孫悟飯、その青春   作:マナティ

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第八章 ブルマと孫悟飯(後編)

   Ⅰ

 

 

 

 ブルマの長子トランクスは、エイジ776年にこの世に生を受けた。控えめに見ても非常に恵まれた素質を授かっており、父ゆずりの強さと精悍さ、そして母ゆずりの利発さと端正さを生来併せ持ち、加えて家は世界有数の億万長者であるのだから、まさしく天より二物も三物も与えられた前途有望な少年と言ってよかった。

 

 しかしながらそんなトランクスが、一歳下の弟分である悟天を心底羨んでいる点が実は二つほどあった。一つは母親が料理上手であること、そして二つ目は兄・悟飯の存在である。

 

 トランクスの記憶の中では、悟飯と初めて出会ったのは四歳の頃になる。

 

「やぁ、トランクスくん。久しぶり」

 

「……ども、初めまして」

 

 当時、チチのお使いでカプセルコーポレーションを訪ねて来た悟飯に、四歳のトランクスはジャンパーのポケットに手を突っ込みながら無愛想に挨拶をした。実際のところ二人はこのときが初対面ではないのだが、赤ん坊の頃のことまではトランクスも覚えていないため、このような言葉の掛け違いが起こった。

 

 このときの悟飯はまだ十二歳。西の都では珍しい東洋風の拳法着に身を包み、詰襟もきちんと上まで留めており、さながら「真面目な田舎少年」を絵に描いたような出立ちをしていたが、当時のトランクスの目にはむしろ却って胡散臭く写った。

 

「きちんと挨拶しとくのよ。なんたっていま地球で一番強い子なんだから。生意気に思われて虐められても、パパもママも助けてやれないわよ」

 

 事前にブルマからそう冗談めかして言われていたことも、反感の一助になっていた。さすがに四歳の自分よりは大きいが、それでも周りの大人よりずっと小柄なこの少年が、よりにもよって父・ベジータよりも強いなどと、トランクスにとっては到底信じられないことであった。

 

 加えてこのときのトランクスは、つい先日に諸事情あって半年以上通ったキンダーガーデンを中途退園したばかりであり、少しばかり気持ちがささくれ立っていた。そのため自分と目線を合わせるべく身をかがませる悟飯に対しても要らぬ反骨心を抱き、トランクスは小憎らしい笑みを浮かべながら、デコピンの要領で彼の額を指で強かに弾いた。

 

 無論、サイヤ人の血を受け継ぐトランクスであるから、ただのデコピンであるはずもない。キンダーガーデンに入園する少し前からトランクスは気の目覚め……ブルマ流に言うのであれば気孔の開きを経ており、自宅のドアノブをひん曲げたり、ダイヤの指輪を指で砕いたりなど、異常な身体能力を発揮し始めていた。そんなトランクスの繰り出す指先には、それこそ大人ですらひっくり返るほどの威力が秘められており、これまでにも猿みたいにやかましいクラスメートや、口うるさい保育士たちなどを幾度となく黙らせてきた。

 

「あ、やったなー?」

 

 しかし、そんな思い上がりの込められたトランクスの一撃を受けても、悟飯はまるでびくともしなかった。保育士たちのようにトランクスの常識外れな力に怯えることもなく、子供の他愛無い悪戯にただただ朗らかに笑うのみであった。

 

 トランクスはひどく衝撃を受けた。四歳児のデコピンを痛がる大人などいない、などというのは本来世間一般のどこにでも転がっている事実であるが、残念ながらトランクスに対してそのことを身をもって示してやれる大人はこれまで彼の近くにはいなかった。

 

 母・ブルマは知性や度胸はともかく肉体的な強さは四歳のトランクスにすら劣り、全くの不慮の事故であったが過去にトランクスによって怪我を負ってしまうこともあった。父・ベジータは現在地球におけるただ一人の純粋なサイヤ人であり、身体能力もトランクスを遥かに上回っていたが、反面非常に気難しく、常日頃から己を鍛えることにしか関心を持たないため、同じ家に住んでいながら親子で言葉を交わすことすら稀であった。ましてや幼稚園の保育士たちなどは言うに及ばず、そもそも期待する方が酷とすら言えるだろう。

 

 そんなトランクスにとって、孫悟飯という少年は彼が父以外で生まれて初めて出会う格上の相手だった。挨拶の後、悟飯に誘われてトランクスは家の外庭でキャッチボールを行なった。テレビで見たプロ投手のフォームを巧みに真似ながら、トランクスは渾身の力で時速二百キロ超の豪速球を繰り出したが、悟飯はことも無げに受け止めてみせた。なんであれば、ゴム製のカラーボールを握りつぶしてしまわないよう、人差し指と中指だけで捕球してしまうほどの余裕っぷりを見せつけ、トランクスを愕然とさせた。自らの未知の感情に戸惑いながら、トランクスは悟飯にも同じように全力でボールを投げるよう要求した。幾分迷いはしたものの、近くのベンチで見物していたブルマのゴーサインもあって、悟飯は多少の手心を加えながらも要望に応じ、果たしてトランクスは悟飯が放ったボールの影すら捉えることができず、顔面で思い切りボールを受け止める羽目となった。

 

 地面に大の字になって倒れ込み、顔の下半分を鼻血で真っ赤に染めながら、トランクスは呆然と空を見上げた。突き抜けるような鼻の痛み、自分を遥かに上回る相手に対する恐れと屈辱、そしてそれらとは全く別種の、これまで抱いたことのない焦がれるような感情が次から次へと胸より溢れかえってやまなかった。生後四年、物心がついてからわずか一年ほどの人生経験しかなくとも、自分が普通の人間と大きく異なることをトランクスは正しく学び取っていた。幼稚園はおろか、街中の大人を見渡しても誰にも負ける気がせず、事実どんな大人と諍いを起こしても指先一つで黙らせることができた。自分は特別な人間であり、同じく特別である父以外の人間に遅れをとることはこのさき一生ないのだろうと、トランクスは早々に世に対して見切りをつけ、その歪んだ、しかし一概に誤っているとも言い難いため尚のこと根深い認識は、四歳の子供から否応なく年相応の可愛げを奪い取っていった。

 

 しかしこの東方からの客人は、トランクスのかような世界観をただの一撃で打ち砕いてしまった。少年の胸の内で、様々な感情がないまぜになりながら飽和していき、やがて感極まったトランクスは、地面に倒れたまま大声で泣き喚き始めた。保育士たちを散々悩ませた生意気っぷりはもはや見る影もなく、子供らしからぬ斜に構えた態度もかなぐり捨てて、トランクスはまさしく子供のように盛大に泣きじゃくった。急ぎ駆け寄って平謝りしてくる悟飯の慌て顔と、可笑しそうにトランクスを抱き上げる母の笑顔を、トランクスは八歳になった現在でも昨日のことのように思い出すことが出来た。子供という言葉は大人という対義語無しには成立せず、謙虚さや素直さといったものは自分よりも優れた他者があって初めて存在しうる。トランクスもまたこのとき、どれほど全力を尽くしても難なくそれを受け止めてしまう相手と初めて出会うことで、ようやく自らの幼さを思い知ることができたのだ。

 

 その後も二人は家の庭で多くの遊びを行なった。駆けっこをやり、相撲をやり、縄跳びや木登りなどもやった。四歳のトランクスはどれを取っても十二歳の悟飯には敵わず、それは年齢差からいえば至極当然のことであり、しかしながらトランクスにとっては何もかもが生まれて初めてのことであり、そのことがどういうわけか、トランクスはとても嬉しかった。

 

 このことを機にトランクスは悟飯に大層懐くようになり、以降も悟飯はおおよそ月に一度くらいの頻度でブルマの家を訪れたが、彼の来訪に気付くとトランクスはすぐさま腕一杯に遊び道具を抱え、いつもいの一番に彼を出迎えに行った。幼年の時分に年上の兄または姉貴分に憧れを抱くことは全く珍しいことではないが、キンダーガーデンを退園し、父からも日頃あまり構ってもらえないトランクスの場合は一層傾倒が著しかった。

 

 やがてはそれが原因となって、またもやひと騒動が起こった。トランクスが五歳の時、年越しの日に孫一家が揃ってブルマの家に遊びに来たことがあり、皆で豪勢なディナーを楽しんでいる最中、トランクスはやおらテーブルから立ち上がり、兼ねてより思い描いていた一つの願いを尊敬する兄貴分にぶつけた。

 

「僕の本当の兄さんになって、この家に住んでください!」

 

 あまりといえばあまりな勧誘に、当然悟飯は大いに困り、周囲の大人たちは揃って大笑いをし、ブルマやその両親に至っては、すぐさまメイドロボットを呼びつけて動画撮影を命じてしまうほどだった。

 

 荒唐無稽もいいところなトランクスの申し出であったが、しかし真に受ける者が皆無というわけでもなかった。当時四歳で、トランクスともこのときが初対面だった弟の悟天が、突如訪れた一家離散の危機に一人憤然と立ち上がってしまったのである。日頃は天真爛漫な悟天であるが、それだけに有事の際には一つ年上のトランクスにも物おじせず食ってかかり、そうして始まった幼児二人の言い争いはごく自然な成り行きで実力行使が伴われ始め、せっかくのニューイヤーズイブに小さな怪獣二匹による盛大な取っ組み合いが勃発する事態となった。

 

 極小規模な台風のごとく暴れ回る二人に悟飯は慌てふためき、一方酒の回りきった大人たちは格好の酒の肴と言わんばかりに、口々に二人を囃し立てた。実際トランクスと同じく既に気を目覚めさせつつあった悟天の力は、一歳分のハンデがあったとしてもトランクスにさほど見劣りせず、結果二人の争いは悟飯の目から見てもなかなかに見応えのあるものになり、奇しくもその年の大晦日は、トランクスが生まれて初めて対等の喧嘩を行なった記念日ともなった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 トランクスは斯様にして孫家の兄弟たちと出会った。それからまた月日が経ち、現在トランクスは八歳になっている。依然として悟飯を慕い続けているが、いつぞやのように突拍子のないことをせがむことは無くなり、そして悟天とは件の取っ組み合い以降、悟飯以上に頻繁に行動を共にするようになっており、それこそ兄弟のように仲睦まじい間柄を築いていた。

 

「待ってよトランクスくーん」

 

「ほら、早く来いよ」

 

 邸宅内の長い廊下を、小さな怪獣達がつむじ風のように走り抜けていた。ここがトランクスの家で無かったとしても、二人で走る時は大体いつもトランクスが前を行く。

 

「やっぱりトランクスくんの家って広すぎるよ。絶対置いていかないでね。迷子になっちゃうから」

 

「慣れればなんてことないさ。もし迷子になったら大声で俺を呼べよ。すぐに迎えにいってやるから」

 

 走りながら、トランクスは威勢よく自分を指さした。ここ最近のトランクスには、一つ歳下の悟天に対して懸命に兄貴ぶる傾向がよく見られた。

 

「なぁ悟天。さっきの俺の新しい技、すごかったろ? なんたって父さんの技だからな。訓練をこっそり覗いて真似してみたんだ」

 

「うん、どこから蹴りが来たのか全然分からなかった。ねぇ、どうやったのか教えてよ」

 

「まぁ待て。悟飯さんに見せたあとで教えてやるよ。ふふふ、きっと悟飯さんもびっくりするぞ」

 

 二人が話しているのは、最近二人の間で定番の遊びとなっている「対決ごっこ」のことだった。いわゆる組手の真似事であるのだが、サイヤ人の血を受け継ぐ彼らのすることであるから、当然威力も速さも単なる真似事の域には収まらない。もっと小さいころはボール遊びや隠れん坊、テレビゲームなどといった大人しい遊びをしていたものだが、最初の出会いの影響か、それともやはり血が戦いを求めるのか、いつの頃からか二人してこの遊びに没頭するようになっていた。

 

 そして二人は悟飯にもその遊びに混ざってもらおうと、ブルマの私室兼研究室へと向かっている最中だった。ブルマのところに挨拶しに行ったきり、いつまで経っても自分たちのところに来てくれない兄貴分を無理矢理連れ出してしまおうというである。

 

 そうして二匹のちびすけたちはあっという間に母の私室にたどり着き、子供ゆえの気安さでノックもせずに勢いよく扉を押し開いた。

 

 かくしてそこには、思っても見なかった光景が広がっていた。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 トランクスと悟天は全くもって事態を掴めず、そろってポカンと口を開いたまま呆気に取られていた。意気揚々と扉を開けた先には二人の人物がおり、一人は見間違えようもなくブルマであるのだが、もう一人は……。

 

(なんだ……? あの変質者は……)

 

 そうトランクスが内心で思ってしまうのも無理ないくらい、ひどく怪しい姿格好をした不審人物がブルマと共に部屋の中にいた。その不審人物は姿見を覗きこんだまま彫像のように硬直しており、そんな彼から二、三歩離れたところで、一目で高級品と分かる立派な一眼レフカメラを構えながらブルマが写真撮影に夢中になっていた。

 

「へいへーい。いいわよいいわよー、似合ってるわよー。ささ悟飯くんこっち向いてー」

 

 さながらプロの撮影会のように、ブルマは前後左右に素早く立ち位置を変えながら無遠慮にフラッシュを焚き続けており、そんな彼女の口から漏れ出た悟飯という言葉に、ちびすけ二人は信じられぬ思いで不審人物の方を見やった。彼が悟飯だというのか。少なくとも外見上からはそう判別できる材料は無くなっていた。

 

 未来的なデザインをしたオレンジ色のオープンフェイス型のヘルメット。左右のこめかみのあたりからは一体何の電波を受信しようというのか昆虫の触覚のようなアンテナがきりりとV字状に伸びており、目元は真っ黒なバイザーで覆われ全く人相が分からない。口元は開放されているものの、ヘルメットの頬の辺りからマイクが伸びて来ており、よく分からないが何かしらの通話機能があるようだった。

 

 首から下は上下一体となった黒一色のアンダースーツに包まれ、その上に若草のように色鮮やかな緑一色の上衣を羽織っている。デザインは武道着にも似ているが若干生地が薄く、軽量に思える。ベルトの部分にはいくつかのアタッチメントやカプセルが付属しており、手足は真っ白なグローブとブーツに覆われている。そして何よりも目を引くのは、背中一面を覆う燃えるような深紅のマント。まるで子供向けの特撮番組から抜け出して来たかのような、紛れもないヒーローの姿がそこにあった。

 

「あの、母さん……」

 

「あら二人とも。いつからいたの?」

 

「いま来たとこ。なにしてるの?」

 

「見ての通り撮影中よ。あんたたちも写る?」

 

「いや、そうじゃなくて。なんなの、その服は」

 

「ああ、これ? ふふーん、格好いいでしょ。前にも話したことあると思うけど。この前のコンペでボツになった奴の試作品で……あ、思い出したらまたムカついてきた。ええい、あんのアホバカ国防省め! あーもう、今思い出しても腹が立つ!」

 

 なにやら嫌な思い出でもあるのか、年甲斐もなく地団駄を踏みそうな勢いで憤るブルマに、年少組二人はまるで事情を掴めず立ち尽くすばかりであった。そして当の着用者である悟飯に至っては、ブルマの怒り声すらも碌に耳に入っていない様子だった。

 

 ヘルメットに遮られて外からは窺い知れないが、姿見に写る自分の変わり果てた姿に、悟飯はまさしく魂を持っていかれたように茫然自失としていた。ヒーローのようと先ほど称したが、それはあくまで客観的な視点であり、その手のものを見たことのない悟飯にとっては全く形容すべき言葉が思い当たらない異形の姿に見えた。

 

 やがて、耐えかねたように悟飯は呻いた。 

 

「か、格好いい……」

 

「え」

 

 悟飯の絞り出すような感想に、思わずトランクスは声を挙げてしまった。八歳という年齢より大分大人びているトランクスからすると、悟飯の格好はあまりに奇抜というか趣味的というか端的に言えばダサい部類に入る。プロのアクターが撮影所で着ている分には良いだろうが、いかに敬愛する兄貴分といえど、さすがにこれを着られた状態で街中を一緒に歩きたいとは思わない。

 

 しかし所変われば品変わるもの。東エリアでは児童用学生鞄として売られるランドセルが、その機能性から西エリアでは普通に大人が使っていたりなどする例もある。男子たる者誰もが幼少の頃に変身ヒーローに夢中になり、やがては卒業していくものだが、悟飯は十六歳にして初めてこういったものに出会ったので、今着ている衣装も彼の目にはまるで海を隔てた遥か異郷の文明のように極めて斬新かつ劇的なものに写った。

 

 とくにこのヘルメットはどうだろう。こんな未来的でサイバーな代物、フリーザ軍だって身につけてはいなかった。緑色の上衣は若干明るめではあるが、彼の尊敬する師の色合いを思わせ、マントもお揃いであり、しかも色は情熱の赤一色。この世の格好いい要素を全て凝縮させたようなデザインに悟飯は恐れ入るばかりであった。

 

「な、なんてことだ。こんな斬新な意匠、今まで見たこともない。これ、ブルマさんがデザインされたんですか?」

 

「まぁね。最初はもうちょっと大人しいデザインしてたんだけど、いざ作る段になるとなんかこう、ちょっと違くてさぁ。スピリットが足らないっていうか、それでしょうがなくね。こう言っちゃなんだけど、機能的な部分よりよっぽど苦労して、時間もかけた自信作よ。気に入ってくれた?」

 

「というより、度肝を抜かれてます。機械工学専門かと思ってましたけど、生化学までやって、挙げ句の果てにこんなファッショナブルなものまでデザインしてしまうなんて……万能な人っているんですねぇ」

 

「ほっほっほ。ちょっと褒めすぎじゃない?」

 

 口だけは謙遜するブルマだが、緩み切った目尻と海老のように反り返った上半身を見れば本心は真逆を向いていることは火を見るよりも明らかだった。

 

 高笑いをするブルマ。感動に身を震わせる悟飯。いつのまにか悟天も兄の隣に移動しており、「いいなー、兄ちゃん格好いい。ねぇねぇ僕にも変身させてよ」などとせがみながら、しきりに兄の腕を引っ張っていた。遠方からの客人である孫兄弟はおろか、血の繋がった母にまで置いてけぼりにされ、少年トランクスはただ一人、母の私室の中で身の置き場を見つけられずにいた。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 いつの間にか時刻も正午近くになっていたので、皆で少し早めの昼食を取ることにした。ちなみにブルマたちの邸宅にはキッチンが二階と三階に一つずつあり、メインで使われるのは二階の方だった。四人で連れ立ってそこへ向かっている最中、悟飯は思い出したように尋ねた。

 

「そういえばベジータさんはお元気ですか? しばらく会っていませんけど」

 

 ちなみにさすがにヒーロー姿で食事をするのは憚られ、すでに悟飯は来た時の服装に戻っていた。悟飯の問いに、ブルマは先頭を歩きながら、肩をすくめて天井を指差した。

 

「相変わらず三階の訓練室に篭りっぱなし。そういえばあたしもここしばらく顔を見てないわ。ま、餌は置いてあるから、一人で勝手にやってるでしょ」

 

 相変わらず不思議な夫婦だな、と悟飯は心の中で首を傾げた。

 

「本当に熱心ですね。お父さんとおんなじくらい」

 

「悟飯くんの方は、あれからトレーニングとかはしてるの?」

 

「いえ全然。朝に軽く体を動かすくらいで」

 

「頼りないわねぇ。口には出さないけど、あいつの目標は絶対に打倒・悟飯くんよ。いまさら調子付かれても困るし、なるべく末長くチャンピオンの座にいて欲しいんだけどな」

 

「いやぁ、そうはいってもあれからもう七年も経ちますし。とっくに追い抜かされちゃってますよ」

 

 謙遜ではなく、そうであっても全くおかしくないと悟飯は思っていた。七年前の人造人間たちとの戦いの最終局面において、悟飯は確かに戦闘力において一度は地球の頂点に立ったが、それまでベジータとは長らく大人と子供ほどの力量差があった。そしてセルとの戦いの後で、ベジータと組み手などを行なう機会も無かったため、悟飯にとっては自分がベジータよりも強い、あるいは強かったという自覚そのものがやや希薄だった。

 

「ねぇ、悟飯さんは父さんとトレーニングしたりはしないの? 俺は何度頼んでも入れてもらえないけど、悟飯さんだったら許してくれるんじゃないかな」

 

「なんだ、トランクスくん強くなりたいの?」

 

「うん。といっても父さんは重力室にも入れてくれないけど」

 

 気落ちするトランクスだが、慰めの言葉をかける前に、悟飯はすこし別の見方をした。ベジータが日頃訓練に勤しんでいる重力室には、その名の通り特別性の重力制御装置が置かれており、通常の三百倍まで重力を増幅させることが出来る。悟飯ですら気を抜けば命に関わる環境であり、ベジータでなくとも八歳の子供をそんなところへむざむざ入れさせようとはしないだろう。

 

「あら? でもあいつ、そろそろあんたを鍛えるってこの前言ってたわよ。八歳になって体も出来上がってきたから、とかなんとか言って」

 

「と、父さんが? うそ、本当に?」

 

「へぇ〜良かったじゃないかトランクスくん」

 

 本当に大丈夫だろうか、などと密かに不安を覚える悟飯だったが、息子すら寄せ付けないベジータの一匹狼ぶりに、トランクスが日頃寂しさを募らせていることはかねてより知っていたため、ここは水は差さないでおくことにした。

 

 科学者一家の自宅らしくブルマの家のキッチンは一から十まで自動化されており、ホームコンピューターで好きな料理を注文すればあとは機械が勝手に調理をしてくれる優れものだった。チチの手料理に慣れ切った悟飯たちからすれば些か味気なく感じるところはあるものの、味そのものは至って上等であり、誰かに手間を掛けさせることなく好きなだけお代わりできるところもありがたい点であった。

 

「なるほど。要はブルマさんたちの会社の新製品候補だったんですね、このスーツは」

 

 七皿目のステーキを切り分けながら悟飯が確認すると、とっくに食事を終えていたブルマは、懐からタバコを探しながら「そうそう」と気軽に頷いた。年少組の二人はというと、年長組の会話には我関せずで自家製お子様ランチをかっこむことに夢中になっていた。

 

 ブルマの説明によれば、さきほど悟飯が着用していたスーツは、元を辿ると半年前に国防省で行われた新製品企画コンペに端を発していたらしい。国防省が要求した企画のテーマは、『警察または王立防衛軍向けの多機能戦闘服の開発』。ホイポイカプセルの他には自動車や飛行機を主力製品とするカプセルコーポレーションにとっては些か領域外の案件であり、だからこそ事業拡大のためこのコンペは経営会議の中でも非常に重要視されていた。

 

 そのため副社長兼開発局々長であるブルマが直々に陣頭指揮を取って、企画案の検討に当たることになった。警察や防衛軍向けの戦闘服と言えば、暗視ゴーグルや防弾・防刃ジャケットなどが主立ったものであるが、しかし単にそれらの性能を従来より向上させるだけではインパクトに欠けると考えたブルマは、当人の言う通り丸二ヶ月を掛けて、既存の概念をひっくり返すほどの機能性を秘めた、スチールマンもびっくりなハイテクバトルスーツを企画した。なおブルマが言うには、その頃は客先の趣向に合わせて、もうすこし地味な外見をしていたらしい。

 

 そうして自信満々にコンペに乗り込んだブルマだったが、客先は見積価格を一瞥するなり碌に企画書を見ることもなく却下をくだした。二ヶ月の努力をあえなくボツにされたブルマの心境がいかほどのもので、それによって彼女に近しい人たちにどのような天変地異が降り注いだかは語られることのない幕間であるが、なんにせよせっかく苦心して作った企画書をすぐさまシュレッダーにかけるのも忍びなく、ブルマは憂さ晴らしに自腹を切って実際に試作品を作り上げることにした。その際、思いつきのアレンジも好き放題に加え、ついでに前々から不満のあった野暮ったいデザインも大幅に改訂し、つい先月ごろにようやくのことで完成させた。

 

 しかし当然であるが実際に作ってみたはいいものの使い道などまるでなく、かといって一度も使わないまま倉庫に放り込んでしまうのも憚られ、いっそ映画会社にでも売り込めないだろうかと悩んでいた矢先に、悟飯の一件が舞い込んできた。悟飯が学校でなかなかに苦労しているらしいとのことをチチから伝え聞いたブルマは、極めて行き当たりばったりに、このスーツを彼の入学祝いとしてプレゼントしてしまうことを決めたという次第だった。

 

「それはありがたいですけど、軍用のスーツが学校にどう繋がるんです?」

 

「やあね。別にあれを着て授業に出ろと言っているわけじゃないわよ。いや、それはそれで面白いかもしれないけど」

 

 ブルマは滔々と思惑を説明した。

 

「金色の戦士についての話を聞いたけど、今の調子で活躍し続けたら、そう遠くないうちに悟飯くんの正体は露見するでしょうね。そのビーデルって娘もなかなか執念深いみたいだし、いくら君でも社会システムの目からはいつまでも逃げられないわ。もちろん、君が今日以降、街でどんなことが起こっても見て見ぬふりをするっていうんなら話は別だけど」

 

「そうもいきませんよ。いえ、もちろん好き好んで暴れたいわけじゃありませんけど、目の前で友達が危ない目にあっていたら、さすがに……」

 

 言っている側から、悟飯は自分でも危うさを覚えた。学校に通い始めて一ヶ月ほどの間に、すでに二度も犯行現場に遭遇している。昨今のサタンシティの治安の悪化はイレーザたちの話以上に深刻なようであり、今後も似たような場面に出くわさないとは全くもって限らない。暴力を持って周囲を脅かす輩を前に、指を咥えて見ていることなど悟飯にはできず、必要があるなら彼は何度だって金色の戦士となるが、そのたびに間違いなく彼の生活は脅かされ、損なわれていくだろう。

 

「だったらなおさら、あたしはそのスーツを推奨するわ。中途半端な変装でこそこそとやるから追い詰められちゃうわけで、ならいっそ君も思いっきりテクノロジーを駆使してやるのよ。なんたって元は軍事用に作ったものだし、はっきりいってそのスーツはとびっきりよ? さっき鏡で見たと思うけど、あの格好なら人相は分からないし、顔認証にも引っかからない。ついでに声も変えられるし、姿も消せて、あとまぁとにかく色々あるわ」

 

 色々ってなんだろう、と悟飯は不安に思った。

 

「なにより、いつでもどこでもスイッチ一つで着替えられるっていうのもセールスポイントでねー。言っとくけど、これも結構画期的なのよ?」

 

 さきほど悟飯が押した腕時計の赤いスイッチは、時計内部に粒子状態で封入されているスーツを解き放つためのものであり、それと並行してまるで入れ替わるようにそれまで使用者が着用していた衣服の粒子化も行なわれる。これによって使用者は、ブルマの言葉通り如何なる時であっても場所を選ばず瞬時に着替えを行なうことができるのである。原理はホイポイカプセルと同じだが、従来のカプセルは安全性を考慮して人が身につけているもの、または人が搭乗している乗り物などは絶対に粒子化できないよう機能制限されているのに対し、今回のブルマの発明は悟飯の肉体を一切巻き込むことなく衣服の交換を行えてしまい、光学迷彩などに比べれば少々地味だが確かにかなり革新的な技術なのである。

 

「服をあっという間に着替えさせる、か。つくづく思いますけどブルマさんって本当に……」

 

「魔法使いみたい?」

 

「ええ、まるでピッコロさんみたいです」

 

「……」

 

 あまり喜べないブルマであったが、悟飯にとっては最上級の褒め言葉であることは分かっていたので、口には出さなかった。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

「ところで悟飯くん。あたしが君くらいの歳に流行ってた漫画にね、今の君に近い悩みを持ったキャラクターがいたの。蜘蛛の力を持ったヒーローなんだけど知ってる?」

 

「漫画ですか? いえ、とんと」

 

 それは、ブルマが高校生時代に流行ってたコミックであり、いわゆる変身ヒーローもののアクション漫画だった。平凡な高校生であった少年が、ある日特殊な実験で生み出された放射性の蜘蛛をうっかりハンバーガーと一緒に食べてしまい、それによって様々な超能力に目覚めてしまうというストーリーだった。

 

「そりゃまた大変そうですね。お腹壊しそうで」

 

「その子がね、今の君にすこし近い状況にあったのよ。君と同じようにとても力が強くて、銃で撃たれてもへっちゃらで、そんな彼はやっぱり普通の人間としての日常生活に溶け込みきれなくて、とても悩んだわ」

 

「……」

 

「いつしか彼は、自分の正体をマスクで隠して人助けをするようになった。授かった超能力をフルに使ってね。それはもちろんその主人公の優しさだったり正義感だったり、あと育ての親の遺言とか色々真っ当な理由があるんだけど、大人になってから読み返すと、こうも思ったの。彼は他人のために多くのことを成し遂げたけど、他人のため以上に、自分のためにそうしていたんじゃないかなって」

 

「自分のために?」

 

「そう。つまり自分の力を思い切り発揮できる時と場所を、彼は自分の手で社会の中に築こうとしたのよ。人並外れた力は邪魔なだけ、でも出来ることを出来ないふりして過ごすことはやっぱり辛い。人里離れた場所に隠居することも、まだ若い彼には考えられない。だから彼は、自分の力を思う存分に発揮できて、かつ他人から白い目で見られずに済む折衷案を必死に考えた。そうして捻り出したアイディアが、正体不明の謎のヒーローだったってわけ」

 

 実際のところいま彼女が述べたような内容が、その漫画の中で直接的に描かれているわけではない。読者たちに夢を与えるべく生み出されたその主人公は、親しみを持たせるため一定の人間味はあれど、やはりあくまで理想のヒーローとしてデザインされており、悪と戦う道を選んだのも、実際描写されている限りでは持ち前の優しさや正義感によるものである。いまのブルマの見解は、大人の捻くれた目線で見た一種の意地悪な解釈に過ぎなかった。

 

 しかしそれでも、ブルマは思うのだ。彼は命懸けで悪党退治や人助けに乗り出したが、それは本当に純粋な優しさや正義感から来るものだったのだろうか? 人間には様々な欲求があり、昔のとある心理学者はそれを五つの階層に分類した。その説によれば、人間の欲求には睡眠や排泄といったもっとも根本的な生理的欲求の先に、安全への欲求、所属への欲求、承認への欲求、自己実現の欲求があるのだという。

 

 その漫画の主人公にも、やはり同じような欲求があったのではないだろうか。異端者として排斥されたくない。人々の中に混ざりたい。多くの人々から愛されたい。異能に目覚め、普通の人間とは別の何かに成り果てた自分自身を正直に世に打ち明け、そして認められたい。そんな思いが、彼にもあったのではないだろうか。

 

 単純な正義感や人の良さだけでは片付けられない、もっと自分本位で、我欲と自己愛に満ちた思惑があったのではないか。利己的で、生々しく、しかし人間である以上誰もが抱え、誰もが切り離せない、真摯で、深刻で、切実な願いがそこにはあったのではないか。

 

「とまぁ、つい最近たまたま読み返したとき、なんだかそういう風に思ったのよ」

 

 コーヒーをひと啜りして、ブルマは一息つけた。いつの間にか場は静まり返り、悟飯だけでなくトランクスまでもが押し黙って、母の言葉に耳を澄ませていた。

 

「あたしが思うに、結局のところ人間の一番の幸せっていうのはやりたいようにやって、かつそれが人に認められることなのよ。認められなくてもやりたいことをやれているのはその次に良くて、自由にやれないけど人からは認められているのはさらにその次。ううん、嘘ね。あたしからすれば、やりたいこともできないんじゃ、その時点でたとえ人からどう思われようと最悪よ。やっぱり人間、まず自分を大事にしなくちゃいけないわ。自分はこういう人間なんだ、これが自分なんだって、そう胸を張って素直に表に出してやることが人間には絶対必要なの。それが自分を愛するってことだってあたしは思ってる」

 

 自分を表に出す。

 

 ともすれば自己中心的にも受け取られるその言葉が、悟飯の胸に強く響いた。イレーザを初めとする級友達の顔が次々と脳裏に浮かんでは消えた。彼女らに自らの本当の姿を一切打ち明けずにいる悟飯にとって、これほど耳に痛い言葉はなかった。

 

「今の悟飯くんに必要なのは、その主人公と同じように、君自身を遠慮なく発揮できる場を君の手で作ることだと思うの。でないと今は元気を取り戻しているようだけど、きっとまたいつか同じことになる。その方法は別に正義の味方でなくてもいいんだけど、ま、ちょっと考えてみても良いんじゃない?」

 

「それであの服をくれたんですか?」

 

「そういうこと。なにもウケ狙いであげたわけじゃないんだから。ま、さっき言った通り元々はうちの社のボツ企画で、なんとか日の目を見させてやりたかった、てのもあるけどね」

 

 悪びれる様子もなく、ブルマはコーヒーをもう一啜りした。

 

「チチさんからも少し話は聞いてるけれど、学校に馴染むためとはいえ、君が変に体を縮こませてしまっているのは、あたしとしてもちょっと面白くないの。だからもしこの先、街での暮らしの中で困ったことや我慢ならないことが起こったら、すぐに変身しなさい。あの赤いスイッチを押したが最後、そのとき君はもう悟飯くんじゃない。誰でも無くなった君は、どこへ行ってもいいし何をしてもいいの。なんだったらそうね、いっそ人助けじゃなくて、学校中の窓ガラスを全部割るとか、壁に落書きするとか、そういう方向に使ってくれても構わないけど」

 

「し、しませんよそんなこと」

 

「うん、分かってる。だから心配なの。孫くんと違って、君は本当に昔から真面目だから」

 

 さすがに喋り疲れたのか、ブルマは椅子の背もたれに寄り掛かり、少しのあいだ目を伏せた。不意に蘇ってきた古い記憶に体を浸し、思い出の中に微睡むように。今にも眠りについてしまいそうなその表情があまりにも穏やかで、ともすれば美しくすら見えて、悟飯は思わずブルマの顔に見入ってしまった。

 

 悟飯が周囲を見回すと、向かい側ではトランクスもまた空になった食器を見つめながら一人物思いに耽っており、隣では悟天が少し退屈そうにしながら、ミルクの入ったコップを啜っていた。この場で唯一、街での暮らしとそれによる苦悩を経験したことがなく、それでもいつかは少なからず向き合わなくてはならないであろう弟に、悟飯はなんとはなしに手を伸ばし、やんわりと頭を撫でてやった。

 

 そんな風に、どこか優しく時間が過ぎていった。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 昼食の後、悟飯はトランクスたちの対決ごっこにさんざん付き合わされ、そうしているうちにあっという間に日が暮れだした。母との約束を守るべく適当な頃合いを見計らって悟飯は手を叩き、帰り支度を始めるよう悟天に言いつけた。悟天はやや名残惜しそうにしながらも大人しく従った。少し前まではこういうとき決まってトランクスと一緒になって駄々をこねたものだが、最近はそういう姿も見られなくなり、まだまだ小さくとも段々と大人になっているのだなと悟飯は嬉しく思った。

 

 悟飯たちが帰る際には、ブルマにトランクス、そしてブルマの両親たちまでもが揃って玄関前まで見送りに来た。なお三階に住み着くベジータとは悟飯は結局一度も顔を合わせなかったが、階は違えど一つ屋根の下、二人して互いの気はひしひしと感じ合っていた。悟飯らが遊んでいる間にも、一人ひたすら鍛錬に明け暮れるベジータの気はあいも変わらず鉄で出来ているかのようで、変わりなく過ごせていることはわざわざ言葉を交わさずとも容易に窺い知れた。ベジータの方も恐らくは似たようなことを感じ取っており、それだけで十分なように悟飯には思えた。

 

 邸宅を出ると、ブルマとトランクスだけは家の外まで付いてきてくれた。

 

「悟飯さん、また来てね」

 

「うん。トランクスくんこそ、お父さんとのトレーニング、頑張るんだぞ。きっとすっごく厳しいと思うから」

 

「全然平気だよ。俺もう八歳なんだから」

 

 自信満々に言うトランクスに悟飯はひとつ笑みをこぼし、ブルマにも改めて頭を下げた。

 

「色々とありがとうございました。時計もこの漫画も、ずっと大切にします」

 

 悟飯は手に持った紙袋を掲げた。中には今日ブルマが教えてくれた漫画の単行本が二、三冊ほど入っていた。せっかくだから件の本を読ませてくれないかとブルマに頼んだところ、快く譲ってくれたのだ。

 

「別に気にしなくていいわよ。君にはこっちも色々と世話になってるんだから、そのお礼よ。特に漫画なんて読み終わったら捨ててくれていいし。でも意外ね、悟飯くんがそんなものを欲しがるなんて」

 

「そういえば、こういうのもこれまで読んだことが無かったなと思って。最近、そういうのはとにかく一度やってみることにしてるんです」

 

「ふうん。なんだか楽しんでるわね。悟飯くん」

 

「ええ、とても。まだ一ヶ月くらいで、たまに落ち込んじゃうこともありますけど、毎日がとても楽しいんです。本当に、色々なものがあるんですね、世の中って。空を飛べるからって全部を知った気になっていたのが馬鹿みたいです」

 

「そういうとこは、孫君にそっくりね」

 

「そうですか?」

 

 悟飯は首を傾げたが、ブルマは答えず、ただ深く笑って悟飯に向けてちょいちょいと手招きした。何かと思いながら悟飯が歩み寄ると、今度は悟天にも同じことをし、大小二匹の獲物が無警戒にのこのこと間合いに入ってきたところで、ブルマは獰猛なクマのごとく腕を広げ、がぶりと二人に襲いかかった。悟飯に対しては首の後ろに手を回し、悟天に対しては上から後頭部を押さえ、それぞれを自らの体に力強く抱き寄せる。香水か、それとも洗髪料か。顔を肌に押し付けられ、ブルマの花のような香りが悟飯の鼻腔一杯に広がった。

 

「あんた達のお父さんもね、とっても良い子だったのよ。世間知らずで武術バカだったけど、とっても素直で優しい男の子だった。んでもって、ちょっと目を離した隙に、とっても格好いい男になってたわ。あんた達も負けずに自分を磨くのよ。なんたって孫くんの息子たちなんだから」

 

「は、はい。頑張ります」

 

「はーい」

 

「うんうん。よし!」

 

 気が済んだかのようにブルマは勢いよく二人を解放し、悟飯は無論のこと、悟天すらどこか照れ臭そうにもじもじとしながらブルマから離れた。

 

「じゃ、じゃぁそろそろ行きますね。今日は本当にありがとうございました。悟天、筋斗雲を呼んでくれるか?」

 

「うん!」

 

 悟天は元気よく頷き、そして頼れる孫家の自家用機を呼び寄せるべく、胸いっぱいに大きく息を吸った。

 

「おーい、筋斗うーん!」

 

 夕焼け空に響き渡る悟天の声。どこか懐かしむように、ブルマは目を閉じてその声に聞き入った。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 悟飯たちの残した飛行機雲を、しばしの間ブルマが見上げ続けていると、不意に隣にいたトランクスから声が掛かった。

 

「ねえ母さん。俺が小学校に通わないって決めたこと、怒ってる?」

 

 なかなかお目にかかれない一人息子の神妙な様子に、ブルマはくすりと笑った。恐らくは昼食の時の話を気にしているのだろう。実際、あの話の半分はトランクスに向けて言っていたので、無理からぬことではあるが。

 

「前にも言ったでしょ? 別に学校なんか通わなくなって、いくらでも勉強できるわ。行きたくないなら無理して行かなくたっていいわよ」

 

「でも俺、そのさ……」

 

 言い淀んでしまったトランクスに、ブルマは笑いながら助け舟を出した。

 

「悟飯くんを見て、気が変わっちゃった?」

 

「……少しだけ。だって悟飯さん、本当に楽しそうにしてるから」

 

「そうね。ま、一度出した結論を考え直すなんて、よくあることよ。とりあえず自分で考えてみて、なんでもいいから結論を出してみなさい。そしたらまた話し合いましょ」

 

「うん、わかった」

 

「期限はいつにする?」

 

「じゃぁ、明後日の晩御飯のあと」

 

「いいわよ。空けておくわ」

 

「うん」

 

 言うが早いか、トランクスは颯爽と駆け出して家の中に戻っていった。部屋に戻って、自分が学校に通うべきかどうか、もう一度考え直そうというのだろう。

 

 ――あんたが何を優先して、どう生きていくかは、あんた自身が決めるのよ。あたしにもベジータにも判断を委ねちゃ駄目。

 

 ブルマは常々トランクスにそう言い聞かせていた。もちろん相談には幾らでも乗るし、助言を惜しむつもりもなく、また道理に背くことについては幾らだって説教をするし尻も叩くが、キンダーガーデンやエレメンタリースクールのように当人の生き方に関わる重要な部分については、ブルマは常にトランクスの意思を尊重し、彼のしたいようにさせてきた。やや奔放すぎる教育方針に思えるが、しかしブルマ自身、幼少の頃からそのように生きてきたのだから、彼女なりの確かな経験則でもあった。

 

 普通の子供にはやや酷に思われるこのやり方も、やはり血筋なのか、なかなかにトランクスの性にも合っているらしく、学校に通わないことを決めた際にも、その理由やその代わりにやりたいことをトランクスはきちんと整理してブルマに伝えることができた。また学業についてもブルマが与えた教材に毎日取り組んでおり、テストの点数もそんじょそこらの子供よりよっぽど高い。無論そんなトランクスにおいても、進路や人生プランを一人で検討するには知識も経験も足りなさすぎるが、何事もまずは手持ちの材料から自分で結論を出すことが重要なのだとブルマは考えていた、内容の良し悪しなど、後でいくらでも助言を与えてやれるし、修正もできる。

 

(しかしまぁ、トランクスもすっかり素直になっちゃって。いやはや、悟飯くんには本当にお世話になるわ)

 

 トランクスが気に目覚め、超人的な身体能力を発揮し始めたのはキンダーガーデンに入園する少し前のことであったが、力が目覚めていくにつれ、トランクスは同年代の子供はおろか家族以外の大人をも明確に見下すようになっていった。学力においてはブルマ自身にも覚えのあることであったが、トランクスの場合は彼もまたブルマに似て幼少時から非常に聡明であり、それに気の目覚めまでもが加わってしまったものだから、自ずと慢心は鰻登りとなり、一時期は本当に手のつけられない状態だった。

 

 早いうちにそのクソ生意気な天狗鼻を叩き折っておかねばと考えたブルマは、チチに相談の電話を入れ、するとチチはすぐに適当な理由をつけて悟飯を送り込んでくれた。大人たちの思惑通り、あるいはそれ以上に悟飯との出会いはトランクスの稚拙な思い上がりを強かに打ちこわし、自らの幼さを自覚したトランクスは、みるみるうちに生来の子供らしい素直さを取り戻していった。

 

 一番ブルマが傑作に思ったのは、まだトランクスと悟飯が出会って間もない頃、二人が一緒に都内を出歩いていたときにトランクスが通っていたキンダーガーデンの保育士とばったり出くわしたときの一幕だ。相手は三十過ぎの女性であり、ましてやトランクスが一時期世話になっていた相手となれば、その人物に悟飯がどのような態度を取るかはもはや言葉にするまでもなく、トランクスにとってはそれがまたもや衝撃的であったらしい。

 

「どうしてあんな奴にぺこぺこするの?」

 

 保育士と別れた後、トランクスは思わず悟飯にそう尋ねた。

 

「どうしてって、そりゃ目上の人にはきちんとしなきゃ」

 

 悟飯は当然のようにそう答えたが、目上という言葉の意味は知っていても、トランクスにはとても理解ができなかった。

 

「どうして目上なの? だって悟飯さんの方がずっとずっと強いのに」

 

「別に強くたって偉くはないよ。人様の子供を何人も世話しているあの人の方がずっと凄い人さ。同じことをやれって言われても、僕にはできないし」

 

 当時の悟飯は十二歳で、彼も彼で幼少時から大人びた少年ではあったが、それでも世間的にはまだまだ子供の部類に入る。それでいてこの頃は修行は止めつつもまだまだはっきりとベジータを戦闘力で上回っており、名実ともに地球の頂点に立っている少年と言えたのだが、その至って謙虚で、誰に対しても礼儀正しく振る舞う生真面目な態度に、トランクスの目からは大量の鱗が派手に飛び散ったようだった。ブルマのお墨付きを貰うほどに賢いトランクスであるから、当然悟飯の言葉からこれまでの自分を省みて、そのあまりの落差に恐れ慄かずにはいられなかった。自分がいかに母の言うところの「ひねたクソガキ」であったかを痛烈に思い知らされたトランクスは、以来尊大な態度を抑え、彼なりに社交性というものを身につけるよう努力していった。

 

(単純なものよね。これも一つの『北風と太陽』ってやつなのかしら)

 

 さらにトランクスと同年代であり、かつ同等の力を持つ悟天との出会いもまた、トランクスの大きな成長の糧となった。対等の友人を得られたこともそうだが、なにより近頃悟天に対して何かと兄貴風を吹かそうとするトランクスの態度が、ブルマには可笑しく思えてならなかった。おそらくあれは悟飯を真似て、昔の自分と悟飯の関係をなぞっているのだろう。選択されなかった歴史において悟飯とトランクスは良き師弟関係にあったようだが、この世界においてもそれは変わらないらしい。

 

 なんにせよ、こんにちまでのトランクスの成長にあの二人は大きく寄与してくれており、それに比べれば今日ブルマが悟飯に与えたものなど、全く大したものではなかった。恩に着てくれる分にはありがたいので、そうそう口に出すつもりはなかったが、胸の内ではブルマは本当に二人に感謝していた。

 

 息子の後を追って、ブルマもまた家に向けて踵を返した。いやに体が軽く感じられる。若いエキスを二人分吸ったからだろうか。足が一人でに前に進んでいくかのようだった。

 

 ――おいでファンタジー 好きさミステリー

 

 ――君の若さ 隠さないで

 

 随分と懐かしい歌がふと口から零れてきて、ブルマはいよいよ気恥ずかしく思った。どうにもすっかり気持ちが若返ってしまっているようだ。悟飯に渡したコミック同様、これもまたブルマの学生時代に流行っていた古い歌だった。

 

 ――大人のフリして あきらめちゃ

 

 ――奇跡の謎など 解けないよ

 

 奇妙な活力が湧き出ていた。体の内側から力が溢れ出てきて、自分にできないことなんてないと無根拠に信じてしまいそうな不思議なエネルギー。まるで本当に、あの頃に還ったかのように。

 

「で、おまえたちはキスぐらいはいったのか?」

 

 古い思い出の中の声が、ブルマの脳裏に木霊した。あれはたしか父だったか。遠い昔に、悟空とのことについてブルマはそう尋ねられたことがあった。

 

 当時のブルマはこう答えた。

 

「いってるわけないでしょ!」

 

 しかし当時も今も、ブルマは決して考えないでもなかった。もし、あの頃の小さな孫くんとキスをしていたら、自分はどうなっていただろう。未来はどのように変わっただろう。

 

 未練や後悔、などと言うほど大層なものではない。欲しいものは遠慮せず掴みに行くのがブルマの主義であり、悟飯に説いた「やりたいようにやる人生」を彼女こそ力の限り実践してきた。そうして今の自分があるという自負がある。

 

 しかし彼女もまた当たり前の人間であればこそ、時折ふと振り返ってしまうものがある。今の自分に不満などない。子供も愛しい。夫はまぁ普通だ。しかし、自分が間違いなくたった一つしかない最善の道を歩んできた、と断言するには、彼女の叡智をもってしても世の中は広すぎるのだ。

 

 もしもあのとき違う道を選んでいれば……と、思いめぐらせてしまうものがブルマにもいくつかあり、たとえばそれは学校卒業後の進路であったり、会社の新製品企画書の内容であったり、去年の家族旅行の行き先であったり、悟空とのことも、言うなればその中の一つだった。

 

 良い男だった。恋人になることはなかったが、良い男で、良い友人だった。それだけで良いとブルマには思えた。

 

(そういやあいつ、ちゃんと食べてんのかしら。どれ、久しぶりに三階に行って顔を見とこうかしら)

 

 そんなことを考えながら、ブルマは家の門を開けて、慣れ親しんだ我が家の中へと帰っていった。閉じられた扉の奥から、またもや懐かしい曲が聞こえてきた。

 

 ――もっとワイルドに もっとたくましく

 

 ――生きてごらん

 

 ――ロマンティックあげるよ

 

 ――ロマンティックあげるよ

 

 

 

   ◇

 

 

 

「ねぇ、兄ちゃん。ブルマさんって、お父さんのこと好きだったのかな」

 

「ぶふっ」

 

 弟の爆弾発言に悟飯は思わず吹き出してしまい、危うく筋斗雲から転がり落ちそうになった。二人を乗せた筋斗雲は現在、大陸の東端に向けて高度七千メートルあたりを全速飛行中であり、なおかつ悟飯はこのとき知らなかったが、なんと悟天は超化まで会得していながら自力で空を飛ぶことが出来なかったため、もし二人して筋斗雲から落ちていれば少々危ないところだった。

 

 なんとか気を取り直した悟飯は顔を顰めて、前に座る弟の後頭部を睨みつけた。

 

「お前な、ブルマさんはもうとっくの昔に結婚していて、お子さんだっているんだぞ。失礼なことを言っちゃだめじゃないか」

 

「でもさ」

 

「だめったらだめ。そういう変なことは誰にも言っちゃいけないぞ。お母さんやトランクスくんには特に」

 

 珍しく強い語調で悟天を叱るも、実のところ悟飯としても、父・悟空とブルマの関係については少し考えてしまうところがあった。

 

 かつて父から聞いたのだ。父が育ての親以外で初めて出会った人間がブルマであり、生まれて初めて友人になったのもブルマであったと。ドラゴンボールの伝説を教えてくれたのもブルマであり、そしてそんな彼女とドラゴンボール探しの旅を始めることで、やがて父は武天老師と出会い、ウーロンと出会い、ヤムチャと出会い、チチと出会った。彼女との出会いによってそれまでの父の人生の全てが変わり、長い長い物語がそこから幕を開けたのだと。

 

 父にとってブルマという女性は、妻や息子とはまた別の意味で掛け替えのない存在なのだろう。子供の頃に話を聞いた時、そのように悟飯は受け取った。当時の悟飯としても多少思うところが無いでは無かったが、そこに自分たちを持ち出して優劣や軽重をどうこう言うのは子供心にも無粋なことに思えた。良き出逢いであり、良き友だった。それだけでただただ素晴らしく、他にあれこれと言葉を付け足す必要はないように思えた。

 

 夕焼け空の真ん中を筋斗雲が突っ切っていく。地上は遥か遠く、視界の果てでは地平線が緩やかな弧を描き、地球の丸みを感じさせる。世の広さが否応なく伝わってくる光景に、悟飯は小さく胸を高鳴らせた。あるいは父も、かつて筋斗雲の上で同じようなことを思ったのかもしれない。

 

「ねぇ、兄ちゃん」

 

「んー?」

 

「ブルマさんってさ、とってもいい匂いがするね」

 

「お、なんだこいつ。色気付いたな」

 

 悟飯が悟天のつむじにぐりぐりと指を押し当ててやると、悟天は「あはは」とくすぐったそうに笑った。

 

 孫兄弟の日曜日は、そうして過ぎていった。

 

 

 

 

 

 


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