花の入り江   作:北埜とら

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花の入り江(4)

 昨晩の嵐のような雨のおかげで、崖の上はぐちゃぐちゃになってしまっていた。

 歩くと足の裏にこびりつく泥が気持ち悪い。腰を下ろすと、泥に混じって黄色いものが見える。雨によって落とされ、無残な姿を晒すフリシオンの花だ。

 昨日より少し冷え込んだ空気の中、ブイゼルは軽く頭を振って立ち上がった。まだ体の中に嫌な感じはあるが、昨日に比べるとうんとよくなったように感じる。大きくのびをしながら見上げると、真っ青な空は高く高く広がっている。嵐の雲はどこかへ行ってしまった。

 歩くとぺちゃぺちゃ音がするのが嫌で、ブイゼルはアクアジェットを使って岩壁の洞窟に戻った。そこらじゅうにフリシオンの黄色い花びらがちらかっている。そして、穴の一番奥に、昨日ミタニが一人で集めた花びらが積んであった。レモン色の中に、地面の泥色が混じっている。ブイゼルは振り返って入り江を覗き込んだ。

 入り江は、雨で流れ込んだ土壌のせいか、いつもより淀んだ色をしていた。ところどころに見える黄色い点も、もう鮮やかな色はしていない。崖の上も、もう半分以上の花が散ってしまって、茎の緑の面積がうんと増えていた。

 昨日の雨で、フリシオンの季節は、大方終わってしまったのだ。

 もうミタニは来んかもしれぬ、とブイゼルは思った。

 このような何もない場所に、だれが望んで来るだろうか。きっと、フリシオン色の海に興味があったに違いない。

 ずっと遠くで汽笛の音が聞こえた。汽車が来る。ブイゼルはミタニがあつめたフリシオンの袋を取ってきて、いつもと同じように洞窟の入口に開けた。

 この季節はこれで終わりだ。

 真上に水鉄砲を吹き上げた。しっぽをあげて、ソニックブームを微妙に調節しながらしっぽを回転させる。輪の中央に水球が出来上がる。ソニックブームを少しずつ強めて中に水流を作り出しながら、ブイゼルはこの冬をどう越そうかなどと考えた。

 回転速度が上がって水球が安定しだしたら手にやさしく持ち替えて、花びらに静かに近づけて……出来上がった黄色の渦の球は、いつもより少し濁った色をしている。花びらに付着していた泥の色だ。

 まったくミタニは仕事が粗い。ふと笑みを作った瞬間、再び汽笛が聞こえた。右手にはうっすらと藍色の車体が見え始めた。

 ブイゼルは水球を海の方へと放り投げ、同時に地面を蹴りだした。アクアジェットによって発生する水流を、勢いに乗せて二股の尾に集中させる。

 ぐるりと体をひねって海を見た。青色の海だった。そういえば、これがレモン色に染まる瞬間を見たことがない。

 水の中にゆったりとうねって見える線路と、真下に飛んできた水球がぴったりと重なった。真下へと体をひねり、しっぽでそれを叩き割る。同時にアクアジェットを使って洞窟へ戻りながら、ふと思いついて首を後ろへ捻った。

 ブイゼルは目を見開いた。

 空中を妙な姿勢で飛びながら彼が見たものは、ほんの刹那の光景だった。

 形を失った球が粉々に砕け、その一つ一つの粒が、夏の鮮やかな日光を吸収し、夜空の星がそのそれぞれの存在を誇示するのよりずっと強く光り輝き、その光の影を空色の海へ投射し、二つの輝きの欠片たちが吸いつけられるように近づき、それらが交わる瞬間、いくつもの花が重なり合って開くように海面を埋め尽くして――、

 そこまで見たとき、ブイゼルは妙な態勢のまま洞窟の壁に激突した。ゴツンと鈍い音がして、のろのろと起き上がったとき、目の前を藍色の汽車がごうごうと音を立てながら通り過ぎていった。乗客の声が聞こえた。目を輝かせ、口を大きく開けて笑っている誰かの顔が見えた。

 ブイゼルは言葉を失って、ぽかんと口を開いて固まっていた。

 強い風が吹いて、崖の上の花びらが海の方へ舞っていくのが見えた。白い煙を吹き飛ばし、洞窟から鮮明な景色が見えるようになったとき、

「――イーチャン!」

 妙な声が、昔の自分の名前を呼んだのを聞いた。驚いて立ち上がり、洞窟の入り口まで出て顔を上げた。

「イーチャン! 私よ!」

 まぶしい太陽の光の中に、白いなにかがはためくのが見えた。大きな丸いものをかぶった人間のようだった。しかしいまいち焦点が合わず、ぼんやりとしてよく見えない。ブイゼルは思い切り目を細めた。心臓がバクバクと脈打つのを感じていた。

 白いなにかは、確かにワンピースだった。大きな丸いものは、確かに麦わら帽子だった。顔は逆光でよく伺えないが、記憶の中の少女よりずっと大きいことは確かだ。でも、人間は大人になるとぐんと身長も伸びると聞く。しかし……

「イーチャン! 私よ、アオイよ!」

 その無理に押し出したような潰れた高音の声をよく聞いてみたとき、ブイゼルは急に可笑しくなって、口を押さえてぷっと吹き出した。

 

「――ミタニ、何をしておる」

 股がスースーして気持ち悪い。気を抜くと海の方に押し倒されそうなほどの強風の中、ブイゼルは唖然としてこちらを見たあと、急に顔を伏せたかと思うと、笑いを押し殺したような声で言った。

 このためだけに新調した真っ白のワンピースがはためくのを右手で抑え、同じ町に住む甥っ子に借りてきた麦わら帽子を左手で抑えながら、ミタニはブイゼルの言葉を聞いて一歩あとずさりした。

 なぜだ、変装は完璧なはずなのに? もうブイゼルはものが見えない時にする彼の癖である、にらみつける行為をしていない。いやでもまだ、大丈夫だ。こちらに近づかれない限りは……

「イーチャン、もう花を撒かなくてもいいの! 私、もう十分よ!」

「それでもおれは撒きつづけるぞ、ミタニ」

「だから私は――」

 ブイゼルはロケットのような勢いで崖の上に駆け上がって、慌てて帽子で顔を隠すミタニの姿を見て、おかしそうに笑った。

「目は悪いが、耳はそなたよりうんと良い。……言ったじゃろう、ミタニ」

 

 

『……おれはお前の常識を疑う』

「ハハハ。おれは女装趣味はないぞ。勘違いするなよ」

 周りを飛び回るミツバチを片手で追い払いながら言うと、相手がフンと鼻で笑う声が聞こえた。

 ミタニはフリシオンの花畑の中を歩いていた。昨日の雨で花は大量に押し流され、茎と葉だけになってしまったものも多い。そういえば、最初に来た時よりもずいぶんと涼しく感じる。秋が来るのだ。

「そのあとは、そこで彼としばらく話して」

 

 ブイゼルとワンピース姿のミタニは並んで崖に腰かけて、フリシオンが沖に流されていくのを見ていた。

「おれはお前にひとつ嘘をついたな。最後にアオイに会ったとき、本当は彼女は、もう二度とここには来れぬだろうと言ったのだ」

 ブイゼルはミタニの顔を何度も見てはそのたびに吹き出し、幸せそうにしっぽをふりながら話した。

「『びょーき』で死ぬから来れぬ、と言った。だからアオイがあの汽車に乗っておらぬことを、おれは知っておる。それでもどこかで、こうしていればもう一度アオイに会えるのではないかと、希望を抱いてもおった」

 でもそれはもう、今日で終わりじゃ。ブイゼルは立ち上がって、ミタニの方に振り向いた。その手には、泥で汚れたビニール袋が提げられている。

「おれは今日見たよ。そなたが言うように、フリシオンが海に撒かれる様は、もう一生忘れられぬほど美しかった。おれはこの技で、あの汽車に乗る人間たちを喜ばせる。それにお前もな」

 そういうとブイゼルはミタニに背中を向けて、二股の尾をゆらゆらと揺らしながら歩きだした。この季節は最後の一輪まで撒くぞ、と高々に宣言して。

「おれ、これからもここに来るからな。毎日とはいかなくても、週に何回かは遊びに来るよ」

 ブイゼルはそれについては何も言わず、ああそうじゃと呟いて、くるりと振り返った。

「それからお前は、大きな勘違いをしておるぞ。言っておくが――」

 

「……イーチャンと呼んだのは彼の母親で、アオイちゃんとやらではなかったそうだ」

 そう言うと、また会話の相手がフンと笑った。

『じゃあ、これからも『花の入り江』は続くんだな? ミタニ、ご苦労だった。今回の報酬はちゃんとお前の口座に――』

 ちょっと待て。ミタニは言いながら振り向いた。なお懸命に咲き誇っているフリシオンの花が、風にくすぐられて笑い声を立てるように揺れていた。そのずっとずっと向こう、岩壁の洞窟以外には何もない入り江に、誰とも知らない人のために、線路に花を撒きつづけるブイゼルがいる。

「これからは、あの入り江を通るたびに、乗客に『ありがとう』と叫ばせることを提案するよ」

『……上に伝えておく』

 携帯を閉じて鞄に収めた瞬間、突風が面白いようにスカートを捲りあげて、男は裾を必死に抑えながら花畑を歩きはじめた。




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