胡蝶しのぶは家路を急いでいた。
その足取りはどう見ても焦っていて、額には薄ら汗まで浮かんでいる。
とはいえ、“呼吸”という特殊な身体増強術を身に付けているしのぶが全力疾走をしばらくした程度で疲労するはずがない。
彼女を焦らせているのはひとえに、今家で自分を待つとある人物が原因だった。
(早く早く早くっ! もうっ、もっと早く走れないのこの足は!? 任務のせいで一週間も会えなかったし、一刻も早く顔が見たいのに……!)
舗装されていない山道を、木々の隙間を縫って駆けていく。
そのスピードは常人のソレをはるかに凌駕しており、もし通りすがった人がいたとしてもただ強い風が吹いたのだと感じてしまうほどの速さだった。
山を越え、小さな村を横目に通り抜け、そしてまた山を越え……とそんなことを何度も何度も繰り返すこと丸二日。
ついに、任務地であった青森から東京へとしのぶは帰還を果たした。
流石に速度は最初より落ちたものの、本来長い道中には利用するべき藤の家にも立ち寄らず、ろくに休みもせず走り続けた結果である。
辿り着いた家――“蝶屋敷”の門の前で、しのぶは懐から小さな手鏡を取りだして乱れた髪を整え始める。そして、僅かに頬に付いた血を見とめると顔をしかめた。
無論しのぶが怪我を負ったわけではない、任務の際に浴びた返り血だ。
だが、いつもならしのぶは返り血など一滴もつけない。
この任務期間中ずっと、自分の動きに精彩を欠いていたことはしのぶも気が付いていた。
それもこれも、今もしのぶの頭のほとんどを占拠している“彼”のせいである。
「……よし」
汗と風で乱れた前髪を手櫛で可能な限り直し、返り血は布でしっかりとぬぐって、いざ屋敷の中へ。
正面の門からではなくこっそり屋敷に入ったのは、誰よりも一番最初に“彼”に会いたかったから。
目的の部屋の前に着いてゆっくり襖を開けると、“彼”は壁にもたれて読書をしていた。
ここを発った時とほとんど全く同じ体勢をしていたことにしのぶは思わず笑みを浮かべてしまう。
襖が開いたことに気が付いた“彼”がこちらを見るよりも早く、しのぶは“彼”の胸に飛び込んだ。
「ああ、久遠! 会いたかった! 本当に本当に会いたかった!」
“彼”――久遠と呼ばれた青年の胸に自分の顔を押し付けながら、しのぶは自らの喜びを全力で表現する。
まさに飼い犬が久々に主人に会ったかのごとき喜びよう。
ブンブンと揺れる尻尾が幻視できそうな勢いだった。
対する久遠は、キョトンとした顔で飛び込んできたしのぶの後頭部を見る。
「……あれ、しのぶだ。
随分と早かったね。確か青森の方で二つ任務があるから二、三週間くらいかかるって言ってなかった?」
「うん……でも、ここを出てからもうずっと寂しくて。何をしてても久遠の顔を思い浮かべてたの。二週間なんて絶っっっっっっ対に無理よ! 耐えられない! だから任務は二日で終わらせて、あとは休まずここまで走ってきたの!」
「休まず……? あ、だからちょっと汗とか土の匂いが――」
そう言った途端、しのぶは恐るべきスピードで久遠から距離を取った。
「ち、ちがうの! えっと、その……軽い水浴びくらいはしたの! でもやっぱり少しでも早く久遠に会いたくて、その、あの……」
しどろもどろになりながらなんとか説明をするしのぶ。
しのぶも18歳の少女なので、異性に自分の匂いのことを指摘されればそれは当然気になってしまうというもの。
実のところ、蝶屋敷に入る前にどこかでちゃんと湯につかって汚れを落とそうとも考えていたのだ。
勢いのままにこの部屋に向かってしまったのは、一週間以上会えなかった久遠の顔をいち早く見たいという欲求の方が遥かに大きかったからだった。
(最悪最悪最悪! なんでこんなことに気づかないのよ私のおバカ! こ、これで久遠に不潔な女だなんて思われたら……私、生きていけない……!)
しのぶの頭の中はもうしっちゃかめっちゃかである。
一体どうやってこの場を上手く切り抜けようか、なんてことすら考えられなかった。
そんな絶賛大混乱中のしのぶの耳に、柔らかな声が響いた。
「ごめんね、しのぶ。さっきのはちょっと女の子に対してあんまりだった。俺は全然気にならないから、ほら……おいで」
そう言って久遠は両腕を広げてしのぶに微笑む。
「あ、あぁ……」
もはや思考停止しているかのように、しのぶは久遠の胸に向かってふらふらと引き寄せられていく……が、そこでハッと我に返る。
「だ、ダメです! ちゃんと湯あみもして、しっかり身だしなみを整えてからまた来ます!」
「え、でも俺はホントに気にしてないよ?」
「そ、それでも! その……久遠にはやっぱり一番きれいな私を見て欲しいので……」
本音を言うならしのぶは今すぐ彼の胸に再度飛び込み、そのまま他愛のない話をしたり、一緒に本を読んだり、そしてそのまま一緒に眠ったり、そして……まあとにかく色々したいのである。
しかし、それを鋼の精神でぐっと耐えた。
やはり女子たるもの、好いた異性には万全の状態で会いたい。
当人が気にしないと言ってもしのぶ自身が気にするのである。
「そっか……。じゃあ、ここで待ってるから行っておいで」
「はいっ! ちゃんと待っててくださいね! どこにも行っちゃ嫌ですよ!」
「はいはい、分かってるよ」
非常に勢いのあるしのぶの言葉に、久遠が苦笑しながら頷く。
そしてしのぶが少しでも早く身支度を済ませるために部屋を出て行こうとすると、後ろから「しのぶ」と自身を呼び止める声がかかった。
しのぶが振り返ると、久遠は微笑みながら言う。
「言い忘れてたけど……おかえり、しのぶ」
その言葉に、しのぶは花が咲いたような笑顔を浮かべて返した。
「……はいっ! ただいま、です」
なんか今読み返して思ったんですけど、鬼って死んだら蒸発して消えていたような気がする……。
なら返り血もつかない気がするけど、そこはまあこの鬼滅世界はどっかに付着した血は残るという設定でお願いしまむら。