気が付いたら大正時代にタイムスリップしていた。
何を言っているか分からないかもしれないが俺にもよく分からない。
俺は21歳で高校を卒業してから3年経っていたが、大学には行かず、かといって就職するわけでもなく、ただ日々をのんべんだらりと過ごしていた、そんな人間だった。
バイトすらしていない。働きたくなかったのだ。
まあ所謂ニートをやっていたわけだが、親のすねを齧って暮らしていたわけではなかった。女の子のヒモをやっていたのである。
特に頭が良いわけでもなく、運動ができるわけでもない、人間としての能力自体が高いとはいえない俺だったが、顔だけは良かった。
物心ついた時から女の子にはとにかくモテたし、その事実に気づいてからは常に自分の顔の良さを利用しまくって生きてきた。で、その結果面白いように女の子に好かれた。
特に高校生になったあたりからは、町を歩いているだけでも通り過ぎる女性がうっとりとした目で自分の顔を見てくるので、流石に怖くなったくらいである。
自分の顔を鏡で見ても、まあいい顔だとは思うが正直そこまでだろうか、と思う。
女性と男性では感覚が違うのかもしれない。
とにかくまあ、その日も俺はいつものように新台を打ちに街へ出たのだ。
そして財布の中に1000円しか札が入っていないことに気づき、俺は電話をかけた。
かけた先は現在の寄生先であるミサちゃん(23)。昼は中小の事務として働き、夜は歓楽街でバイトをしたりしている、そんな女性である。
ミサちゃんは5コールくらいで電話に出た。
「もしもし?」
『あ、もしもし久遠君? 今仕事中だったんだけど、どうしたの?』
「いや、実はさ……バンドの活動にかかるお金が足りなくなっちゃって……。ミサに助けて欲しいんだよね」
「え、また……? 今月もう5万も渡してるし、これ以上は私も生活できなくなっちゃうよ……」
「いつもミサに迷惑ばかりかけて本当にごめん。でも、俺がどれだけバンドに本気なのか知ってるでしょ?」
「それは……うん……」
「お願い、ミサにしか頼れないんだ。ここで活動ができなくなったら、今まで頑張ってきた分も全部無駄になっちゃうんだ……」
「…………分かった。じゃあ、お昼休みの時間頃に会社に来て。それまでにコンビニでお金下ろしてくるから」
「ミサ……! ありがとう!」
「私、信じてるからね。久遠君なら絶対に成功するって。だから……頑張って!」
「うん! いつか絶対にミサを武道館まで連れて行くから!」
……と、まあそんな会話があり。
13時ごろにミサちゃんの会社へ行って、見事3万円をゲットしたわけである。
しかし俺はバンド活動なんてしていなければメンバーすらいない。
ついでにギターもベースもドラムもできない。できるのといえば鍵盤ハーモニカとリコーダーくらいだろうか……いや、それもぶっちゃけ怪しいものである。
つまりミサちゃんに語った話は全部嘘っぱちなのだった。
すまんミサちゃん。君を武道館まで連れて行くのはどうやっても無理そうだ。
そうやって手にした3万を2時間ほどでものの見事に全てすり、とりあえず遅めの昼食をとろうと牛丼屋に歩を進めたところで――、急激な眩暈に襲われた。
それはおよそ立っていられないほどのもので、崩れ落ちながら「あ、俺このまま死ぬのかもしれないな……」なんてことをぼんやり考えた。
グラグラと揺れる頭、遠のいていく意識。
そして、次に気が付いた時にはどっかの森の中にいた。
……なんというスピード感だろう。まったく訳が分からない。
混乱したままとりあえず歩くと森はすぐに抜けられたようで、そこには町が広がっていた。どう考えても現代日本ではない街並みが。
街並みだけではない。道行く人の服装も、なんというか……コスプレちっくだった。
ここでまさかと思い、通行人の一人に今は何時代ですかと尋ねる。
すると、不思議そうな顔で「元号は大正ですが」と返された。俺は愕然とした。
――――で、冒頭に戻ってくるわけである。
「うーん、どうしようかな……」
街道の真ん中に突っ立ったまま独りごちる。
これは完全に巷で噂の異世界転生というやつではないか。
いや、別に生まれ変わったわけじゃないから転移か。ん? そもそも昔の日本なんだから異世界ですらない……?
まあともかく、問題は本来この世界線に俺は存在していなかったわけで、そんな中これから俺はどうやって生きていけばよいのかということなのだ。
さしあたっては金銭が急務の問題である。
お金さえあれば食事だけでなく宿なりなんなり泊まって住居も確保できるだろうが、大正時代のお金なんて持っているわけがない。
そうなれば当然……働かなくてはならないということだ。
労働をして日々の糧を得なくてはならない。
バイトがそこかしこに溢れている現代日本と違って、大正日本ではどんなところで働くのが普通なのだろうか。
というかまずこんな戸籍なし、この時代の常識なし、服装もどう考えてもおかしい俺のような人間を雇ってくれる人はいるのか?
……………………いや、そもそも大大大大前提として――
「……働きたくないよ…………」
そう、俺は働きたくなかった。
あっちの世界で一度も働いたことがないのに、こっちでえっちらおっちら労働に励むなんてそんな自分の姿は想像ができなかった。
しかも大正時代にデスクワークなんてまずないだろうし、少なからず肉体労働系になるのは間違いない。というかデスクワークですらやりたくない。
そして最初に戻るのだ。
「うーん、どうしようかな……」
そこで俺ははた、と気が付いた。
通りすがる婦女子たちの俺を見る視線に。
頬を赤らめながらジッと見つめてくる者、同じく恥ずかしそうにしながらチラチラと盗み見る者、艶めかしい捕食者のような目で見てくる者。
これら全てを、俺は前の世界でも知っていた。
「……なるほど、ね」
別に言葉の通じない外国や異世界に来たわけじゃない。
コミュニケーションが取れるんだったら別にあっちでもここでも俺のやれることは変わらないはずだ。
なら、始めよう――――俺をヒモにしてくれる女の子探しを。
◇
しのぶが最初にそれを聞いたのは、治療をしたとある男性鬼殺隊士からだった。
曰く、「最近町で何人もの女を誑かして、貢がせまくってる奴がいる」と。
別にどうでもいい、としのぶは思った。
その男性のあり方自体は好ましくないが、結局のところ当人同士の問題だ。
当の女性たちが納得してそうしているのなら外野がどうこう言うことではない。
その隊員が血涙を流さんばかりの悔しそうな表情だったことに苦笑いしつつも、その時はさしてしのぶの記憶に残るようなこともなかった。
それから数日後、今度は別の男性鬼殺隊士が治療中、陰鬱な表情でしのぶに語った。
曰く、「その男に恋人を奪われた」と。
これはよくない、としのぶは思った。
男女の恋愛においては別れも当然あるものだが、それが略奪愛、しかも他に何人も女を囲っている男が、となれば話は少し違ってくる。
それでも全く自分と関係ない所で噂に聞く程度ならば、不快感を覚えることはあってもこうは思わなかっただろう。
しかし今回は自分と同じ組織に所属する者が実際にそれに巻き込まれているのだ。
さらに、涙を流しながら元恋人との思い出を語るその隊員の姿はあまりにも痛々しく思えた。
だからしのぶはその隊員に言った。
私が一言文句を言いに行ってきます、と。
「……この宿に滞在してると聞いたんですけどね」
そしてしのぶは今、件の男が泊まっているという宿の前に立っていた。
別にことさら糾弾したりするつもりはない。
究極的にはあくまで当人たち同士の問題であるからして、しのぶにできることといえば、あなたが今囲っている女の一人は自分の同僚の恋人だったんだという事実を彼が知っていたのか確認し、それが知・不知どちらであっても、軽く窘める言葉を言うくらいのものである。
実のことろ元々しのぶは激情家のきらいがあり、この1年でそれなりに自分の心を落ち着ける訓練をしてきたものの、感情が高ぶればいつ爆発してしまうか分からない。
件の男性の女性関係自体には嫌悪感しかないしのぶであるため、間違っても本心をそのままぶちまけることのないよう、宿に入る前に深く深呼吸をして心を静めた。
2、3度ほどそれを繰り返し、よし行くぞと扉へ手をかけたところで後ろから声がかかる。
「えーっと、そこの御嬢さん。どうしたのかな」
「え?」
振り返る。
そして息を飲んだ。
(な、なに……これ…………)
今、しのぶの目の前にいる五尺七寸ほどの体躯のその男は、なんというかそう……物凄く顔が良かった。
ものすごく安直な表現だが、しのぶにはそれを上手く言葉で表すことができなかった。今までこれほどの美形に出会ったことなどなかったからだ。
そう、美形。
間違いなく美男子という言葉がしっくりくる。
それも絶世の、という枕詞が付いて。
目、鼻、口、眉など顔面を形作るすべての部位が最高の黄金比で配置されているとしか思えない、あまりにも美しすぎる
しのぶの存在に少し困惑しているのか、眉をちょっと下げて微笑んでいる表情には、もはや眩い光すら幻視して見えるほどであった。
しのぶ自身、自らの顔は悪くないどころかそれなりに美人であると自負しているし、同僚にだって顔の整った者はいる。それこそ、身内である姉のカナエも相当の美人だったと思っている。
だが目の前の男はなんというかもう、そういう段階にいなかった。
美しさもある程度までいけばあとは個人の好みである、というのはしのぶも同じ考えだが、しかしこの男と比べれば十人が十人「この男の方が美しい」と答えるだろう。
一目でそう思わされる圧倒的な『美』。
それが今、しのぶの眼前にあった。
「あ……あ、えと……あの……その……」
何か返答をしなくちゃいけないことは分かっているのに、言葉が出てこない。
完全に予想外の出来事に思考停止してしまったのだ。
どもったままでいると男が「大丈夫?」と顔を覗き込んできたため、しのぶはサッと顔をそらした。
頬が熱い。間違いなく今自分の顔は真っ赤になっていると思った。
「もしかして体調が悪いとか? 近くの医院まで連れて行こうか」
「ぁ……、いや、その……」
「うん?」
「……だ、大丈夫、です……はい」
大丈夫、大丈夫だ……さあ落ち着け自分。
今は亡き姉のように穏やかな心でいる訓練を一年間してきたではないか。
そうしのぶは心の中で自分に語り掛け、一度深呼吸をする。
(……よし! これで普通に喋れる、はず……!)
しのぶが気を取り直したところで、丁度男から声がかかる。
「なんともないなら良かった。それで、俺ここに泊まってるんだけどさ。通してもらえるかな」
「……ここに宿泊してらっしゃるんですか?」
「うん、そうだよ」
これは都合がいい、としのぶは思った。
宿の中の誰かしらに、件の男の情報を聞こうと思っていたしのぶにとってはまさに渡りに船。さっそく尋ねることにした。
「あの……実は今私、『天川 久遠』という人物を探していまして、もし知っていたら教えて頂きたいのですが……」
「うん? それは俺だね」
「え?」
「俺がその天川久遠だよ。何か用があった?」
男のその言葉の後、しのぶは何秒か思考停止した。
そして思い至る。
確かにそりゃそうか、と。
女を何人も誑かして貢がせまくる、なんて事そんじょそこらの男にできるわけがない。
人心をつかむ話術、経済力、社会的地位、家の格。女性を惹きつける要素といったものは様々あるだろうが、まず何と言っても容姿が良くなくては話にならないだろう。
その点、目の前のこの男の容姿は圧倒的である。
むしろそれだけで他の何がなくとも女性が寄ってくると思われる。
だからしのぶは心の底から合点がいったのだ。
まあこの男なら、それは女も絶えず寄ってくるだろうなと。
だがしかし――。
それとしのぶが今回ここに来た件は別である。
故意かどうかは置いておいても、事実として目の前の男――天川久遠は一人の男性の恋人を奪っている。
貢がせている、というのはまあ女性が勝手にやっているだけかもしれないが、少なくともこれに関しては一言言わなくてはならない。
しのぶはそのために今ここにいるのだから。
「あの――」
「何か用があるなら俺の泊まってる部屋まで来る?」
「…………え? へ、部屋……ですか……?」
「うん、落ち着ける所の方が話もしやすいんじゃないかな。丁度お団子も買って来たからお茶でもしながらさ」
その言葉で、しのぶは大混乱に陥った。
(こ、これはどういうこと……!? いや、どういうことってそういうことよね、多分……。こんな会ったばかりの私をすぐに宿に連れ込もうとするなんて……やっぱり噂は本当だったんだわ。なんていう悪い男なの……。それに、そんな誘いにホイホイ乗る女だと思われてるのも腹が立つし……ここは一発ガツンと言ってやらないと!)
しのぶは決意した。
そうだ、毅然と断るのだ。
自分はそんな軽薄な誘いに乗るような女じゃないと。今まではそうやって上手くいっていたのかもしれないけど、あまり女を舐めるな、と。
一言ぶちかましてやろうと男の顔を見て、そのあまりの耽美さに考えていた言葉が一瞬で吹き飛んでしまった。
頭が真っ白になって、ただじっと顔を見ることしかできない。
引いたはずの熱がまた顔にじわじわと戻ってくるのを感じる。
(ちょ、ちょっと……いくらなんでも格好良すぎるでしょう……!)
若くして鬼殺隊士の中でも幹部といえる柱になり、一年ほど前から落ち着いた言動を心がけ、最近ではそれも板についてきてまさに淑女の鑑ともいえる女性を体現しているしのぶであるが、実際はまだ齢17の生娘である。
そも男性に対する免疫自体が少なく、そこにこんな常識外の容姿を持った男に出会ってしまえばさもありなん、といったところだろう。
「あ……えっと、あの……あの、その……うぅ……」
「あー……もしかして嫌だった?」
「ぇ……、あ、嫌とかそういうのじゃないんです! そういうのじゃ……」
「そっか、良かった」
良かった、と。そう言って微笑んだ天川久遠の顔を真正面から見たしのぶは今度こそ思考が完全に真っ白になった。
そして気が付いた時には宿の一室で一緒にお茶をしていた。
(あ、あれ……? なんかここ数分の記憶が飛んでいる気が……なんで私はこの人と一緒にお茶をしてるのかしら)
混乱した頭で、とりあえず久遠に勧められるがままお茶と団子を口に運ぶ。
どこのお茶屋で買って来たかは分からないが、どちらも非常に美味しかった。
その間、2・30分ほど久遠としのぶは他愛もない雑談をした。
別にここに来た本来の目的を忘却していたわけではない。
いや、若干混乱気味であったことに加え、男性と近しい距離で会話するのがほとんど初めてでそれに浮かれていたというのは確かにあるが……。
ともかく、久遠との会話はしのぶにとって楽しいものだった。
それというのもこの男、会話が非常にうまかったのだ。
話題は基本的に振ってくれるものの、ベラベラ一方的に話すわけでもなく、しのぶに色々質問するような形で話を進める。そして、しのぶが話すことに対してもとても聞き上手で、こちらが気持ちよくなるように応対してくれる。
しのぶは久遠と共に話しているのがなんだかとても心地良かった。
とてもつい30分ほどの前に出会ったとは思えないほどに。
それは、久遠の柔らかで温かく、優しい声のせいだろうか。
(ああ……誰かとお話してこんなにホッとしたのはいつぶりだろう)
いつの間にか、しのぶは自分の様々なことを話していた。
幼少の時、両親を鬼に殺されたこと。
生き残った姉と二人でずっと生きてきたこと。
そしてその最愛の姉も3年前、鬼に殺されたこと。
そして……今自分はその仇を討とうとしているということ。
流石に自分が鬼殺隊に所属しているということは言わなかったが、それでも出会ったばかりの人に話すようなことではないことはしのぶも分かっていた。
それでも、何故か彼には話してしまいたくなったのだ。
「姉は……私が鬼と戦うことを望んでいないようでした。今際の時だけでなく、平時からもずっと。女の子らしく普通に生きて欲しい、と」
「うん、俺がそのお姉さんの立場でもそう言うだろうね。家族っていうのはそういうものだよ」
「でもっ……! じゃあ姉の仇は誰が取るんですか! 鬼にまで優しさを持って、最後はその鬼に殺された姉の無念は誰が晴らすんですか!」
感情が爆発し、声を荒げてしまう。
しかし久遠は微動だにせず、しのぶの目をじっと見つめていた。
しのぶの激白は続く。
「……分かっています! 私にはその鬼を殺すための力が足りていないことも! でも、許せないんです! そうやって憎しみを糧に動いていなきゃ生きていけないんです!」
「…………」
「女の子らしくなんて、無理……私はもうずっとそんな風に生きてない。鬼は心の底から憎いけど、その鬼から目をそらしたら生きる理由がなくなるほどに私の人生は空っぽなんです」
言い終わると同時に涙が滲んでくる。
おかしい。最近はこんなに感情が暴れることなんてなかったのに。
今日はこの人に会ってからずっとおかしくなってる、としのぶはどこかのぼんやりした頭で考えた。
久遠はというとしばらく黙ったまましのぶを見つめていたが、やがておもむろにしのぶへと手を伸ばし、目の端の涙を指で掬う。
「お姉さんはさ、自分の妹に危ないことをして欲しくないんだよ。それはさっきも言ったけど家族なら当然のこと。外野の俺だって、君みたいな可愛い子に危険なことをして欲しくはない。でも、最後に決めるのは結局君自身だ。例え今お姉さんが生きていて同じことを言ったとしても、結局どうするか決めるのは君自身でしょう? 君はお姉さんの言葉に従って生きているわけじゃないんだから。
だからまあ、なんというか……極論何をしようとアリだと思うよ正直。今から仇討ちをやめて普通に生きたって、仇討ちに専念したって、君の人生は君の物だからね」
問題は――、と久遠は続ける。
「自分の人生が空っぽだって思っちゃってることかな。生きる目的が仇討ちそのものなのがダメ。お姉さんの仇を討つのはそれ、これはこれ、だからね。生きていくうえで目的、というか何か楽しいことは必要だと思うよ、うん」
「で、でも……私そんなもの、ないです。ずっと鬼を殺すことだけ考えてきて、姉が死んでからはさらにそれしか頭になくなって……」
「じゃあこれからゆっくり見つければいい。人生はまだまだこれからなんだから。それこそ仇討ちが終わった後もね」
「仇討ちが終わったら……。でも、私……どうしたらいいのか……。そもそも生きて戻ってこれるかも分からないし……」
そう言ったところでしのぶは額をぺチンと叩かれる。
驚いて顔を上げると、そこには困ったような顔をした久遠がいた。
「それが一番駄目。相討ちでも相手を殺す! とか考えてるでしょ」
「だって、そうでもしなきゃ……相手はものすごく強くて……」
「全く、お姉さんの言葉をすごく引きずってるのにどうして分からないかな。自分を犠牲に、それこそ死んでまでなんて一番お姉さんがやって欲しくないことのはずだよ。
結局のところお姉さんの言葉の真意は、君……しのぶちゃんに生きていて欲しいってことなんだから」
「あ……」
分かっていなかった、はずはなかった。
姉・カナエの気持ちは痛いほど伝わっていたと思う。
だけど、どうしても許せない、仇を討ちたいという気持ちがあまりにも強くて、姉の言葉を言葉尻でしか見ていなかった。
「ただ、生きて欲しい」という強い思いを見ないふりしていた。
姉を倒すほどの鬼に、たたでさえ筋力の足りていない私が五体満足のまま勝てるはずがない、だから相討ち程度で殺せるのなら御の字だと。自分の身一つを犠牲にして倒せるのなら、とずっとそんなことを考えていたのだ。
その結果として今行っている、自身の身体に藤の花の毒を少しずつ馴染ませるという行為も、もし姉が生きていたら絶対にさせなかったはずのことだ。
久遠の言葉は、まるで今まさに姉にそれをとがめられているかのようで、少し胸がチクリと痛んだ。
「だから生き残ることが最優先。仇討ちだって、しのぶちゃん一人では無理でも2人、3人、それこそ10人でかかったら余裕で勝てるかもしれない。しのぶちゃんは力が足りないって言ったけど、もしかしたらしのぶちゃんを強くする方法が何か見つかるかもしれない。自分を犠牲にして玉砕覚悟の特攻、なんてダメだよ。
だって……しのぶちゃんが生きてなきゃ、お姉さんのこと、ご両親のことを覚えている人はいなくなっちゃうんだから」
今度こそしのぶは言葉を失った。
そんなことを考えたことはなかったからだ。
「誰が言ったか知らないけど、人はその人を知っている人に忘れられた時にもう一度死ぬんだってさ。ちょっとかっこつけた言葉になっちゃうけど、今しのぶちゃんの記憶の中に生きているお姉さんやご両親も、しのぶちゃんが死んじゃったら死ぬことになっちゃうと思う」
姉のことを知っている人自体は自分の他にもいるだろうと思う。
それでも、あの無垢に幸せだけを信じていれたころの記憶を。
姉と共に庭をかけまわって遊び、ちょっとしたことで喧嘩しては両親に怒られ、家族一緒に眠ったあの頃、幼い頃の記憶。涙が出るほど尊い記憶を――。
それを覚えているのはこの世で自分しかいないのだ。
『人は二度死ぬ』。
なんと今の自分に響く言葉だろうか。
そうだ、今自分の記憶の中に生きている、あの頃の父や母、そして姉たちを……もう一度死なせるわけにはいかないのだ。
しのぶは今初めて、心から「生きなきゃならない」と思った。
姉が死んでからというものの、何か面白いことがあった時も、美味しい物を食べた時も、可愛い妹分のような子の成長をみて嬉しく思った時も、心の底にある自分の人生に対する諦念のようなものが消えることはなかった。
それがなくなったとは言わない。
だがしかし、それを上回るほどに、生きたいと強く思った。
しのぶの顔つきが変わったことに気が付いたのだろう、久遠は見る者すべてを安心させるような柔らかな笑顔を浮かべた。
間近でそれを見たしのぶは顔を一瞬で朱に染めて思う。
(生きる意味も……ちょっと見つかりそう、かも)
その後はまたいくらかとりとめのない話をして、しのぶは久遠のいる宿を出た。
ここを訪ねた時より、いや姉が亡くなってから感じたことがないほどすっきりした気持ちだった。
なんだか何かを忘れているような気がしたが、恐らく気のせいだろう。
しのぶは今日会った不思議な男の人、天川久遠のことをずっと考えながら、帰路に着いたのだった。
しのぶさんを顔だけで惚れさせるのはアレだからま、多少はね?
まだヒモっぽいエピソードはあんまり書けてないんですが、次回プロローグの時間軸に戻ってきてからやりたいと思います。エタるのはそれからだな……