Ⅰ
孫家の住まいは行政的には東エリア439地区といい、名峰パオズ山の麓、森と山に囲まれた自然豊かな場所に位置している。周囲には鉄道も道路もなく、もっとも近隣にあるパオズ村ですらエアカーで一時間ほどかかる距離にあり、国からも交通困難地として配達や輸送の取扱地域外に指定されているちょっとした陸の孤島だった。
孫家の構成員は三名であり、母・チチは今は未亡人となっているが、その呼称から連想される儚さや気弱さとは無縁の烈女であり、その肝っ玉でよく一家を纏め上げる一家の柱であった。
長男の悟飯は今年で十六歳になる。四歳の頃から無人の荒野に放り出されたり、遠い異星の地へ旅立ったり、悪の人造人間と戦ったりなど、とかく平凡とは言い難い人生を送ってきたが、近年はそういった荒事からも足を洗い、高校にも無事に入学を果たして学業に集中し出している。
次男・悟天は今年七歳で、まさに元気盛りの小さな怪獣といったところだ。セルとの戦いの直後に生まれたため、三人の中でただひとり悟天だけが一度も父・悟空と会ったことがない。本人は少しも気にしていないが、チチも悟飯もそのことを大層不憫に感じており、また悟天の容姿が悟飯に輪をかけて父と瓜二つなことから、二人してこの末っ子に対して若干甘やかし気味なところがあった。
父・悟空が七年前のセルとの戦いで戦死してから、三人きりとなった孫一家。チチと悟飯、どちらの胸中にも寂しさはあったが、すくすくと元気一杯に育つ悟天の存在がそれをかき消してくれていた。特に悟飯などは、あるいはこの子は本当に父の生まれ変わりなのではと時折思うほどだった。父が死後の世界でも過去の達人らと組み手しながら元気に暮らしていることは承知しているが、それでもそんな風に感じてしまうくらい、悟天の存在は父の喪失によって生じた悟飯の心の穴にピタリと収まった。この子のために立派な兄になろう、立派な大人になろうと、無理をするでなく悟飯は思うことができるのだ。
◇
その日の夕食後、孫家の家族団欒は平時に比べるとやや変わった趣向のものとなった。母、長男、次男の三人は揃ってリビングのソファーに陣取り、皆で一様にテレビの番組に見入っていた。一般的な家庭であればごく普通の団欒の光景であるが、浮世離れ甚だしい孫家においては非常に珍しいことであり、七歳の悟天などは一体何が起こっているのかとしきりに目をキョロキョロとさせていた。
歌番組、スポーツ中継、アニメ番組と次々とチャンネルを切り替えていき、目当てのニュース番組のところで悟飯はリモコンを止めた。そこでは、サタンシティにて今から約二十七時間ほど前に発生した銀行強盗事件についての続報が読み上げられていた。
「昨日に発生したオレンジシティ・バンクの強盗事件について、事件当日に店内の防犯カメラが捉えた映像が警察より公開されました。どうぞこちらをご覧ください」
映し出された映像はカメラの性能もあって非常に鮮明なものであり、悟飯はおもわずリモコンを握る手をぎくりとさせた。銃を突きつけ、店員や客を脅しつける覆面を被った男三人。銃が何度か火を吹き店内は騒然となるも、強盗たちの脅し文句によってか、一人また一人と手を頭の上に乗せて床に伏せていく。店員の一人が警察への通報装置に手を伸ばそうとしたが、腹部に銃弾を受け倒れ伏した。音声はついていないため些か臨場感に欠けるところがあるが、事態の推移を非常にわかりやすく、明瞭に捉えた映像であった。
やがて、突然男の一人が入り口の方を振り向いて、銃を発砲した。その後、入り口の方にいるだれかに何事かを怒鳴りつけたようだが、カメラの範囲外のため相手の姿は映像からは見て取れない。
閃光が走った。特大の閃光弾が炸裂したかのような強烈な光が店内を真っ白に染め上げ、そして光が収まったときにはすでに三人の強盗のうち二人までもが、脳天に金槌でも打ち下ろされたかのように目を回して昏倒していた。一人残された最後の強盗犯は訳がわからない様子で辺りを慌ただしく見回し、そんな彼の後ろにまるで黄金の炎に包まれているかのような金色の人影が、テレポートでも行ったかのように突如として出現した。そして人影の腕が一瞬ブレたかと思うと、次の瞬間にはもう最後の強盗は雷に打たれたように身を震わせ、そのまま床に倒れ伏した。
「わ、兄ちゃんだ。あれ兄ちゃんでしょ?」
「ああ、そうだぞ。惚れ惚れするだなぁ。目にも止まらぬって言うけど、悟飯ちゃんはカメラにも映らねえだか」
母と弟の呑気な声に、ソファーの端に座る悟飯は居心地悪そうに身を揺すった。言うまでもなく彼こそが、この映像に映る金色の人影の正体であり、武装した強盗犯三人を瞬く間に退治した功労者であるのだが、少なくとも現時点ではどこにでもいそうな純朴な青少年にしか見えない。
ニュースではその後、この金色の人影の正体についてコメンテーターたちがあれやこれやと推測を並べ立てていた。
「全身金色に着飾った成金武闘家とかでしょうか」
「そんなんじゃ、あんな風に映りませんよ。金色の蛍光塗料を全身に塗りたくってたんじゃないですかね。なんのためかは分かりませんが」
「そもそも本当にあんな風に光っていたのかね。カメラの問題じゃないかと思うんだが」
老若男女の知識人なりタレントなりが好き放題に言い合うが、よもやその口から突然自分の名前が出てきたりはしないかと悟飯は気が気でなかった。
悟飯たちの超人的なパワーの源である「気」は本来誰の中にもあり、普段は緩やかに体内を巡っている。悟飯が行う超化とは、いわばその気の流れを極限まで加速・増幅させることであり、すると体内の気はまるで川が氾濫するように皮膚の外にまで吹き上がるようになる。その時、使い手の全身はさながら黄金の炎に包まれたかのように光り輝き、髪や瞳の色までもが変わり、その肉体は地球上のいかなる生物も太刀打ちできない無敵の強度と速度を発揮するようになる。
とはいえこの際その点はさほど重要ではなく、悟飯も知らなかったことだが、超化した状態でカメラに映ると強い逆光のせいか光る人影にしか映らず、顔も服装もろくに判別できなくなってしまうようだった。悟飯が超化を身につけたのは九歳のころだが、考えてみればその状態で記念写真などを撮ったことはなかったので、今日までそのことを知る機会がなかった。
この意外な利点により、銀行の防犯カメラにも金色の人影と悟飯を結びつけるような手がかりは何一つ残っておらず、新聞やニュースにも今のところ悟飯のごの字も出てこない。どうやら大ごとにはならなさそうだと、ようやくに悟飯は胸を撫で下ろした。
「とりあえずなんとか大丈夫そうだ。いやー本当に一時はどうなることかと」
「んだども本当に大丈夫け? 最初の出会い頭は素顔のままだったんだろ?」
「強盗犯としか顔を合わせてないし、ちょっぴり念入りに頭を小突いておいたから、多分大丈夫だと思う。あとのみんなは床にうつ伏せになってたし、強盗をやっつけた後はすぐ逃げたから」
悟飯は説明を省略したが、実際はその際に腹部を撃たれて昏倒していた男性を拾い上げ、近くの大学病院に全速力で運び入れていた。舞空術も解禁しての文字通りの一っ飛びであり、地球上のどこを探してもこれより早い運搬方法はなかったに違いない。事実、病院へもほんの十数秒で到着し、どこかで交通事故でもあったのかちょうどよく玄関前で救急車が負傷者の搬入作業を行なっていたので、悟飯は「こちらもお願いします」と目にも止まらぬ速さで男性をその場に置き、再び目にも止まらぬ速さでその場を立ち去った。金色の風が吹いた、と思ったらいきなり患者が一人増えていたのだから、救急隊員たちはさぞかし面食らっただろう。
なおニュースではその男性の容態についても触れられており、悟飯の迅速を通り越した疾風迅雷の対応が功を奏し、しばしの入院を必要とするものの命に別状はないとのことだった。
「んじゃこれで一件落着だな。ま、もしバレてもそんときはそんときだべ。ちったぁ騒ぎになるかもしれねぇが、人の噂も七十五日っていうしな」
「いや、さすがにそうはいかないんじゃないかな。空まで飛んじゃったしさ」
「んなもん、天下一武道会で悟空さらが散々披露してたべ」
確かに悟空や悟空の仲間たちはたびたび公共の場で舞空術を披露しており、その都度それなりに騒ぎになりもしたのだが、悟空たちがマスコミに追い回され不自由な思いをするようなことはなかった。天下一武道会においても、大会自体が厳密な身分証明を必須としない大らかな催しであったし、そもそも当時の悟空らは揃いも揃って正規の住まいを持たない住所不定者であったため大会から素性を追うことも簡単ではなかった。比較的一箇所に定住していたクリリンやヤムチャですら仮住まいの居候であったし、騒動を嫌ってか居候先の住所を正直に登録などもしていなかった。
当然、れっきとした公立学校に通い、身分のはっきりしている悟飯の場合は少なからず事情が変わる。謎の金色の戦士と悟飯が結び付けられようものなら一騒動になることは目に見えており、最悪学校に通えなくなる可能性も十分に考えられる。悟飯としてはなんとしても避けたい事態だった。
「せっかく入学できたんだから、最後まで通ってちゃんと卒業しなきゃ。そのためにも騒ぎになるようなことは絶対避けないと」
「ならまた同じことが起こったらどうすんだ?」
「そのときは……またうまくやるよ。目の前で強盗が起こってたら、さすがに見過ごせないし」
善良さが服を着て歩いているような息子の物言いに、チチは愛おしさと不安が微妙にブレンドされた複雑な笑みをこぼした。悟飯のこういった優しさや正義感をチチは日頃より愛してやまなかったが、いずれも悟飯自身が願う平穏な生活とは時に相反してしまう性質を持つ。
「ええか、悟飯ちゃん。二兎追う者一兎も得ずと言うだ。悪党を見過ごせとは言わねえが、その後のことをよく考えて、後悔しない道を選ぶだぞ。学業と悪者退治、どっちを優先したとしても、悟飯ちゃんがきちんと考えて選んだ道ならオラなんも言わねえ」
母の警告に「はい。肝に銘じます」と重々しく頷いた悟飯だったが、実際のところチチが挙げた二者であれば、悟飯の優先したいものはとうに決まっていた。
悟飯は学問が好きだった。ひと頃はチチのあまりの教育熱心ぶりに辟易したこともあるが、本や教科書を通して知らないものを知り、分からないものを理解するのは楽しく、自分の中の何かがどんどん広がっていく感覚のすることだった。眼前の悪行は確かに見過ごせないが、逆に言えば眼前にさえ無ければわざわざ自分から探し歩くことはしない。悪と戦うことに躊躇はないが、悪と戦い続けるだけの人生を送りたいわけではない。
普通に暮らしたい。今の悟飯の一番の望みはやはりその一言に尽きた。きっとそれは、長らく戦い尽くしであったこれまでの日々の、ちょっとした反動なのだ。
Ⅱ
やはり退屈であったのか、いつのまにか悟天は兄の膝を枕にしてうとうとし始めていた。このところの悟天は、悟飯が家に帰るとこうしてずっとひっついてくる傾向があった。以前までは朝から晩まで面倒を見てやれたが、通学を始めてからは長く家を留守にせざるを得ず、悟天も口には出さないが寂しがっているのかもしれない。今日もニュースの確認に気を取られ、ずっと蚊帳の外にしてしまっていたので、悟飯は済まなく思った。
ただ良い機会でもあるので、かねてより考えていた計画について母に打ち明けることにした。
「ねえ母さん、ひとつお願いがあってさ。街でアパートを借りたいと思っていて、下宿代を貸して欲しいんだ。お金はきちんと計画立てて返すから」
もう草案は作ってあるんだ、と悟飯は悟天を起こさぬようにしながらソファー横のカバンからノートを取り出し、計画の背景やら返済計画の予定やらを滔々と語り出した。寝耳に水であったチチだが彼女は悟飯と違って空を飛べないので、毎日片道千キロの距離を通学することが、いかに周囲より奇異に見られるかを説明されると「言われてみりゃそうだな」と簡単に納得した。言われないと気づかないあたりは、彼女も立派な孫家の人間だということだろう。
「んだども、だったらいっそ家を一軒カプセルで丸ごと持っていったらどうだ? おとうの持ち家が確かまだ二つや三つあんだろ」
「ここいらとは違って、街では勝手に家を置けないんだ。パズルみたくきっちりどこからどこまでが誰の土地って決まっていて、空き地ってものがないみたい」
「ふーん。窮屈なこったな」
チチもチチで幼少時より山育ちなので、都の習慣には疎いところがあった。悟空の非常識さに隠れがちであったが、似た者夫婦であったのだ。
「ま、悟天との二人部屋だと勉強もしづらいだろうし、勉強部屋代わりに一部屋持っておくのはええんでねえか? お金のことはオラに任せるだ」
「いやいや、最初の敷金・礼金だけでいいよ。あとは僕がアルバイトして払うから」
「なに言ってるだ。おめえがんなことする必要ねえだ」
「お金のこと抜きに働いてみたいんだよ。街や世の中のことをもっと色々知りたいし、経験してみたいんだ。まだ学校に通い初めて数日だけど、自分がどれだけ世間知らずだったか身に染みて分かったんだ。どうかやらせてくれないかな。成績は絶対落とさないからさ」
長男の殊勝な言葉に、チチは思わず涙腺が緩むのを感じた。今はなき彼女の夫は、結局結婚してから一銭も稼ぐことなくこの世を去ったというのに、この息子ときたら。
「きっとオラの血だな。うん、そうに決まってるだ」
「なんの話?」
「いやいや。んじゃ確認すっけど、都に家を借りるのはええけど、あくまでそれは方便だな? ちゃんと毎日、この家に帰ってくるだな?」
「はい、そのつもりです。ああでも、もし部活とかに入って遅くなったりしたら」
「そんくらいは、きちんと連絡を入れてくれれば構わねえ。あとはそうだな。部屋に女の子を連れ込んで悪いことをしたりはしねえな? 勉強のために使うだな?」
「あ、当たり前だって。いやだな」
「よし、そこまで言うならおめえに任せるだ。やりたいようにやるがええ。もちろん、困ったことがあったらいつでも相談するだ」
かくしてチチの許可を得て、彼女自慢の孝行息子は早速翌日よりアパート探しを始めた。なにぶん初めてのことなので勝手を掴みづらかったが、不動産屋の親身な手助けもあって二日目には街の外れの方にある一つの物件に目星を付けることができた。近年のサタンシティの場合、少々条件が悪くとも他の街よりかなり高くついてしまうのだが、拘りさえなければ学生のアルバイトでも賃貸が成り立つ物件はゼロではない。とくに今回の部屋は最近リフォームを行なったらしく、築年数のわりに内装も外装も小綺麗で、いわゆる掘り出し物と言えた。1Kの間取りも悟飯一人が住むには十分すぎるし、辺りは人通りもさほど多くなく、筋斗雲の離発着にも融通が利きそうだった。
「ここからオレンジスターハイスクールまではどれくらいかかりますか?」
「片道三十キロほどですから、エアカーなら三十分、徒歩と電車の場合はやや遠回りになるので小一時間ってところですね」
今日までアパート探しを手伝ってくれた不動産屋の女性は手慣れた様子で答えてくれた。これならば住所を告げるたびに不審な目で見られることはなくなるだろうし、アルバイトなども問題なく行えるだろう。
「通学は自家用機をお考えですか?」
「いえ、今は持ち合わせがないので歩くつもりです」
「であれば自転車もおすすめですよ。タイヤ式なら安いですし、この辺りは坂道も少ないですしね」
女性の勧めに悟飯はすこし考えてしまった。四歳の頃から空を飛べた悟飯は、免許が必要なエアバイクはもちろん、タイヤ式の自転車にすらこれまで乗ったことがなかった。
(自転車か、なんか都会っぽくてちょっと憧れるな。バイト代で余裕が出来たら買ってみようかな)
心の中の「やってみたいことリスト」の末尾に加えておくことにした。件の「知らない言葉リスト」と同様、街に通うようになってから増える一方なので、こちらもそのうちノートに整理しておこうと悟飯は几帳面に考えた。
早々にこの物件へ入居することを決め、諸々の手続きを女性の説明を受けながら悟飯は一つ一つこなしていった。生まれて初めて契約書というものを他人と取り交わすことになり、その署名欄に自分の名前を書き入れたときには、他愛無いことだがまるで自分が一端の大人になったかのような誇らしさを感じた。
週末には全ての手続きが完了し、不動産屋から部屋のキーを受け取り、早速悟飯は部屋作りを始めた。備え付けのクローゼットとキッチンのほか、実家からカプセルで運んできた勉強机に本棚、敷布団。そして着替えに洗面用具に調理器具。大小様々な家具を自分の好きなように一つ一つ配置していくのは思いのほか楽しく、悟飯はノートに間取り図まで書いてああでもないこうでもないと試行錯誤に没頭した。
そうして出来上がった生まれて初めての「自分の家」に、悟飯はどうしてか胸の高鳴りを抑えることができず、思わずチチに連絡を入れた。今夜一晩こちらに泊まりたいという旨を伝えたとき、了承するチチの声は可笑しそうに笑っていた。
Ⅱ
転居の手続きが無事に終わり、実情はともかく公的には晴れてサタンシティの一員となった悟飯だが、家族以外に一人、真っ先にそのことを伝えなければならない相手がいた。
「わお、ついに引っ越したんだ」
「ええ。おかげさまでつい昨日から」
「どこどこ? 悟飯くんのアパートって」
悟飯が住所を告げると、「結構近所じゃない」とイレーザは嬉しそうに笑い、その真っ直ぐな好意に悟飯もまた嬉しくなった。
「色々とお世話になりました。教えてくれた不動産屋も、とっても親切な方達でした」
「でしょでしょ? 前のバイトの先輩が勤めてるところなの。良いところを紹介してくれるようちゃんと念押ししておいたからねー」
つくづく悟飯は頭が下がる思いだった。都の人間は冷てえから気をつけろ、などと母は時折言っていたものだが、百聞はイレーザに如かず、いつか母の偏見を解いてやらねばと悟飯は心に誓った。
「じゃぁ早速だけど悟飯くん、今日の放課後、良ければ一緒に遊ばない? 勉強だけで一日を終えるようじゃぁ、立派なシティボーイとは言えないわよ」
一瞬、悟天の寂しげな顔が思い浮かんだが、恩人の誘いを断るわけにもいかず、また断りたくないというのが悟飯の偽らざる本音でもあった。
「お邪魔でなければ是非。でもなにして遊ぶんです?」
また野球とかだったら困るな、などとはおくびにも出さず悟飯は尋ねた。
「まだ何も考えてないけど、そうねぇ、悟飯くんは普段どういう遊びをしてるの?」
悟飯は転校初日の醜態を思い出して冷や汗を浮かべたが、できる限り正直に答えることにした。級友にあれこれ嘘を並べ立てるのには、いい加減うんざりもしていた。
「一人だったら読書が多いですね。あとは弟の遊び相手をしてます。隠れん坊とか、対決ごっことか」
「ほうほう。お店に行ったりとかは?」
「うちって近所には何もないんですよ。山と森に囲まれてて、出かけるといったら森を散歩したり、川で釣りをしたりするくらいしか」
「うんうん、よーく分かったわ。オッケー。今日の所はあたしに任せといて」
威勢よく胸を叩くイレーザに悟飯は、悟空やピッコロとはまた違う、しかしどこか通じるものがある不思議な頼もしさを感じた。あるいはこのイレーザという少女は、自分の人生における三人目の師なのかもしれないと、そんなことを悟飯は思った。
Ⅲ
その建物に入った瞬間、まるで異世界に迷いこんだかのように周囲の空気が一変し、警戒心により悟飯の肌が一斉にざわめきを立てた。こういった感覚は初めてではなかった。その昔「精神と時の部屋」と呼ばれる天界の修行場に入ったときにも、今と同様の気持ちになったことを悟飯はよく覚えていた。ただし、「精神と時の部屋」では修行者の精神を苛むほどの無音と空白の世界が地の果てまで続いていたのに対し、いま悟飯の眼前に広がる光景はそれとは全くの対極にあった。
さほど広くもない空間内一杯に敷き詰められた極彩色の機械たち。前後左右に行き交い、ごった返す老若男女の人々。そして各所で好き放題にかき鳴らされる音楽。いや、これは音楽と言えるのだろうか。一つ一つに耳をすませばちゃんとした曲なのかもしれないが、どれもこれもが好き勝手に演奏するせいで雑多な曲調が複雑怪奇に混ざり合い、一つの巨大な雑音となって部屋全体に重々しく充満しており、精神と時の部屋とはまた違う意味で悟飯は頭がおかしくなりそうだった。
(な、なんだこれは? 一体どういう場所なんだ?)
「どうしたの、あんた。ぽかんとしちゃって」
「ひょっとしてゲーセンは生まれて初めてか? こいつはいいぜ」
騒音に紛れてビーデルとシャプナーの声もろくに悟飯の耳に入ってこなかったが、しかしシャプナーの言葉に含まれていた「ゲーセン」という一語だけはかろうじて拾い上げることができた。
「そうか、ここが噂のゲームセンターですか」
「悟飯くんはゲームやったことある?」
「知り合いの家で、すこしやらせてもらったことはありますけど、家庭用のもっと小さなやつでした」
「じゃぁ、記念すべき初ゲーセンね。てなわけで思いっきり遊びましょ。ほら、まずはあっち!」
イレーザは元気よく悟飯の腕を引っ掴み、ずるずると引きずるように店の奥へと進んでいった。その後ろを面白げな顔をしたシャプナーとノートンが付いていき、さらにその後ろをやや憮然とした表情のビーデルが続いていった。三人ともイレーザに声をかけられ、本日のレクリエーションに半ば無理やり引っ張り込まれたクチだった。
「イレーザのやつ、ずいぶんあいつのこと気に入ってるな」
「年下が好みって以前は言ってたけどな。まぁ、悟飯ってなんとなく後輩っぽく見えるタイプだけど」
前の二人に聞かれぬよう、シャプナーとノートンは声を落として囁き合った。シャプナーは悟飯から三つ隣の席に座る級友であり、整った容姿と引き締まった体格、そして気障に伸ばした金髪が実に様になっているいかにもなハンサムであった。優れた容姿と運動神経に比例して当人も相当な自信家であり、反面やや嫌味っぽい気性をしているところが玉に瑕といったところだった。
ノートンは、メガネとそばかすが目印のやや痩せ気味の少年であり、見た目の印象通りあまり運動を得意とせず、体育の野球でもビーデルに手加減される側の生徒だった。にもかかわらず意外にも大の格闘技ファンであり、武道家のビーデルやボクシング部のシャプナーとも話が合い、イレーザも入れてよく四人でつるむ仲だった。
「今日から四人が五人になりそうだな。俺もあいつとはまだあまり喋ったことがないんだけどさ」
「見た目通りだろ? 大人しいガリ勉の田舎者ってやつさ」
「おうおう偉そうだねシャプナー君。高校デビューのくせして」
「あ、おまえ」
「おーい悟飯、ここにシャプナーの中学時代の写真があるんだけど一緒に見ないかー? すっげー手触り良さそうな頭してんだぜー」
「やめろ、こら、やめろ」
対照的な外見ながら親しげに戯れ合う男二人の後ろで、ビーデルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「おやおや、正義の女子高生様が幼馴染をぽっと出の男に取られてお冠だぜ」
「いわゆる三角関係ってやつ? きゃーワクワクするー」
「締め落とすわよ、ふたりとも」
ビーデルの場合、それがただの脅しに終わらない可能性があるので、男二人はにやけ顔を続けながらも、それ以上は言わなかった。
平素にしていればそれなりに周囲の男の目を引くであろうビーデルが、その眉目を釣り上げているのには三つほど理由があった。
一つは当人としては認めたくないが男たちの言う通り、幼い頃からの親友が新参者の男にかかりきりになってしまっていること。街に不慣れな転校生を積極的に助ける親切心は友人として尊敬できるが、あの間合いの詰め方を見れば下心が無いとは到底思えない。
(昔からイレーザはああいうのが好きよね。純朴な男の子、て感じのがさ。わたしには単に頼りないようにしか見えないけど)
二つ目の理由は、さきほど彼女の携帯コンピューターに、今日も帰りが遅くなるという父からの連絡が入ったことだった。彼女の父ミスターサタンは言わずと知れた格闘技チャンピオンにして国民的英雄であるが、人格においてもそれに見合うほど立派な人物か、と問われると娘であるビーデルとしても少々答えに困るところがあった。とりわけ妻が死んでからははっきりと悪い癖がつき出しており、今夜の用事もまず間違いなく金と知名度にあかせた品のない女遊びだろうとビーデルには察しがついていた。
では、ただ腕自慢なだけの最低男なのか、と問われるとこれについてもやはりビーデルは返答に困ってしまうところがあった。
(あれで根は善良というか、わたしに対してはまぁまぁ良いパパなのよね。ママが死んでからは特に。ままならないわよねぇ)
そして最後の理由は、一週間ほど前に起こった銀行強盗事件に端を発する。先日にイレーザが悟飯に説明した通り、日頃から警察に協力してチンピラや強盗犯などの逮捕を手伝っているビーデルは、その縁により今回被害を受けたオレンジシティ・バンクとも些か深い関わりがあった。
とりわけ今回の事件で強盗に腹部を撃たれた店長とは、去年のATM強奪事件の際に親しくなって以来、家に招待されたこともある間柄であり、そこが銀行強盗に襲われたと連絡を受けたときは、ビーデルもジェットフライヤーを飛ばして全速力で現場に駆けつけた。
しかし、ビーデルが銀行に到着したときにはすでに全てが終わっていた。三人の強盗犯は頭を強かに打ち付けられ目を回し、客や店員たちは互いに抱き合って無事を喜び合い、腹部を撃たれた店長も誰一人気付かぬうちに近所の大学病院へと運びこまれていた。あとには簡素な事後処理と、「金色の戦士」という奇妙な目撃談だけが残されていた。
当然、知人の命を救ってくれたのだから、その「金色の戦士」に対してビーデルは感謝こそすれ含むところは全くない。しかし一人の武道家として、頭から爪先まで好意的に捉えることもできなかった。監視カメラに残っていた彼の超人的な技を目にすれば尚のことである。同じく映像を見た父はカメラの故障かトリックだと決めつけて取り合わず、正直なところビーデル自身もやや信じがたく思っているのだが、店員や客らの証言から金色の戦士が瞬く間に銀行強盗を制圧したこと自体は確かなようだった。
(嫌だけど、でもサタンシティと名のついてしまったこの街に、パパもわたしも知らない達人がいる。ひょっとしたら、パパよりも強いかもしれない誰かが……)
そのことがビーデルにはどうにも収まりが悪く感じられ、ややもすると不快な気分になり、こうして級友と遊びに来ている今でもついついそれらしき人物を探してしまうのだ。それが自分のプライドによるものなのか、それとも父を慮ってのことなのかはビーデル自身にもよくわからなかった。
そうしてビーデルが無駄と分かりつつも辺りを見回してていると、部屋の片隅でクイズゲームに挑戦している悟飯の後ろ姿が視界の隅に映った。さきほどまではノートンに教わりながら格闘ゲームやシューティングゲームに挑戦しては惨敗を重ねていたようだったが、今度は調子が良いらしく隣でイレーザが大はしゃぎしていた。
「また正解! さっすが悟飯くん。よ、勉強の虫!」
「いやぁ、まぐれですよまぐれ。はっはっは」
イレーザの褒めているのか悪口なのかよく分からない煽てに、悟飯はまんざらでもないこと火を見るよりも明らかな笑顔で胸を反らしていた。
色々なものに虚しさを覚え、はぁとビーデルは一つため息をついた。
Ⅳ
散々ゲームセンターで遊び倒した後、カフェですこし軽食を取ると、もうすっかり陽は落ちてあたりは暗くなり始めていた。明日も学校なのであまり夜更かしをするわけにもいかず、これを最後に解散しようと一同は次にカラオケボックスへと向かった。これも悟飯にとっては初めての経験となる。
部屋に入ってからも、慣れない雰囲気に落ち着かなさそうにしている悟飯に、まずは新参者からとシャプナーが選曲用の端末を渡した。まさか童謡なり民謡なりと歌い出しはしないかとシャプナーらは半分期待すらしていたが、操作に梃子摺りながらも悟飯が最初に選んだ曲は意外にもシャプナーらもよく知る定番の曲だった。タイトルは『バラ色の夏』。なにやら思うところでもあるのが、その名前がモニターに映し出された途端、イレーザが可笑しそうに笑った。
女性ボーカルが歌う曲でやや高音なのだが悟飯の声質には不思議と合い、技術はともかく声量は十分に出ていた。アイドルにも詳しいノートンが絶妙な合いの手を入れ、皆もそれに乗っかったことにより、悟飯渾身の出だしの一曲は意外なほどの盛り上がりを見せた。
負けてられないとシャプナーが、エッジの利いたロックをこれでもかと熱唱し、イレーザは悟飯と同じくアイドル曲を振り付けまでつけて軽やかに歌った。ビーデルもまたこの頃には機嫌を直しており、子供の頃から好きだったという懐かしのバラードをしっとりと歌い上げ、その後にはイレーザとの間でお決まりとなっている定番デュオソングを選曲し、二人の年季の入ったコンビネーションを披露した。
最も盛り上がったのはノートンの歌だった。彼が選んだのはアニメソングであり、悟飯は知らなかったが本来は同世代であれば誰もが子供の頃に見ているはずの、とある有名アニメの主題歌であるらしい。内容は少年向けの冒険ものだったが、イレーザやビーデルも含め当時は男女隔てなく誰もがそれを見ていたのだという。
――少しだけ振り向きたくなるような時もあるけど
――愛と勇気と誇りを持って闘うよ
この次に一度目のサビがくる。悟飯以外の全員が、声を揃えてその歌を歌った。マイクを持つノートンが負けじとさらに声を出し、さらにそれに負けまいと皆もますます声を張り上げた。
異様な盛り上がりを見せるノートンらに圧倒されながらも、皆の思い出の曲と教わったせいだろうか、初めて聞くその曲に悟飯は不思議と懐かしさのようなものを覚えた。明るさの中に一抹の切なさを含む繊細なメロディラインが呼び水となって、悟飯の胸の内にある郷愁の湖を震わせていった。
若き父と母の顔を思い出した。そして今よりもずっと手足の短い、子供の頃の自分を思い出した。戦いのたの字も、サイヤ人のサの字も知らず、泣き虫で、甘えん坊で、ただただ幼かった自分。なんの義務も役目もなく、穏やかで、暖かく、ひたすら親の愛に包まれていれば良かったあの日々。とうに過ぎ去り、もう二度と帰ることのできない遠い昔。そんな想い出の欠片たちが、まるで泡沫のように胸一杯に湧き出してきて、悟飯の脳裏を次々に通り過ぎて行く。
――もっと聞きたいことがあったのに、
――二人の会話が車の音にはばまれて通りに舞うよ
この次に二度目のサビがくる。一度目は皆の盛り上がりについていけなかった悟飯だったが、もう曲の流れは承知していた。モニターを見れば歌詞も分かる。言葉にできない心の中の衝動に従って、悟飯もまた大きく息を吸ってその歌を歌った。皆で座席から立ち上がり、悟飯は右腕でシャプナーと、左腕でイレーザと肩を組んだ。ノートンとビーデルも両端からそれに加わり、五人全員で思い切り声を張り上げた。ゲームセンターの雑音とはまるでちがい、リズムと音程、想いと言葉を合わせ、皆でたった一つの歌を歌った。重なる歌声は空気の振動となって部屋の天井を通り越し、月の出始めた薄明るい夜空にどこまでも拡散していくようだった。その熱量に悟飯は、彼自身も確かなことはわからないが、日頃慣れ親しむ気やオーラとはまた違う、それでもなにか生命的な、人としての力のようなものを感じた。
――海の彼方へ飛び出そうよ
――Hold my hand
歌が終わり、まるで潮が引いていくように、皆を包んでいた奇妙な興奮と一体感が収まっていった。固く結び合っていたスクラムを解き、座席に座って一様に息をつく。誰もが伏し目がちになっており、どこか照れ臭そうにしていた。
「やれやれ、変に盛り上がっちまったな」
皮肉屋なシャプナーがまず最初に大人ぶるも、悟飯とがっしり肩まで組んで熱唱するところをこの場にいる全員が目にしているのであまり格好はついていない。
「たまには童心に帰るのもいいね」
ビーデルもまた晴れやかな顔で、汗を拭っていた。思い切り歌うことで、さきほどまでの胸の内のもやもすっかり晴れてしまったらしい。
「悟飯くんは? 楽しかった?」
こちらもタオルで顔を拭いながら、イレーザが悟飯に尋ねた。聞く前から答えを知っているかのように、イレーザの顔は満面の笑みを浮かべている。
「楽しかったです」
何一つ偽らず、悟飯は答えた。
「カラオケだけじゃなく、ゲームセンターも、皆とのご飯も。今日の全部が、本当に楽しかった。今日みんなと一緒に過ごせて、本当によかった」
ガリ勉の田舎者が口にするあまりにも朴訥で、率直で、真っ直ぐな言葉に、イレーザはますますにっこりとし、ビーデルはくすぐったそうに首筋をさすり、シャプナーはぷいとを明後日の方向に顔を向け、ノートンは照れ臭そうに頬をかいた。
ゲームセンターもカラオケも、こうして友人たちと一緒に放課後の時間を過ごすのも、なにもかもが悟飯にとっては生まれて初めてのことであり、それは本当に、涙が滲んでしまうくらい楽しいことだった。
今夜は急いで家に帰ろう、と悟飯は思った。今の気持ちを母に伝えたい。悟天に教えてやりたい。その思いで悟飯の胸は一杯になっていた。
Ⅴ
一方、悟飯らがいるサタンシティの繁華街より東方に千キロほど移動した地点にある孫家の家では、母・チチが次男坊の癇癪に付き合わされててんてこ舞いとなっていた。
「わーん! わーん! なんで兄ちゃん最近全然家にいないの! 一緒に遊びたいよー! 一人じゃ寂しいよー!」
「駄々をこねるでねえだ。何度も言ったろ? 兄ちゃんは今日友達と遊ぶ約束をしたから帰りが遅くなるだ。兄ちゃんに約束を破らせるつもりか? あと超サイヤ人になって床でじたばたするでねえ、家が壊れたらどうすんだ」
根気よく諭すチチだったが、悟天は「だって、だって」とぐずるばかりでまるで聞き分けがなく、チチは仕方なさそうにため息をついた。夕食前から今に至るまでこのような押し問答を延々と繰り返させられ、さすがにチチも疲労困憊としていた。しかし悟天も今年七歳、まだまだ感情を優先させても仕方がない年頃であるから無下にもできない。悟飯が同じ歳だった頃はすでにこういうことは言わなくなっていたが、それはどちらかというと悟飯の方が子供としては変わっていたのだろう。
チチはもう一つため息をつき、床で暴れている悟天の後ろ襟を引っ掴み、「ほれ、こっちさ来い」と胸に抱き寄せた。動作としてはそれだけのことだが、超化して光輝く七歳児が相手であれば、それなりにコツのいることだった。
「いいか、悟天。おめえにはまだ分からねえかもしれねえがな、兄ちゃんは今とても大切なことを勉強しているだ。ただ教科書の中身を教わるだけじゃねえぞ。どこの本にも書いてない、オラや悟空さでも教えられない、とってもとっても大切なことを勉強するために、あの子は学校へ行ってるだ。どうか悟天も、兄ちゃんのことを応援してやってけれ。いまは元気でやってるけど、きっと色々大変で、疲れることもあんだろうからな」
悟天はまだ泣き足りない様子だったが、それでも段々と気を落ち着かせていき、やがて超化も解けた。元の黒々とした色に戻った悟天の後頭を、チチは優しく撫でてやった。こういった抱っこも、そういえば最近はあまりしなくなっていたことをふと思い出す。
「家にいる時間がうんと減って寂しいのは分かるし、実を言うとオラもおんなじだ。悟飯ちゃんを高校に入れるって決めた時もさんざん悩んだだ。ずっと悟空さたちと一緒に過ごしてきたあの子を、無理に普通の学校に入れても仕方ねえんじゃねえかって。でもあの子が自分から行きたいって言ったから、オラ決心できただ。分かるか? 悟天。兄ちゃんが自分の将来のことを考えて、自分の意志で、自分のために腹を決めてやりきろうとしてることなんだ。だったら見守ってやんなきゃなんねえ。分かるだか?」
「……うん」
「よし、良い子だ。帰ってきたら、おめえも兄ちゃんと約束をするといいだ。兄ちゃんは約束は必ず守る子だ。その日にうんと遊んでもらえ」
「……うん」
その後もしばらくチチは悟天を抱き続け、すっかり落ち着きを取り戻した頃を見計らって体を離し、先に部屋に帰って眠るように言った。悟天は大人しく従ったが、一つだけ我儘を言った。
「今日、お母さんの部屋で寝てもいい?」
悟天のこの日最後の我儘を、当然チチは笑って許した。
◇
「は、疲れただ」
どさりとソファの背もたれに体を預け、チチはそのままうんと伸びをした。いま思えば悟飯が学校に通い出した頃から兆候はあったように思えるが、ついに今夜悟天の不満も爆発したらしい。とりあえず家まで爆発するような事態にはならず、我儘盛りであってもやはり自分と悟空の子だとチチは半分だけ自画自賛した。
悟飯について多くのことを悟天に言って聞かせたが、おそらく半分も理解していないだろう。あれはほとんどチチが自分に言い聞かせていた言葉だった。
(なぁ悟空さ。オラたちの悟飯ちゃん、十六歳になっただぞ。あの子は本当にあったけえ子だ。風みてえだった悟空さとは少し違う、地べたの子なんだ。なにせ名前からして「空」に対して「飯」だべ?)
目を閉じて、頭の中でチチは夫に語りかけた。今でもチチは幼少時に悟空と初めて出会った時のことを昨日のことのように思い出すことができる。そのためいま瞼の裏に思い浮かべる夫の顔も、この七年のあいだ少しも色褪せることはなかった。
(この七年間、あの子はろくに修行してねえ。悟天の世話と家の手伝いと、あと勉強。ああ、たまにピッコロさや老師様のところに遊びに行ったりもしてたな。そんで今年からは学校だ。オラが無理にそう言ったんじゃねえぞ、あの子が自分で選んだんだ)
そう言うと、瞼の裏の夫はすこし不満そうに頬を膨らませた。
(残念だか? ざまぁ見ろだ)
目を閉じたまま、チチは舌を出してやった。
(なぁ悟空さ。オラ、悟空さがなんと言おうと、あの子が戦いに向いているとは思えねえ。悟空さでも勝てなかったセルをあの子が一人で倒したって聞いても、いまこの星で、ううん、ひょっとしたら宇宙で一番あの子が強いんだとしても、やっぱり思えねえんだ)
そしてその悟飯は、いま普通の人間社会に溶け込み、そこに根を張ろうと努力している。普通の人間として、社会の一員として生きるべく、それまでの自分を変えようとしている。それが可能なことなのかどうかはチチには分からない。なにせそれは悟空は愚かチチにも、そして悟空の仲間達にすらできなかったことだからだ。
ピッコロ、ベジータは言うに及ばず、クリリンもまたカメハウスに定住して一般人とは距離をおいた暮らしをしている。比較的都会に馴染めているヤムチャですら、あるときはプロ野球でホームラン王になっていたり、またあるときはサッカーの世界大会でMVPを取っていたりなど節操なく職を転々とさせていて、ある意味ではやはり根無し草のような生活をしている。
皆一様に自分たちの異端さを理解しており、一般市民の目に自分たちがどう映るかも冷静に受け止め、互いに損ないあうことのない距離を保って暮らしている。そんな彼らを等しく尊敬しているはずの悟飯は、しかし彼らと同じ道を選ばなかった。それが正しいのか間違っているのかは、それはきっとチチはおろか神にすら決められないことだ。
(なぁ悟空さ、見守ってやってけれ。あの子が将来、なりたい自分になれて、思った通りに生きられるように。ううん、そんな大袈裟でなくてもいいだ。せめてこの高校三年間が、あの子にとって一生の宝物になるように、どうか祈ってやってけれ。組手の合間とかでもいいからさ……)
当然であるが、どれだけ心の中で呼びかけようとも返事は返らず、一抹の寂しさがほんの数ミリグラムの水分となってチチの目元をにじませた。そうして夫に就寝の挨拶を告げ、チチは「うんしょ」と身を起こし、悟天が先に眠っているであろう寝室へと自分も帰っていった。
孫家の夜は、そうして更けていく。