蒼井美穂がその症状に襲われたのはごく最近、つい一週間前の話だ。
彼女が学校の帰り道、女としての危機管理、家族の忠告から人通りの多い道を選んで歩いていると、突然目の前が真っ暗になった。
人生で初めて暗闇というものを体験した美穂にはそれがどういうことなのか分からなかった。うっすらとした光は見えるのだが、それ以外の情報が視界にやってこない。
少しの間、立ち止まり周囲の確認をして目を閉じたりこすったりしている間に瞼が太陽の残像を忘れ、うっすらとした光さえもない完全な暗闇にたった時に美穂は初めて恐怖を感じた。
自分が失明したという事を理解した、が受け入れられない。そして見えないという恐怖、今まで未知だった恐怖。それは夜中、道の先が見えないなどとは比べものにもならなかった。
その時、美穂にはすべてが敵に感じられた。
人通りが多い道を選んだことが、いや、人通りがない道を選んでも結局美穂は恐怖しただろうが、耳から伝わる話声も車の音もすべてが美穂には怖かった。目が見えないという事が美穂の心を弱く、臆病にしているからだ。
結局、その日は夜中までその場所から動けずにいるところを警察に保護され、家族の元へ送り届けられた。
そうして一週間。
現在美穂は学校を休み、病院で療養している。
あれから多くの医者に見てもらったが、どの医者も原因が分からないという。
美穂は自室のベットでこれからのことについて考える。
失明した、という事はもう受け入れるしかない、パパは絶対に治るといったが白内障以外の失明で視力が回復するというのは絶望的という話をナースがしているのを美穂は聞いていた。学校はもう通えないだろうし、点字の勉強や杖での移動の練習、さまざまなことが美穂の頭に浮かんでは過ぎ去っていく。
見えない目から涙が出てくる、この一週間、美穂の目は涙を流す器官としてしか機能していない、すべきことや考えが涙とともに抜け落ちていく。
「ひ、う、ひうっえぐ。どうして」
まだ美穂は前を見る事が出来ないでいた。
美穂の父親が国内でもレベルの高い病院に美穂を入院させたのでクラスメイトや友人からの見舞いはない。代わりというように時折、美穂のスマホからポコン、という通知がやってきて美穂を苦しめる。先月に機種変更をしたばかりのスマホはまだバッテリー切れにはなってくれないようだ。
そんな時、足音が二つ近づいてきた。
一つは父親のだ、一週間の入院の間に毎日来る家族の足音は覚えてしまった。ではあと一人は誰だろう?と美穂が考えていると足音は部屋の前で止まり、コンコンとノックがされる。
「どうぞ」
「入るぞ」
父親の声だ。そして
「……お邪魔します」
どうやらパパ連れてきたのは若い男のようだ。パパが人を連れてきたのは家族以外では初めてのことだ。誰だろうと美穂が思うのも当然で
「お客さん?」
美穂がそう聞くのも当然だ。
「ああ、美穂。喜べ!お前の目が見えるようになるぞ!」
美穂の父親は隠していたプレゼントを打ち明けるかのように告げた。父の言っていることと来訪者の関係性がいまいち結びつかないと美穂は首を傾げる。
「その方はお医者さんなの?」
男の声がした方に首を向け、父の言っていることの意味で妥当そうなのを告げた。
「……いえ、俺はそんな立派なものではないです」
「?」
どこかむず痒そうな声に美穂が首を傾げれば父親が補足を入れる。
「あー、美穂。この人はな超能力者なんだ」
「……」
「美穂、パパが言ってることは冗談じゃなくてな、この人の超能力を使えば美穂はまた目が見えるようになるんだ」
美穂には自分の父親に真剣な声色でこんなことを言われたときにどう反応すればいいのか分からなかった。瞼の向こうでは父が一体どんな顔をしているのかが想像できてしまい、美穂は今だけは視力が戻らなくていいと思った。
パパは自分のために必死に治療法を探してくれている。今だっていろんな病院で検査を受けさせてくれている。
その末路がこれか。
私のせいで父の心を弱らせてしまいその心のスキマを怪しげな宗教団体に付け込まれてしまったのだろう。美穂の頭は一瞬でこのことに思い至りまた涙がこぼれてきた。
「泣くな、美穂。今からお前の目は見えるようになるんだ!」
美穂の父親が美穂の肩を掴んだ。
「もうやめてよぉ、私、目が見えなくてもいいから、その人には帰ってもらって」
「何てことを言うんだ!美穂」
「あのー、俺はどうしたらいいですかね?」
たった今帰って欲しいとまで言われた男は所在なさげに佇み、美穂の父親に確認を入れる。その態度は美穂が想像した教主と信者という関係よりも雇い主と業者という方がふさわしく感じた。
「もうできるならやってくれ」
「分かりました」
とはいえ、何かを本人の了承なくやられるというのは怖いし嫌だ。美穂が自らの父親に抗議の声を上げようとして、
「あれ?」
突然、痛いほどのまばゆさが閉じた瞼を突き刺した。手で目を覆ってもその光は弱まるどころかどんどん強くなっていき、形を帯び始める。
「痛い、痛い!」
「お、おい!どうなってるんだ!私の時は何ともなかったじゃないか!」
突然の美穂の叫び声に父親が元凶である男に詰め寄った。
しかし、男は慌てる様子もなく親子を冷静に見つめて、見比べてから告げた。
「あー、落ち着いて下さい。いきなりだから明るすぎたのかもしれません、とはいっても調整は出来ないんですが」
男の言葉は父親に言ったようでもあり美穂に言ったようでもあり、自嘲したようにも聞こえた。
「……大丈夫なんだな?」
二人の会話が聞こえるくらいには美穂の痛みも治まってきた、と言うよりは慣れたという方が正しい。
痛みを感じなくなっていき落ち着いた美穂はゆっくりと瞼をあける。
そこには自分の姿があった。
「どういう…こと?」
人間は鏡などがないと自分の姿が見えないようになっている、理由は単純に目が前についているからだ。だから今美穂が見ているものはおかしい。
いや、そもそもの話、美穂が物を見えているという事がおかしい。
確かに自分は失明したのだと、一週間それを嫌というほど美穂は分からされたのだ、今更それを疑っていない。
だからこそ、美穂はもう一度繰り返し言った。
「どういうこと」