クモのす   作:北埜とら

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3・夕闇の中

 それから幾日が過ぎたか知れないが、場所を変えても結局獲物を捕らえることのできない僕の巣に、突然の訪問者があった。

 風のある夕暮れ時、いつものように、僕は酸味の強いナナシの実をむしゃぶっていて、バタフリーはどこから取ってきたのか知れない花の蜜をちゅるちゅる吸いながら、高いところから僕を小馬鹿にする言葉を浴びせていた。

 そこにひょっこりと顔を出したのは、赤い瞳に飛び出た前歯、くるんと先だけカールした長い尻尾を持つ、いつだかのコラッタだった。

「よぉ、今はこんなとこにいたのか。へぇ」

 それは、本当に「いつだか」のコラッタだった。

僕とバタフリーは顔を見合わせる。見覚えはあるけど、一日に何度となくコラッタとすれ違うこの森で暮らす僕たちには、それがどの場面での見覚えなのかいまいち思いだせなかった。

「オレだよ、オレ。ほら、獣道で会ったじゃねぇか」

「えっと……」

「オレが人間のガキに追われてる時」

 その言葉を聞いて、あぁ、思いだしたとバタフリーが声を上げた。僕もようやく気がついた。南の森に引っ越した当日、僕が人間の子供を巣に引っ掛けた時、その子が追いかけていて、結局取り逃がしてしまったあのコラッタだ。

 よく見れば精悍な顔つきのコラッタは、僕らを見上げてくいくいと鼻をこすった。あのとき言葉を交わした訳でもないのに、どこからか親しみがこみ上げてくる。

「うわぁ、懐かしい」

「あんときは世話になったな」

 その人間をむざむざと逃がしてしまったなんて言えなかったし、言う必要もないだろう。僕は黙って愛想笑いを返した。コラッタは整った顔でフッと笑って、あん後な、と続けた。

「オレ、あの小僧に捕まったのよ」

「えっカッコ悪!」

 バタフリーはどこまでも自由奔放で、こまごまと後先考えたりしないポケモンだ。言ってしまってから口を塞ぐが、もう遅い。

 コラッタはそれを気にする様子もなく、ケタケタと陽気な笑い声を上げた。

「そんでまぁ、あのモンスターボールっていう赤白の丸い奴ぶん投げられて、人間たちの巣の方まで連れて行かれたわけよ。んで、手当てとかして、まぁ、飯食わせてもらったり、命令されてバトルしたりしたわけ」

「お気の毒。逃げてきたの?」

「いやいや、それがよ、人間との生活ってのもまぁ、悪くなかったというか、まぁ」

 そう言ってぶっきらぼうに視線を外すコラッタを見て、僕とバタフリーは首をかしげた。

「悪くなかった?」

「それって、評判と違うじゃない」

「そうなんだよ、オレだって最初は、噂のように、暗くて狭いところに押し込まれて、人間にいろいろ命令されたあげく臭い飯を食わされる、地獄のような日々が始まると思ってたんだけどさ。まぁ、慣れてくると、意外と楽しいというか、これが。オレを捕まえやがったガキとも、結構仲良くなったりしてさ」

「そうなんだ……」

 恥ずかしそうに体を揺らしながら語るコラッタを見て、僕はふと首を傾げる。

「じゃあ、何で逃げてきたのさ?」

 落ち着きのない尻尾の動きが、ぴた、と止まった。

 コラッタは顔を上げ、僕と目を合わせた。それからニッと奥歯を見せた。

「あぁ、オレ、捨てられたのよ」

「捨てられた、って?」

「まぁ、もうお前いいよって、森に帰されたってことさ。つまるところ、オレはもう、あのクソガキの所有物じゃないわけ」

「へー、そういうこともあるんだぁ。よかったね」

 バタフリーの言葉にコラッタは、ヘヘヘ、ともう一度鼻を擦った。

 風が低く鳴いた。お腹から撫で上げられるような、なんだか嫌な風だった。木漏れ日が乱れて、橙の欠片がちらちらと瞬いた。

 その西日を見て、あ、とバタフリーは翅を立てた。

「いけない、お客様があるんだった。じゃ、私はこのへんで。バイバイ、イトマルちゃん、コラッタくん」

 そうして、バタフリーは枝の間をぬって天の方へと消えていった。彼女の澄んだ翅の色を、コラッタは目を細めて見ていた。

 木の葉がさわさわと囁いて、虫ポケモンの物悲しい旋律が遠く聞こえた。

 僕は彼の方を盗み見た。夕陽の赤に染まったその凛々しい横顔が、どこか憂いを帯びているように感じるのは、ただ沈みゆく太陽のせいなのだろうか。

「コラッタくん」

 ん? 振り向き、小首を傾げるコラッタの表情を、夕焼けの光と影が縁取った。

 どういう訳か目のやり場に困って、僕は俯いた。

「僕、あの時、あの人間を食べちゃった方がよかったのかな」

 風が止み、森が黙った。

 刹那の沈黙が、僕の心の底を冷やした。

 コラッタは何か言いたげにしたけれど、その後ちょっと瞼を落として、それから静かに頭を振った。

「……さあな」

 それだけ呟いてコラッタは立ち去った。

 黙って見送るその中で、小さな背中は夕闇へと飲み込まれていった。

 

 

 気分も晴れないし、お腹もすいたので、僕は河原のあたりへ木の実拾いにでも行くことにした。

 なのにお天道様ときたら、僕が歩き出した途端、湧きあがる雲の中へとすっぽり体を隠してしまった。伴って、急激に木々の影が深まる。もう翌朝まで日の光は拝めないだろう。

 風は一段と強さを増し、その声が心細い僕の不安を煽った。

 青く黒く沈み始めた空の色に、重たそうな雲が被さりはじめた。花でも草でもない匂いが時折鼻を掠める。天気は崩れそうだ。

「やっ、イトマルじゃないか」

 掛けられた声に振り向くと、薄暗い木陰の中から、一匹のヤンヤンマが飛び出してきた。南の森で知り合った、いたずら好きの子ヤンヤンマだ。

 挨拶を返すと、彼はぶぅんと僕の隣に寄って、どこ行くの、と尋ねてきた。

「ちょっくら河原の方までね」

「あっ、そりゃあよかった。今日は川がごうごう怒ってて危ないから、近付いちゃだめだよ」

「怒ってるだって?」

「ママがそう言ったんだ。今こっそり見てきたけど、確かに危ないよ、ありゃ。川の神様がお怒りだ」

 そう言って子ヤンヤンマは黄色い笑い声を上げた。幼い笑顔が、なぜだか僕の心まで覆おうとしていた黒い雲を遠ざけるようだった。

「へぇ、いいことを聞いたな」

「翅の生えてないポケモンは、こっそり見にも行かないほうがいいかもね」

「そんなにかい」

「そんなにだよ! それに、もうすぐ雨も降りだすだろうから、翅のあるポケモンも危ないね。だからさっさと帰ってきたの」

「はー、それは助かったよ。ありがとう、ヤンヤンマくん」

 お礼を言うと、子ヤンヤンマは得意そうな顔ではにかんだ。

「いいっていいって! でもママにはひみ」

 ドス、と鈍い音がした。

 隣に並んでいた夕焼け色の体が、一瞬にして視界から消え去った。

 振り返ると、湿った地面の上に、細長い体が転がっていた。

「あ、え……?」

 それだけやっと声にして、子ヤンヤンマは、自分の膨らんだ胸元と大きな頭の間に、何か黒くて長いものが突き刺さっているのを見た。

 プッ、プッ、と立て続けに音がした。釘打たれて、子ヤンヤンマの二対の翅は地面に固定された。子ヤンヤンマは6本の足で宙を掻き、尾を上げた。その瞬間、赤い胸元に、闇から放たれた真っ黒な矢が一本二本と突き刺さった。その度に、子ヤンヤンマの体がびくんと跳ねた。

 僕はただ、突然の出来事に立ち尽くすことしかできなかった。

 胸を貫かれた子ヤンヤンマは、大きな瞳を見開いて、そのまま凍りついたように動かなくなった。

「邪魔したな」

 びりびりと割れた低い声が僕に触れた。

 呆然とする僕の前に現れたのは、オレンジと黒、黄色に紫の毒々しい彩色に、ぎょろりと飛び出した目と、長い足と、闇に浮き立つ白い牙を携えた――大きな体躯のアリアドスであった。

「ん、おや、お前は……もしかして、兄さん?」

 しかも悪いことに、相手は僕の知り合いであった。間違いない、彼は僕と同じ親から生まれ、幼少のひと時を同じねぐらで過ごした、三日ほど遅く生まれた弟だったのだ。

 僕は黙って彼を見ていた。立派に成長した弟の姿に、一片の懐かしさも、ましてや感慨なんてものは湧かなかった。

 宵の口、闇に紛れたその表情はあまり読み取れなかったけれど、彼は子ヤンヤンマを一瞥して、それから僕に目をやった。

「久しぶりじゃないですか、兄さん」

 でも噂は聞いていますよ、と、彼は口の端を上げる。

「兄さん、バタフリーの女とイチャイチャしてるって聞きましたけど……非常食ですか? ……残忍だなぁ、兄さんも」

 僕は言葉を返さなかった。

 上空は完全にどす黒い雲に覆い尽くされて、森は一刻早い夜を迎えた。滴が僕の鼻先を叩いた。色濃い雨の匂いが、南の森にも流れ込んできた。

「兄さん、悪いけど、このエサはオレが貰っちゃうんで」

 アリアドスは翅を固定した毒針を手早く抜き、慣れた様子で細い体に糸を絡ませた。

 僕はやはり、何も言えなかった。渦巻く感情が僕の脳みそをかき混ぜ、喉を詰まらせていた。

「今度、いい巣の張り方とか、教えてくださいね。ヒヒッ」

 ガサガサとわざとらしく音を立てて巣へと戻っていくアリアドスに、僕は最後まで何の言葉もやらなかった。

 雨粒は次第に数を増やした。濡れそぼってもなお僕は、しばらくその場所から離れることができなかった。

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