孫悟飯、その青春   作:マナティ

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第十一章 戦わざる生き方の一例

 

 

   Ⅰ

 

 

 

 オレンジスター・ハイスクールは、授業形態として古くから教科担任制を採用している。これは数学ならば数学専門の教師が、化学ならば化学専門の教師が入れ替わり立ち替わり生徒たちの教室を訪れて授業を執り行なっていく仕組みのことであり、各教科の専門性が高まる高等教育においては、ほぼほぼ世界共通の教育形態と言ってよい。

 

 そしてオレンジスターの場合、各教科を担当する教師たちは多くの場合、いずれかのクラスの学級担任もまた兼任している。たとえば悟飯の所属する2年B組では、社会学担当のソシオが学級担任となっており、社会学の授業とは別に、一年を通してB組に所属する生徒たちの生活指導や進路指導などを行なっている。ソシオは口髭を蓄えた端正な初老の男性であり、小柄ながらも眼光は鋭く、知的な威圧感を滲ませる人物だった。オレンジスターにおいては教師にも服装規定がないのだが、ソシオはいつもかっちりとしたスーツに身を固めており、少々堅物すぎるところを揶揄されることはあれど、その常に冷静で明瞭な言動を頼りに思う生徒らも多い。悟飯にとっても、転入手続きのときから色々と世話になっている、最も親しい教師の一人である。

 

 次いで、隣のクラスであるA組は哲学担当のフィローソが担任となっている。母性を滲ませる優しげな表情が印象的な人物であり、事実二児の母でもある。ややふくよかな体型をしていて、時折くちさがない生徒に笑われることもあるが、そういうときも至って柔和に相手を嗜めることのできる温厚篤実な人物であり、こちらは特に女子生徒に人気だった。

 

 ジーメへの加害現場を見かけたその日の午後、学校側に事態を打ち上げるにあたって、悟飯がひとまずの窓口に選んだのはフィローソの方だった。まずは自身の担任であるソシオに相談するべきではとも考えたが、そもそもの被害者であるジーメはフィローソが受け持つクラスに所属しており、悟飯たちのクラスの午後最初の授業がちょうどタイミング良く彼女の担当する哲学であったため、悟飯はまずこちらと話をすることにした。

 

 授業が終わると悟飯はすぐに席を立ち、職員室へ帰ろうとしていたフィローソを廊下で呼び止めた。

 

「その、生徒が生徒に暴力を振るわれているところを見ちゃったんです。被害に合っていたのは先生のところの生徒でした。どうしていいか分からなくて、相談させてほしいんです」

 

 フィローソは少し目を見開いて悟飯を見つめ返し、「放課後に時間を取れるかしら?」と尋ね返した。悟飯はつい考える前に頷いてしまい、フィローソと別れた後、すぐに学内の公衆電話のところへ向かい、出勤が遅れる旨をバイト先のレストランに連絡せねばならなかった。

 

 放課後、職員室のフィローソを訪ねた悟飯は面談室に通され、やがてそこには三人の大人が集まってきた。

 

 一人目は当然ながらA組担任のフィローソ。哲学担当。

 

 二人目は悟飯の担任であるソシオで社会学担当。結局は彼も関係することになるらしく、やはり事前に話をしておくべきだったのかもしれない、と悟飯は胸中で一人反省をした。

 

 三人目は悟飯にとって初めて出会う人物だった。ソシオやフィローソと比べるとかなり若く、三十代前半くらいの年齢に見える。服装もポロシャツにチノパンツというカジュアルスタイルであり、白衣を羽織っていなければ一見して教師に見えないほどだった。

 

「カンセルです。初めまして、孫悟飯くん」

 

「あ、はい。初めまして」

 

 白衣の人物と、悟飯は簡素に挨拶を交わした。面談室には二人掛けのソファーが二つ向い合っており、ソシオとフィローソが悟飯の対面のソファーに座り、白衣の人物のみは立ち位置を異ならせるかのように、パイプ椅子を持ってきてテーブルの側面に座った。

 

 後で知ったことだが、カンセルに対する教師に見えないという悟飯の感覚は正しく、事実彼は教師ではなく、学区の教育委員会よりオレンジスターに派遣されているスクールカウンセラーの一人だった。臨床心理士の資格を持ってはいるが教員免許はなく、オレンジスターに常勤はしていても、ソシオやフィローソとは所属も給料を貰う相手も異なる、いわば外部スタッフである。

 

 早速本題が始まり、悟飯は自らが見聞きしたことを、三人の大人たちに伝えた。昼休みにカフェテラスへ向かう最中、暴行現場を目撃。場所は学校敷地の端、プールの向こう側。被害者はA組に所属するジーメ。加害者側は全員は分からないが、人数は三人。うち一人はキーヤンと呼ばれていた。暴行の内容は直接目にしていないが、強くフェンスに向けて突き飛ばすなどをしていたようだった。ジーメの様子から腹部などを殴られていた可能性もある。そして数々の暴言、財布からの金銭抜き取り……。

 

 午後の授業の間、ずっとこのことで頭が一杯だったこともあって、悟飯はテンポよく、スムーズに事のあらましを説明した。なお、先日にジーメが漫画本を万引きしていたことは悟飯は口にしなかった。キーヤンたちに命令されてのことだとは分かっていたが、判官贔屓ゆえか、その件についてはもう終わったことにしてしまいたかった。

 

「報告ありがとう。とても分かりやすかったわ」

 

 話し終えた悟飯に、まずフィローソがそう言った。三人の大人たちの間で、最も悟飯の話に共感を寄せている様子であり、話の間もじっと悟飯の目を見続け、逐一頷いたり、痛ましげに顔を歪めさせたりなどをしていた。

 

「ジーメとキーヤンたちの諍いについては、これが初めてではなくてな。目を光らせていたつもりだったが、プールの奥までは行き届いていなかったな」

 

 と、ソシオが苦々しげに言う。こちらは悟飯の説明の間も表情を変えることなく、冷静に聞き入っていた。この場にいる中では最年長ということもあり、おそらくこういった問題に接するのも一度や二度ではないのだろう。

 

「まずはジーメと話をしたいですね。カンセルさんにも同席をお願いしたいですが、明日明後日は都合付きますか?」

 

「調整しますよ」

 

「時間帯や形式は……」

 

「今決めるのではなく、なるべく本人の意向に合わせる形が良いと思います」

 

 フィローソとカンセルが手早く次の段取りを纏めていき、それらがひと段落したところで、ソシオが場を取りまとめるように悟飯に向き合った。

 

「重要な報告をありがとう、悟飯くん。よく知らせてくれた。この件はひとまずこちらで預からせてくれ。すぐさま万事解決とはいかんだろうが、出来る限りのことをする。それでは……」

 

「あ、あの」

 

 危うく場がお開きになりかけて、慌てて悟飯は声を挙げた。三人の大人に一斉に目を向けられ、若干気後れしながらも、悟飯は言葉を重ねた。

 

「僕は、どうすれば良いでしょうか」

 

 大人たちはわずかに視線を交わしつつ、悟飯の続きの言葉を待った。

 

「ジーメくんが乱暴されている間、僕、動けなかったんです。止めなくちゃ、助けなくちゃとずっと頭では思っていたのに、どうしてか動けなくて。その償いというわけじゃないんですけど、何かしたいんです。何か僕に出来ることはありませんか? たとえば、もし次に同じことがあったときは……」

 

 果たして三人の大人たちは、誰一人として少年の期待には応えなかった。まずソシオが、気をはやらせる悟飯を手で制し、ゆっくりと首を横に振った。

 

「そんな風に自分を責める必要はない。加害現場でも、君が介入して良い結果になったとは限らない。こうして事態を教えてくれただけで十分だ」

 

「声を掛けてくれただけでも、ジーメくんはありがたかったと思うわ。なにも気にする必要はないのよ。もし次も同じ状況に出くわしたら、すぐに私たちを呼んでちょうだい。君まで怪我をしてしまったら大変だから」

 

 ソシオとフィローソから次々に押し止められ、カンセルのみは口を開かなかったが、顔つきからして二人と意見を同じくすることは明らかだった。

 

「……はい、わかりました」

 

 ひとまず悟飯はそうとだけ言った。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 その晩、レストランでのアルバイトを終えると、悟飯はサタンシティのアパートには寄らないまま、筋斗雲を飛ばして真っ直ぐにパオズの実家へと向かった。学校やバイトのあとはまずアパートに寄って、宿題なり課題なりを片付けるのが悟飯の日課であったが、今夜は実家の方に来客があるため、早くに帰ってくるよう事前にチチから言われていたのだ。

 

 筋斗雲を走らせ、パオズ山付近に差し掛かってからは舞空術も使い、悟飯は大急ぎで帰宅した。玄関先に降り立ち、家の扉を開けると真っ先に聞こえてきたのは悟天の悲鳴だった。

 

「やーだー! 明日やる、明日がいい。明日はちゃんとやるから、今日は許してよう。せっかくおじいちゃんが来てるのにさ」

 

「だめだ! 夜にちゃんとやるっていうから昼は許しただぞ。約束はちゃんと守れ。でなきゃ寝させねえからな」

 

「ま、まぁまぁ。ほれチチ、おらも久々に悟天に会えて嬉しいし、今日くれえは」

 

「おとうは黙っててけろ! 今日だけの話じゃねえんだ。ほんとこの子は、毎度あれこれと理由をつけて!」

 

「あっかんべー」

 

「むっかー!」

 

「あわわわ」

 

 いささかタイミングが悪いようだ。悟飯は無意識に足音を忍ばせながらリビングを避け、洗面所の方へと迂回していった。

 

(悟天のやつ、またドリルをサボったな)

 

 手を洗いながら、悟飯は仕方なさげに笑った。今年で7歳となる彼の弟はまだ学校には通っていないが、かといって決して野放しにされているわけではない。公共の教育機関にこそ通ってはいないものの、昔悟飯が使っていた学習教材がそのまま悟天にも相続されており、それらを毎日一定量ずつ進めていくことが、この家で悟天に課せられた唯一の義務であった。しかし悟飯と違い悟天の方はあまり勉学を好まない気質らしく、隙あらばすぐにサボろうとしてはチチに雷を落とされている。近頃は知恵をつけ、口答えも覚え始めた悟天とチチの攻防は、孫家における日常風景の一つであった。

 

 いつもこういった場合、間をとりなすのは悟飯の役目となるのだが、今日のところはありがたいことに代役がいてくれているようだった。手洗いを終えて悟飯がリビングに向かうと、2メートルを超える巨漢の男性が、可愛い盛りの孫からは背中に張り付かれ、いくつになっても可愛い一人娘からは真正面より鬼の形相で仁王立ちされ、この世の終わりのような表情を浮かべていた。なんともおかしな光景に、祖父には申し訳ないが、悟飯はしばらくこのまま対岸で眺めていたい気持ちになった。

 

「あ、おう悟飯! 戻っただか、いやーお疲れお疲れ」

 

 前門のチチ、後門の悟天に挟まれ憔悴しきっていた祖父・牛魔王は、さすが武天老師の弟子だけあって素早く悟飯の気配に気づき、天の助けとばかりに破顔一笑した。

 

「ご無沙汰してます、お爺ちゃん。半年ぶりですね」

 

「そんぐれえか? いやーずいぶん垢抜けちまって、すっかり都会っ子だべなぁ」

 

「あ、そう見えます? 嬉しいなぁ」

 

 牛魔王の屈託のない賞賛に、思わず悟飯は顔を綻ばせた。日頃「田舎っぺ」などと主にシャプナーなどから揶揄われることも多い悟飯には、嬉しい言葉であるようだった。

 

 牛魔王はチチの実父、悟飯にとっては母方の祖父にあたる人物であり、普段は南エリアの奥地、フライパン山の麓で暮らしている(といっても山自体は数十年前に消滅しているため、正確には跡地にであるが)。老境に入って髪も髭もすっかり白くなったが、見上げるほどの巨体は今もなお筋骨逞しく、熊とすら相撲を取れてしまえそうだった。

 

 加えてかの武天老師の教えを受けたこともある一角の武道家でもあるのだが、本人が言うには悟飯が産まれるよりもずっと前にきっぱりと引退しているらしく、悟飯も祖父が稽古なり組み手なりを行なうところは一度も見たことがない。

 

 昔から足繁く、南エリアより遠路はるばる孫家を訪ねて来てくれており、とりわけ父・悟空と顔を合わせたことのない悟天にとっては、それこそ父代わりのような存在でもあった。

 

 長男の帰宅によって母と次男の諍いも収まり、チチは悟飯の夕食の支度をするため台所に戻り、悟天は悟飯監督のもと、話に参加しながらでも良いので課題を進めることとなった。

 

 牛魔王と悟飯は揃って食卓に付き、たまに間に座る悟天の勉強を見ながら、それぞれの近況を交換しあった。牛魔王の方はすでに悟天らと一緒に夕食を済ませていたが、せっかくなので白酒を開け、悟飯の話を肴に食後の晩酌を楽しむことにしたようだ。

 

 チチ同様、山育ちで学校に行ったことのない牛魔王は、悟飯の学校の話をとても面白がった。なかでも、オレンジスター・ハイスクールには43ものクラブがあり、武術から書道まであらゆる分野を好きに学べるのだと悟飯が説明すると、牛魔王は目を白黒させて驚いた。

 

「へー、学校っていうのはそっだらことまでやってくれるんだべか。おもすれーところだなぁ」

 

「そういえばお母さんが子供の頃って、どうやって勉強してたんですか?」

 

「そんな便利なところ近くにながったからなぁ、そら独学しかねえべ。あれこれ本を買ってやったり、近くから物知りな奴を呼んで家庭教師に雇ったり。ただチチも小難しい勉強はあんまり好きじゃながったべな。算数解いてると頭痛がしてくるって喚いてたっけ」

 

「あは。なーんだ、じゃぁぼくと同じだ」

 

 悟天が囃し立てるが、チチも負けてはいない。

 

「あぁ、そうだ。そのせいで苦労もしたから、同じ轍は踏ませちゃならねぇと、こうして心を鬼にして悟天に勉強させてるだ。優しいおっ母で良かったな悟天」

 

 悟飯の夕食をテーブルに並べがてら、わざとらしいほど柔和な笑顔でチチは悟天の頭を撫でていった。これ見よがしで圧すら感じるほどの母の愛に、悟天は首をすくめて押し黙った。

 

「はっはっは。ただチチは代わりに料理や裁縫とかは熱心に勉強したがってたな。それが高じて家でコックまで雇う羽目になっただ。街で有名だった凄腕を家に招いて、いやおら達の飯は作らんでええ、娘に教えてやってけろって頼んだら、相手きょとんとしてたっけ」

 

「へえぇ」

 

 悟飯にとっては初めて聞く話だった。人に歴史ありと言うが、チチがそのコックの弟子であるのなら、母から教えを受けた悟飯は孫弟子ということになる。悟飯はそのコックの料理を食べてみたくなったが、残念ながら高齢のためすでに引退しているとのことだった。

 

「母さん、その頃から料理が好きだったんだ」

 

「それもあるだろうが、ありゃ花嫁修行のつもりだったんだべ。悟空がいつ迎えに来てくれても良いようにってな」

 

 そこから先の話は悟飯もある程度は知っており、悟天ではないがむくむくと茶目っ気が湧いてきた。

 

「ところが何年経っても来なかったと」

 

「そう、待てど暮らせどちっとも来ない。そいでとうとう痺れを切らせて、自分から悟空に会いに行ったら……」

 

「『だれだ? おめえ』」

 

 待ってましたとばかりに兄弟が口を揃え、どっと笑いが弾けた。男三人が揃って大爆笑し、悟天などはひいひいとお腹を抑えるほどだった。今のは悟空とチチが長い時を経て再会したときの、父・悟空の栄えある第一声を真似たものである。長年孫家にて語り継がれる感動の名場面であり、悟飯も悟天もこれまでに幾度となく聞かされ、そのたびに笑い転げてしまう定番の笑い話であった。

 

「やめねえか、おめえたち! おとうも! よくもまぁ飽きもせず、同じ話を何度も何度も」

 

 すっかり物笑いの種にされチチが憤るも、男三人の笑い声を止めるには至らない。日頃は女帝として孫家に君臨するチチだったが、牛魔王が来た時のみ、若干パワーバランスが変化するようだった。

 

 悟飯はごほんと咳払いをし、誰を真似てか、努めて声を低めて言った。

 

「まぁまぁチチィ、そう怒んなって」

 

 悟天もすっかり喜んで乗っかってきた。

 

「じゃ、ケッコンすっか! な、チチ!」

 

 息子二人のこれ以上ない茶化しに、チチはピューと湯気を出しそうな勢いで顔を真っ赤にした。

 

「ええい、やめろやめろ! おめえたちは! そったら悟空さとおんなじ声で!」

 

 またもや笑い声が弾けた。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 夜も更けだし、悟天が先に寝床へと向かった頃、悟飯は今日学校で起こったことを二人に話してみようと思った。せっかくの楽しい雰囲気に水を差したくはなかったが、逆に今日という日にわざわざ祖父がこの家にやって来てくれたことも、あるいは一つの巡り合わせではないかと思えた。祖父との歓談で大分紛れたものの、それでもずっと悟飯の胸中に垂れ込めていた疑問に、なにか答えが見えてくるかもしれなかった。

 

「ねえ、お母さんにお爺ちゃん。今日の学校でのことなんだけど……」

 

 悟飯はぽつりぽつりと自分が見聞きしたことを話した。とくにキーヤンたちがジーメに暴力を振るっていた場面のくだりでは、チチは憤懣やる方ないとばかりに腕を組んだ。

 

「ふん、それ見たことか。だから都会の人間は意地悪だってんだ」

 

「それは偏見だってば。イレーザさんたちみたいに、すごく良い人達だってたくさんいるんだ」

 

 イレーザとやらの名前が出て、チチはますます不機嫌そうに眉を吊り上げた。悟飯から学校の話を聞くことをチチも日頃楽しみにしているが、やれイレーザだのビーデルだのと、特定の異性の名前がやたら頻繁に登場することについてはあまり快く思っていない。そして牛魔王は話の間、じっと押し黙ったまま盃を重ねていたが、やがて悟飯に水を向けた。

 

「そいで? 先生たちに事情を話して、それでも気が晴れねんだろ? 言って欲しかったことを言ってもらえなかったって言ってたが、なんなんだ? おめえの言って欲しかったことって」

 

 悟飯はしばし言葉を探し、ややあって言った。

 

「『助けなさい』って言って欲しかった」

 

 簡素な、しかし心からの本音であった。

 

 同じような場面に出くわしたら、すぐに助けなさい。

 

 キーヤンたちの前に敢然と立ちはだかり、力ずくでも彼らを止めなさい。

 

 目の前で行われている悪行は、決して許してはいけないし、見過ごしてもいけない。

 

 悪には、断固立ち向かいなさい。

 

 ソシオやフィローソたちと話をしたとき、悟飯が待ち望んでいたのは、おおよそそのような言葉だった。そう言って欲しく、逆になぜそういってくれないのか不思議にすら思った。確かにソシオたちは悟飯の超人的な強さを知らないが、しかし別に相手は恐竜でもなければ、銃やナイフを持った悪漢でもない。鎮圧とまではいかずとも、立ち向かって妨害する程度であれば一介の学生に指示してもおかしくはないはず……と悟飯には思える。

 

「そいで、おめえはどうしてえんだ?」

 

「キーヤンたちを止めたい。もう二度とあんなものは見たくないよ。休み時間とかに見回りでもして、もし次に同じことが起こっていたら、絶対に止めたいんだ」

 

「それは、力ずくでか?」

 

「……分かんないよ。口で言ってやめなかったら、多分……」

 

 わずかに口籠る息子に、チチは胸に痛みを覚えながら、掛けるべき言葉を探した。まずは母たる自分が、思い悩む息子に何かを言ってやらねばならない。

 

 街暮らしの経験はなくとも、彼女も一端の大人であったため、教師達が何を思って悟飯を制したのかは分かるつもりだった。そしてそれはおそらく悟飯も同じだ。悟飯が教師たちの言い分を誤りであると断じていたら、かように不安そうな表情を浮かべるはずがない。正と誤の間で、人は迷いなどしない。人が悩み立ち止まるのは、いつだって正しさと、もう一方の正しさの狭間だった。

 

 自分がもし、悟飯と同じ立場に立ったらどうするだろうか、とチチは考えた。同年代の人間が集う学舎の中で、気の荒い者が気の弱い者を痛めつけて悦に浸っていたとき、自分ならどうするか。そして亡き夫・悟空ならばどうするか。そしてそれらは、悟飯にとっては……。

 

 考えに耽っていたチチだが、やがて、父・牛魔王の方が先に口を開いた。

 

「なぁ悟飯。昔、こんな話を聞いたことがあるだ。あるところに、空き巣専門の盗人がいてよ。小物だったが腕は良くて、街から街へ渡り歩いては、たくさんの金持ちの家を荒らして回ってただ」

 

 出鼻を挫かれてしまったチチだが、かつて自分も、子どもの頃に同じ話を聞かされたことを思い出し、ひとまず父に任せることにした。

 

 ……牛魔王曰く、今から30年以上前、その盗人は南海のとあるリゾート街に住み着き、資産家の屋敷や別荘に次々と空き巣を仕掛けては多額の収穫を得ていた。その手際は実に見事なもので、人目につかず侵入するのは勿論だが、希少すぎる品には一切手をつけず、盗むのはそこそこの額の現金や宝石、宝飾品類のみに留め、そして現場の後始末を徹底し、まったく侵入の痕跡を残さなかった。そのため襲われた家は警察に通報するどころか、そもそも空き巣に入られたことにすら気づかない例も多々あったほどだ。

 

 安全重視かつ薄利多売の経営方針、とでも言うべきか。慎重さをモットーに順調に盗人としてのキャリアを重ねていたその男だが、しかしある小さな事件が切っ掛けになって急速にケチがつき始めた。

 

 その日、盗人は住宅街の片隅にある一軒の菓子屋に立ち寄った。菓子屋と言っても安物のキャンディ、グミ、チョコなどが一つ10ゼニー程度で売っている、いわゆる子供御用達の駄菓子屋であり、年老いた老婆が一人で切り盛りしている小さな店だった。

 

 盗人は陳列棚の一つに懐かしの菓子を見つけ、思わずそれを手に取った。そしてレジの方を見ると、店の主人の老婆はこくりこくりと居眠りをしており、声をかけても返事がなかった。

 

 盗賊はしばし辺りを見回したのち、手に持った菓子をそのままポケットに入れて、何食わぬ顔で店を出て行った。レジの奥、ちょうど老婆の影になっていたところに戸口があり、老婆の幼い孫がそこから顔を覗かせて全てを目撃していたことにも、男は全く気づくことができなかった。結局、たかだか10ゼニー程度の盗みが原因となって彼は警察に逮捕され、そのまま数々の余罪を明らかにされ、結局は服役の憂き目にあった。風の噂ではその後も足を洗うことはできず、そして運にも見放されたのか盗人稼業も上手くいかず、釈放、再犯、服役をたびたび繰り返しているようだった。

 

「馬鹿な話だべ?」

 

 牛魔王は吐き捨てるように言った。

 

「そいつはよ、前の日に仕事をやり遂げたばっかりで金には全く困っていなかっただ。むしろ人並み以上に懐が潤っていたはずだべ。なのに10ゼニーなんて小銭を惜しんで、結局全部を失っちまった。なぁ悟飯、どうしてだと思う?」

 

 孫家に遊びにくる時は、いつも朗らかな笑みを絶やさなかった祖父の顔が、いつになく悲痛に翳っていた。馬鹿な話と断じながらも、それだけでは片付けられない何かを、彼はずっとこの話に感じ続けてきたようだった。

 

「おらが思うに、きっと深い理由なんてなかったんだべ。財布から10ゼニー出すのが面倒くさかったのかもしれねぇ。居眠りしている婆さんを起こすのが億劫だったのかもしれねえ。ずっと盗人をやってきたもんだから、そう呼ばれて、そう生きてきたもんだから、盗むっていう選択肢が、普通の人間よりもずっとずっと手前側に、手の近くにあったってだけなんだろうな」

 

 多くの場合、経験とは人が生きる上で良き武器となる。しかし一方で、その者の判断を特定の方向……その経験の方向のみに限定させてしまう鎖としての性質も持つ。数をこなし、成功が伴えば伴うほど、その性質はより顕著になっていく。

 

 ゆえに、得てして泥棒は盗みで、嘘つきは嘘で、乱暴者は暴力で何事も解決しようとする。その道に熟達すればするほど、高い技量を持てば持つほど、どんな小さな問題に対しても、その思考が働いてしまう。

 

「多分よ、『骨身に染み付いている』っていうのは、こういうことを言うんだべな」

 

 天井あたりを見上げながら、牛魔王はうめくように言った。

 

「さっきの悟飯の話を聞いてな、正直に言うと、おら真っ先にこう思っただよ。『構うこたねえ。悟飯が思うようにやっちまえ』ってな。もちろんおめえの場合、全力で手加減しないといけねえが、胸糞悪い真似をする輩におめえが我慢することなんてねえだ。一発びしっとかましたれって、もうここまで出かかってたべさ」

 

 とんとんと、牛魔王は顎と喉の間あたりを指でつついた。

 

「けどおら、ふとこの話を思い出しちまっただ。それと、まぁ、昔のちょっくらやんちゃしてた頃の自分もな。おめえにはあまりこういった話をしてこなかったが、おらも昔は腕に覚えがあってな。そりゃぁ、おめえや悟空に比べればみそっかすみてえなもんだがよ、それでもちょっとした荒くれ者で通ってただ」

 

 ……今はもう廃れ切った話だが、その昔、南エリアの辺境にはある一つの噂があった。灼熱のフライパン山の頂上に、悪魔の帝王とも称される大盗賊・牛魔王の城あり。燃え盛る山の頂に建つその城には、世界中からかき集められた金銀財宝が隠されており、宝を狙い近づく者は全て亡き者にされるという。

 

 しかし、ある日を境にその噂はすっかりと消え失せることとなる。25年前のエイジ749。当時まだ12歳ほどであった幼き日の孫悟空と、彼に請われてやってきた武天老師によって、フライパン山そのものを消し飛ばされたがゆえに。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 フライパン山は、元々は涼景山という名前の過ごしやすく穏やかな山であり、麓にも村や集落がいくつもあって農業や牧畜で生計を立てていた。しかし、いつの頃からか牛魔王と名乗る大盗賊が、手下と共に山中に住み着くようになった。彼らは主に盗掘を生業とする盗賊団であり、世界各地を巡っては大昔に滅びた国の遺跡や墳墓などを荒らし回り、数々の宝物を不当に収奪してきた。やっていること自体は、先ほど話に出てきた空き巣専門の盗人ともさほど変わらないが、様々な意味でスケールは段違いであり、牛魔王たちはただ山中に住み着くだけには飽き足らず、方々に脅しと札束をばらまいては山全体の所有権を合法的に買い占めてしまい、それでもなお有り余る財力をもってして、ついには山頂に一家の根城となる城までもを築いてしまった。名実ともに、まさしく牛魔王は涼景山の主となったのである。

 

 しかし、牛魔王らが築城を終えてから間もなく、摩訶不思議な天変地異が涼景山を襲った。牛魔王も含めた一味が不在の最中、天から火の精が舞い降りて、まるで城を封じ込めるかのように山全体が燃え盛り始めたのだ。さらにその炎は一体全体どのような物理法則によってか、一週間経とうと一ヶ月経とうと、雨が降ろうと雪が降ろうと静まることがなく、なんと十年以上ものあいだ一切勢いを衰えさせることがなかった。燃え盛る炎は完全に城を閉し、その熱は周囲の気候すら変えた。風光明媚で知られた涼景山はあっという間に土地が痩せ、田畑が干からびる灼熱の地と化し、やがてはフライパン山と呼ばれるようになった。

 

 近隣住民はこぞって逃げ出し、村はあっという間に寂れ、荒れ果てた。当初は牛魔王の号令の下、消火活動に努めていた手下たちも、一人また一人と逃げ出していき、やがて牛魔王は、燃え盛る山の麓で娘と二人きりになってしまった。

 

 近年研究が進められ、このなんとも不可思議な天災についてはさまざまな仮説・学説が打ち立てられているが、当時の牛魔王は心の中でこう考えていた。これは自らの野蛮な振る舞いに対する天からの罰なのではないかと。先ほどの悪魔の帝王云々の噂は多少誇張されたところもあるが、彼が盗賊稼業を営んでいたことも、宝を狙うならず者を返り討ちにしていたことも事実だ。山の所有者になったことをいいことに、手下たちと共に近隣の村々で横暴な振る舞いをすることもしょっちゅうであった。それらの所業に、天が怒ったのではないかと。

 

 その考えもあって、数十年ぶりに会う弟子の懇願を聞き入れた武天老師が、フライパン山の火を消そうとし、勢い余って山ごと消し飛ばしてしまったときも、牛魔王は師に感謝こそすれ恨み言一つ吐かなかった。むしろ、何かがすっきりしたような気がしていた。

 

 山が消し飛んだと言っても何から何までが消滅したわけではない。元々涼景山は標高1500メートル前後の中低山であったが、それが武天老師の一撃によって土壌の大半が吹き飛ばされ、標高800メートルほどの緩やかな丘陵地に変わったというのが正確なところである。頂上付近は武天老師渾身の気砲によって地形がえぐれ窪地のようになっており、そこに気砲の直撃を免れた土砂や城の残骸が湖のように堆積していた。さながら瓦礫のカルデラ湖といったところか。丘の斜面にはやや奇妙な光景だが長年山火事に晒され続けてきたことによって炭化した木々が、それでもなお形を留めて林立し続けていた。

 

 頂上では瓦礫が湖をなし、山肌には緑が一切見えず、木の形をしただけの炭の塊が針の山のように立ち並び、それ以外はただ煤と灰が降り積もるだけの死の丘。退廃、という言葉を絵にすればこうなるのではないかと思えてしまうくらい、それはなにもかもが終わってしまったような景色だった。変わり果てたフライパン山跡地を目の当たりにした牛魔王は、しかし娘共々その地を離れようとはせず、あろうことかその再建に乗り出した。

 

 悟空たちを見送った後、まず牛魔王は身一つで丘の頂上、瓦礫の湖を目指した。永久火災が起こる前の登山道を使えば、1時間もせずに登れる目算であったが、すぐにその予想は崩れた。山道を覆うように広がる炭の森では、炭化した木々がわずかな衝撃で次々と崩れ落ちてきて、牛魔王の行手を阻んだ。なんとか雪崩の直撃を免れたとしても、そのたびに大量の灰や煤が舞い上がって辺りを覆い尽くし、視界も呼吸も全く効かなくなる有様であった。炎は消えても、長年炎に晒され続けてきた木々の屍たちが立ち塞がり、生者の立ち入りを拒む。まるで地獄絵図だと、牛魔王は恐れ慄いた。

 

 頂上を目指す前に、牛魔王はまず炭化した木々を撤去し、道を作ることから始めねばならなかった。すると今度は大量に発生する木炭の置き場に困るようになったので、牛魔王は使えそうな石材を丘の麓に積み上げ、即席の炭捨て場を作ることにした。登るにせよ捨てるにせよ、それをするために、まず「作る」ことから始めなくてはならない。それは牛魔王がこれまでに経験したことのない労苦だった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 結局、牛魔王が丘の頂上にまで辿り着くまでには、2ヶ月もの月日を必要とした。さながらクレーターのような巨大な窪地に、煤と灰が風に舞う中、なお重苦しく沈殿する瓦礫の湖。面積にして100ヘクタールは超えそうな、かつての夢の残骸たちに牛魔王は圧倒され、途方に暮れ、それでも立ち向かい始めた。ひとまず10メートル四方ほどの範囲を決めて、まずそこから瓦礫の撤去を始めた。100平方メートルといえば、およそテニスコート半面分の広さにあたるが、その分だけの瓦礫を撤去するだけでも、なかなか一筋縄にはいかないことだった。

 

 このとき牛魔王が所有していた財産といえば、カプセル化した車両がせいぜい数台あるくらいで、無論そこには重機など含まれていない。専門の機材や工具などもなく、専門家を雇えるだけの貯蓄もなく、頼れるのは我が身一つ。実際、牛魔王は自らの手足を使って、山頂を埋め尽くす瓦礫群へと挑みかかった。積み重なる瓦礫を一つ一つ持ち上げては、ここまで乗り入れてきた小型トラックに積み込んでいき、満杯になったところでトラックを走らせ、麓まで運んでいく。山道の整備が完全ではないため、途中何度か車を降りてカプセル化し、徒歩で丘を下らなくてはならない。麓のこれまた牛魔王が仮設した廃棄物処理場まで運び、荷を下ろし、再度まだ丘を登っていく。これを何日も繰り返す。

 

 やがて麓の処理場の方が一杯になると、一旦瓦礫運びは中断し、廃棄物の処理作業に取り掛かる。石材やコンクリート、金属類はなるべく小さく砕いてから、ひとまず一箇所に積み上げる。こればかりは別途、都の処理業者などを頼らなくてはならない。土材や木材ならば斧で断ち割って一部は再利用し、それでも溢れかえる分はやはり細かく砕いて土に返す。単純ながらも多大な労力を必要とする作業であり、機械の手が借りられなかったため、最初の方はむしろこちらの方に時間が掛かった。

 

 結局最初に決めたスペース分の瓦礫や残骸を撤去し、それらを完全にとは言えないまでも処分し終えるのに、またもや2ヶ月掛かった。100平方メートル分の瓦礫を片付けるのに2ヶ月。そして頂上の瓦礫の湖は、面積にて100ヘクタール超。つまり単純計算で約1700年ほどの歳月を掛け、同じ作業をあと1万回繰り返せば、これらの作業はひとまずの完了を見ることになる。

 

 極めて過酷で、そして途方も無い作業量だった。たった一人でこなそうと思ったら、それこそ千年費やしたところで終わらない。チチ以外の誰の助けも得られず、誰にも褒められず、誰からも給料を貰えない孤独な作業であったが、それでも牛魔王は続けた。瓦礫運びのさなか、昔収集した財宝をいくらか発掘することが出来たのは大きな僥倖であった。少なくとも食糧の心配はしなくて済むようになり、カプセル重機や粉砕機などの力も借りられるようになり作業効率は大きく向上した。加えて、二人以外は誰も住んでいない寂しい土地であっても、毎日家事と勉学をこなしながら父の帰りを待っていてくれる心優しい一人娘に、綺麗な服を贈ってやったりなどもできるようになった。

 

 やがて季節が巡り、フライパン山に10年ぶりの雨季が訪れた。山一つ分の大火が消えて、ようやく正常に戻った気候を祝うかのように雨は連日連夜降り注ぎ、そして当然のように災害が起こった。降り頻る雨は丘を覆う木々の残骸や灰を一気に押し流し、大規模な土石流を呼び起こした。土石流は山道を飲み込みながら麓まで届き、牛魔王謹製の廃棄物処理場と、買ったばかりのカプセルショベルカーをあっという間に埋め立ててしまった。翌朝、雨が上がってからその惨状を目の当たりにした牛魔王は、さすがにしばしの間、失意のあまりへたりこんだ。

 

「おとう、なぁ、おとう。いくらおとうでも自然には勝てねえだよ。ここを出て、街で暮らそう」

 

 娘からそう案じられるも、牛魔王はさほど時間をおかずして再び立ち上がった。他ならぬ、元・涼景山の土砂崩れの傷跡を見て、そう決意することができた。

 

 土砂崩れを災害と見なすのは人間の都合。自然にとってはこれもまた大きなサイクルの一つ。こたびの土砂崩れは確かに牛魔王の資産と精神に大きな損害を与えたが、一方で丘の地表に積もっていた灰を盛大に押し流し、その内側に眠っていた瑞々しい土の色を露わにさせてもいた。煤と灰に染まった真っ白な死の丘に、ほんの一角のみだが雪解けが訪れ、生命の息吹が蘇ったかのようだった。

 

 涼景山は死んでいなかった。山も土も、まだ生きている。ただほんのちょっと一皮剥けただけだ。牛魔王にはそのように思えた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 獲物を斧から鍬やスコップに変えて、牛魔王は再び元・涼景山に挑んだ。雪崩落ちてきた土砂を少しずつ少しずつ撤去し、再び登山道を開通させようとした。作業は難航し、一月経っても二月経っても終わらず、酷使に耐えかねて何本もスコップを折ってしまった。代わりのものをチチに買いに行かせ、その間は素手で土を掘った。

 

 図らず、大昔にこなした亀仙流の修行を思い出した。今よりも輪をかけて尊大で乱暴者であった自分が、世の広さと、本当の強さというものを思い知らされたあの日々。生まれ持った腕力を振りかざすことしか知らず、それゆえに人々に疎まれ、恨まれ続けてきた自分が、仲間と共に朝起きて、共に働き、共に学び、共に眠る喜びを知った、あの掛け替えのない日々を。

 

──ほれ牛魔王、もっとはよう掘らんか。朝飯が遅うなるではないか。

 

──老師様、不慣れな者に厳しすぎます。牛魔王、無理だと思ったら休んでていいぞ。あとは任せておけ。

 

 懐かしい声が胸の内から次々に聞こえてきて、牛魔王は汗だくになりながら兜を脱ぎ、まなこより溢れ出すものを拭った。娘を買い物に行かせていて良かった。とてもこんな姿は見せられない。

 

(そうはいかねえですだ、悟飯さん。これはおらの仕事です。おらがやります。やってみせますだ)

 

 あの頃の師と兄弟子の幻影に尻を叩かれながら、牛魔王は遮二無二に作業を続けた。どれほど月日を費やしたとしても、山そのものを復活させることは到底出来まい。そうと分かっていても牛魔王は立ち止まれなかった。元通りにならずともよい。それでも数世代ののち、在りし日の涼景山の数十分の一でも生命豊かな土地になってくれれば。その一助になることができればと、ただただその一心であった。

 

 そうしてまた何ヶ月か経つと、すこしずつ涼景山跡地に人が集まり始めた。まず近隣の村々から何人かの若者がやってきて、給料をくれるなら作業を手伝うので雇ってくれと言ってきた。再度掘り起こした財宝で、それなりにゆとりがあったので牛魔王はその通りにした。実際、渡りに船であった。

 

 去年、今年と不作続きで彼らの村が困窮していたことは牛魔王も知っていたが、それにしてもなぜわざわざこんなところに、と尋ねたら、若者らはこう答えた。

 

「数日前に、不思議なことがあっただ。空飛ぶ亀に乗った爺さんが村にやってきて、『もし働き口に困っておったら、フライパン山の牛魔王が、山の復興に人手を必要としているので訪ねるとよい』と言っただ。『たまに様子を見に行っとったんじゃが、どうやらあやつも心を入れ替えたらしい。金は持っとるので、それなりの給料はもらえるじゃろ』ともな。夢でも見たのかと半分疑ってたけど、来てみたら本当だったべ。あの方はきっと仙人様かなにかだ」

 

 それを聞いて、牛魔王はしばし天を仰ぎ、唇を振るわせた。

 

 人手を得て、復興作業は随分と捗るようになった。牛魔王は増えた人数分の重機や工作機械も惜しみなく購入し、彼らに使わせた。それらの使い方に習熟すれば村の農業にも役立つだろうし、ときに安く貸してやることもあった。チチと牛魔王の二人きりであった涼景山跡地に、人の往来が始まった。

 

 またしばらくして、新たな農地を探していた農家が牛魔王を訪ねきて、牛魔王が開拓した丘の土地を一部貸してくれと頼んできた。牛魔王は快く許したが、首も傾げた。

 

「なんでわざわざこっだらとこに畑を?」

 

 こっだらところだからだ、と農家の男は答えた。

 

 長年炎に晒され続けたことで、涼景山の豊かな森林は確かに失われたが、一方で樹冠が取り除かれ、地面に光が当たるようになった。また炎は既存の根系を死滅させたが、同時に植物に悪影響を与える害虫や病原菌をもまた殺したことだろう。降り積もった灰は植物の成長を助けるカリやリンなどを豊富に含み、これらは雨や風、土砂崩れなどよって攪拌され、土全体に行き渡っていく。そのようして、次の生命が育まれる土壌というものが出来ていく。

 

「焼畑と一緒だべ。きっとここいらでは作物がよく育つだ」

 

 そうまで言われては断る理由もない。牛魔王は丘の土地を一部貸し出し、賃借料を貰うことになった。作業の直接の助けにはならないが、定期収入ができた。加えてその農家の男には妻と三人の子供がおり、チチとも歳が近く、娘に友人ができた。

 

 さらにしばらくして、どこかの企業が廃棄物処理場の建設地を探していると言って商談を持ちかけてきたこともあったが、これは断り、代わりに牛魔王たちの作業に使えそうな設備や機材をいくらか発注した。

 

 どこかの大学の林学者が、件の永久火災について住み込みで調査させてくれと言ってきたこともあり、こちらは許した。すると滞在の間、ついでだからといって丘の植林作業を手伝ってくれたので、その分の給料は払うことにした。

 

 さらには盗賊時代の手下の何人かも牛魔王のもとを訪ねてきた。真っ当に働きたいので雇ってくれと言うので、雇うことにした。実際、丘の頂上に埋まる金銀財宝を狙って、野盗紛いの連中がたびたび土地に無断侵入してくることがあったので自警団代わりにもちょうどよかった。先の空き巣専門の盗人の話も、この頃に彼らから聞いたものだった。

 

 いつしか牛魔王の住居を中心に、ちょっとした集落が出来上がっていた。ちょうどこの頃、牛魔王は娘の勧めもあって、物々しい革鎧を脱ぎ捨て、土木作業に適した丈夫な普通の服を着るようになった。盗賊時代から愛用していたお気に入りの兜も外し、代わりに娘から贈られた手製のツノ付き帽子を被り、眼鏡を掛けた。視力が悪いのは昔からで、これまでは兜に特注のスコープを取り付けて補っており、その不気味な人相は、悪魔の帝王なる異名を広めるのに一役買っていた。

 

 ある日、近くの村に住む一人の老婆が、牛魔王の下で働く息子の様子を見に、牛魔王の集落を訪ねてきたことがある。その老婆はかつて盗賊であった頃の牛魔王のことを知る人物で、変わり果てた牛魔王の顔をまじまじと見て、こう言った。

 

「あんたって、そんな優しそうな目をしてたんだね。知らなかったよ」

 

 なんでもない一言だが、牛魔王は十年以上の月日が経った今でも、その言葉を覚えていた。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 思いがけず、長い話になってしまったことを恥じるように、牛魔王は白酒をもうひと煽りした。悟空にすら話したことのない彼だけの人生。レッドリボン軍ともピッコロ大魔王とも関わりのない、彼だけの歴史。彼だけが知っていればいい彼だけの物語。それを、悟空はもとよりその息子に聞かせる日が来るなどと、牛魔王はつい先程まで夢にも思っていなかった。

 

 しかしそれとは別に、いつかどこかでこんな日が来るような気もしていた。

 

「武術をやめようと思ったのもここいらの時だ。もう斧も拳も、絶対人には向けねえと誓った。老師さまたちから授かった力も技も、涼景山を元に戻すことだけに使おうってな。あ、別に武術が悪いって言ってるわけじゃねえぞ。おらだって武天老師様の二番弟子だ、んっだらこと口が裂けても言わねえべさ。だがよ……」

 

 豪放磊落を絵に描いたような牛魔王が、とても珍しいことに、気弱そうに口籠もった。長年、これだけは言うまいとしてきたことがある。しかしいつかどこかで、他ならぬ悟飯にだけは、これを言わなくてはならないような気もしていた。昨日今日の話ではなく、悟飯がほんの幼少の、それこそ1歳か2歳だったころから。言葉の習得も人格形成もまだまだで、それでもなおその気性が、娘の愛した夫とは明らかに異なることを察した、その日からずっと。

 

「別におらの真似をしろってわけじゃねえ。そういうわけじゃねえが、それでももし……もしもだぞ? おめえが、その、よう……」

 

 しきりにまごつく牛魔王だったが、それでも途切れ途切れに続きの言葉を綴った。

 

 もしもお前が、武術よりも普通の生活を望むのなら。

 

 強さよりも人との関わりを重んじるのなら。

 

 もしも、もしもお前が……父・悟空よりも、自分の生き方にこそ共感を抱いてくれるのなら。

 

「おめえは力を使っちゃいけねえ。おらそう思うだよ……」

 

 牛魔王がそう重々しく告げると、しばしの沈黙が孫家の食卓にのしかかった。チチも悟飯も言うべき言葉が思いつかず、じっと押し黙る時間が続いた。その間も、まるで自分の言葉を悔いるように深く俯いていた牛魔王だったが、やがてその口元から豪快ないびきが聞こえ始めたことで、チチと悟飯はようやく相好を崩すことができた。

 

「寝ちまったか。そりゃあんだけ飲めばな。オラたちも寝るべ」

 

 空気を入れ替えるように努めて明るく言いながら、チチは食卓の食器を片付け始めた。

 

「お爺ちゃん運どくよ。母さんの部屋でいい?」

 

「ああ、オラは居間で寝るからよ」

 

 200キロにも届きそうな牛魔王の巨体をひょいと背負いながら、悟飯はそろりそろりと廊下を歩んでいった。久方ぶりに母の部屋に入る。かつては夫婦で使われていたダブルベッドに祖父を横たわらせると、それでも随分狭そうだと、悟飯は笑った。

 

 ──強さよりも人との関わりを重んじるのなら。

 

 ──もしもお前が、父・悟空よりも、自分の生き方にこそ……

 

 牛魔王が、なぜ自分にそう告げることを躊躇ったのか、悟飯にはよくわかった。本来、それは躊躇するほどのことでもなく、孫悟飯が父・悟空とは気質も嗜好も全く異ならせることなど、他ならぬ悟飯自身が一番よく知っている。それでも、心の隅で引っ掛かりを覚えてしまうのは、きっと朝の稽古と同じだ。父は父、自分は自分……などという月並みな言葉では、到底片付けられないくらいに、ただただ大きいのだ。悟飯にとって、孫悟空という人物は。

 

 強さを罪とは思わない。力が悪であるはずがない。逆に悪行に手を染めてしまった者を、力でもって屈服させることは決して過ちではないはずだと今でも思う。しかし祖父の言葉を受けて、悟飯はこれもまた、自分に課せられた一つの試練なのではないかと考え始めた。

 

 泥棒は盗みで、武道家は武術で、自ずと物事を解決しようとしてしまうもの。ならば、武術を止めた自分の為すべきことはなんだろう。戦いを捨てた自分のすべきこととは何だろう。次から次へと疑問が湧いてきて、悟飯はその答えを探してみたいと思った。

 

 孫悟空の息子ではなく、一人の人間として。

 

 あの学校に通う、一人の生徒として。

 

「おやすみなさい、おじいちゃん。今日はありがとう」

 

 そうとだけ囁いて、悟飯は足音を殺しながら居間へと戻っていった。眠気を覚え始めたまぶたを擦りつつ、ふと、そういえばまだ自分の分の宿題を終えていなかったことを思い出しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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