようになったのは、この翌日からのことだった。

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。