Ⅰ
実は高校入学以前にも、悟飯はサタンシティに何度か来たことがあった。悟飯たちの家からサタンシティまでは片道千キロの距離があるが、それでも都会と言えるだけの規模の街としては最も近くにあったため、都会でしかできない買い物などをするときに、昔から孫家の人間たちはしばしばこの街を訪れていた。
悟飯が初めてサタンシティに足を踏み入れたのは、彼が五歳のときのことだった。当時、街の名前はまだオレンジシティだった。そのときの悟飯は地球に襲来した二人のサイヤ人とほんの数日前に激闘を繰り広げたばかりであり、そして次なる戦いとして、犠牲となった仲間達を蘇らせるべく遠い宇宙の果てにあるナメック星へと旅立つことが決まっていた。その出発までの僅かな休息の間に、人類が初めて出会う異星人に対して失礼のないようにとチチが気を回し、身なりを整えるべく街へと繰り出すこととなったのだ。
町中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた舗装道路。その上を蟻の行列のように規則正しく走っていく夥しい数の車やバイク。土地一杯に敷き詰められた高層ビルやマンション。お祭りでもあるかのように、右へ左へと行き交う大勢の人々。本や図鑑などで多少は予備知識があったものの、それでも地元のパオズ山とはまるで異なる別世界のような景色に、幼い悟飯は唖然としたものだった。
そんなオレンジシティで、悟飯は評判の美容院で髪型を整えたり、いくつもの店で子供用の正装を何着も試着させられたり、ついでにチチの服や化粧品などの買い物にも付き合わされたりなど、チチに手を引かれながらあちらこちらに連れまわされた。
午前だけでもすっかりへとへとになった悟飯だったが、昼食にデパートのレストランで生まれて初めてお子様ランチを食べられたことは嬉しかった。チキンライスの上に刺さった旗をフォークでつんつんとつつきながら、悟飯はそういえば街に着いた時からずっと気になっていたことを母に尋ねた。
「ねぇ、この街の人はどうして誰も空を飛ばないの?」
皿の上のハンバーグをナイフで切り分けながら、母は答えた。
「普通の人は飛べねえだ」
チチの簡素な答えに、幼い悟飯は「ふーん」と返した。
たったそれだけのやりとりであり、さして印象に残ることも尾を引くものもなかった。当時の悟飯も、母の言葉にとりわけ何かを思うことなく、すぐにお子様ランチに関心を戻した。
それでもそのときの母の言葉を、十六歳になった今でも悟飯は覚えていた。
◇
サタンシティには意外に緑が多い。もともと東エリアはパオズ山も含めて山間部が多く、サタンシティも四方を山に囲まれた盆地に位置している。都市として考えると有利な立地とは言えず、実際、東の都が健在であったころの旧名オレンジシティは東エリアの中でも三番目か四番目くらいの小さな街でしかなかった。
それに対して東の都はエリア内でも数少ない平原部に位置しており、また王都の存在する中央エリアへの玄関口という交通の要衝でもあり、名実ともに東エリアの中でも最大の都市であったが、十年ほど前に二人のサイヤ人の襲撃を受けて壊滅してしまっている。それによる住民や企業の流入、そしてなにより近年のサタンバブルによって、他の街を押しのけ第二の東の都として急成長を遂げつつあるのがオレンジシティ改め、今で言うところのサタンシティというわけだった。
しかし山に囲まれた盆地という地理的不利までもが解消されたわけではなく、他エリアの都と比べると開拓はまだまだ進みきっておらず、すこし都心から足を伸ばすだけですぐに豊かな森や雄大な山々が姿を現す。悟飯の入居しているアパートもまた街と自然とちょうど境目辺りに位置しており、都会人の目線ではやや辺鄙なところに映るが、裏を返せば至って閑静な立地であり、山育ちの悟飯にとっても好ましい雰囲気であった。
とある土曜日の早朝、休日だというのに朝日もまだ昇りきっていない時分に、悟飯はサタンシティのアパートにやって来ていた。駐輪場からいそいそとお目当てのものを引っ張り出し、朝日の下に晒されたそれを眺めながら、悟飯は期待に目を爛々と輝かせた。
(やた。ついにきたぞ今日という日が)
悟飯が熱心に見つめるのは、一台の古ぼけたクロスバイクだった。残念ながら悟飯が自ら稼いで購入したものではない。このアパートを手に入れてからというもの張り切って複数のアルバイトを始めた悟飯だったが、まだまだ自転車を購入できるほど貯金はできておらず、いま手元にあるのもバイト先の先輩から譲ってもらったものだった。中古だけあってやや古めかしいが走行には支障はなく、またこれでも昨日悟飯が懸命に手入れをして大分綺麗にしていた。挙句、早く乗ってみたい気持ちを抑えきれず、朝も早くから朝食も取らずに実家を飛び出し、早速練習に取り掛かろうとしているという次第だった。
そういえば、と悟飯は懐から手帳を取り出し、付箋をつけている箇所を開いた。そして「やりたいことリスト」と一番上に書かれているページの、下から五番目の行に機嫌良くペンで取り消し線を引く。最近なにが楽しいといって、かねてからの望みや願いをこうして一つ一つ自分の手で叶えていくことが悟飯は最も楽しかった。あるいは神龍も、年に一度あるかないかの仕事を結構楽しんでやっているのではないか、などと愚にもつかない想像をしてしまう。
まるで子供のように胸を高鳴らせながら、悟飯は車体を手で押して公道まで運んで行った。公道に出たところで、左右を見渡して安全確認。
(右よーし、左よーし)
もともとこの通りは人も車も滅多に通らず、休日の早朝であれば尚のこと自動車がやってくる気配はなかった。そして悟飯は、ややぎこちなくだがようやくに自転車に跨った。股座に体重が伸し掛かる初めての感覚に戸惑いつつ、悟飯は意を決してそれとペダルを回してみる。そして三メートルほど進んだのち、がしゃんと大音をたててすっ転んだ。
「あいたたた」
実際はさして痛くもないのだが、なんとなく習慣でそう零しつつ悟飯は地面から起き上がった。
(やっぱり家に持って帰らなくてよかった。こんなところ、とても悟天には見せられないや)
さしもの悟飯でも、生まれて初めての自転車であれば一度や二度の失敗は避けられない。ただサイヤ人の血を引き、かつ高度な戦闘訓練を受けてきた悟飯であれば運動神経やバランス感覚については保証書付きのようなものでり、自転車の運転程度であれば一度や二度は失敗したとして三度目はどうなるか分からない。なんにせよ、さほど時間をかけずに習得できるに違いなかった。
しかし実際にその三度目を迎える前に、後方からたったかたったかと軽快な足音が聞こえ、悟飯は自転車を起こしながら後ろを振り向いた。ポリエステル系のTシャツにピッタリとしたレギンス、そして帽子にサングラスとあからさまなジョギングスタイルの女性が、なかなかのスピードで悟飯の方に向かって走ってきていた。
(へぇ)
と思わず悟飯はその人物を目で追った。まるで背筋に一本棒が通っているかのように均整のとれた走りであり、長年の趣味なのか、よほど走り込んでいるに違いなかった。
(こんな早い時間に、健康的な人だな)
あまり人のことは言えないことを思いつつ、悟飯は自転車を脇に寄せて道を譲ろうとした。するとその女性は悟飯の一メートル手前でぴたりと足を止め、ひょいとサングラスを外した。
「おはよ、悟飯くん」
サングラスの下から、非常によく見知った顔が現れた。
Ⅱ
「げ、ビーデルさん」
「なによ、げって」
形の良い眉をきりりと釣り上げて、ビーデルは首にかけていたタオルで頬を拭った。
「あんた、ここに越してたんだ。いつも通ってるところじゃない」
「ええ、まぁ。ビーデルさんこそ、まさか家からここまで走ってきたんですか?」
休日の早朝に近所を一走りするのが彼女の習慣であると悟飯も以前に小耳に挟んだことがあったが、ビーデルの家からここまでは十キロは離れているはずであり、到底近所と呼べる位置関係にはない。そんな距離を「これくらいなんてことないわよ」と本当になんてことなさそうに言うのだから、なかなかにビーデルも只者ではない。
悟飯とビーデルはクラスで二つ隣の席というやや微妙な距離感にあり、あるときまではイレーザを介してでしか会話をすることはなかったが、先日のカラオケ以来すっかり打ち解けあうことができており、こうして道端で出会っても普通に話をすることができる仲となっていた。
「で、なにしているの? まさか自転車の練習?」
「え? あ、いやまさかそんな。これから出かけようとしてたところですよ。ちょっとそこまでサイクリングでもと」
思わず無意味に見栄を張る悟飯に、ビーデルは素知らぬ顔で首を傾げた。
「でもさっき転んでなかった? あっちの遠くから見てたんだけど」
「それはー、えー、つまりそう、飛び出してきた猫を避けるために、思わず」
「ほんとうに?」
「え、ええ」
「じゃ、乗ってみせて。見ててあげる」
ビーデルの目はまるで夜天の綺羅星のごとく悪戯げに煌めいており、とうに察しがついていることは明白だった。しばし苦悩した悟飯だったがやがて観念し、にやける彼女を尻目に渋々と自転車に跨った。デンデとピッコロに祈りながら再度慎重にペダルを踏みこみ、結果、今度は転ぶまで五メートルほど進むことができた。その快挙にビーデルは遠慮なく悟飯を指さして大笑いをし、地べたに尻餅をつく悟飯は顔面で目玉焼きを作れそうな気分になった。
「笑ってごめん。ね、それちょっと貸してみて」
さんざん笑ってあとにそう言って、ビーデルは悟飯からハンドルを受け取った。ブレーキの効き具合を確認し、次いでサドルの高さを調整してから颯爽と跨る。
「なにしてんの、ほら」
そして手持ち無沙汰でいた悟飯に、視線で後ろの荷台を差し示した。乗れと言われているのだと理解するのに悟飯は数秒を要し、慌ててその通りにした。その際に気づいたが、いつもは二つに結わえられているビーデルの髪が、走るのに邪魔なためか、今は馬の尻尾のように後頭部で一つに括られていた。
荷台に座ると、ランニング直後の火照りのためかやや強くビーデルの肌の匂いがして、悟飯は非常に落ち着かない気持ちになった。到底彼女の肩なり腰なりを掴む気にはなれず、右手はサドルの裏側に指を引っ掛け、左手は荷台の後端を掴む形でなんとか上半身を支える。
「一応言っておくけど、自転車は基本的に二人乗り禁止だからね。このあたりならまぁいいけど、街中では注意すること」
「あ、はい」
「あと自転車OKのマークがない限り、必ず車道を走ること。たまに平気で歩道を爆走している奴がいるけど、交通違反だからね。罰金よ罰金」
「はい、本で読みました」
「そ。いい? 慎重に恐る恐るやるからダメなの。スピードが出た方が安定するから、ある程度思い切り踏み込むのよ。三歩分の距離を普通に歩くのと、大道芸みたく一分掛けて歩こうとするのじゃ普通に歩く方が全然楽でしょ?」
「なるほど。確かに」
体の重心管理の問題であり、武術にも通じる考え方だった。
「では早速、レッツゴー!」
ビーデルは勇んでペダルを漕ぎ出した。二人分の体重のため出だしのみやや重たげだったが、すぐにスピードが付き出し、そしてビーデルの言う通り速度が出れば出るほど車体は左右に揺らぐことなく安定しだした。
(そっか、こういう感じか)
このとき悟飯は感覚でコツを掴み取り、これ以降悟飯は至って問題なく普通に自転車に乗れるようになるのだが、当人にとってはもはや時すでに遅しであった。
閑静な住宅街の合間を、ビーデルと悟飯は時速十キロほどのスピードで共に走り抜けていった。最寄りの公園までのほんの五分ほどの道のりであったが、空を飛ぶ時や全力疾走するときとはまた違う、柔らかく風を裂いていくような感触と、ゆったりと流れていく景色がなんとも心地よかった。
(こりゃいいや)
電車の車窓からサタンシティの街並みをのんびりと眺める時間も悪くはないが、早朝の澄んだ空気の中をこうして駆け抜けていく時間もまた好ましく思え、ビーデルの運転に揺られながら悟飯は真剣に自転車通学に切り替えることを検討した。
公園に着いたところで自転車を降り、ビーデルは説教臭く腰に手を当てて悟飯をじろりと睨んだ。
「いい? 誰もが一度は経験することなんだから、練習で転ぶくらい恥ずかしがることなんてないわ。今度からはここで練習しなさい。あそこが車の少ないとこなのは知ってるけど、それでもやっぱり車道は危険よ」
「は、はい。わざわざすみません」
「よろしい。じゃぁランニングに戻る前に、もうちょっとだけ手本を見せてあげる」
そうしてビーデルは妙に嬉しそうに再度ハンドルを引ったくり、今度は一人乗りで公園中を風のように走り回っていった。すっかり愛車を取り上げられた悟飯は、やや釈然としない気持ちで見物していたが、やおらビーデルがひょいと前輪を持ち上げ後輪だけで走り始めると目を丸くして驚き、さらにその状態でぴょんぴょんとカンガルーのように自転車ごとジャンプをしだしたときには、「うそぉ」と声まで挙げた。
ウィリー走行、ウィリージャンプ、そしてジャックナイフターンにワンエイティと、ビーデルは次々に曲芸じみた技を披露していった。その鮮やかな技の冴えと、ひとつ技を成功させるたびに弾ける彼女の笑顔に、悟飯はすっかり見入ってしまい、そしてビーデルが満足しきったような顔で戻ってきたときには考える前に手を動かし、拍手で彼女を出迎えた。「以前、ちょっとハマってたの」とビーデルは少し照れたように言った。
「長く借りちゃってごめんなさい。久しぶりでちょっとはしゃいじゃった」
「とんでもないです。自転車であんな動きができるなんて知りませんでした。いやーすごかったなぁ」
「ふふん。そりゃもう毎日のように練習してたからね。だからって威張るわけじゃないけど、真似するのはもっと慣れてからにしてね。本気で怪我するから」
「実体験ですか? ひょっとして」
「そりゃもういっときは全身傷だらけよ」
いったい何時ごろのことかは分からないが、昔からさぞ腕白な子だったんだろうな、と悟飯は苦笑いを浮かべた。
「大丈夫ですよ。僕は普通に安全運転で行きますから」
「それがいいわ。じゃ、わたしそろそろ行くね。朝ご飯に遅れちゃうといけないから」
「家までまた走るんですか? 気をつけてくださいね」
「お気遣いなく。じゃ、また学校で。バーイ」
そういってビーデルは、靴に羽でもついているかのように軽やかに走り去っていった。「強引な人だなぁ」とその後ろ姿を見送りながら悟飯は正直思ったものだが、「でも本当に優しい人だな」ともまた思った。都会の女の子とはそういうものなのか、とイレーザの顔も思い浮かべながら悟飯は仮説を立てるも、チチやブルマの存在がすぐに反証となった。
(都会のというより、女の人はみんなそうなのかもしれないな)
また一つ、世の中を勉強した悟飯だった。
Ⅲ
ようやく自分の下に戻ってきた自転車に改めて跨り直し、悟飯は目を閉じた。そしてさきほどのビーデルの美技をまぶたの裏に思い描いていき、その動作の一つ一つをおさらいした。
(自転車であんなことができるなんて知らなかったな。女の子があれだけできるんだ。せっかくだし僕も一つくらい……)
悟飯にしては珍しく負けん気を喚起されており、ビーデルにはああ言ったものの、少しばかり挑戦してみたい気になっていた。いま悟飯がいるのは子供用の児童公園であるが、大多数の子供はまだ起きてもいない時分なので迷惑にもなることもない。
悟飯は張り切って練習を開始し、そして結果だけを言えばおよそ十分後にはビーデルが見せてくれた技の数々をすっかり自分のものにすることができた。無論何度かは失敗したが、運転同様コツさえ掴めば彼にとってはさほど難しいことではなかった。
しかも少し気や舞空術を活用すればより派手な動きも簡単にできてしまうことに気づき、興が乗った悟飯は次にオリジナル技の開発に勤しみ出した。ウィリー状態でスケート選手のようにくるくる回ったり、そのまま宙返りをしてみたり、さらにはハンドルを持ったまま片手逆立ちをし、その状態でさらに後輪を浮かせたまま公園を一周したり。
(はは、軽い軽い)
悟飯は嬉々として技を磨いていき、そのあまりにも順調な上達具合に、今度学校で披露してみようかとまで考え出した。皆さぞ驚くことだろう。イレーザなどは「すごい、すごい」と嬉しくなるくらいはしゃいでくれそうだ。そしてきっとビーデルも……。
まるで空気が抜けたかのように、逆立ちの体を支えていた右腕から力を消え失せ、バランスを崩した悟飯は自転車諸共盛大に地面に倒れ込んだ。変な落ち方をしたせいでペダルの角に頭をぶつけてしまい、常人であればビーデルが忠告したとおり出血沙汰の大怪我をしていただろう。しかし自転車の上に倒れ伏す悟飯は、やはりろくに痛みも無い様子で平然としており、やがてのそのそと身を起こした。
つい今の今まで友人からの喝采を浴びる想像に浮ついていた心が、突然停電を起こしたかのように急激に冷めきっていた。
想像の中のビーデルは笑ってくれなかった。悟飯の技に、確かに驚きはした。しかし笑ってはくれなかった。彼女の声が胸の内で木霊する。「いっときハマってた」「毎日のように練習した」「全身傷だらけよ」。
さきほどペダルの当たった額のあたりを悟飯はさすってみた。血どころか傷ひとつ付いていない。思えばこの七年間、悟飯は一度たりとも怪我をしたことがない。彼の体は特別製だ。たとえ銃で撃たれようが、恐竜に噛みつかれようが傷一つつかない。そして豹よりも速く走り、隼よりも速く飛ぶ。才能豊かな少女が、全身を傷だらけにして覚えた技も、この体の前では児戯にすぎなかった。
優越感が全くないと言えば嘘になるが、しかし悟飯はとても喜ぶ気にはなれなかった。親身になって自分を指導してくれたビーデルの優しさ、技を決めたときのあの花開くような笑顔、そしてそれらによって悟飯の胸にさきほどまで確かに生じていた暖かな気持ち。そういったもの全てが、ひどく台無しになってしまったような気がしていた。他ならぬ、自らの手でそうしてしまったような気がしていた。
底なしの沼に陥りかける思考を断ち切り、悟飯はその後すぐに練習を切り上げ、普通に自転車を漕いでアパートへと帰っていった。さっさと自転車を駐輪場にしまい、そして誰かと同じく朝食に遅れぬよう筋斗雲を使って急ぎ家へと舞い戻る。
(早く帰ろう。早く……)
何かから逃れるように悟飯は筋斗雲を急かした。
結局、悟飯が今日開発した技を誰かに披露することはその後一度もなかった。
◇
「そういえば来週はまたバレーだったよな」
「ああ。いやー今思い出しても泣けるな、あのときの散々な試合は」
学内食堂での昼食の席で、非常に嫌な話題を出されて悟飯は思わず顔を顰めた。そんな悟飯の様子を面白がって、席を共にしているシャプナーとノートンはますます好き放題にあれこれと言い合った。
ことは先週の体育の授業にまで遡り、その日悟飯たちのクラスでバレーボールの授業が行われた。その日は一チームにつき男三人、女二人という編成でチーム分けが行われ、悟飯はイレーザ、ビーデルと同じチームになった。運動を得意としない、とまではいかずともあまり好まないイレーザと、得意としないと周囲より認識されている悟飯の他は、ビーデルは言うに及ばず、あとの男二人も運動部に所属している生徒であり、真相はともかくとしてぱっと見にはそれなりにバランスの取れたチームだった。
そうして行われた試合の最中、祈り叶わず悟飯は開始三分で絶好のスパイクチャンスを得てしまった。野球のときと同様、あからさまに手を抜くことに気が引けた悟飯は、やむなく上空のボール目掛けて飛び上がった。
この手の授業ももう一度や二度ではないので、まさかうっかり八メートルも飛ぶようなミスはしない。しかしながらイレーザの声援に押されてか、スパイクについてはすこしばかり腕を強く振り過ぎてしまい、ボールは見事に爆発、体育館内にものすごい破裂音を響き渡らせてバラバラになった。幸い使い古しのボールであったので経年劣化による事故ということで話は片付いてくれたが、すっかり恐れを為してしまった悟飯は以降サーブやレシーブもろくにこなせなくなり、イレーザを除くチームメイトたちから大顰蹙を買った。
そんな一目瞭然な弱点を露骨に狙い撃ちにするのはさすがに躊躇われたのか、相手チームはそれなりにボールを散らしてくれたが、それでもいざというときは力一杯期待たっぷりに悟飯を狙い、試合はやはり一方的なものとなった。
ビーデルが懸命にフォローを試みたものの、結果としてその試合は惨敗。軽く笑って済ますイレーザに、悔しさのあまり物凄い目つきで睨んでくるビーデルと、女性陣たちの見事なまでの好対照な表情が深く悟飯の印象に残った。
「いやあのときはもう悟飯が気の毒で気の毒で、とても見てられなかったぜ」
「なにを抜け抜けと。相手チームはお前のところだったろ」
「勝負は勝負だ。おまけにビーデルのやつもいたからな。手加減なんざできるか」
「次の体育もまたバレーだろ? 悟飯もサーブくらいはできるよう少しは練習しておいたほうがいいんじゃないか?」
「一応練習ならもうしたよ。とりあえず、なんとか普通に相手のコートに入れられるようにはなれたかな」
悟飯は頬をかきながら答えた。これは見栄ではなく、試合に負けたその日の内に悟飯は街でボールを一つ購入し、実家の裏庭で実際に猛練習を行ったのである。といってもいきなりボールを使っての練習はお金の無駄になる恐れが大きかったため、悟天にも協力してもらってボールサイズの岩を大量に集め、悟飯はまずそれらを使って黙々とサーブとスパイクの練習をした。ときおり悟天に木の上から岩を投げてもらい、レシーブの方も磨いた。
十個ほど岩を粉砕した頃から徐々に加減が分かり出し、次に得物をボールに変えて再度同じ練習を繰り返した。そうしておよそ夜の八時頃には悟飯はほどよく手加減をしたほどよい威力のサーブとスパイクを身につけることができ、その真面目なんだか不真面目なんだか分からない奇妙な特訓に、手伝いをしていた悟天は不思議そうに首を傾げたものだった。
「そういうわけだから、次からはなんとかビーデルさんの機嫌を損ねないようにするよ」
「ははは、ありゃ怒らせるとほんと怖いからな」
「と、実体験を語るシャプナーくんであった」
「うるせ」
「以前になにかあったの?」
尋ねる悟飯に、ノートンが可笑しそうに説明した。
なんでもまだシャプナーたちがオレンジスターに入学して間もない頃に、ビーデルとシャプナーの二人がボクシングの試合を行ったことがあるのだという。
当時、今に輪をかけて鼻持ちならなかったシャプナーと勝ち気なビーデルは非常に折り合いが悪く、クラス内でもことあるごとに衝突していたらしい。といってもノートンが言うには大体はシャプナーの方に非があったようで、国民的英雄ミスターサタンの娘であり、相応に家も裕福で警察にも顔が利いたりなど、なにかと非凡なビーデルに対し過度に揶揄したり突っかかったりと酷い態度を取っていたらしい。
ある日、ついに堪忍袋の緒を切ったビーデルは、リングで決着を付けようとシャプナーに挑戦状を叩きつけた。ルールはシャプナーに合わせてボクシングに則るものとし、すでに期待の新人としてクラブでも鳴らしていたシャプナーは当然鼻で笑ったものだが、口達者なビーデルの機関銃めいた挑発にいよいよ彼も我慢できなくなり、挑戦を承諾。女であるから手加減するのは当然として、その上で多少は痛い目に合わせてやろうとシャプナーは邪気たっぷりにリングへと上がり、そしてものの見事に3ラウンドKOの返り討ちにあった。
まさかの結果に当然シャプナーは愕然とし、大いに恥じ入り、ともすればビーデルに対して少なからず逆恨みめいた怒りも覚えたが、彼もまた勝負の世界に身を置く人間である。最後には潔く力量差を認め、これまでのビーデルに対する態度を詫び、それによりビーデルもまた矛を収めた。1ラウンドKOを狙って繰り出した彼女の猛攻を彼が見事にこらえきり、そして形成不利になろうとも勝負を投げたり反則を行ったりもせず、最後まで正々堂々ボクシングのルールで戦ったことから、彼女の方も少なからずシャプナーを見直していた。双方の態度は軟化し、以降二人の間柄は劇的に改善されたという。
しかしそれは教室内に限っての話であり、シャプナーは現状の実力差は認めつつも内心ビーデルを激しくライバル視するようになり、体育の授業や放課後のレクリエーションなどで彼女と競う機会を得た際には、並々ならぬ負けん気を燃やすようになったのだという。
「ま、そういうわけでお前が奴のチームにいる以上、俺は手を抜かんからな。悪いが次も勝たせてもらうから、恨まないでくれよ」
「恨むなんてまさか。試合なんだから遠慮なくやってくれていいよ。でも、なんかそういうのっていいな。いがみ合っていたライバル同士が、お互いに競い合っていくなかで次第に友達になってく。本当に、とってもいい話だと思う。なんだろ、すごく羨ましいや」
真顔でしみじみとそんなことを言う悟飯に、シャプナーとノートンは困ったように顔を見合わせ、表情だけで語り合った。
(だんだん慣れてきたが、俺やっぱりこいつのこういうところ苦手だ)
(分かる。なんかこっちが恥ずかしくなってくるんだよな。良い奴なんだけど)
そんな二人の様子には気づかず、悟飯は急いでサンドイッチの残りを胃袋にしまい始めた。なにせサンドイッチ一人前では到底悟飯の腹は満たせず、このあと学校の購買や近所のカフェなどを梯子しなくてはならない。我ながら忙しない食生活に、手っ取り早く腹を満たせるよういっそカリン様にお願いして仙豆を一月分ほど分けてもらおうかと真剣に検討してしまう悟飯だった。
Ⅳ
「孫悟飯くん。至急、職員室まで来てください」
全ての授業が終わり、帰り支度を整えているときにそんな放送が流れてきて、悟飯は思わずカバンに教科書をしまう手を止め、きょとんとしてしまった。
「おっと。何をやらかしたんだ、優等生」
「覗きか? カンニングか? 分かった、校舎裏でタバコでも吸ってたんだろ」
「バカ、あんたじゃあるまいし」
模範生の悟飯が教師から呼び出しを受けたことで、前の席のボルぺを初めとする近くの級友たちが一斉に冷やかしを浴びせてきた。クラス内でも比較的目立つビーデルやシャプナーらと仲良くなったことが切っ掛けになり、近頃の悟飯は彼ら以外のクラスメートとも加速度的に打ち解けていっていた。
「今のは体育のマッスル先生だったわね」
「あちゃぁ、悟飯くんの苦手分野。さては逆上がりの居残り練習かな」
ビーデルやイレーザまで調子を合わせてきたので、悟飯は憮然として言い返した。
「好きなこと言わないでください。逆上がりくらい僕だってできます」
実際はやったことはないのだが、多分できるだろうと悟飯は考えていた。実際、逆上がりどころか最高難度の技であっても彼には朝飯前だろう。
ともあれ呼び出しを受けたことは事実であり、悟飯は早足で職員室に向かった。職員室を見渡すと、件の体育教師はすぐに見つかった。四十代ほどの筋骨隆々とした逞しい体格の男性であり、短く刈られた髪型とたくわえられた口髭も相まっていかめしい印象を人に与えがちであるが、口を開けば非常に紳士然としている穏和な人物であり、生徒からの人気も高い。
マッスルは悟飯に気づくとすぐに席を立ち、悟飯を面談室へと案内した。果たしてマッスルの用件は、確かに説教には違いなかったがイレーザの予想とは少し違った。
団体球技の他にも、悟飯たちは授業で何度か徒競走を行っており、百メートル走のタイム計測なども実施していた。そういうときにもクラス内で目立つのはだいたいビーデルかシャプナーであり、あまり悟飯に注目が集まることはなかったが、さすが教師の立場だけあってマッスルは別の視点から悟飯に目をつけていた。
マッスルは悟飯の記録を一覧にした表を見せた。どのタイムも平凡以下には収まってはいるものの、不自然に波があることは誰が見ても一目で気づくだろう。加えてタイムだけでなく、悟飯の走る時の姿勢やフォームもまたその時々でバラバラであることにもマッスルは気付いていた。
「手を抜いているだろう」
マッスルの端的な指摘が刃物となって悟飯の胸に差し込まれた。
「私も長年やっているからね。こういうタイムを見るのも初めてではないんだ。やっぱり運動嫌い、走るのを嫌う子が時々こういう結果を出す。できるだけ手を抜いて、かつそれがバレないよう大袈裟なフォームで走る。だからこういうことになる」
悟飯は到底返す言葉を持てず、俯いて肩を縮こまらせることしかできなかった。幸い望まぬ方向に怪しまれているわけではなさそうだったが、それでもマッスルの言葉は見事に悟飯の急所を射抜いていた。
「徒競走はね、ただタイムを競うためのものではないんだ。生徒たちの身体能力を数値化して、発育具合を確認するためのものでもあるし、競技そのものを通してフェアプレー精神、要は『正しく競う』ということを学ぶためのものでもあるんだ。もちろんチームワークもそうだ。集団が正しく機能するためには、その集団の掲げる目的に対して一人一人が誠実である必要があるからね。それを生徒に学んでもらうために体育の授業がある」
見た目に反して至って柔和に、そして真摯に語られるマッスルの教えに、悟飯は立場も忘れて深く感じ入った。
「足が遅いことを叱るつもりはない。人にはどうしたって得意・不得意があるからね。ビーデルやシャプナーと同じタイムで走れるようになる必要なんてないよ。ただ、真面目に走りなさい。皆と同じ能力は持たなくとも、同じ真剣さを持ちなさい。それがチームワークであり、なにより人の社会性というものなんだ。遅かろうが速かろうが関係ない。いいかね?」
暖かく微笑むマッスルに、悟飯はますます恥じ入るばかりだった。
「はい必ず。必ずそうします」
悟飯は震える声で答えた。そう答えざるを得なかった。そして最後に、「本当に申し訳ありませんでした」とありったけの誠意を込めて深々と頭を下げた。
◇
そうして悟飯はその日のアルバイトと宿題を終えた後、再び自宅の庭で特訓を始めた。百メートル走における高校生の平均タイムはおよそ十二秒。対して悟飯が普通に走ると約二秒。よって今回の訓練目標は、「通常通りのフォームで、通常の六分の一の速度で走る走法を身につける」ということになる。常人の尺度に合わせるなら、「短距離走のフォームでジョギング程度の速度で走る」ということになるだろうか。
奇しくもこれは先日の自転車講習の際にビーデルが出した例えそのままであり、妙な因果を感じつつ悟飯は早速ストップウォッチを片手に練習に取り掛かった。しかし今回ばかりは悟飯といえど習得まで一朝一夕とはいかなかった。
一説に、走力とは瞬発力であると言われる。人間が走る時、肝となるのは跳躍、つまり地面を蹴る力を頼りに体重を手放す瞬間である。悟飯の場合、その地面を蹴る力がまずもって尋常でないため、とてつもない推進力を伴った跳躍を行なってしまい、超人的なスピードを否応なく生み出してしまうのである。
では地面を蹴る後ろ足の力を抑えればいいのか、というと間違いではないのだが単純にはいかない。露骨に力を抜けば、今度はフォームが崩れる。ジョギングスタイルでいくら遅く走っても、この場合は意味がない。あくまで見かけ上は短距離走として全力で走る格好で、かつ力一杯手加減して走るやりかたを身につけなくてはならなかった。「黒い白馬」「正義の悪漢」「生まれたばかりのお婆さん」、そんな言葉遊びを脳裏に次々と思い浮かべながら、悟飯はひたすら練習に没頭した。
常に自らの向上を追求していた過去幾多の修行と異なり、精神的にも肉体的にも後ろ向き極まりない此度の訓練はひどく苦痛だったが、それでも悟飯は熱心に励んだ。今も昔も真面目な少年であったが、このときばかりはそれだけが理由ではない。
悟飯は苦しみたかった。内容を問わず、ただ頑張りたかった。「同じ能力を持たずとも、同じ真剣さを」というマッスルの言葉が悟飯の耳と心にガムのようにこびりついていた。どれほど後ろ向きな、ともすれば間違った訓練であろうと、とにかく悟飯は努力の足跡を残したかった。
悟飯は思う。僕はみんなと色んなところが違う。そしてそれは僕の方がおかしいのであって、みんなの方が普通なんだ。僕だけがズルをしている。サイヤ人の血を、父さんやピッコロさんからの教えを僕だけが受けているから、こんなにもみんなと違うようになってしまった。
僕だけが特別なんだ。僕だけがおかしいんだ。
だから頑張らないと。みんなと同じになれるように頑張らないと。
一人の少年の身の内で、優越感と劣等感が複雑怪奇に絡まり合い、軋みを上げていた。身に巣食う何かに苦しみ、そこから逃れるように悟飯はひたすら走り続けた。
兄に遊んでもらいたく、こっそりと付いてきていた悟天は、そんな悟飯の姿を木の上からじっと見下ろしていた。七歳になったばかりの悟天には、兄の歪んだ苦悩など窺い知れない。しかし子供であればこそ、兄がいまとても苦しんでいることだけは敏感に察知した。
悟天は身を翻らせて、木々の枝を飛び交いながら家に戻った。夕食の後片付けをする母の裾を引っ張り、必死に助けを求める。
「お母さん。兄ちゃん変だよ、おかしなことばっかしてさ。稽古って強くなるためのもので、もっと楽しいものでしょ? なのに兄ちゃん、おかしいんだ。まるで必死に弱くなろうとしてるみたいで」
「そうする必要があると考えてやってんだべ。街を知らねえオラ達には何も言えねえ。黙って見ててやるだ」
突き放すように言うチチだが、しばらくして悟飯が帰ってくると、そのあまりのくたびれように悲しげに表情を歪ませ、悟飯にソファーにうつ伏せになるよう強く言った。
「あんま無理しねえでけろ。バレたらバレたでええでねえか。それで地球が滅ぶわけでもなし」
「おいっちに、おいっちに」
手ずから悟飯の足を揉んでやり、ついでに悟天には兄の背中の上で足踏みさせながら、チチは努めて軽く言った。
「そうもいかないよ……」
「なんでだ? 世界記録でもなんでも、いっそ思い切りぶち抜いてやればいいだ。そうだ、今度復活するっていう天下一武道会に出てみるっていうのはどうだ? うちの悟飯ちゃんにかかれば、ミスターサタンなんてデコピン一発で場外負けだべ。賞金が出れば家計も助かるしよ」
今の世のなか腕っ節より勉強だ、と昔あれほど口うるさく言っていたチチとは思えぬ言い草に、悟飯は自分を不甲斐なく思った。そんなに今の自分は疲れているように見えるだろうか。
「なぁ悟飯ちゃん。こげなことは言いたくねえが、世の中無理なものは無理ってもんもあるだ。あんま思い詰めねえでけろ、悟天も心配してるしよ。オラ、おめえが辛い思いをするくらいなら、学校途中でやめたって何も言わねえだよ」
そんなチチの言葉に、このときの悟飯は「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。
結局、前回の「ほどよい威力のサーブ」に比べて今回の課題にはかなり手こずり、休憩後にも悟飯は練習に取り組み続けた。そして体育教師を納得させられるレベルで身につけるまでには、これより二日を要した。
Ⅴ
修行の疲れもあってか、その翌日の学校では一時間目から悟飯は多分に集中力を欠いていた。科目は数学で二次関数についてであったが、数式も教師の解説もまるで頭に入って来ず、何度気を取り直してもすぐに目が虚になっていき、幾度となく授業の進み具合を見失った。
幸い予習を行っていたので理解度については問題なく、授業が後半に差し掛かったあたりで悟飯はすっかり観念し、きっと今日は脳活動のバイオリズムが低調期にあるのだろうと疑似科学的な言い訳をしつつ、いっそ思う存分ぼんやりすることにした。
そうして悟飯が意識を中空に遊ばせていると、右隣の席からか細い腕がにょきっと伸びてきて、悟飯のノートの上で何やらもぞもぞし、そして引っ込んでいった。
――ハロー♪ 元気?
ノートの片隅に丸っこい、しかし左手で書かれたためか少し崩れた文字でそう書かれていた。悟飯はちらりと教師の方を確認してから、この突然現れた文字に対して返事をしたためた。
――はい、元気です。
書いた後、ノートを少し右にずらした。
――そう? なんか暗いよ〜?(> <)
――今日ちょっと眠いんです。いい天気だから。
――えーホントぉ? なーんか落ち込んでなーい?<●> <●>
謎の交信相手からのメッセージは、文章だけでなく簡素なイラストなり記号なりが必ず添えられており、僅かな画数でよくもここまで豊かに感情表現できるものだと悟飯は真面目に感心した。
見習って、悟飯も挑戦してみた。
――全然!(●^□^●)
ぶふっと吹き出す音が隣から聞こえてきたので、これ以降は控えることにした。
――ね、悟飯くん駅前の『Aileen』でバイト始めたんだよね???
『Aileen』とはサタンシティの駅前にある家族向けレストランの名前である。母の薫陶により台所仕事には少し自信があったので、試しに応募したところすぐさま採用が決まったのだ。なにせ悟天がもっと小さかった頃は十人前以上もの調理と後片付けを毎日のようにやっていた悟飯であるから、その技術と経験は店からも中々に重宝されていた。
――悟飯くん、料理できるんだー∑(=゚ω゚=;)
――母から少し習いました。中華が得意です。
――すご〜い!! 食べてみたーい☆
言われて、もとい書かれて悟飯は少し困った。確かに料理には自信はあるが、なにせバイトを始めてまだ一月も経っておらず、まだまだ店では調理は任せられていない。やむなく悟飯は正直にその旨を書いたが、すると謎の交信相手はこう言った。
――別にお店じゃなくてもいいよ〜(> <)
簡潔な返事だったが、やや曖昧でもあった。だがとりあえず意は汲み取れたので、悟飯はこう書いた。
――何時でも家に遊びに来てください。腕によりをかけてご馳走します。
これに対する返事は、すこし妙な間があった。あるところまではすぐに書かれたのだが、謎の交信相手はその後何かに迷うようにペン先を中空でふらつかせ、やや間を置いてから何事かを文末に書き足した。
ノートには次のように書かれていた。
――じゃぁ今度行くね♡ みんなで!
楽しみが一つできた。悟飯の口元がほんの少し笑みの形に崩れ、そしてその感覚が随分と久しぶりに思えたことに愕然とした。今朝、家を出るとき自分は母に対して笑えていただろうか。悟天に対して笑えていただろうか。そして級友たちには……。
いささかルール違反のような気もしたが、悟飯は思わず隣人の様子を伺った。その隣人は悟飯の視線に気づくと、にこりと笑って可愛らしくウィンクをした。不覚にも悟飯は、涙腺に熱を感じた。旅人が道端の花に救いを感じるのは、きっとこういうときなのだ。
◇
放課後、アパートへ向かう帰り道を一人悟飯はのんびりと歩いていた。駅まではイレーザやシャプナーらと一緒だったが、電車を使って通学しているのは悟飯だけなので、駅以降は一人になる。そのうち自転車を通学に使おうと思っているが、ビーデルの手前しばし日を空けることにしていた。
三人目の師、と悟飯が勝手に思い始めている恩人の気遣いにより、一時間目以降の悟飯は少し元気を取り戻すことができていた。思えばこれまで自宅学習が主だったため、ああいう人の目を盗んだコミュニケーションも初めての経験であり、ほどよいスリルと、なにより文字を通して一人の少女の優しさに触れることで、悟飯の心の中の雲は厚みを減らした。
しかし、煩悶の源が無くなったわけではない。
自分が普通ではないことについて、これまで悟飯は深く考えたことがなかった。空を飛べるのも、気を操るのも、百メートル走で世界記録を破るのも四歳くらいの頃から行えたことであり、当人にとっては「普通ではない」という認識自体が薄く、逆に誇らしいと思ったことすらなかった。ましてや高校に入学するまでの十六年間、悟飯の近くにいた人々は皆揃って悟飯と同じく普通ではなかったのだから、尚更価値観の相違は根深かった。
しかしいざ普通の人々に混じって生活してみると、違いはあまりにも歴然だった。所々に差異があり、事あるごとに不一致があり、それらを一つ見つけるたびにすこしずつ悟飯の心に重しが足されていくようだった。周囲の人々と同じようにできない事柄と出くわすたびに「お前はおかしい」、「お前は異常だ」と糾弾されている気分になるのだ。
悟飯は足を止めた。駅からアパートまでの十五分程度の道のりがいやに遠く感じられた。体力は有り余っているはずなのに、なぜか息が切れる。もう歩きたくない。歩けない。
悟飯は周囲を見回して、筋斗雲を呼べるところを探した。しかしまだ駅にほど近いため、人目につかない場所はなかなか見当たらなかった。悟飯はなぜだか無性に腹立たしくなり、彼には本当に珍しいことに不機嫌さをあらわにしながら手近な裏路地へと足早に入っていった。前後に人影がないことを確認して軽く地面を蹴り、すると一瞬後にはもう悟飯は五階建てのビルの屋上にいた。
「筋斗雲」
屋上に誰もいないことを確認した上で、念のため声を抑えて呼びかける。何の問題もなく、筋斗雲は来てくれた。竹馬の友とすら言える黄金色の雲に飛び乗り、悟飯は全速力での上昇を命じた。高く高く、雲を突き抜けるまで高く、誰の目も及ばぬところまで。
「ああもう疲れたぁぁー!」
比喩でなしに雲よりも高くまで辿り着いたあと、悟飯は思い切り伸びをしながら不必要なまでに大きな声で叫んだ。
「肩が凝る! なんっっかイライラする! 思い切り走りたい! んがぁー!」
そうして子供のように泣き言を言う。勿論もう悟飯は子供ではない。家に帰ればよく母を助け、九歳下の弟の面倒もしっかりと見ることだろう。そして明日の授業の準備をし、宿題があれば残さず片付けるに違いない。彼は真面目な少年だった。しかしだからこそ、時にこういう時間を必要としていた。
「なんだなんだ皆して! 強くて悪いか! どうしてみんなそんな目で見るんだ! 僕がいったい何をしたっていうんだ!」
実際のところ、悟飯に対して「悪い」と言った者など一人もいないし「そんな目」で見た者もいない。少なくとも今日まで悟飯の擬態はうまく機能しており、校内で彼の異常性に気付いている者はまだ一人もいない。唯一例外を挙げるとすれば、それは他ならぬ悟飯自身だった。
悟飯の正体を悟飯だけが知っている。自分の経歴や能力について、入学以来幾度となく悟飯は級友たちに嘘を付いてきたし、これからも同様に嘘八百を並べていくだろう。しかし人間は、いくら周囲を騙そうと唯一自分だけは欺くことはできない。孫悟飯が、善人面を浮かべながらそのじつ友人に対して何一つ真実を明かさぬ詐欺師である事実から、他ならぬ悟飯自身だけは目を逸らすことができない。
「いい気になっているだろ」
そんな声を悟飯は聞いた。
「出来ることを出来ないふりして、劣っているように見せかけて、心の中で笑っているだろ。本当は自分こそが遥かに優れているのに、とせせら笑っているだろ」
あまりに心外な言葉に、しかし悟飯は耳を塞ぐことも怒ることもしなかった。たとえ塞いだところでその声が消えることはないと分かっていた。なぜならそれは悟飯の内側から聞こえてくる悟飯自身の声だったからだ。
自分の力を誇示したい、という気持ちが殊更あるわけではない。きっとない。ないはずだ。それでも、出来ることをひたすら出来ないふりして日々を過ごすことは辛かった。見えない鎖に四六時中縛られているようで苦しかった。そしてそんな誰に頼まれているわけでもない独りよがりの自縄自縛に、こうして一人で勝手に苦悩することもまた、ひどく傲慢に思えてならなかった。
イレーザやビーデルの優しさが辛かった。シャプナーやノートンのからかうような笑顔を直視できなかった。ビーデルとシャプナーが日々繰り広げる健全で、前向きで、建設的な切磋琢磨が眩しかった。クラスメートたち全員の明るく正しい、そして何よりごく普通の人間関係と社会性が羨ましかった。そしてただ一人そこに溶け込むことのできない自分が、悟飯は、ただひたすら哀しかった。
父たちの気持ちがようやく分かった。彼らが一般社会に全く関わろうとしなかった理由を、いまようやくに悟飯は、己の心と体で理解した。きっと誰もが、こうなると分かっていたのだ。
「普通になりたい!」
耐えかねて、悟飯は叫んだ。地平線に沈みゆく太陽に向け、心の底から叫んだ。地上全てを暖かく照らすあの光に、悟飯は、たとえ何十年経とうと忘れ得ぬ一人の人間の面影を重ねていた。
「普通になりたい。なりたいよ、お父さん! うぅぁぁあああっ!」
想いが爆発し、気が弾ける。皮膚という皮膚、細胞という細胞から一斉に生命エネルギーが吹き出し、黄金の炎が燃え盛る。
大気が震え、沸騰し、紫電となって弾ける。地球が悲鳴を挙げんばかりのその力。海を割り、山を砕き、星々をも容易く撃ち落とす無尽蔵の力。かつて巨悪を討ち滅ぼし、この惑星の未来を救った空前絶後の力。いまはもう何の使い道もない、行き場を失い邪魔なだけとなったこの力を、悟飯は文字通り気が収まるまで渾身の力で爆発させ続けた。
誰の目も届かぬ雲の彼方、陽が落ちて茜色に染まる空の中心で、悟飯は一人孤独に、もう一つの太陽のごとく輝き続けた。