孫悟飯、その青春   作:マナティ

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第五章 森の国の王子様

   Ⅰ

 

 

 

 気を探ることで相手の強さや位置を測るのは、悟飯たち地球育ちの戦士全員の得意とするところだが、その力も決して万能というわけではなく、いくつか制約が存在する。例えばこの感知能力は、一定以下の戦闘力しか持たない相手にはさほど有効に働かない。強大な戦闘力を持った相手であれば地球の裏側にいても気付くことができるが、逆に相手の気が小さければ小さいほど感知範囲は急激に狭まっていき、一般人や小動物相手になるとほとんど機能しなくなる。そのため仮に悟飯がクラスの級友たちと隠れ鬼に興じたとすれば、かろうじてビーデルくらいは探知できるかもしれないが、あとの者は普通に目と耳で探す必要がある。

 

 さきほど別れたばかりのライアを再度見つけ出すのに、悟飯が少々の時間を要したのも同様の事情による。彼女と別れた路地裏で一息ついたあと、悟飯はすぐさま手近なビルの屋上に駆け上り、高所から肉眼で彼女の姿を探し回った。そんなに遠くまでは行っていないはずだが、角度が悪いのかいくら周りを見回しても彼女らしき人影は見つからず、また別のビルの屋上へと飛び移り、同じことを繰り返した。もし彼女の言葉通り、親と合流して車にでも乗っているのなら、いくら常人離れした悟飯の視力でも見つけることはできないが、恐らくそれはないと悟飯は考えていた。親など迎えに来ていない。もし出迎えがいるとすれば、それはもっと別のものだと悟飯は確信していた。

 

 二つ目のビルからはあっさりと彼女の姿を見つけ出すことができた。やはりさほど遠くまでは移動しておらず、どうやら繁華街の外れにある児童公園を目指しているようだった。四方をビルに囲まれ、入り組んだ路地の奥深くに設けられた小さな公園であり、申し訳程度に遊具も置かれているが、到底子供が気兼ねなく遊べるような立地には見えない。事実、その公園には見るからに柄の悪そうな男たちが七、八人ほどたむろしており、どうやら不良たちの絶好の溜まり場になってしまっているらしい。

 

 そんな危うそうな場所にのこのこと近づいていくライアを、悟飯はビルの屋上から複雑な顔で見下ろしていたが、祈り叶わずライアは躊躇う様子もなくその公園へと入っていってしまった。

 

 ビルの上からではさすがに遠いので、悟飯は一つ地面を蹴って再度別の場所へと飛び移った。距離にして約三十メートル、高度にしてマイナス約五十メートルを一息に移動し、今度は公園に面する建物の屋根の上に音もなく降り立った。

 

 ライアの訪れに気付いた男たちの一人が、機嫌良さげに声を上げた。

 

「お、帰ってきた。おーいどうだった?」

 

 ライアは手に持った財布をこともなげに振って見せ、男たちは揃ってうぇーいと歓声を上げ、ぞろぞろと蟻の群れのようにライアにたかっていった。

 

「どれどれ、本日の釣果は?」

 

「なんだこりゃ、ガキっぽい財布だな。コアラの絵なんか描いてある」

 

「小学生かよ」

 

 どっと笑いが唱和した。

 

(悪かったな。子供の頃に買ってもらった奴なんだ)

 

 屋根の上にしゃがみ込み、不機嫌そうに頬杖を着きながら悟飯は胸中でぼやいた。子供っぽいとは確かに彼自身も思うが、機能的に何の問題もないものを、デザインのためだけに買い替えることに悟飯はどうにも抵抗を覚えてしまうたちであり、昔にチチから買い与えられた子供用の財布を今でも愛用していた。

 

(ちゃんとカード入れも付いてるし、作りもしっかりしてて良いと思うんだけどなぁ)

 

 この分では、級友に見られたら何を言われるか分かったものではない。シャプナー、ノートン、ビーデルらのからかい顔と、なんでも受け入れてくれそうなイレーザの懐深い笑顔が脳裏に浮かび、やむなく悟飯は手帳を取り出して近日中に財布を新調する旨を予定に書き加えた。

 

「おっほ、見ろよこれ。札束だぜ」

 

「すんげーリッチ。金持ちじゃん」

 

(いやぁ、それほどでも)

 

 今度はなんとなく持て囃されている気分になり、悟飯はペンの後ろでこりこりと側頭部を掻いた。まだ銀行口座を作っていない悟飯はバイト代をすべて現金で受け取っており、その全額を財布の中に収めていた。札束というのはさすがに大袈裟だが、それでも七、八万ゼニーほどは中に入っているはずだった。

 

「おいおい、今回は当たりだったな。いったいどんな奴だったんだ? ええおい」

 

 不良連中の中でもリーダー格らしき男が、馴れ馴れしくライアの腰に手を回した。ライアにも嫌がる素振りは全くなく、そのまま男の胸に体を預け出したので、上で見ていた悟飯はちくりと胸に痛みを覚えた。

 

「全然大したことなかったよ。見た目はやんちゃを気取ってたけど、中身はてんで普通のお坊っちゃんでさ。ちょっとくっついてやったら、もう隙だらけ。ポケットから財布を抜かれても気づきやしないの」

 

(気付いてたよ、ちゃんと)

 

 むしろ気付きたくなかった、とすら悟飯は思う。もしそのときに気付いていなければ、恐らく悟飯は彼女が盗んだなどとは夢にも思わず、きっと街中を必死に探し回っただろう。そんな目に遭うのはもちろん御免被りたいが、そのような目に遭う代わりに今のような気持ちにならなくて済むというのであれば、選択肢として一考の価値があった。

 

「ねぇ、フーリオ。あたしって役に立つでしょ? これからももっと稼ぐからさ。あんたの家にずっと置いてよ。ね、いいでしょ」

 

「ああ、いいとも。いつまでも居てくれていいぜ。うんと可愛がってやるから」

 

 ライアは、フーリオという名前らしき男と人目を憚らずキスをし、そんな二人を囃し立てるように、周囲の男たちがまたもや歓声を挙げた。そしてそんな騒ぎより一人取り残された悟飯は、見えない拳に散々打ちのめされたかのように力なく夜空を見上げた。明けの三日月が誰かのにやけ顔のようにも見えて、悟飯は月にまで馬鹿にされている気分になった。

 

(都会って厳しいなぁ)

 

 視線を下に戻すと、二人はまだ口をくっつけたままでいた。そのまま服まで脱ぎ出しかねない勢いであり、悟飯は多少顔を赤くしながらも、嫌悪感を覚えずにはいられなかった。他人を陥れておきながら呑気に悦に浸る今の二人に比べれば、さきほど歩いた風俗通りの方がよほど清々しく思えた。

 

 一つ嘆息して、悟飯は立ち上がった。ぱんぱんと腰の汚れを払い、きっと表情を引き締めようとして、しかしうまくいかず、また大きくため息を付く。

 

(ちょっとあんまりじゃないかな? いくらなんでもさ……)

 

 図らず、さきほどの鮮烈な体験が悟飯の全身に蘇ってきた。わずか十分ほど前の出来事であるから、ライアの柔らかさも、温もりも、吐息の感触も、心をくすぐるような言葉の数々も、悟飯は肉感を伴って生々しく思い返すことができた。嬉しかったのだ。本当に、胸が苦しくなるくらい嬉しかったのに。

 

 未練は禁じ得ないが、しかしこうなってはもはや諦める他なく、悟飯は苦心してなんとか気持ちを切り替えた。いつまでもこうしていても仕方ない。今夜のことは手痛い社会勉強だと思って、とっとと返すものを返してもらい帰って寝よう。

 

 そう踏ん切りをつけ、悟飯はひょいと無造作に屋根から飛び降りた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 悪趣味なTシャツにサングラスをかけた金髪の少年が、突如空から降ってきたことにフーリオたちは度肝を抜かれ、当然そのなかでもライアの驚きようはひとしおだった。

 

「あ、あんた、どうして」

 

「落とし物を取りに来たんだ。拾ってくれてありがとう」

 

 悟飯にしては珍しくたっぷりと皮肉を効かせていた。そのやり取りで、突然の乱入者が自分たちの企みの間抜けな被害者であることを察し、男たちは次々に嘲笑と侮蔑の言葉を浴びせて来た。

 

「おやおや、純情を弄ばれたお間抜けさんの登場だ」

 

「ガキが一丁前に鼻の下伸ばしてんじゃねーよ、糞して寝てな」

 

「いい思い出ができたろ? お代はこの財布でいいぜ。ひゃひゃひゃ」

 

 その憎たらしさたるや、さすがの悟飯もこめかみのあたりが引き攣るほどであり、万が一にも力が入りすぎてはいけないと、父との修行でも散々行なった興奮を鎮める呼吸法を二、三度繰り返した。

 

「あー、おほん。えーと、あれこれ言い合うつもりはないんだ。黙って大人しく財布を返して欲しい。そうしたら手荒な真似はしないし、君たちも怪我をせずに済む。どうかな?」

 

 大真面目に言う悟飯だが、残念ながら彼の力を知らない相手には安い挑発にしかならない。

 

 これに最初に反応したのはフーリオだった。集団のリーダー格だけあって相応にプライドも高いらしく、他の者が悟飯の憎まれ口に嘲笑の顔を浮かべる中で、彼だけがすっと表情を消した。

 

「や、やめなよ。あんなのに」

 

 ライアの制止も振り払い、つかつかと悟飯に歩み寄って肩を掴み、そのまま有無を言わさず思い切り腹を殴りあげた。どうやら格闘技の経験があるらしく、腰の入れ方などは悟飯から見ても中々のものであり、まともに腹部を殴られた悟飯はタバコの百分の一ほどの息苦しさを覚えた。

 

「あぐぅっ!」

 

 フーリオが拳を押さえて苦悶の悲鳴を挙げた。鉄の塊をそうと知らずに思い切り殴った人間が、大体このような反応をする。痛みに喘ぐフーリオに、悟飯はおまけとしてその顎先をデコピンの要領で軽く叩いた。それだけで喧嘩自慢のフーリオは、白目を剥いてかくんと膝から崩れ落ちてしまった。

 

 あとはあっという間のことだった。七、八人いた男たちは一斉に奇声を上げて悟飯に殴りかかり、その中にはフーリオと同じく空手やボクシングなどの経験者も混じっていたのだが、蟻の微妙な体長差など戦車の前では何の意味もない。皆一様に、悟飯の指先一つで次々に倒れ伏していった。

 

 一人残されたライアはフェンスまで後退り、怯えきったように叫んだ。

 

「なんなのよ、あんた! いったいなんだっていうの!」

 

「君も言ってたろ。ごく普通のお坊っちゃんさ。普通じゃないところもあるけど」

 

 フェンスを背にする彼女と、公園の入り口との間を塞ぎながら、悟飯は彼女の方へと近づいていった。

 

「来ないでよ、来ないでったら!」

 

「君に乱暴はしない。さっきも言ったろ? 財布を返してくれれば、それでいいんだ。さぁ、返して欲しい」

 

「ちきしょう、ちきしょう……」

 

 悪態をつきながら全身を震え上がらせるライアだったが、不思議なことにそうまで怯えていながら、なぜか頑なに悟飯の財布を手放そうとしなかった。まるでそれが彼女の命そのものであるかのように、硬く握り締めたままでいる。

 

「さぁ、大人しく返すんだ」

 

「うるさい! なんであんたみたいなのが……ちきしょう、馬鹿にしやがって!」

 

 あろうことかライアはバッグからカッターナイフを取り出して、自分の手首に押し当てた。可愛らしい、と少し前には呑気に思えていたリストウォーマーが刃に圧されて痛々しくへこんだ。到底正気とは思えないが、しかしどうやら本気ではあるしく、悟飯は足を止めざるを得なかった。しかし、まるで理解は及ばなかった。

 

「あたしに近寄るな! さもなきゃ切るよ。死んでやるから!」

 

 自分の命を盾にしてまで、盗んだ財布を得ようという本末転倒この上ない行動に、悟飯は混乱を禁じえなかった。本当に、訳が分からなかった。

 

「なぜそんなことをするんだ。盗んだものを返すだけじゃないか。僕だって君に乱暴したくなんかない。約束するよ、君にはなにもしない」

 

「信じるもんか! 男なんて皆同じだ。どいつもこいつも!」

 

 悟飯の紛れもない本心を、ライアは頑として取り合わなかった。甘言を呈しながらも自分に危害をなすに違いないと、男はそういう生き物だとはなから決めつけているかのようだった。

 

 二人して睨み合っていると、やがて遠くからサイレンが聞こえてきて、悟飯ははっと後ろを振り向いた。騒ぎを聞きつけて、誰かが通報したのかもしれない。

 

(ま、まずい)

 

 万が一にも警察に捕まるわけにはいかない。しかし全財産の入った財布をみすみす見逃すわけにもいかず、かといって今の彼女に迂闊に近寄ったら、それこそ最悪の事態になりかねない。迷う悟飯の隙をついて、ライアはさっと悟飯の横を駆け抜けて、公園の外まで逃げ出そうとした。

 

(ええい、もう!)

 

 さすがに悟飯も腹が立ったが、しかし彼女が走り出してくれたことでカッターの刃も彼女の手首からわずかに離れてくれていた。ある意味で幸運に思いつつ、悟飯は一瞬でライアに追いつき、さきほどの男たちより何倍も慎重に、彼女の顎先を指で弾いた。あっという間に意識を失い、地面に倒れ込みそうになったライアを抱き支え、顔に傷などが残っていないかを確認する。

 

 多少赤くはなっていたが、彼女の顎には痣一つ出来ておらず、ついでに今となっては詮ないことだが、気を失って眠りに落ちた彼女はやはり結構な美人だった。

 

(は、終わった……)

 

 悟飯はようやく一息をつくも、サイレンはまだ聞こえており、こうしている今にもどんどん迫ってきている。さてどうするかと悟飯が辺りを見回した時、

 

「こっちに来な」

 

 そんなしわがれた声が聞こえた。声の方を向くと、公園入り口のすぐ近くにある小さなバーから、店の人間らしき女性が玄関ドアから顔を覗かせていた。

 

「早くしな! 入るんだよ!」

 

 悟飯は咄嗟に言われた通りにした。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 本当にお店かと悟飯が思ってしまうほど小さなバーだった。本来は別の用途に使用する部屋を、むりやり改造してバーに仕立て上げているらしく、カウンター席にはどんなに詰めても四人ほどしか座れそうになく、あとは六人がけのテーブル席が一つあるだけだ。正直狭苦しさは否めないが、しかし椅子やカウンターなどの内装はそれなりに立派なもので、きちんと掃除もされているようであり、不衛生な印象は起きなかった。

 

 まるで隠れ家のような独特な雰囲気に戸惑いつつ、悟飯は自分を招き入れてくれた店主らしき女性を見つめた。五十歳くらいだろうか。小柄だがややふくよかな、それでいて客商売のためか小綺麗な身なりをした女性だった。しかし目を合わせた悟飯が思わずたじろいでしまうほど眼光が鋭く、人の後ろめたい部分をたちまちのうちに見透かしてしまいそうな迫力があった。数年前、悟空から貰った結婚指輪を失くして意気消沈する母のため、悟飯は占いババの宮殿を訪ねたことがあったが、なんとなく彼女に近い印象を感じた。

 

「そこに寝かしな」

 

「え?」

 

「あんたが担いでいる娘だよ。そこのソファーだ」

 

 女性が顎で指す先には、六人掛けのテーブルがあり、壁際には三人ほど座れそうなソファー席があった。言われた通り悟飯はライアをそのソファー席に寝かせ、その間に女性はカウンターの中に入り、戸棚からグラスを取り出して飲み物の支度をし始めた。一つには焼酎を、一つには冷蔵庫から烏龍茶のパックを取り出して中身を注ぎ、テーブル席まで持ってきた。当然、悟飯には烏龍茶の方が差し出された。

 

「ありがとうございます」

 

「お代はいらないよ、奢りだ。あいつらにはこっちも困らされていてね。人の店の目の前で毎日のように屯ろしやがって、いい迷惑だった。あんたのおかげで一網打尽にできたことだし、これで少しは静かになるだろ」

 

 女性の言葉から、悟飯は警察に通報したのが他ならぬこの女性だということを察した。悟飯にとっても危ういところだったが、こうして匿ってくれたのだから文句はない。

 

 表ではまだサイレンの音が鳴っており、大人数があれこれと言い合っている声も聞こえてきた。通報を受けた警察が到着し、ライアの仲間たちを取り押さえているのだろう。しかしそのことにはまるで関心がない様子で、女性はライアの向かい側の椅子にどっこらしょと座り込んだ。

 

「あの、なんとお呼びすれば良いですか?」

 

「そう畏まられるほどのもんじゃないよ。あたしはチーマ。見ての通り、このボロ店の店主だよ」

 

「そうですか? 綺麗なお店だと思いますけど」

 

 世辞ではなく、悟飯はそう思った。

 

「僕は、ええと、オムスビっていいます。初めまして」

 

 まだ超化したままなので偽名で通さざるをえず、せめてもの誠意に悟飯はサングラスを外して挨拶をした。

 

「ふうん」

 

 偽名と見抜いたのか、はなから興味がないのが、悟飯の名乗る奇妙な名前にもチーマはまるで関心を持たなかった。

 

「で? あんたも、その娘の美人局にまんまと引っかかったクチかい?」

 

「え? あーその、なんと言いますか、学生でも入れるクラブがあるって聞いて、ついノコノコと」

 

「アホか。あたしらが若い頃ならまだしも、いまどきそんな店があったらあっという間にお縄だよ。風営法と言ってね」

 

「フウエイホウ?」

 

「おうちに帰ってから辞書でも引きな」

 

「はい、そうします。フウエイホウ、と」

 

 悟飯の「知らないことリスト」に新たな文言が書き加わえられた。チーマの呆れ顔に気付かないまま手帳を仕舞い直した悟飯は、そういえばまだ少女から財布を取り返していなかったことを思い出した。見るとライアは気を失いながらも未だに悟飯の財布を掴んだままでいた。

 

「すごい人だな」

 

「ああ、見上げた根性だ」

 

 二人して感心してしまったが、しかしそれはそれとして盗んだものは返してもらう必要がある。いまだ眠り続けるライアに近寄り、その手から財布を抜き取った悟飯だったが、ふと彼女の手首のことが気になった。おそらく怪我はないはずだが、念のため確認するべく彼女のリストウォーマーを丁寧に外した。

 

 結果として、怪我はあった。ひどい傷だった。ただし先ほど付いたものではない。糸のように細いミミズ腫れが彼女の細い手首に何筋も走っており、まるで子供の悪戯書きのようだった。どれも昨日今日にできた傷ではない。数ヶ月、あるいは一年以上前から定期的に繰り返し刃物で切り裂かれなければ、こうはならない。世情に疎い悟飯でも、こういった異様な傷がどういう事情のもと生じうるのかは知っていた。何を言えばいいのか、何を思えばいいのかも分からず、悟飯は言葉を失った。

 

「驚くこっちゃないだろ。世の中、何十億って人間がいるんだから、そりゃ色々いるさ」

 

 チーマがグラスを煽りながらこともなげに言うが、到底悟飯は納得できなかった。かといって何かを言い返すこともできず、とりあえず財布だけはきちんと取り返し、一応中身を確認してからポケットに仕舞った。

 

「この人、さっきの連中の一人の恋人のようでしたけど」

 

「あたしには、そんな良いもんには見えなかったけどね。さっきの連中は、下町の方の学生らでね。この子は最近になってグループに加わった子で、フーリオって奴に取り入って同棲までしてたらしい。やれスリやら万引きやらをやらされたり、碌な扱いを受けちゃいなかったが、まぁ家賃代わりとでも思ってたのかね。馬鹿な子さ」

 

「詳しいですね」

 

「言ったろ? 目の前の公園で毎晩のように馬鹿騒ぎされてたんだ。いやでも聞こえてきちまう。あそこで袋叩きにされた奴も、あんたが初めてじゃなくてね。全員返り討ちにしちまったのは、あんたが初めてだけど」

 

 お陰で全員警察に叩き込めたよ、ともう一度女性は悟飯に礼を言ったが、悟飯は到底受け入れる気にはなれず、何も答えなかった。女性は気にした様子もなく、テーブルの上に置かれていたライアのバッグを乱暴に漁り出した。

 

「よ、よくないですよ、人の荷物を」

 

「こうでもしないと連絡先が分からないだろ? 同性のよしみで警察送りは勘弁してやってもいいが、ここに居座られても困るからね。家か学校だけでも……ありゃ」

 

「どうしたんです?」

 

「養護施設のカードが出てきた。親なしみたいだな、この子。死んでるのか、引き離されたのか」

 

「……」

 

「しかもよりにもよってここか。まぁいい、連絡先は分かった。ちょいと奥で電話してくるから、その子を見張っててくれるかい」

 

「ええ、分かりました」

 

「変なことすんじゃないよ」

 

「し、しませんよ」

 

 強く否定したものの、チーマの姿が見えなくなってからも悟飯はなんとはなしにライアの寝顔を眺め続けた。無論悪さをするつもりは毛ほどもないが、彼女に強い関心を寄せていることは否定できない。

 

 ライアのような少女と、悟飯は初めて出会った。親元から離され、養護施設に身を置く少女。不良学生と恋仲になり、日々スリや万引きに身をやつし、初めて出会った男と躊躇いなく抱擁を行え、心にもない恋の言葉をすらすらと言えてしまう娘。

 

 嘘とはいえ、曲がりなりにも初めて悟飯に好意を告げてくれた女性を、悟飯は怒りこそすれ到底憎めそうになかった。なにも仲直りをしたいわけではないが、積極的に不幸になって欲しいとも思えず、そしてもし彼女が今まさに不幸の真っ只中にいるというのであれば、悟飯は自分に出来ることを探さずにはいられなかった。自分は普通の人間ではない。日頃の学校生活では邪魔なだけの力だが、ならばせめてこういう時、他人の役に立てられないのだろうか。眠るライアの正面の席に座り、彼女の寝顔を見つめながら、悟飯はそんなことを考えた。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

「この子が、あんたを的にかけようとした気持ちがわかるよ」

 

「え?」

 

 電話を終えたのか、いつの間にかチーマが灰皿を持って近くに立っていて、悟飯の横顔を無遠慮に見下ろしていた。彼女の接近に気づかなかったことにも驚いたが、そのあまりにも鋭利な眼差しにも悟飯は気圧されるものを感じた。占いババは水晶玉を使ってこの世の事実を探り当てるが、彼女はさながら人の瞳を使って、その人の真実を解き明かしてしまいそうだった。

 

「あんたが普段からそんな格好をしてないってのは、一目見りゃわかるよ。全く着慣れちゃいないし、ズボンもまるで合ってない。靴だって普通のまんまだ。派手に髪を染めて、サングラスとTシャツだけそれっぽいものを着てみたってところかい?」

 

 次々と言い当てられ、悟飯は顔が真っ赤になった。まるでナイフのような鋭さで、チーマは悟飯を丸裸にしていった。

 

「髪は……生まれつきです」

 

「そうかい? そういや、確かに染めてる感じじゃないね。済まなかった、妙に似合わん気がしてね」

 

「は、はは。あとは全部正解です。すごいですね」

 

「全くすごかないよ。この子もきっとすぐに分かったろうさ。さぞ癪に触ったろうよ」

 

「癪、ですか?」

 

 チーマは灰皿を机に置いて、悟飯の隣によっこいせと座った。そして懐からシガレットケースを取り出し、一本を口に加え、手慣れた手つきで火を付ける。やはりタバコは大人のものなのだろうな、と悟飯はどうでもいいことを思った。

 

「帰れる家があるのに帰らない奴ってのは、この手の奴にとっちゃ一番腹が立つのさ。あそこで屯ろしてた連中も同じだ。奴らも多かれ少なかれ家に帰れない奴らばかりだからね。親が悪いのか、本人が悪いのかは知らんけど」

 

 紫煙を天井の方に吐き出しながら、悟飯の方を見ずにチーマは言葉を重ねていった。さきほどから悟飯が彼女の目に怯んでいるばかりなので、気を使ったのかもしれない。

 

「あんたんとこはどうなんだ? あんたの親は悪い親か?」

 

「いいえ。一度もそう思ったことはありません」

 

「だろうね。こうして少し話をしただけでも、あんたが心根の真っ直ぐな良い子ちゃんだってことはよくわかる。親御さんからきちんとした愛情と教育を受けてきたんだろうね。あたしに言わせりゃ、それ以外に人間に必要なものなんてない。あとのものは何だって贅沢だ」

 

「親の、愛情……」

 

「さっき施設の奴と少し話をしてね。こいつ、義理の父親と上手くいってなかったらしいよ」

 

 職員から聞いたことを、チーマはごく簡単に説明してくれた。現在十七歳のライアは、十歳の頃に実の父親を亡くしていた。数年後に彼女の母は別の男性と結婚したが、経緯も時期も不明だが、いつしかその男性からライアはしばしば乱暴されるようになったという。

 

「その、乱暴っていうのは……?」

 

「さぁ? そうとしか言わなかった」

 

 やがてそれは児童相談所の知るところとなり、当時十四歳であったライアは親から引き離され、養護施設へと送り込まれた。そのこと自体はライアも喜んだようだが、やや過度な人間不信に陥っていた彼女は施設にもあまり馴染めずたびたび脱走を企て、そして脱走した先でも窃盗なり売春なりで警察を騒がせる問題児であったらしい。

 

「よくそこまで話してくれましたね」

 

「知ってる奴だったからな。蛇の道は、てやつさ」

 

 そうしてつい二ヶ月前にも施設から何度目かの脱走を果たし、以来行方不明になっていたとのことだった。当然、警察にも届けられていて、写真なども送られていた。今日のことがなくても、おそらく時間の問題だっただろう。

 

 よくある話だとでもいうように、退屈そうな顔でチーマはタバコをぷかぷかと吹かし、そしてそれとは対照的に、彼女の説明が進むたびに悟飯はどんどんと表情を沈痛にさせていった。

 

「家族が、敵だったんですね。彼女」

 

「みたいだね」

 

「どういう気持ちなんでしょうね。そういうのって」

 

 世の中には数多くの理不尽や不幸が存在することを悟飯は知っている。都会慣れしてなかろうが関係なく、生きてさえいれば誰もが自ずと学ぶことであった。ましてや悟飯はこれまで常人の幾十倍もの血生臭い世界に生きてきた。次々と殺されていく仲間達、虐殺されるナメック星人たち、未来の世界でたった一人絶望に抗う少年、そして自爆するセルと運命を共にした父。さまざまな悲劇と悲哀を悟飯はその目で見てきた。

 

 だが家族だけはあった。優しい家族、暖かな家族だけは当たり前のようにあった。様々な悪意や悲劇により、当時まだ十歳にも満たない少年の心にどれほど深い傷が刻まれたとしても、その傷口に手を当て癒してくれる人々がいた。

 

 ではライアはどうなのか。彼女を取り巻く境遇も、これまで彼女が何を思い、どのように生きてきたのかも悟飯にはわからない。ただチーマから聞いた簡素な経緯と、そしてライアの傷だらけの手首だけが、彼女の人生の一面を言葉無しに物語ってくる。さきほどの公園でも、彼女は不自然なまでに悟飯を恐れ、ついには自分の手首に刃物を押し当ててまで悟飯を押し留めようとした。これまでにも、彼女はそうやって自分の身を守ってきたのだろうか。守らなくてはならなかったのだろうか。

 

「僕の家族は、いい人たちです。心から愛しているし、愛してくれました。そういうのは、当然のことだと思ってました。家族っていうのはそういうものだと」

 

「そうかもね。あんたが言っているのはわりと普通のことで、なんも特別じゃない。ただ、そんな普通のことを運悪く神様から貰えなかった奴もいるってこった。そういうやつにとっちゃ、あんたみたいな普通の子がこの上なく憎たらしく思えるのさ」

 

 ライアを見ながらチーマは言うが、悟飯には、まるで彼女自身の過去を指して言っているようにも聞こえた。ライアを助ける理由について、同性のよしみとチーマは先ほど言っていたが、ひょっとしたらそれだけではないのかもしれない。

 

 そしてなにより、チーマが何気なくこぼした「普通の子」という言葉が、悟飯の胸に深く突き刺さっていた。悟飯が全く普通ではないことをチーマは知らない。七、八人の不良グループを叩きのめしたのだから、見た目によらず喧嘩が強いくらいには思っているかもしれないが、不良はおろか恐竜が束になっても悟飯には手も足も出ないのだということを彼女は知らない。

 

 しかしそれでも、ある一面においては悟飯が紛れもないごく普通の凡人であることをチーマは正しく見抜いていた。普通では無い悟飯は、そのために多くの人がしなくても良い苦労をしているが、その代わりにいつの時代にも世の一定数の人々に与えられている、家族に虐げられる、家族から身を守らなくてはならないという苦難とは一切無縁でいた。悟空やチチが自分に悪意を抱き、暴行を加えようとするところなど悟飯は想像したこともなく、またそれは、想像するだに心胆が震え上がるほど恐ろしく、悲しいことだった。一度は父を超え、この惑星に並ぶ者のない強者となった悟飯だが、そんなことは関係なしに、思わず目の奥に熱を感じてしまうくらい、本当に悲しいことだった。

 

 比べても詮ないことだと分かってはいるが、それでも悟飯は自分と彼女の人生を秤にかけずにはいられなかった。どんなに普通でなくとも家族が、加えて厳しくも優しい師が、多くの暖かな先輩たちが悟飯にはいた。苦しいこと、辛いことも多々あったが、断じてそれだけの人生ではなかった。

 

 一方ライアは、おそらく厳しい修行も、命のやりとりも経験してはいまい。仲間達の命や地球の命運を背負ったこともないはずだ。それでも、それらを背負わなくて済む代わりに、彼女に与えられた様々な苦難があり、それらを思うと悟飯は胸を掻きむしられるような気持ちになった。

 

「あの、チーマさんは?」

 

「んん?」

 

「ご家族とかは……」

 

「一人っきりさ。以前は旦那がいたんだけどね」

 

「この方ですか?」

 

 壁にかかっている写真の一つを見上げながら悟飯は尋ねた。いまよりもほんの少し若いチーマと、彼女と同年代くらいの体格のいい男性が仲睦まじそうに寄り添い合いながら写っていた。

 

「ああ。いい男だろ?」

 

「ええ、迫力のある方ですね」

 

「軍人だったからね。七年前に死んじまったけど」

 

 七年前といえば悟飯が九歳の頃である。悟飯にとって生涯忘れることのできない年だった。加えて、その七年前に王立防衛軍所属の軍人が死んだと言う点にも、悟飯は大いに思い当たることがあった。

 

「まさか、セルに」

 

「よく知ってるね。あんたが小学生くらいのときの話さ」

 

 七年前、メディアの前に姿を現して全世界に己の存在を知らしめたセルに対し、王立防衛軍が二個大隊をもって攻撃を仕掛けた事件がある。世界最強を誇る防衛軍の二個大隊といえば、最大の都市である西の都を二度焼け野原に出来るほどの戦力を持つ。それだけの大部隊がセル一人に差し向けられ、そして瞬く間に返り討ちにされた。何千何万という銃弾、ミサイル、航空爆撃はセルの甲殻に傷一つ与えられず、部隊はあえなく全滅した。

 

「でも、あのときの人たちはみんな」

 

「ああ、どういうわけか帰ってきた。遺体を確認されたり、戦車ごと爆発してバラバラになったやつもいたのに、それでも帰ってきた。テレビじゃ奇跡だなんだって誉めそやしてたけど、でも全員じゃなかった」

 

 チーマは天井へ向けて、紫煙と共に胸の内のなにかしらを吐き出した。

 

「昔にも一度、こんなことがあったんだ。あんたが生まれるよりずっと前の話さ。ピッコロ大魔王っていう別口の化け物がキングキャッスルを襲ったことがある。王宮にいた軍人が皆殺しにされて、その中にあたしの旦那もいたって聞かされた。でもね、そのときは戻ってきてくれたんだよ。理由は分からないけど、まぁ、そんなのはどうでもよかった。あのときほど神様に感謝したことはなかったなぁ」

 

 しかし奇跡は二度は起こらなかった。悟飯であればこそ、事情を察することができた。彼女の夫は、父が幼い頃に倒したというピッコロ大魔王に一度殺されて、そしてドラゴンボールによって蘇ったのだ。あらゆる願い事を叶えるドラゴンボールだが、いくつか制約があり、その中の一つに同じ人間を二度生き返らせることはできないというものがある。セルを討ち果たしたのち、悟飯たちはセルによって殺された人々を生き返らせるよう神龍に頼んだが、その制約によって彼女の夫は適用外とされたのだ。父・悟空と同じように。

 

「……」

 

 悟飯は黙したまま、その写真に向けて手を合わせた。型通りの挨拶と、冥福を祈る文句と、そして謝罪を捧げる。謝って済む問題でもなければ、そも自分が謝るべきことなのかどうかも分からなかったが、とにかくそうせずにはいられなかった。

 

 やがて、チーマは「おっと忘れてた」とポンと手を打った。

 

「そうだった。養護施設の人間がいまこっちに向かっているんだった。ほれ、いつまでものんびりしてないで、とっとと帰んな。あんたのことは話しちゃいないし、面倒だから鉢合わせはゴメンだよ。どういう風の吹き回しでこんな時間までほっつき歩いているのか知らんけど、親が心配してんだろ」

 

「親は……ひとまず大丈夫です。嘘を吐いてきたので」

 

「ほう、そりゃいいことだ。お前さんの言うことを信じてくれる素敵な親が、あんたにゃいるってこった。ちったぁ大事にするんだね」

 

 皮肉たっぷりに言ってのけるチーマだったが、彼女の想定以上に、その言葉は深く悟飯の胸を抉った。とうとう悟飯は、肩を震わせずには居られなくなった。

 

「はい、そうですね。ほんとそうです。僕が馬鹿でした。だめだな僕は。そんな当たり前なことに、今になって気付くなんて……」

 

 あとは言葉にならず、悟飯は乱暴に席を立ってチーマに背を向けた。間違っても嗚咽など漏らさぬよう自分の腕をかき抱き、万力のように締め付けた。それでも胸の震えは収まらず、チーマのバツの悪そうな視線を後頭部に感じながら、悟飯は意地になって壁にかけられている夫婦の写真を見上げ続けた。

 

 おそらく子供を持ったことのないチーマは、こういった場面を経験したことがないのか、珍しく困ったように頭を掻いた。

 

「泣くこたないだろ。その、済まなかったね。言いすぎたよ」

 

「いいえ、僕こそすみません。なんででしょうね、涙が、急に。なんか恥ずかしくて……自分がとても恥ずかしくなって……」

 

 悟飯は今日、一つのことを学んだのだ。それはさして目新しい内容ではない。言葉としてならずっと前から知っている、当然の知識とすら言えることだった。

 

 世の中には色々な人間がいて、一人として同じ人間はいない。能力的にも、境遇的にも、誰もが何かを与えられ、何かに欠けている。何かに恵まれて、何かに飢えている。チーマも、ライアも、あるいはひょっとしたら学校のみんなすらも。そんな常識とすら言える至極当たり前のことを、悟飯はいま初めて、己の心で学んだのだ。

 

 なにもこの世を幸せ一杯の宝島と思っていたわけではない。それでも悟飯は、この世に生まれ落ちた人間の一人として、多くの不幸を宿さずにはいられない、決して幸福だけで満たすことのできない世界という名の器の不出来さを悲しんだ。

 

 そしてその世界の中で、ただ一人特別な苦悩を抱える孤独な存在だと思い込んでいた自分を、悟飯は心から恥じた。自分に与えられたもの、恵まれたものに一切を目を向けず、ひたすら不足と欠落を嘆くばかりであった今までの自分があまりにも恥ずかしく、到底誰にも顔向けできないまま、悟飯は二人の写真を見つめ続けた。

 

「……チーマさん、セルは、セルは倒されました。貴女のご主人を奪った怪物は、今はもうこの世から跡形もなく消え去って、きっとあの世で相応の報いを受けていると思います」

 

「ああ、知ってるよ」

 

「少しは、無念が晴れてくれたでしょうか。チーマさんやご主人の心に、少しでも……」

 

 チーマは肩をすくめて、やはり彼女らしく無愛想に言った。

 

「七年前のことだ。いつまでも悲しんじゃいらんないよ。でも、少なくとも感謝はしているさ。あたしゃ正直あのお調子者のサタンが世界を救っただなんて疑わしいと思ってんだけどね、でもあいつか、もしくは他の誰かがセルを倒してくれたのは確かだ。そいつには本当に感謝しているんだ。きっと、旦那もね」

 

 悟飯は少し息を詰まらせたのち、腕で乱暴に涙を拭った。そしてチーマの方を振り向き、顔中をびしょ濡れにしたまま、深い深い笑みを零した。すでに気持ちの整理を付けている彼女を敬愛する笑みであり、そして心から感謝する笑みだった。

 

 彼女の言葉によって、悟飯は救いを得た。彼女の言葉を通じて、ほんの少しだが悟飯は、自分のことを一つ好きになれた。

 

「今夜は色々とありがとうございました。これからすぐに家に帰ります」

 

「ああ、そうするといい」

 

「あの、一つお願いしてもいいですか?」

 

 悟飯は手帳のページを一枚ちぎり、そこに自宅の電話番号と、簡単なメッセージを書き殴った。

 

「これを彼女に渡して欲しいんです」

 

 その紙を受け取って、チーマはちらりと中身を見た。そこにはこう書かれていた。

 

 ――君に乱暴しない男だって、世の中にはたくさんいるよ。嘘だと思うなら、なにか困ったことがあったとき、ここに連絡してみて欲しい。それが悪いことじゃない限り、僕は君を助けます。タバコ、ご馳走様でした。

 

 チーマは面白げな顔をして、悟飯の顔をまじまじと見た。

 

「あんたみたいなお人好しは初めて見るよ。親の顔が見てみたいね、いい意味でさ」

 

 これ以上ない褒め言葉に、悟飯は同じくこれ以上ないくらいの、満面の笑みを浮かべた。

 

「受け取って貰えるでしょうか、これ」

 

「どうだろうね。あたしも昔、帰る家がない時期があって、そういうときはあんたみたいな奴を一番憎たらしく思ったけど、でも今思えば、結局のところ一番求めていたのもやっぱりあんたみたいな奴だった気がするね。とりあえずこいつは、きちんと渡しておくよ」

 

「ありがとうございます。また、ここに来ても良いですか?」

 

「お断りだよ。子供の来る店じゃない」

 

「そう言わず、ぜひ来させてください。今すぐじゃありません。お酒を飲める歳になったら、まず最初にここに来たいんです」

 

 なんであれば彼女も一緒に。言葉には出さずに、悟飯は未だ眠り続けるライアの方を見た。実現する当てなど全くないが、もし何かが働いて、万が一そうなれたらとしたら、それはとても素晴らしいことのように悟飯には思えた。

 

 彼女も同じようなことを考えたのか、このとき初めてチーマは笑顔を見せた。

 

「ああ、だったら大歓迎だ。その時は酒の飲み方を教えてやるよ」

 

 初めて見る彼女の笑顔は、口の端だけを釣り上げるような、いかにも意地悪げなものだったが、それでも悟飯はなぜかそれを母に似ていると思った。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 こうして悟飯の夜遊びは終わった。涙は依然として止まらず、それでも悟飯はどこか晴れやかな面持ちでビルの屋上に立っていた。いまだ賑わい続ける地上の星々を眼下にしながら、しかし悟飯はもうそれを遠い世界のものとは思わなかった。

 

 この世には何十億という人間がいて、同じ数だけの数奇な運命がある。つい先ほどまで、この街で一人ぼっちのように思っていた自分が、実際のところは千差万別多種多様な事情を抱える何千何万という人々の中の、ほんの一人でしかないのだと悟飯には分かったのだ。

 

 彼の抱える悩みは確かに根深く、極めて希少であり、同じ悩みを抱える者など早々見つからないだろう。それでも、悩みのない人間などこの世にはいない。ライアやチーマのように誰もが何かを抱え、何かと戦いながら生きている。他人との不幸比べなど不毛甚だしいが、それでも悟飯はいま、自分は決して一人ではないのだという奇妙な安心感を覚えていた。

 

(さぁ、家に帰ろう) 

 

 長く回り道をして、ようやく悟飯はそう思い至ることができた。チチも悟天ももうとっくに寝ている頃だろうが、それでも一刻も早く家に帰り、二人の顔を見たかった。

 

 しかし、これも彼を取り巻く運命なるものなのか、今宵彼にもう一つだけ、果たさなければならない使命が生じた。

 

 繁華街の一角から、けたたましいサイレンの音と、そして銃声らしきものが聞こえてきた。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

「いやー、歩いた歩いた。あー疲れた」

 

「だらしない。デパートを回っただけじゃない」

 

「なに言ってるの。そのあとデパートの外を散々連れ回したのはビーデルじゃない。美味しいパスタ屋を見つけたから教えてあげるなんて言ってさ」

 

「だって今日が定休日だなんて知らなくて」

 

「知らなくてじゃ済みませんー。デートの基本が成ってませんー」

 

「な、なにがデートよ」

 

「えー違うのー? あたし寂しー」

 

「ええい、重い。放しなさい」

 

 ふざけて腕にしなだれかかってくるイレーザに、ビーデルは文句を言いながらも強く振り払えず、渋面を浮かべた。そんな風に戯れ合いながら、金と黒の少女二人は、連れ立って夜の繁華街を呑気に歩いていた。

 

 悟飯に劣らず結構な時間まで夜遊びに耽っていた二人だが、実の所これはビーデルの方から誘ったものだった。今日の下校時刻直前に、ビーデルの携帯コンピュータにまたもや父から帰りが遅くなる旨の連絡が入り、いい加減彼の放蕩ぶりにうんざりしたビーデルは、憂さ晴らしに今日は思いっきり夜遊びしてやろうと心に決めた。とはいえ一人では虚しいのでイレーザにも付き合ってもらえるよう頼み込んだのだ。

 

 仕方なさげにしながらも快諾したイレーザは、一応その旨を自分の親にも連絡したが、簡単に許可が降りた。昔から家族ぐるみの付き合いのため、彼女の親もビーデルのことをよく知っており、同性かつ有能なボディガードも兼任できる彼女と一緒であれば、街の明るいところをうろつく分にはうるさく言われることは全く無かった。

 

「まぁでもさすがにもう遅いわよね。そろそろ帰りましょうか」

 

「うん、私の飛行機で送るわ」

 

「でも燃料代、高いでしょ」

 

「いいの。今日はわたしが付き合ってもらった形だから、きちんと家まで送るわ」

 

 時刻も九時四十分を回っており、繁華街から二人の家までも少々遠いのだが、ビーデルが家庭用航空機の免許と、さらにカプセル化した現物を持っているため帰りには全く支障はなかった。比較的裕福な家庭の子女が多いオレンジスター・ハイスクールでも、彼女くらいの年頃でそんなものを持ち合わせている者はそうはいない。

 

 さすがに歩道のど真ん中でカプセルを開封するわけにもいかないので、二人は腕を組んだまま手近な広場を探して移動を再開した。

 

「たまに思うけど、ビーデルってほんと男前よね。あんたが男だったら、あたし今頃テイクアウト用にお包みされちゃってるなー」

 

「あんたね……」

 

 かくいうビーデルも、もし自分が男だったらきっとイレーザをみすみす新参者に奪わせたりなどはしないだろうと想像できた。昔からイレーザには妙に懐深いところがあって、同い年でありながらビーデルは彼女を母のようにも姉のようにも思ってきた。その昔に実母が亡くなって、サタンもビーデルも塞ぎ込んでしまい家全体が暗澹とした雰囲気になった時期があったが、そのようなときにもイレーザはいつも笑顔でビーデルの下を訪ねてくれ、その明るさに随分と励まされたものだった。

 

「あんたも、もう少し男を見る目を上げればいいのに。気の弱そうなのばっかり選んでないでさ」

 

「違うんだなー。あたしは心の綺麗さを見てるわけ。変に気取ったり擦れたりしてないで、綺麗なものを綺麗と思える純粋な人が好きなの」

 

 その点、イレーザから見る孫悟飯という少年はいたって純粋で、何にも染まっておらず、それだけにこれからさきどんな色にも染まってしまいそうな危うい透明さを有していた。その透明さを、イレーザは、失ってはいけないと強く思うのだ。妙なものに染まって欲しくなく、そしてあわよくば自分の手で、自分の思う綺麗な色、明るい色、幸せな色に思う存分彩ってやりたいと思うのだ。

 

「ビーデルには分からないかなー、この大人の趣味は。あんた昔から結構少女趣味だしね」

 

「そ、その話は止めてって言ってんでしょ」

 

 途切れる気配のまるでない二人の掛け合いは、しかしビーデルの腕時計から鳴る無機質なアラームにより不意に断ち切られた。携帯コンピュータよりさらに小型ながら、通信を始めとして様々な機能を有している高性能腕時計は市販されているものではなく、警察から特別に貸与されている官給品だった。そのためこれが鳴るときの用件も限られており、ビーデルはさっと顔色を変えて呼び出しに応じた。

 

「はい、こちらビーデル」

 

「リッチアベニューの宝石店にて強盗事件が発生。犯人は五、六人のグループ。飛行式の黒いバンにて現在ルート69をミッドタウン方面へ逃走中です。追跡しているパトカー部隊と撃ち合いになっている模様」

 

「ルート69をミッドタウンへ? 目の前の通りじゃない!」

 

 ビーデルが言い終えない内から、けたたましいサイレンの音と、そして銃撃戦らしき激しい音が遠くから聞こえ、そしてそれはみるみるうちに二人の方へと近づいてきていた。ルート69とはいま二人が差し掛かっている交差点を東西に横断する道であり、そして通信相手が言っていた反重力で飛行するタイプの黒いエアバンは、他の車の頭上を飛び越えながら、猛スピードでその交差点に突っ込んできた。

 

 古くからサタンシティに住んでいるイレーザとビーデルは素早く避難を開始したが、さすがに今回は運とタイミングが悪すぎた。追跡するパトカーを振り切るために、エアバンはあろうことか交差点をビーデルたちがいる方向へと急旋回してきた。

 

 事態は、凄まじい勢いで次々に最悪な方向へと流れていった。突然横腹を見せた逃亡車両に、追跡を行っていたエアパトカー部隊の中の数人が、反射的に走行中の窓から発砲を行なった。訓練の賜物か周囲に流れ弾が及ぶことはなく、放たれた銃弾のいくつかがバンの反重力発生装置に命中し、装置は緊急停止。旋回中であったバンは完全に制御を失った。暴れ馬も同然となったバンはガードレールを薙ぎ倒しながら車道を外れ、よりにもよって歩道を走るビーデルたちのところへ切り揉みしながら突っ込んできた。

 

「イレーザ!」

 

 夢中で走るイレーザに対し、後方の警戒を怠らなかったビーデルはすぐに事態を察し、隣を走るイレーザを全力で横方向に突き飛ばした。拳法にも通じる体全体を使った体当たりに、イレーザの体は軽々と宙を舞い、そうして見事親友を安全圏まで逃がしたビーデルだが、しかしそれ以上の行動は許されていなかった。

 

 さならがらライフルの弾のように回転しながら飛来するバンは、まるで引き寄せられるようにビーデルへ向けて正確な軌道を描いており、すでに激突まであと一、二メートルほどのところにまで迫っていた。時間にすれば二秒とかからない距離であり、それしきの猶予ではビーデルといえど安全圏まで駆け出すことは愚か、地面に伏せることすらもできなかった。

 

 宙を飛ぶ二トンを超える車体に激突されれば、いかに優れた武道家であるビーデルであろうと万が一にも無事はありえず、無惨な轢死体が一つ出来上がることが物理法則のもと確定していた。

 

 迫り来る車体。推定時速六十キロの圧倒的質量。一秒後の死を察し、凍りつくビーデル。イレーザが金切り声を挙げ、予想されるあまりに惨たらしい光景に、多くの通行人が咄嗟に目を背ける。

 

 そして、その全てを置き去りにして、一つの影が疾る。惨劇を打ち砕くべく、その金色の影は彼方より飛来して、彗星の如く尾を引きながら音をも超えて夜の街を疾走した。

 

 サタンシティに、再び黄金の風が吹き荒ぶ。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 宙を舞うバンと、その向かう先にいる二人の少女を遠方より悟飯が視界に捉え、即座に超音速での飛翔を開始し、そして現地に辿り着くまではおよそ七秒ほどのことだった。その七秒の間に悟飯は思った。いかな彼とて、あれこれと悠長に考え事の出来る時間ではないが、しかしそれでも確かに思った。

 

 ああ、強くてよかった。僕は強くてよかった。父さんとピッコロさんの教えがあってよかった。サイヤ人の血があってよかった。それがあったから、僕はこうして音よりも速く空を飛べる。本当に、強くて良かった。

 

 気が巡り、満ちて、溢れる。体内のエネルギーが際限なく燃え盛り、黄金の炎となって皮膚の外にまで吹き上がる。石が黄金に、星が太陽へと変わる。

 

 苛立ちに任せて無秩序に放出するためでも、夜遊びのために不良を装うためでもない。見知った二つの顔、金と黒の少女たち。かたや明るく、かたやややぶっきらぼうで、しかしいずれも等しく心優しい級友たちの危機に、悟飯は躊躇うことなく己の全エネルギーを解放させた。胸の内の暗雲を振り払い、その心が正しき怒りと正しき闘志に染まる時、少年の体は今こそ光り輝き、かつてこの惑星の未来を救った地上最強の戦士の姿を再誕させる。

 

 周囲と異なる力を持つことで、周囲と同じ生き方ができないのは苦しいことだった。しかしその苦しさがあればこそ、彼は今日夜遅くまでこの街にいて、ライアと出会い、チーマと出会い、そしてこうして二人の友人の危機に立ち会うことができた。

 

 運命というものが本当にあり、人の過去と未来を司っているのだとすれば、悟飯は自分の運命に感謝した。今日のこの時間に、自分をこの場に遣わせてくれた全てのものに感謝した。自分はこの街にいて良かったのだと、悟飯は今なら心から信じることができた。

 

 そして悟飯はたどり着く。彼が全速力で空を駆けている間にも、友人の一人は迫り来るエアバンの弾道からもう一人を身を挺して逃がしていた。その尊敬すべき黒髪の少女と、迫り来るバンの間に悟飯は落雷の如く降り立ち、彼女に倣うように身を挺して立ち塞がった。ここまでくれば恐れるものは何もない。たかが二トンの質量が如何ほどのものか。この惑星にて生じうる、あらゆる暴力や理不尽を結集させようと孫悟飯は倒せない。なぜなら彼は、

 

(孫悟空の息子ですから)

 

 その宣告とともに繰り出された右脚は、二トンを何十倍かしてさらに二乗したほどの威力をもって迫り来る車体にぶち当たった。強盗犯を乗せたエアバンは、少なくともこのときばかりは誰一人の命を奪うことなく、まるで砲弾のように天高くへとかっ飛んでいった。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 普通の人間であれば絶体絶命の状況をただの一撃で覆し、悟飯はふうと溜め息を吐いた。彼にしてみれば車を蹴飛ばすこと自体はどうということはなく、なんであればトラックを使ってリフティングだってやってみせるが、流石に今回は時間と距離的に非常にギリギリの仕事だった。

 

「き、金色の戦士だ。本当にいたんだ」

 

「今の見たか? サッカーボールみたく、バンを蹴飛ばしやがったぞ」

 

 ざわめき立てる通行人や警官たちを他所に、悟飯は背後を振り向いた。さすがに腰を抜かしたか、ビーデルは地面に女の子座りをしながら呆然と悟飯の方を見上げており、その数メートル先ではイレーザもまた同じような状況だった。こちらはビーデルに突き飛ばされたせいか、服は埃まみれで髪も乱れてと中々にひどい有様だが、少なくとも二人とも怪我はなく、無傷と言ってよさそうであった。

 

 超化した状態では顔を合わせたくない二人であるが、幸か不幸か不良少年スタイルに身を固めた今の悟飯であれば正体に気付かれる恐れはなく、悟飯は頼もしげに顔に掛けているサングラスの位置を直した。

 

 二人の無事を確認し終えたところで、未だ空を急上昇中であろうバンを追いかけ、悟飯もまた地を蹴った。咄嗟に思い切り蹴り上げてしまったが、このまま放っておけばいずれは地面に墜落し、鉄と人肉のハンバーグが出来上がってしまうだろう。犯罪者とはいえさすがに放ってもおけず、悟飯は再び夜空を雷の如く駆け上った。

 

「き、消えたぞ」

 

「空だ。空を飛んだんだ」

 

「な、なんなんだ一体。俺は夢でも見てるのか?」

 

 取り残されたビーデルは周囲のざわめきも、顔見知りの警官に無事を尋ねられても何も耳に入らない様子で、金色の戦士が飛び去った方角を魅入られたように見上げていた。

 

 噂の金色の戦士の姿形を、ビーデルはその目でしかと見た。全身が正体不明の黄金の炎に包まれていたため、顔の細かな造形までは見て取れなかったが、思ったよりも歳若く、自分とさほど違わない年齢に見えた。その名の通り金髪で、悪趣味なサングラスを掛けていて、服のセンスもやや怪しかった気がする。

 

 しかし見かけなどどうでも良く、問題は彼がサタンシティと名のついたこの街に住む、父よりも強い男だということだった。あのような超人的な力を見せつけられれば、本音のところでは父を敬愛するビーデルとてそう認めずにはいられない。横転して突っ込んでくるエアカーを空高くまで蹴り飛ばすなど、自分は愚か父にすらできはしない。

 

 助けてくれたことへの感謝、その凄まじい力への敬意、一人の武道家としての嫉妬、また英雄サタンの一人娘として、その名を汚す輩への怒り。思うべきことはいくらでもあったが、しかしいまこの瞬間のビーデルの心にはそのどれもがなく、その代わりにひどく場違いな、今の状況とはなんら関わりのない幼少時の記憶が、まるで鐘が鳴るように呼び起こされていた。

 

 ――ねえイレーザ聞いて。『森の国の王子様』の話! 王子様とヒロインの出会いのシーン!

 

 ――えー、またその話ぃ?

 

 ――いいから聞いてよ! あれはそう、舞踏会の前日。馬車に轢かれそうになったヒロインを、王子様が颯爽と助けに来てくれるの。風の精霊の力で宙を舞い、宝石の鎧に身を包んで、太陽のような金髪を風にたなびかせて!

 

 ――たなびくってなあに?

 

 ――わかんない! そして王子様は退屈な屋敷からヒロインを連れ去って、見たこともない世界へと連れて行ってくれるの。それで最後は……きゃー恥ずかしい!

 

 ――はいはい、良かったねー

 

 他愛無いやりとりであり、今となっては恥ずかしい記憶でもある。辛抱強く付き合ってくれたイレーザには感謝しかない。

 

 そんな昔の記憶が、なぜ今になって呼び起こされているのか、ビーデルには分からなかった。自分の心ながら、本当に、訳のわからないことだった。

 

 茫然自失とし続けるビーデルだが、それも長くは続かず、イレーザが声も掛けずに背後から抱きついてきたことで我に帰った。

 

「バカ」

 

「イレーザ?」

 

「バカバカバカ。ほんとあんたってバカ。もう知らない。ほんとに……あんたって……」

 

 その後もビーデルをきつく抱きしめながら、何度もバカバカと繰り返すイレーザの嗚咽まみれの声に、ビーデルもまた感極まり、まるで堤防が決壊したかのように、あっという間に目から涙が溢れ出てきた。今になって体が震え出し、歯がガチガチと鳴った。ろくに動かせない体を必死に動かしてイレーザの胸元に頬を擦り寄せると、イレーザもまた子供に対してそうするように、ビーデルの頭を胸にかき抱いた。

 

「怖かった」

 

「うん」

 

「死ぬかと思った」

 

「うん」

 

 そうして少女二人は固く抱き合ったまま、人目を憚らずに大泣きし合った。互いの涙で濡れ鼠になりながらわんわんと喚き合い、互いの無事を全力で喜び合った。

 

 とにかく二人とも無事だった。今の二人にとって、それ以上に大事なものはなかった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ところ変わってサタンシティより千キロほど東。名峰パオズ山の麓にある孫家の家では、夜も遅くに母親のチチが一人リビングのソファに座りながら、ちまちまと編み物に取り組んでいた。時刻はすでに夜十時を回っており、早寝早起きが信条の孫家ではとっくに家中の明かりが消えているはずの時間であるが、今日だけはそうするわけにはいかず、チチは懸命に眠気を堪えながらせっせと編み棒を動かしていた。別に急ぎでセーターなりマフラーなりを拵えなくてはならない事情があるわけではない。ただ長男の帰りをこの目で確認するまで、今日は何がなんでも眠らないとチチは心に決めており、編み物は単なる暇つぶしに過ぎなかった。

 

 始まりは今日の夕方ごろのことだった。悟天の相手をしながら夕食の支度に取り掛かっていたところに、一本の電話が掛かってきた。

 

「あれまクリリンさんけ。いやー久しぶりだなぁ」

 

 亡き夫の昔からの親友だった人物である。近年結婚して子供も生まれ、今は家族ともども南海のカメハウスに定住しており、チチも一度出産祝いを届けに訪ねに行ったことがある。

 

 挨拶もそこそこに、彼は悟飯はどうしているかと尋ねてきたので、チチは元気に学校へ行っていると答えた。実際のところは、ここ数日明らかに気落ちしている悟飯にチチも心を痛めていたが、わざわざ心配をかけることもあるまいと考えてのことだ。しかしさすが悟空の仲間だけあって、クリリンは少なくともその時点ではチチ以上に悟飯の状況を正確に把握していた。

 

 彼はこう言った。悟飯のものすごい気を感じた。ただし戦うときの気ではなく、ひどく悲しんで、苦しんでいるような気だった。大体内容の想像はつくが、どうか話を聞いてやって欲しい。そして悟飯に、いつでもうちに遊びに来いと伝えて欲しい。

 

 電話でそう伝えられ、チチは目の奥が熱くなるのを感じながら、亡き夫の一番の友人だった人物に何度も礼を言った。いよいよ堪えきれなくなったのは、そのような電話が一件ではなく、その後立て続けに何件も届いたことだった。西の都からヤムチャが、カプセルコーポレーションからはベジータから話を聞いたと言ってブルマが、そして天津飯と餃子までもがどことも知れぬ旅先から大同小異に同じことを伝えてくれた。この分では電話こそなかったが、昔まだ四歳であった悟飯を攫い、一年ものあいだ彼を鍛え上げたあの憎き恩人も、空の上の神殿で同じことを思っているかもしれない。

 

 チチは思った。ああ、なにも心配いらない。あの子は一人ではない。多くの人に囲まれ、多くの人に愛される子だ。仮に道を踏み外そうになったら、自分だけでなく多くの人が彼を助けるだろう。親として、これほど嬉しいことはない。

 

 そんな感慨に耽りながら、チチは一人一人に丁寧にお礼を言ってから電話を切り、そして気合を入れるように自分の頬を叩いた。なにも心配はいらないが、それはあくまで長期的なことで、短期的には今まさに自分が踏ん張らねばならないときだと気を引き締め直し、状況を掴めずに首を傾げている悟天を持ち上げ、力一杯に抱きしめた。幼い次男の体からは、初めて出会ったときの夫と同じ匂いがする。いつもチチに勇気を与えてくれる匂いだった。

 

 夕食の支度を終えたのち、しばらくチチは自宅の電話機の前に陣取り、いつになく帰りの遅い長男からの連絡を待ち続けた。時刻が十八時を回った時点で一旦諦め、悟天と二人で夕食を取り、悟飯の分は綺麗に包んで冷蔵庫にしまった。

 

 夕食を食べ終えた頃に悟飯からようやくの連絡が入った。受話器から聞こえる声は暗くはなかったが、やや作り物めいてもいて、皆からの連絡がなくともチチならば嘘と見抜いただろう。しかし皆からの連絡があればこそ、チチは悟飯の嘘に騙されたふりをした。今夜一晩好きにするとええ。そう言葉なしに伝えてから、チチは電話を切った。

 

 そうして悟天を先に寝かせてから、チチは時にテレビを見たり時に編み物などをしたりしつつ、悟飯の帰りを待ち続けた。

 

(可哀想な悟飯ちゃん。オラの繊細な悟飯ちゃんのことだ。今頃はどこかの丘の上で、星でも見上げながら一人黄昏ているにちげえねえだ。ハーモニカでも吹きながらよ)

 

 そのようなものを買い与えたことは無いはずだが、眠気によって少々意識が飛び掛けているチチにとっては気になる齟齬ではなかった。

 

(んだども、最後にはきっと母親の温もりさ恋しんで、オラのところに戻ってくるだ。そういうときこそおっ母のオラが一番に出迎えて、あったかく抱きしめてやらねえと)

 

 その一念でひたすら眠りの国からの誘惑を退けて来たチチだったが、夜の十時を越えるといよいよ限界が近くなり、意識を朦朧とさせ始めた。しかし彼女も悟空らほどの超人ではなくとも、亀仙流の教えを学んだ一角の武道家である。玄関の方から待ちに待った長男の気配を察知すると、かっと目を見開いて即座に臨戦態勢に入った。

 

 おそらくは家族に気を遣ってか、玄関の扉は細心の注意を払ってゆっくりと静かに開けられた。そのまどろっこしさにチチはもはや堪忍ならず、獲物に飛びかかる獅子のごとくソファから飛び立った。

 

「おけえり悟飯ちゃぁぁん! おっ母だぞ! ほれ、思う存分おっ母の胸で泣きやれぇぇぇい!」

 

「わ、お母さん、起きてたの?」

 

 して、滂沱のごとく涙を垂れ流しながら玄関へ駆け寄ったチチが目にしたのは、頭を真っ金金に染め、鋭角極まりないサングラスを掛け、えげつないドクロの描かれた黒Tシャツに身を包み、タバコの香りとどこぞの馬の骨ともしれぬ女の匂いを僅かに漂わせる、愛して止まない自慢の長男坊の姿だった。

 

 チチは白目を剥いて気を失った。

 

 

 

 

 

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