孫悟飯、その青春   作:マナティ

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第四章 地上最強の不良少年

 

 

 

   Ⅰ

 

 

 

 放課後、途中まで帰り道を同じくしていた級友たちと別れた後、とある少女二人組はサタンシティの繁華街にあるデパートでショッピングに興じていた。といっても実態としては良く言えばウィンドウショッピング、やや意地悪く言えば存分に冷やかしを楽しんでいるというが正確なところだろうか。二人の少女はいずれも比較的裕福な家庭の生まれであり、親からもそれなりの小遣いを貰ってはいるのだが、さすがにデパートで好き放題に買い物できるほどではない。

 

 服、カバン、アクセサリーといったものは、高校生くらいの少女が関心を抱く対象としては極めて最大公約数的なカテゴリーだが、すくなくとも彼女らにとっては少し事情が異なるらしい。一方の金髪をショートにし、やや挑発的なファッションに身を包んだ少女は、先ほど挙げた品々が展示されているショーウィンドウに目を輝かせて見入っていたが、その隣に立つもう一方の、こちらは黒髪を二つに結わえ、動きやすさ重視の至ってシンプルな服装をしている少女の方はろくに見向きもせず、退屈そうに欠伸をこらえていた。

 

 ふと、黒髪の娘の方が腕時計を見て時間を確認した。

 

「はい、十五分経過。次わったしー」

 

「えー、やーよ。どうせまた新しいトレーニング器具とか見に行く気でしょ」

 

「ハズレ。今日覗きたいのはバイクショップ」

 

「あら、またハマり出したの?」

 

「ちょっと昔の血が騒ぐことがあってね。ほらこっち」

 

 黒髪の少女ビーデルは、イレーザの腕を取ってぐいぐいとデパートへのエレベーター区画へと引っ張っていった。

 

「あーん、もうちょっと見てたかったなぁ」

 

「あんた同じようなもの沢山持ってるじゃない」

 

「違うんだなぁ、ビーデル分かってなーい」

 

「悪かったわね。でもイレーザのお目当てさんだってそういうのは分かんないじゃない?」

 

「え? うーん、まぁ、そうかも」

 

 新作のトップス、スカート、ネックレスにイヤリング。どれを見るときにもイレーザはそれを身につけた時の自分と、そんな自分を見たときの一人の少年の反応を思い浮かべていたが、たとえ想像の中であってもその人物の反応は残念ながらバリエーション豊かとはいかなかった。せいぜい「わぁ、綺麗ですね」だの、「よく似合ってますね」だのと型通りのことを言うくらいで、それ以上の何か気の利いた台詞を口にするところなど、それこそイレーザには想像がつかなかった。

 

「バッカみたい。はしゃいじゃってさ。あんた最近変よ」

 

「やっぱりビーデルもそう思う? そう、変よね。やっぱり変だよね、あたし」

 

 逆に不安そうに言い募ってくるイレーザに、ビーデルはますます呆れ返ったものだが、そう確認したくなるくらいここのところの自分がひどく浮き足立っていることをイレーザは自覚していた。とにかくうきうきし、そわそわしている。学校が楽しくて仕方がない。反面、休日が退屈で仕方がない。

 

(不思議。どうしてだろ? 悟飯くんを見てると、なにかしてあげたくなる。してあげなくちゃって気になって、何でも出来ちゃいそうになる。本当に不思議)

 

 初めて出会ったときから、イレーザは自分でもやや過剰に思うほど孫悟飯に対して親身に接し、その姿勢は今でも変わっていない。理由など本人にも分からない。ただそうしたいからそうしている。

 

 なぜかは分からないが悟飯を見ていると、それが至って普通にしているときであっても、まるで小さな子供が深い森の中を一人で歩いているかのようにイレーザには思えてくるのだ。別段本人から求められたわけでもないのに、とにかく助けねば、そばに居てやらねばという気持ちが胸に湧き上がってきて、居ても立ってもいられなくなる。そうして実際になにかしら手を貸して彼が喜びや感謝の表情を浮かべると、イレーザもまた嬉しさで胸が一杯になった。

 

 とりわけ今日の悟飯は、シャプナーらまでもが首を傾げてしまうほど朝から雰囲気がおかしく、見るからにあまりよろしくなさそうなものを胸に溜め込んでいる様子だった。そんな彼の姿を見ると自分までもが悲しくなり、少しでもいいから気を晴らしてもらいたい一心で、イレーザは隣席という特権を生かしてあの手この手で悟飯にちょっかいをかけた。決して満面ではないにしろ、どうにか彼に笑ってもらえたときには、それだけでイレーザは胸が暖かくなった。

 

 まだ出会って一月程度だというのに、かような自分の心がイレーザは不思議でならなかった。一方ビーデルは深く考え込んでしまったイレーザに、バツが悪そうに首筋を撫でた。

 

「ごめん、ひどいこと言って。わたし応援するから」

 

「あら珍しい。こういうときはいっつもぶつくさうるさいのに」

 

「だって昔からあんたが良いっていう男の子って、わたしからするとひ弱そうなのばっかりなんだもん」

 

「悟飯くんは違うの?」

 

 言われてビーデルは首を傾げた。文脈上は確かにそうなるのだが。

 

「違う、のかな? よく分かんない」

 

「まぁ、悟飯くんって体育は苦手だけど、山育ちのせいか体つきはいいもんね。背も高いし」

 

「あ、それは思った。シャプナーみたく見せびらかさないから最初は気づかなかったけど、意外にもかなり体は引き締まってるわよね」

 

 イレーザがじろりと目つきを鋭くしたので、ビーデルは慌てて両手をあげて弁明した。

 

「バレーのときに気付いたのよ。ほら、ずっとあいつをフォローしようとしてたから」

 

「ほほう、バレーね。いま思い出したけど、よくもあのときは悟飯くんを虐めてくれたわね」

 

「い、いじめたのはシャプナーよ、わたしは一生懸命あいつを庇おうと……」

 

 最後まで言い続けられず、ビーデルは肩を落とした。ゲーム終了後、悟飯によくない態度を取ってしまった自覚は彼女にもあった。

 

「だって、悔しかったんだもん」

 

「ま、あんたの良いところでもあるけどね。でもチームスポーツの時くらい、少しは割り切りなさいよ」

 

「そうしようとは思うんだけど、これがなかなか。負けてるって思うと、こう頭の中がかーって真っ赤になっちゃって」

 

 ビーデルが落ち込み出したので、今度はイレーザの方がバツの悪い気持ちになった。

 

「あたしも足引っ張っちゃったしね。ごめん」

 

「謝らないでよ、誰も悪いことなんかしてないんだから。強いて言うならシャプナーよ。あいつめ、次の試合では顔面に必殺スパイクをお見舞いしてやるわ。たとえ試合には負けても勝負で勝ってやる」

 

 無論顔面云々は本気ではないだろうが、しかしビーデルであればたとえ試合では勝てずとも、個人としての最多得点賞をもぎ取るくらいのことはやってのけてしまうだろう。そのくらい恵まれた素質を持ち、かつ努力を怠らない才女であると、長い付き合いであるイレーザは熟知していた。

 

 ただ案外、次の試合も必ず負けるとは限らないともイレーザは思っていた。クラスで最も悟飯と親しいイレーザは、彼が試合で大敗したその日の内に、自宅でバレーの猛練習をしたことも直接本人の口から伝え聞いていた。それまでバレーボールを触ったこともない少年が、僅かな特訓で会得できることなど本来限られているが、隣人の欲目というものだろうか、彼ならば何かを見せてくれるのではという気がイレーザにはしていた。

 

 自転車ショップに到着し、先ほどとは攻守交代して今度はビーデルがはしゃぐ番となった。店の中央に置かれている今年のニューモデルをかぶりつくように眺めたり、サドルもギアもない、イレーザからすると失敗作にしか見えないようなデザインの自転車に目を輝かせたりなど、まさしく水を得た魚といった調子であり、イレーザには理解しがたい感性だった。

 

「ああ、でも二人乗りでお出かけっていうのはちょっと憧れるかも。ね、ビーデル?」

 

「んー?」

 

「デートの話よ。一台の自転車に二人で乗ってさー、こうお互いの距離が二十センチくらいしかなくてさー」

 

「……」

 

「お互いの肌の匂いなんかも届いちゃって、こうなんか、すんごく青春っぽいよね。悟飯くんって自転車持ってるかなぁ。というか、それ以前に乗ったことあるかな。まぁいざというときはあたしが運転しても……」

 

「ん、ん、うぉっほん」

 

 変に痰でも絡んだか、ビーデルは妙な咳をした。

 

「うん、いいんじゃない? 二人乗り。じゃんじゃんやったら? ただし警察には捕まらないようにね」

 

「そこはほら。幼馴染のコネがありますから」

 

「馬鹿言わないでよ、いやよそんなの」

 

「でもさ、やっぱりビーデルも恋の一つくらい経験しといたら? せっかくファンクラブまであるんだから、その中から適当に一人選んで、こうパクッと」

 

「わ、わたしはそういうのホントに興味ないし、第一パパも煩いし」

 

「ちゃんと話せばいいじゃない。最近は会ってないけど、おじさんは昔からお調子者だったけど、根は良い人だったじゃない。ビーデルがちゃんと真剣にお付き合いしたいって言えば、強くは反対しないと思うけど」

 

「ママが死ぬ前ならそうだったかもしれないけど、今はもう駄目ね。言っておくけど、変に知名度や影響力を持ったお調子者ってホント最低よ。前なんかわたしにこう言ったのよ? 『付き合うならパパより強い男じゃなきゃダメだ。さもなくばパパはグレる。グレてテレビの前であることないこと泣き喚いてやる』って」

 

「わーお……」

 

 なんと言って良いか分からず、イレーザはコメントを差し控えた。

 

「まま、ビーデルにもそのうち出会いがあるわよ。うんとロマンチックな、『森の国の王子様』みたいなさ」

 

 昔の話を持ち出され、ビーデルは苦虫を噛み潰したような顔をした。『森の国の王子様』とは、幼少時にビーデルが傾倒していた女児向け児童文学の登場人物のことである。当時やや空想癖の強い子供であったビーデルは、イレーザを相手に何度もその本の魅力を説いて聞かせたり、所構わずヒロインに成り切って芝居を始めたりなどをしており、今となってはあまり思い返したくない記憶であった。

 

「やめてよ、その話は」

 

「いやー何度も聞かされたもんねー、王子様とヒロインの出会いのシーン。なんだっけ、確かそう、あれは舞踏会の前日……」

 

「やめてったら、この!」

 

 人様の恥ずかしい過去を滔々と語るイレーザに、ビーデルは拳骨を当てるふりをし、イレーザは「きゃー」と怯えるふりをした。

 

 そんな戯れ合いを挟みつつも、二人のショッピングは時間を気にすることなくのんびりと続けられた。夕食も一緒にどこかで食べるとそれぞれの家には伝えられており、気の置けない幼馴染との二人きりの時間をイレーザも久しぶりに思う存分楽しんだ。

 

 しかし年頃の少女だけあって、それでもふと窓の外などに目をやっては、イレーザはついつい意中の少年のことを考えてしまった。

 

「悟飯くん、元気にしてるかなぁ」

 

 そんな呟きに、ビーデルが不貞腐れたように鼻を鳴らした。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

「へっくち」

 

 自分のくしゃみで、悟飯は目を覚ました。四歳の頃、無人の荒野に一人放り出されたとき以来の、随分と懐かしい感覚だった。寝ぼけ眼で腕時計を確認すると、時刻は十八時半とあり、寝坊にしてもあんまりな時間に、思わず悟飯はぎょっとした。状況が掴めぬまま慌てて身を起こそうとするも、そのままバランスを崩してベッドから転げ落ちてしまう。硬いコンクリートの感触が額に直撃し、悟飯の視界に星が散った。

 

 まるで誰かに持ち上げられているかのように、悟飯の足がふわふわと宙吊りになっていた。うまく起き上がることができなかったのもこのためである。不審に思って地面に突っ伏したまま周りを見渡すと、明らかに見覚えのない場所であり、悟飯は天地を逆転させたまま、はてと首を傾げた。

 

 場所は外。頭上には夜空が広がり、彼方には明けの三日月。夜の冷えた風が肌寒く、車のクラクションや走行音、そして人々の喧騒が遠くに聞こえる。どうやら自分が街中の、おそらくはどこかの建物の屋上にいるらしいことを悟飯は寝ぼけ頭を懸命に働かせて何とか理解した。いまさっきまで寝そべっていたものも自宅のベッドではなく、ベッドよりも寝心地が良いことで評判の、見慣れた孫家専用の特殊自家用機だった。

 

(そっか、あのあと寝ちゃったんだっけ)

 

 一時間ほど前、限界値を迎えていたストレスを発散させるべく、悟飯はサタンシティの上空にて全力で気を解放した。そして地上の人間が雷と見紛うほどの圧倒的なエネルギー量を放出し終えたのち、そのまま精根尽き果てたように筋斗雲に倒れ込んでしまった。今の悟飯では筋斗雲に寝そべると足が大きくはみ出してしまうのだが、下半身にだけ舞空術を働かせれば滑り落ちることはないし、仮に滑り落ちたところでどうなるわけでもない。

 

 風に吹かれるまま、悟飯は筋斗雲に寝転んだ状態でひたすらぼんやりと時間を潰し、やがてそのまま寝入ってしまった。怠惰極まりないが、きっとそのような時間を彼の心と体が求めていた。風に変に流されてか、あるいは筋斗雲自身の意志が働いたのか、眠る悟飯を乗せたまま筋斗雲はゆっくりと高度を下げていき、やがてサタンシティの繁華街近くにある、建設途中の無人ビルの屋上に不時着した。そうして一時間ほどの仮眠を経たのち、今の状況に至るというわけだった。

 

 ようやく事のあらましを理解した悟飯は、とりあえず下半身の舞空術を解き、改めて立ち上がった。そして体全体を使って思い切り欠伸をし、次いで腕を回してこきこきと肩を鳴らす。その際、自分がまだ超化をし続けていることにふと気付いた。どうやら寝ている間もこの状態だったようだ。寝ている間も超化していられるよう九歳の頃に父と厳しい修行を行ったが、いつぞやの銀行強盗の時といい、その成果は七年の空白期間を経ても己の血肉となったままでいるらしく、我ながら大したものだと悟飯は他人事のように考えた。

 

 超化を解こうとして、なんとなくであるが悟飯はそのままでいることにした。超化をしても平常通りの精神状態でいられるよう鍛錬しているが、それでもわずかに感じる気の昂りと熱が、今の悟飯には心地よかった。

 

 家ではもうとっくに晩御飯を食べている頃だろう。オレンジスター・ハイスクールの終業時間は通常十六時であり、バイトのない日は悟飯はいつもだいたい十七時半頃には帰宅している。そこから一時間も過ぎているのだから、きっとチチも心配しているに違いない。そう理解しながらも、しかし悟飯はすぐに家へ向かう気にはなれなかった。

 

(なんだろ、なんかすごく気怠いや。なにもしたくない)

 

 心の中の嵐はひとまず夕日と共に過ぎ去ったが、代わりにいまの悟飯の精神状態はいわば凪の状態にあった。極端な動から、極端な静へ。母に詫びるのも、悟天の遊び相手をするのも、皆でテーブルを囲み母の手料理を口にすることすら今の悟飯にはひどく億劫に思えた。

 

 さながら電池の切れたラジコンのようだ。気や気功波の類であれば、地球を二、三度破壊してもなお有り余るだけの量が残っているが、そういったものとはまた違う、生きる上での力、人としての活力のようなものが今の悟飯には著しく不足していた。

 

 エネルギーが足りないのなら充電が必要である。いまの自分の空っぽの心に、活力を注ぎ込む手段を悟飯は記憶の中から探し求めた。そういった手段は人それぞれで、家族とゆったりとした時間を過ごす者もいれば、浴びるほど酒を飲む者もいる。では悟飯の場合はどうかと言うと、どれだけ過去の経験をひっくり返しても容易に答えを見出すことができなかった。

 

 波乱万丈な人生を歩んできた悟飯だったが、それでもこんな袋小路のような気分に陥ったことはなかった。師が死んだ時も、父が死んだ時も、深い悲しみと自分自身への無力感があったが、それでも進むべき道は明らかであったように思う。少なくとも今のように、深い森の中で道に迷った子供のような、どうしようもない気分になることはなかった。

 

 悟飯は屋上のへりまで歩み寄って、眼下に広がる夜の繁華街を見渡した。サタンシティの中心地でもあり、電灯やイルミネーション、ネオンサインなどが、さながら地上の星空のごとく煌々と咲き誇っていた。夜でも昼間のように明るいことで有名な区画であるが、こうして上から見下ろすと、むしろ夜の方が昼間よりも明るいとすら思える。

 

 街の営みをはるか高所から見下ろす自分。もし誰かがここにいれば、その人の目に自分はどう写るだろうと悟飯は想像した。天上人を気取って人々を見下しているように見えるだろうか。それとも皆から仲間外れにされ、ぽつんと一人取り残されているように見えるだろうか。きっとそれは、どちらも正しいのだ。

 

(寂しいなぁ)

 

 やはり自分は街の暮らしに向いていないのだろうか、と今更ながらに悟飯は迷った。実際のところ、街の人間だって空を飛び、海を割り、山を砕けるような危険極まりない輩を決して歓迎などしないだろう。皆の気持ちを慮るなら、やはりパオズ山でひっそりと暮らす方が、大多数の意見に沿った正しい行いではないだろうか。

 

 しかしそれでも、利己的かもしれないが悟飯は街で暮らしてみたかった。否、移動には不自由しないので住居自体はパオズ山でも全く構わないのだが、とにかく街での生活というものをしてみたかった。

 

 悟飯は懐から手帳を取り出して、「やりたいことリスト」のページを開いた。アパートに入居した際に一度取りまとめ、それ以降も何かに興味を持つたびに無節操に行数を増やしていったものである。

 

「免許を取ってエアカーを運転してみたい」

 

「花火というのを見てみたい」

 

「選挙に参加してみたい」

 

「自転車に乗ってみたい」

 

「駅前の『エクレア』のスペシャルマンゴーケーキというのを食べてみたい」

 

「ライブ(コンサート?)というのに行ってみたい」

 

「スキューバダイビングをしてみたい」

 

 これらに加え、気恥ずかしいのでこのリストにも書いていないが、「可愛い女の子とデートをしてみたい」というのも実はあったりする。サイヤ人の血のためか同年代と比較しても異性への関心がやや希薄な悟飯であったが、全く憧れが無いわけではなかった。

 

 いずれにせよ、どれもがいたって小さな希望ばかりであり、実際のところ学校を辞めたところで実現させることは容易だろう。しかしそれでも悟飯は踏ん切りを付けられなかった。悟飯自身にも整理のついていることではないが、これらの夢を自分一人で、あるいは家族と共に叶えたとしても、彼の望みは果たされない気がしていた。家族を軽視しているわけではないが、しかしこの雑多な願い事の裏側にある、悟飯自身にも言葉にできない本当の願いは、彼一人や家族と一緒では叶わないような気がするのだ。

 

 ではそれはなんなのかと問われると、やはり悟飯はちっとも言葉にできず、口から出てくるのはため息ばかりだった。

 

(ひとまず、家に連絡を入れよう。それだけはしておかなくちゃ)

 

 やっとの思いでそう決めることだけはできた。工事中のビルのため階段もエレベーターも使えず、悟飯は周囲の目を気にしながら慎重にビルの壁を降りていった。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 夜の街に降りたって、悟飯がまず取り掛かったのは電話ボックスを探すことだった。携帯コンピューターはまだ購入できていないため、自宅に電話をかけようと思うと今はまだ公共のものを使うしかなかった。

 

 悟飯はボックスの中に入って受話器を手に取り、財布からテレホンカードを取り出して電話機本体に差し入れた。そして番号を入力する前に二、三度、気合の深呼吸をし、意を決してテンポよく自宅の番号を押した。

 

 三コールほどで母は電話に出た。

 

「あ、もしもし母さん? 悟飯です。連絡が遅くなってごめん。うんうん、本当にすみません。で、今更なんだけど今日は帰りが遅くなるんだ。いやいや、バイトバイト。うん、そう。いつもは火曜と木曜だけど、今日だけは先輩の代理でお店に入らなくちゃいけないのを伝え忘れてて。うん、ごめんね。ほんとうっかりしてた。あ、うん、夕飯は冷蔵庫に入れておいてくれればいいよ。多分お店の賄いだけじゃ足りないから。うんうん。そうそう、先に寝てていいから。うんうん、悟天にも宜しく。それじゃ、はい、おやすみなさーい」

 

 がちゃんと電話を切り、悟飯は盛大に息を吐いた。胸が罪悪感にしくしくと痛む。親に対してこういった嘘を吐くのは初めてのことであり、これも大人になるということなのだろうかと悟飯はやや見当違いな感慨に耽った。

 

 レストランのアルバイトは通常二十時まで。そこから自宅に帰るまでには小一時間かかるため、バイトがある日の悟飯の帰りは大体いつも九時頃になる。しかしそれは筋斗雲を使用した場合の時間であり、超化した悟飯がその気になれば十分程度で家に帰ることも可能だった。そして今の時刻は十八時四十五分のため、九時に帰宅するまでおよそ二時間の猶予がある計算になる。

 

 ひとまずの自由時間を確保し、悟飯はのそのそと電話ボックスから出て、駅前に広がる繁華街の街並みを眺めた。幾十幾百の電灯、咲き誇るイルミネーション、艶やかなネオンサイン、そして前後左右に行き交う人々の喧騒。遠い異世界のような光景がどこまでも広がっていて、悟飯は目が眩みそうな気持ちになった。

 

(綺麗だ、あの中に入りたいな)

 

 ビルの屋上から街を眺めたあたりから、悟飯の胸中にそんな気持ちが芽生えだしていた。色とりどりの店と、色とりどりの人々が織りなす様々な営みの坩堝に、自分もまた身を浸してみたいと思った。夕方に一人、孤独な太陽を気取った反動か、実態はどうあれ悟飯は大勢の人々の中に混ざり、溶け込みたかった。

 

 とはいえ悟飯の心境がどうあれ、はたから見ればそれは夜遊びとしか言えないものであり、悟飯としても大いに道徳心を揺さぶられるところがあるのだが、活力不足甚だしい今の悟飯にようやく生じた欲求でもある。いつまでも気落ちしたままでいるわけにはいかない。平時の気力を取り戻すためにも、今宵一晩、自分の心の衝動に素直に従ってみようと悟飯は心に決めた。

 

 そうして悟飯は、生まれて初めての夜遊びに向けて一歩を踏み出そうとした。見た目には小さな一歩だが、彼の人生においては非常に大きな一歩である。しかし途中でピタリを動きを止める。繰り返しになるが悟飯は未成年であり、夜の街を一人で出歩くことは本来望ましくない。東エリアの州法では夜の十一時以降の青少年の外出を禁じており、これを犯せば警察の補導対象にもなる。いまは七時のため時間的には問題ないはずだが、それでも級友や教師とばったり出くわす可能性もあるし、警察に顔を覚えられたくもない。

 

(変装が必要だな。超サイヤ人になっているだけじゃ、ちょっと心許ないし)

 

 そう考えた悟飯は、電話ボックスを探す際に見かけていた駅近くの若者向けの服屋へとまず向かった。店内に入って周りを見渡すと、レジ近くにサングラスのコーナーが置かれていた。試しに一つ掛けてみて、悟飯は備え付けの鏡を覗き込んだ。

 

(おお……)

 

 悟飯は思わず感動した。なるべく安く、かつ大幅なイメージチェンジとなるよう目つきの悪いサングラスを選んだのだが、超化によって変色した髪と相まって、まるで絵に描いたような不良少年がそこにいた。強いて難点をあげるなら服装がやや爽やかすぎることだろうか。

 

 悟飯は再度店内をキョロキョロと見渡し、一着のTシャツに目をつけた。これまでの悟飯であれば天地がひっくり返っても選ばないような、どぎついイラストがプリントされたTシャツを手に取り、早速試着室で試してみる。

 

(おおおお……)

 

 まるでテレビから抜け出てきたような不良少年がそこにいた。生地自体は黒一色なのだが、さながら絵の具をぶちまけるような勢いで描かれたイラストやロゴにより、むしろ非常にカラフルな印象を受ける。数々の挑発的なロゴ、そしてTシャツの前面に一際大きく描かれた巨大なドクロがいかにもパンキッシュでロックンロールであり、その迫力たるや、着ている悟飯自身が恐ろしく思うほどだった。サイズを間違えたせいでシャツはかなりダボついていたが、むしろそれがお洒落にも思えてくる。聞き齧った知識であるが、確かラッパーだかトランペッターだかが、よくこういった大きめの服を着ていると、悟飯は以前にどこかで聞いたことがあった。

 

(柄じゃないと思ってたけど、案外こういうのもいけるもんだな。こ、今度ピアスとか挑戦してみちゃおうかな。いやでもお母さん怒るかなぁ)

 

 それ以前に、銃弾を受けても痣一つ付かない彼に、どうやってピアスホールを空けるのかという問題もあるが、ともあれ若干気恥ずかしさはあれど、ひとまず普段の孫悟飯の印象から離れることには十二分に成功していた。加えてこうして新しいファッションに身を包むと、まるで違う自分になったような気がして悟飯はちょっとばかり楽しい気分にもなった。

 

 そう、今の自分は悟飯であって悟飯ではない。いま自分は生まれ変わり、嘘も夜遊びも辞さない悪の不良少年となった。他愛無いことだが、悟飯はそんな風にも思った。

 

 さすがに高くつくのでズボンまで買うことは控え、悟飯はそのシャツとサングラスを、すぐにでも着られるようタグを切って貰った状態で購入した。さらに試着室で着替えさせて貰えるようお願いをすると店員は快諾してくれ、悟飯は店員に丁寧にお礼を言ってから再び試着室に向かった。いざ新たな衣装に着替えなおし、悟飯は意気揚々と店を後にし、夜の街へと繰り出した。

 

「オラの悟飯ちゃんが不良になっちまっただ!」

 

 などと、悟飯が超化したときチチはよくそう嘆いたものだったが、あながち間違いではなかったかもしれない。服装の乱れは心の乱れとよく言われ、そして今の悟飯の心は確かにすこしばかり乱れていた。

 

 なんにせよ、かくして今日という日、サタンシティにおいて地上最強の不良少年が人知れず誕生したのである。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 そうして夜の繁華街をぷらぷらと徘徊し始めた悟飯だったが、これが思いのほか楽しく、あっという間に一時間が過ぎていった。今の悟飯の身分で楽しめるのは本屋に電気店やスポーツショップなど健全なものばかりだったが、もともと都会慣れしていない悟飯にはそういったものでも十分目新しく、色々と興味を引かれるものばかりだった。そうして歩いて行くうちに、繁華街の中でも一際大きいデパートに辿り着き、当然こちらにも悟飯は関心を持ったが、少ない時間ではとても回りきれないし、加えてなんとなく出会いたくない人たちと出会ってしまいそうな危うい気配を感じたので次の機会に回すことにした。

 

 ただ、今夜悟飯がとりわけ冒険心をくすぐられたのは、むしろ不健全の極みとも言える性風俗店についてだった。無目的に街をぶらついている内に、うっかりその手の店が立ち並ぶ通りに出てしまい、さすがの不良少年も一瞬硬直し、思わず足を止めてしまった。

 

(こ、これはさすがにまずいかな。引き返した方が……いやいや、狼狽えるな悟飯。不良少年はUターンなんてしない)

 

 一つ二つ深呼吸をして気を落ち着かせ、結局悟飯は幾らか迷いはしたものの、変装していることを頼みにそのまま一つ社会見学を行なってみることにした。といってもさすがに店に入るのは憚られるので、風俗通りをひとまず端から端まで歩いてみる程度ではあったが、なんとも外聞の悪いウィンドウショッピングであることに違いはない。

 

 母の教育方針と、父のその手のことに関する無関心さが一致を見て、孫家の家にはこれまで成人向けの週刊誌一つ置かれたことがなく、悟飯のベッドの下にも今のところは何も隠されていない。そのため教科書的な知識は持ち合わせていても、こういった性風俗の文化には悟飯はあまり馴染みがなく、店の外に出されている料金表や広告などを眺めてみても、今ひとつ一体何のことを言っているのか汲み取れなかった。

 

(うーん、花びら大回転ってなんだろう。楽しそうだけど、よくわからないや。やっぱり携帯が欲しいなぁ)

 

 なんであれば手帳の「知らないことリスト」に加えようかとも思ったが、さすがに危うさを感じたのでやめておくことにした。

 

 ただ悟飯は、チチの影響によるものか、こういった店に対してはいわゆる「よくない文化」というイメージを持っていたが、店の前ではしゃぐサラリーマンのグループや、スナックらしき店の前で客を見送る女性などを見ても、あまりそういった負の印象は受けなかった。少なくとも悟飯が実際に見かけた限りでは、営業用も混ざっているかもしれないが誰もが笑っており、普通に楽しんでいる。思えば、その手の本を読み耽るときの武天老師やウーロンなども、それは幸せそうにしていたものだった。

 

(案外、こういうのも普通のことなのかもしれないな。いかがわしいってお母さんは毛嫌いしてたけど、でもよく考えればきちんと国に認められたお仕事なんだから、世の中に必要なものなのかもしれない。お客さんにとっても、働く人にとっても)

 

 そのようなことを考えながら、扇情的に彩られたその通りを、大人と子供の中間に立つ悟飯は興味深そうに見物して回っていった。

 

 二ブロックほど歩いたところで風俗通りも途切れ、企業ビルなどが立ち並ぶ普通の通りになっていった。業務時間が終了しているためか灯りの消えたビルが多く、ひと気にも乏しいやや寂しい通りである。

 

 駅の方まで戻るか、それともこのままもう少しだけ歩いてみるか悟飯が迷い掛けたところ、道路脇のガードレールに腰掛ける一人の少女が目に入った。ゆるくウェーブのかかった亜麻色の髪をした少女で、サングラスのせいで細かくは見て取れないが、悟飯と同い年か少し上くらいに見えた。遊び慣れている雰囲気で、イレーザに負けず劣らず肌を多めに晒した服装をしている。

 

 向こうも悟飯に気付き、素早く視線を動かして悟飯の全身を走査した。なんだろ、と思いつつ悟飯はそのまま彼女の前を通り過ぎようとしたが、「ね、君」と声を掛けられ足を止めた。

 

「ねぇ、一人?」

 

「はい、そうですけど」

 

「あたしも一人なの。友達と来てたんだけど、先に帰られちゃってさ。どうかな? 良ければ一緒に遊ばない? どこかお店で話をするだけでもいいし」

 

 知らない人に付いていってはいけない、などとこのような時に考えるほど悟飯も世間知らずではない。

 

(こ、これはいわゆるナンパというやつかな)

 

 何人かの級友はしょっちゅうその手の話をしているし、父の仲間の一人であるヤムチャからもいくつか武勇伝を聞いたことがある。いずれの話にも共通していたのは、本来ナンパとは主に男側がするものであって、女性から声をかけられるのは非常に珍しいという点だった。思わぬところから舞い込んできた希少な経験に、悟飯の好奇心と警戒心が喧々諤々の議論を始めた。

 

「えーと、なにして遊ぶんです?」

 

「お、乗り気? そうね、色々あるけど……たとえば君、踊るのは好き? いいとこ知ってるけど」

 

 ディスコ、いや最近はクラブと言うんだったか。これも級友やヤムチャから聞いたことがあった。当然悟飯は踊りの心得などなかったが、それはそれとしてそのような店に入れるのなら是非一度行ってみたかった。

 

「あれ、でもそういうのって成人じゃないと入れないんじゃ」

 

「知り合いがやっている特別なお店なの。高校生でも入れるのよ」

 

「へぇ、そういうとこもあるんだ」

 

「どう? 本当に、良ければでいいけど」

 

 悟飯は時刻を確認した。現在、二十時十五分。タイムリミットの九時まであまり時間はないが、少しであればバイトが長引いたことを理由にできるし、孫家の人間はみな就寝が早いため、上手くいけば盛大に夜更かししても露見せずに済む可能性もある。

 

(いや、やっぱり良くないな。バレてもバレなくても、母さんには正直に打ち明けて謝ろう)

 

 そう悟飯は腹を括った。母には申し訳ないが、今日だけは学生の身分も長男としての立場も忘れて、心の赴くままに振る舞ってみたかった。

 

「お願いしていいですか。そういうところ初めてで、是非行ってみたいです」

 

 そんな悟飯に、少女はくすりと笑った。

 

「おかしいね。派手な格好をしてるのに、そんな丁寧にさ。あたしはライア。君の名前は?」

 

 超化した状態で本名を名乗っては色々とまずい。かといって今ここで偽名について考え込んでしまってしまうわけにもかず、悟飯はほとんど直感で答えた、

 

「オムスビです。よろしく」

 

 我ながらあんまりな偽名に、言ったそばから悟飯はとても後悔した。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 オムスビくんこと悟飯もだが、ライアもまた夕食を取っていなかったということで、二人はまず腹ごしらえに近くのファストフード店に入った。こういう時は男が払うべきなのだろうかと迷った悟飯は、馬鹿正直にそのことをライアに尋ねてしまい、ライアは笑って気持ちだけ受け取ると答えた。恥入りながらも悟飯は注文カウンターに彼女と一緒に並び、ハンバーガーを一人前ずつ注文した。いつもであれば到底それだけでは足りないのだが、精神的不調が影響してか今夜の悟飯はあまり食欲がなかったので問題はなかった。

 

 道端で出会った時は分からなかったが、こうして店の中で見てみると思った以上に綺麗な子だと悟飯は思った。服装の雰囲気はイレーザに似ていたが、若さと健康美に富んだ彼女と異なり、ライアのやや垂れた目尻と、肩に描かれた花模様のタトゥー、そしてゆったりと気怠そうな仕草からはどこか退廃的なものが感じられ、級友たちにはない異様な色気があった。

 

 テーブルでハンバーガーを齧りながら、二人は簡素に自己紹介をし合った。といっても超化をしている状態で孫悟飯としてのプロフィールをあれこれ明かすわけにもいかなかったが、幸いライアの方も家や学校については「ちょっと遠くのところ」などと曖昧にしか言わなかったので、悟飯もそれに倣うことができた。

 

 お互い、事情があって今日は家に帰りたくないこと、親に嘘をついて外出していること、しかし一人にもなりたくなくて、ついつい繁華街に足が向いてしまったことを打ち明け合い、そんなまるで鏡合わせのような関係に二人は笑い合い、初対面とは思えないほど話が弾んだ。

 

 早々に食事を切り上げ、ライアは悟飯を近くの路地裏に誘った。こんなところに一体なんの用かと思いきや、ビルの裏口らしきところに置かれている灰皿の前でライアが躊躇なくタバコを吸い出したので、悟飯は目を丸くして驚いた。

 

「吸ってみる?」

 

 悟飯は咄嗟に断り掛けたが、この際こちらも一度経験してみることにした。好き好んで法令を破りたくはないが、どんな味がするものなのかと興味だけはあった。

 

 可愛らしいリストウォーマーを付けたライアの手から人生一本目のタバコを受け取った悟飯はサングラスを外し、タバコを街灯にかざしながらまじまじと観察した。

 

(へぇー、こうやって紙に巻いてるんだ。お茶っ葉みたいだな)

 

 上下左右から舐めるように見回し、ついでに匂いも嗅いでみる。独特の香りがしたが嫌いではなかった。ライアの方は慣れた様子で紫煙を吐き出しながら、初心者丸出しな振る舞いを見せる悟飯を妙に静かな表情で見つめていた。

 

 ようやく口に咥え、ライアからライターを借りて火をつけてみようとするも、なかなか上手くいかない。

 

「火に当てながら吸うんだよ。そうすると上手く付くから」

 

「なるほど」

 

 言う通りにすると確かに、うまいこと火がついた。深く息を吸い、ちゃんと煙を肺まで行き渡らせるのがタバコの味わい方だ、と悟飯はどこかで聞き齧ったことがあった。その通りに悟飯はタバコ越しにたっぷりと息を吸い、煙をしっかりと肺まで届け、

 

「げっほ、げっほ!」

 

 案の定、耐えかねて盛大に咳き込んだ。さながらセルの拳を腹に受けたときのようだ。実戦を遠ざかってから久しく覚えていない感覚に、悟飯は恐ろしげに手の中のタバコを見つめた。よくこんなものを平気で吸えるな、とライアの方を見ると、それまでどこか表情を凍らせていた彼女は慌てて取り繕うように笑顔を見せた。

 

「合わなかった?」

 

「ええ、ちょっと」

 

「慣れないうちはそんなものだよ。もし次に買う機会があったら、箱のここに書いてある数字がもっと小さい奴を買うといいよ。それかミント味とか、チョコレート味のものとかもあるから」

 

「ちょ、チョコレート味? そんなのもあるんですか」

 

 それまで悟飯がタバコに抱いていた、大人が吸うものというイメージが少しだけ崩れた。

 

「まぁでも、美味しくないと思うならやめておいた方が良いかもね」

 

「ライアさんは美味しいと思うんですか?」

 

「どうだろ。別に美味しいってわけじゃないけど、落ち着くの。もう今じゃ手放せないよ」

 

「へぇ」

 

 そういうものかと納得した悟飯だが、彼としては一度経験できればそれでよく、おそらく自分で新たに買うことはないだろうなと思った。とはいえ、せめていま手に持っている一本はきちんと最後まで吸い切ろうと、悟飯はもう一度挑戦してみて、そしてまた咳き込んだ。三、四回それを繰り返して、やや涙目になりながらも悟飯はなんとかフィルター近くまで吸いきり、火を消して吸い殻を灰皿に捨てた。

 

「ふう。いや、手強い相手でした」

 

 心からそう思った。ここまでしんどい思いをさせられたのはセルか、または夜泣き癖がひどかった頃の悟天以来だった。

 

「ごめんね、付き合わせちゃったみたいで」

 

「いいえ。まぁタバコ自体はあまり合いませんでしたが、そう知れただけで満足です。色々と教えてくれてありがとうございます」

 

「そう、良かった」

 

 そう言って笑顔を見せるライアだったが、先ほどから妙に表情がぎこちなく、なにかが喉に引っかかっているようにも見えた。気に触ることをしてしまっただろうかと悟飯は不安に思ったが、とりあえずは切り出さずにおくことにした。

 

 雲行きが怪しくなったのは一服を終え、いよいよクラブに向かおうと歩き出したときのことだった。

 

「ごめん、ちょっと電話が掛かってきた」

 

 そう言ってライアは携帯を片手に悟飯から離れ、通話を始めた。五メートルほどの距離しかないので、悟飯でなくとも、漏れ聞こえてくる声でおおよその会話内容を掴むことができた。

 

「今日は遅くなるって言ったでしょ」

 

「友達とだって。変に勘ぐらないでよ」

 

「母さんっていっつもそう。あたしの話なんてなにも聞いちゃくれない」

 

「ほんとやめてよ、そういうこと言うの。ひどいよ……」

 

 明らかに親から叱責を受けているらしき様子が伝わってきて、悟飯は居た堪れない気持ちになった。腕時計を見ると、ちょうど九時五分前。特別な事情がない限り、高校生であれば自宅に帰っているべき時間である。クラブに行けないのは残念だったが、そろそろ潮時だろうかと悟飯はすでに半ば諦めていた。

 

 ライアはいたく気落ちした様子で戻ってきた。

 

「ご両親からですか?」

 

「うん。ごめん、帰らなくちゃいけなくなった」

 

「それがいいですよ、家も遠いんですよね」

 

「ごめんね、あたしから誘ったのに」

 

「いいんです。僕も一人で寂しかったので、声をかけてくれて嬉しかったです。あとタバコも、ご馳走様でした」

 

 言っている内容は中々の不良っぷりであったが、それでも馬鹿丁寧に礼を述べる悟飯に、ライアはまたも妙な様子を見せた。唇を僅かに震わせ、喉元から出かかる何かを必死に飲み下そうとしているような表情だった。

 

「ね、オムスビくん」

 

「え? あ、はい」

 

 慣れない呼び名と、ライアの様子の両方に戸惑う悟飯を余所に、ライアは一歩悟飯に近づいてきた。三十センチ程の距離感で二人は言葉なしに見つめ合い、そうしている内にライアはさらに一歩間合いを詰めた。二人の爪先はもう十センチも離れておらず、ライアの鼻先が悟飯の胸元に今にも触れてしまいそうだった。ライアはそれ以上足を動かさなかったが、その代わりに両腕を悟飯の腰に回し、まるで擦り寄るように悟飯の体にもたれかかった。二人の体の前面部分がぴたりと密着し合い、ライアの体の柔らかさと暖かさ、そして髪から立ち登る甘い香りに、悟飯の胸はひどくかき乱された。

 

「ね、また会ってくれる?」

 

「え、ええ、もちろんです。次こそクラブに行きましょう」

 

「クラブもいいけど、もっと静かなところがいいな。二人きりでのんびりできるようなさ」

 

 図書館とかかな、と悟飯は思いはしたものの、何となく間違っている予感がしたので口にはしなかった。ライアもそれ以上は何も言わず、ただ悟飯の胸板に猫のように頬を擦り付けるばかりだった。ライアの息が胸元にかかり、その生温かさに悟飯の頭の中まで真っ赤になり、足が震えそうにすらなった。

 

 やがてライアはゆっくりと悟飯から体を離し、照れ臭げに手を後ろに隠した。

 

「ごめんね、いきなりで。今日初めてお話ししたけど、なんかいいなってずっと思ってて」

 

「そ、そうですか?」

 

「だって君、見かけは派手なのに、てんで普通なんだもん。なんかほっとしちゃって、すんごくあったかい気持ちになって」

 

「は、はぁ……」

 

「君みたいな男の子、あたし初めて。ねぇ、嫌じゃなかった?」

 

「いえ全然。ドキドキしました。嬉しかったです」

 

 あたしも、とライアもまたはにかんだ。そうして後ろに隠していた手を戻し、バッグからペンとメモ帳を取り出して何事かを書きつけ、ページを破って悟飯に手渡した。

 

「あたしの番号。携帯を持ってないんでしょ? だから君から掛けて。待ってるから」

 

「あ、はい、必ず」

 

「じゃ、あたしそろそろ行くね」

 

「駅まで送りますよ」

 

「大丈夫。もう親が迎えに来てるの。ここまででいいから」

 

「そうですか。それじゃ、また」

 

「うん、またね。きっとよ」

 

 そう言って小さく手を振ってから、ライアは踵を返して駅とは反対側の方へと早足で歩いていった。悟飯はなんとはなしにその背中を見送り続け、やがて角を折れるところでライアがもう一度手を振ってきたので、同じように手を振り返した。

 

 彼女の姿が見えなくなってから、悟飯はガードレールに腰掛け、深く深くため息をついた。女性から声を掛けられたのも初めてなら、番号を貰ったのも初めてだった。母以外の女性に抱きしめられたのも初めてであり、女性の吐息を肌で感じたのも初めてだった。

 

 そしてああもはっきりと好意を露わにされ、こんなにも胸が高鳴ったのもまた生まれて初めてのことだった。あるいは今日という日のことを、自分はこのさき一生忘れないかも知れないとすら悟飯には思えた。

 

 そして、だからこそ悲しくもあった。悟飯はサングラスを外して、頭上に光る明けの三日月をぼんやりと見上げた。こんなことをしている場合じゃないのは分かっている。それでも少しだけ、気持ちを落ち着けるためにも少しだけこうしていたかった。

 

 夜の風が、火照る頬に心地よかった。

 

 

 

 

 

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