「シッ、シッ」
男は右手を振りまわしてミツバチと格闘しながら、黄色い花を散らしながら小走りで進んでいた。
澄んだ青空に真白の雲がぽかんと浮かぶ、気持ちのいい昼間だ。ただし夜には雨が降り出すらしい。明日は来れないだろうと考えながら、しばらくスピードを上げて執拗に追いかけてくるミツバチを振り切った。
すると、気づかぬ間に海のすぐそばまで来ていたらしく、前方には仁王立ちでこちらを見ているブイゼルが見えた。よく見ると、眉間にしわを寄せ、鋭い目でこちらを睨んでいる。初めて出会った時と同じ、何か怒っているような表情だ。
かなり距離を置いたところでミタニは立ち止まり、情けなく笑いながら頭を掻いてみせた。
「……こんにちは」
声をかけると、ブイゼルはあっという間に普通の顔に戻った。おぉ、と言って、崖の下に飛び降りてしまった。
相変わらずよくわからない奴だ……あれから数時間花集めを手伝ったけれど、結局教えてくれたのは『フリシオン』という花の名前だけだった。なぜ野生のブイゼルが花の名前を知っているのか、それさえ分からない。
眼鏡が落ちないように片手で支えながら海を見下ろして、崖の横穴で何かをしているブイゼルにミタニは声をかける。
「なんで毎回睨むんだよ」
「睨んでなどない。目がよく見えぬだけだ」
はぁ、とあいまいな返事をすると、ブイゼルの姿は穴の奥へと隠れてしまった。それだけならあんな無骨な態度など微塵も連想させない可愛らしい声だけが、洞窟の壁を反響してからミタニの耳に届いてくる。
「ミタニ。今日は何をしにきた」
「え……っと、君がその、花を」
「よく聞こえぬ!」
「君が、海に花をまく瞬間が見たいなと思って!」
波の音にかき消されまいと大声で叫ぶと、フンと笑う声が聞こえて、
「ミタニの声はよく通らぬから聞き取りづらいわ」
そんな文句を相変わらずの高音で垂れた後、洞窟の中からひょっこり顔を出してこちらを見上げた。男は膝をついて、上半身を乗り出してブイゼルを見た。
ブイゼルは昨日あげた大きなゴミ袋を引っ張ってきて、その中に集めた大量の花びらを洞窟の出口に流し出した。
半日かかって集めた花びらは、想像していたよりものすごい量だった。よくここまで集められたものだ。塵も積もれば何とやら、というやつか。しかもそれだけ集めても、フリシオンの花畑はどこも禿げていないのだからすごい。
「直接撒くんじゃないんだね?」
「手間をかけてこそ」
そのとき、遠くで低く風の唸りのような音が聞こえた。汽車の汽笛だ。ミタニは右手の方向を見て、慌てて叫んだ。
「急がないと汽車が来るぞ!」
「分かっておる。おれは目は悪いが、耳はそなたよりうんと良い」
そういうとブイゼルは、ぷっと上に水をふいたかと思うと、二股の尾を高くあげて、水が落ちてくる前にくるくると空中でしっぽを回した。すると、水が吸い寄せられるようにそこに集まっていき、水の球体が出来上がった。しっぽを回す方向へ、中で激しい水流が渦巻いているのが見える。
「おぉ」
ミタニの感嘆を得意そうな顔で聞き流してから、ブイゼルは水の球を手へ持ち替えた。両手で大事そうに支えたその球を、黄色い花弁の山へそっと近づける。
するとレモン色の花びらは、激流にすくわれたような勢いをもって、渦を描きながら水球の流れの中へ飲み込まれていくではないか。男があんぐりと口を開けて見つめる中、無色だった球が、一瞬のうちに鮮やかな黄色へと変貌した。
ブイゼルは一瞬のためらいもなく、それを海の方へと放り投げた。球はきれいな球形を保ったまま、ゆったりと放物線を描いて飛んでゆく。
次にブイゼルは体をかがめた。どこからともなく彼の足もとへ水流がほとばしった。蹴りだすと同時に、彼の体を水流が電撃のように走った。目にもとまらぬ速さで線路の真上まで飛び、水流はブイゼルの尾に集められて淡い輝きを放った。体をくねらせた瞬間、彼と線路とを結ぶ直線上に丁度水球が重なった。
ブイゼルは大きく体をひねって、しっぽを真上から水球に打ち付けた。
「!」
男が口を開ける目の前で、多量の花びらを含んだ水球は崩れるように砕け、そこら一帯の海面へ降り注いだ。引きちぎられた花弁たちがもう一度寄りあって花開くように重なり、見下ろす入り江一面がフリシオンの色に染まった。
ブイゼルが再びアクアジェットを使って洞窟に戻った次の瞬間、彼の背後――即ちレモン色の海面を、藍色のボディを持つ汽車が走り抜けた。まばたきをするほどのわずかな瞬間、男とブイゼルの耳に、乗客たちの歓声が聞こえ、脳裏に焼きついた。一人と一匹は真っ白の煙に巻かれた。
「なぜ手伝う」
都合が悪いか? ブイゼルの怪訝そうな声にミタニは笑顔で答え、フリシオンの花びらを摘む作業に戻った。ブイゼルは不思議そうに首をかしげて、男の楽しそうな横顔をうかがった。
煙が去った後、ミタニは上がってきたブイゼルの濡れた手を握って、素晴らしいと雄たけびを上げた。驚いて体を硬直させたブイゼルにお構いなしに、彼はその小さな手を強く握って、この美しい技を一生忘れないだろう、そう思った。
それからまた花を摘む作業に戻ったブイゼルを、ミタニは何も言わずに手伝い始めた。
ブイゼルは不思議だった。なぜこの男は、何をされてもらったわけでないのにもかかわらず、無償で自分の『花撒き』を手伝うのか……。
考えてみるとそういえば思い当たる節があって、勝手にとはいえど手伝ってもらっているのだから、とブイゼルは口を開いた。
「アオイという人間を知っておるか」
「ん? アオイ? 知らないな」
振り向いた先に飛んでいたミツバチを水鉄砲のひと吹きで撃退してから、ブイゼルは淡々と話し始めた。
「おれが子供だったころ、この場所で人の子と出会った。名前はアオイ。いつも真っ白のワンピースと呼ばれる布をまとい、頭には麦わら帽子と呼ばれる円形の物体を被っておる。皮膚は肌色で髪は黒、瞳はこげ茶――丁度そなたと同様に」
それは日本人なら誰しも、と突っ込もうといて、ミタニはその言葉を飲み込んだ。
「海を通る列車の中に大量におるのが人間だということは死んだ母から教わっていたが、ホンモノと話したのはそれが初めてだった」
両親が早くに他界し、長らく一人で生活していたので、誰かと口を聞くのも久方だった。
アオイはここから近くの町へ親とともに帰省してきたところらしく、遊び相手もいなくて暇をしていた。おれたちはすぐに打ち解けて、この場所で毎日のように遊んだ。追いかけあって転げまわったり、花を摘み、茎を紡いで冠にしたり……フリシオンの花の名も彼女から教わった。
夏の数日間、二人きりでひどく楽しい時間を送った。
「だが彼女には帰らねばならぬ場所があった」
花びらをビニール袋へ入れながら、首だけはそちらへ向けて、ミタニは話を聞いていた。
「もう来れぬと彼女は言い、翌日の午後過ぎに列車でここを通るから、手を振ってほしいと続けて帰っていった。おれはアオイを盛大に送り出そうと、その時満開だったフリシオンの花を摘んで海へ撒いた」
じゃあまさかブイゼルは――そこまで言ったところでブイゼルが彼を睨んだ。
「話を最後まで聞け。……すると来年、フリシオンの花で崖が黄に染まる季節、また彼女はここへやって来たのだ。おれが花を撒いたことをとても喜んでくれた。とてもうれしかった、だからまた来たと。おれたちはまた遊んで、そして――」
花を撒き、冬を越し、季節がめぐり、アオイがやってきて、共に時を過ごして……。
「四度目にアオイを見たとき、彼女は以前よりひどく痩せて見えた。『びょーき』なのだと言ったが、それが何なのか、アオイは教えてくれなかった。その季節も、ここで毎日のように日が暮れるまで遊んだ。その日が来ると、アオイはまた来ると言い、そして帰るべき場所へと帰っていった。おれは花を撒いた」
すると。ブイゼルはそこまで話すと、きゅっと口を閉じた。ミタニが見つめる中、彼は一度、足元で咲き誇る花に視線を落として、それから顔をあげて続けた。
「その次にフリシオンが咲く季節、アオイはここへやってこなかった。なぜだかは分からぬ。昨年撒く花の量が少なかったのかも知れぬ。おれは嫌われたのかも知れぬ。それでも」
おれは、花を撒かずにはおれんかった。
その刹那、黒々とした瞳の色がかすかに揺れるのを、ミタニは見逃さなかった。
「じゃあ君は……それからずっと、その女の子のために、フリシオンを撒いていたのかい?」
「そうだ。毎回午後一番の汽車ではあったが、いつの汽車に乗っているのかは分からぬ。だから、フリシオンが咲く季節には、毎日午後一番の汽車に花を撒いてきた」
「ずっと……かい?」
「そうだ。全部で十二の冬、アオイが来なくなってからは八つの冬を越えた」
「まさか、雨の日も?」
「ん? そうだな。まだ雨が降ったことはないが……雨が降る日に、アオイが汽車に乗らないとは限らんだろう」
「もしもし」
『ミタニか? 調査の方ご苦労だな。何か分かったのか』
ミタニは携帯電話を片手に、延々と続いて見えるフリシオンの花畑の中をとぼとぼと歩いていた。
「ああ分かったよ。『花の入り江』の怪現象は、ポケモンの仕業だった。それもたった一匹のブイゼルの」
『……それは本当か? 毎日花が撒かれるようになってから、もう八年も経つんだぞ。あんな量を一匹のポケモンがだなんて信じられるか』
「本当なんだ」
『お前も、おそらく地形と風の影響だろうと言っていたじゃないか』
「そう思ってたさ。でも見たんだよ」
『なら一体何のために……』
強い風が吹いて、飛ばされた花びらが無数に舞い踊った。空を見上げると、重たい鉛色の雲が、西の端から順に頭上を覆い始めていた。
「……おれはやめさせるぞ。このままじゃあまりにも可哀想だ」
『は? 何を言っているんだ、あれはこの路線の見どころとしてこれから売り出すところだと言ったはずだぞ。お前には調査を頼んだだけで、そんなことは――』
「売上なんて知らん! 何も知らないポケモンを商売のために都合よく利用するなんて、そんなことあってたまるか」
会話相手は押し黙り、ミタニは携帯を閉じて大股で歩き始めた。
渦巻くような気味の悪い風がフリシオンの花をまき散らして行く。振り向いても、もう花を集めるブイゼルの姿は見えなかった。