それはほんの気まぐれだった。
全ての鬼の頂点に立つ原初の鬼――鬼舞辻無惨は、眷属である鬼の視界を見ることができる。
しかし数多いる雑魚鬼の日常を見ても仕方ないし、例え十二鬼月だとしても自分が何か命令を授けたような場合以外は見ることもない。
しかし、このところ下弦の鬼が立て続けに鬼狩りに殺されているということもあり、無惨は酷く不機嫌だった。
上弦ほどではないとはいえ、他の木端鬼よりはるかに自分の血を与えているというのに何たる体たらくか、と。
こんなに役に立たないのならば、もはや下弦は解体してしまおうという考えが、無惨の頭の中ではほとんど固まっていた。
だからこそ、その時下弦の肆の視界を覗いたのは気まぐれだった。
情けない下弦の様子を監視しようという気持ちですらなく、ただなんとなく覗いてみた、それだけ。
――それが、鬼舞辻無惨という鬼にとって大きな転機になることを知る由もなく。
下弦の肆の視界に映ったもの。
それは人間の男だった。
鬼の視界に人間がいる。それはつまり、鬼が人間を捕食するシーンということだ。
人を喰らうということは鬼にとって腹を満たすことであり、そして力を得るための糧でもある。
大事なことではあるが、鬼にとっては当たり前の日常である。
そんなもの見るまでもない……と、普通なら無惨はすぐに視界を覗くことを止めていただろう。
だが、それはできなかった。
視界に映っているその男から、目が離せなかったからである。
美しい顔だった。
永い年月を生きてきた無惨が今まで見てきたどんな美男美女や至高の美術品も、まるで敵わないほどに。
いや、それ以前に常から無惨は何よりも自分が頂点であると考えている。
当然美しさという点においても、自分がこの世で一番優れていると思っていた。それは普段と違い女性の身体に変化させている今の自分であっても。
だが、違ったのだ。
目の前のこの男に、美という点では勝てないと無惨ですら思ってしまった。
そして無惨は、それを特に不愉快には感じなかった。
それどころか、この男を少しでも長く見ていたいと思っていたのだ。
完全にいつもの精神状態ではなかったが、無惨はそれに気づきもしない。
男の表情の僅かな移り変わりや、柔らかな声、そして時折見せる眩しい笑顔を、一つも見逃さんとばかりに見つめていた。
心臓がおかしいくらいに高鳴っているのが分かる。
かつて命の危機に瀕した時ですらこんなことはなかった。
熱に浮かされたような目でボーっと視界を覗いていた無惨だったが、何やら下弦の肆が視線をそらし、男が視界から外れたときにハッとする。
そのまま慌てて視界を覗くことをやめた。
未だにドクドクと激しく脈打つ心臓、顔に手を当ててみればはっきりと分かるほどに熱を持っていた。
なんだこれは。
こんな状態を自分は知らない。
だが、間違いなく今の自分はあの男のせいでおかしくなってしまっている。無惨はそう思った。
まずはこの状態を落ちつけようと一息入れたものの、頭の中にはずっとあの男の顔が浮かび、その度に気持ちが乱れに乱れる。
長い時間をかけてなんとか多少落ち着いた頃、もう一度視界を覗くと丁度下弦の肆とその男、いつの間にか増えていた鬼殺隊士の女が別れるところであった。
そこに鬼殺隊士がいるのに何をやっているだとか、鬼なのに人間を喰らわずに談笑して普通に別れるなど言語道断であるとか、そんなことは今の無惨の頭の中にはなかった。
別れ際の会話により、その男の名前が『久遠』だと知れた。
もうそのことで頭が一杯だったからだ。
「久遠……」
そう声にして小さく呟いてみる。
無惨が認めるほどの美しさを持つあの男にふさわしい、綺麗な名だと思った。
そしてそれからも下弦の肆は何度も久遠に会っており、その度に必ず無惨は視界を覗いていた。
というより、いつまた久遠と遭遇するか分からないので、あれからというものの無惨は一日の内5分おきくらいに下弦の肆の視界を覗いては何もなければすぐやめる、ということを繰り返していたのだが……。
そして、何度も覗くことで久遠という男の情報も色々と知ることができた。
好きな食べ物や本、町に出たらよく行く店などの小さな情報から、蝶屋敷という所に住んでいること、そしてそこの主である胡蝶しのぶという女に養ってもらっているということなど。
久遠が他の女の話をしている時、無惨は何故かとても不愉快であった。
彼を養っているらしいしのぶという女には殺意すらわいた。
普段感じている人間への嫌悪というそれとは何か違う。しかし無惨はその感情を未だ測りかねていた。
まあともあれ、そうやって視界越しの逢瀬を重ねていくうちに無惨の気持ちはどんどん高まっていった。
彼の何気ない仕草や表情が、一日中頭から離れない。
もう日がな一日久遠のことしか考えられなかった。
それこそ、下弦が鬼殺の隊士と繋がっているのであればそこから鬼殺隊の情報を少しでも……ということも平時ならすぐに実行させただろうが、今の無惨には一片たりとも思いつかなかった。
それほど浮かれていたのである。
しかし、ここ最近の無惨は不満だった。
何故か視界を覗く力の精度が悪くなっているのである。
他の鬼は問題なく覗ける、しかし下弦の肆の視界だけが靄のかかったように見えづらくなっているのだ。それも刻一刻と悪化している。
まずい、と無惨は思った。
これはまずい。この際なぜ見られなくなっているのかというのはどうでもよく、見れなくなってしまうことが大問題だった。
このままでは彼に(視界越しで)会うことができなくなってしまう。
下弦の肆が久遠に会わない日があるというだけでその日はイラついて何も手につかないほどだというのに。
しかしそこで無惨ははたと気づく。
これは逆にいい機会ではないかと。
今まで見てきた久遠の全ては、視界の主である下弦の肆に向けられていたものであって無惨にではないのだ。
久遠の優しい言葉を聞くたび思っていた、これが自分へのものであったらと。
久遠の微笑みを見る度思っていた、その笑顔を自分に向けて欲しいと。
――ならば、自ら会いに行けばいいのだ。
無惨は天啓を得たようだった。
そうと決まれば早速行動である。
町に出るために、無惨はいそいそと準備を始めた。
下弦の肆はもう用済みであるから折を見て処分するか、などということを考えながら。
◇
久遠は夜の町を一人、歩いていた。
賭場でお金を見事にすっ飛ばし、失意の中帰路についているところである。
このことを知られたらまたアオイに怒られるだろうというその光景を想像するだけで、久遠はまたがっくりと肩を落とした。
そんな時、不意に建物の間から出てきた誰かとぶつかってしまう。
「きゃっ」という女性らしい声。
よろめいて倒れかけたその身体を久遠はとっさに支えた。
「大丈夫ですか? すみません、あまり周りを見ていなかったもので」
「いえ……周りを見てなかったのは私も一緒ですから。急に飛び出して申し訳ありません」
美しい女だった。
久遠はそれこそ美少女に囲まれている生活を日々送っているわけだが、目の前の女はまた違ったタイプの女性だと感じた。
キリッとした目に、綺麗に通った鼻筋が表情に凛とした雰囲気を与えており、顔の感じからしてなんとなく20代半ばくらいかな、と久遠はあたりを付ける。
「どこか落ち込んでいる様子でしたが、どうされたのですか?」
「ああ、いや……賭場で有り金をすってしまったんですよ。それで、同居人にまた厳しく怒られるだろうなーと」
「あら、そんなに落ち込まれるほど恐いのですか、その同居人の方は。遊びでお金を使ってしまうなんて、男性にはよくあることでしょうに」
「まあ、養ってもらっている立場なんでそれに文句は言えないです。それに、その子も俺のためを思ってくれてる優しい子なので」
「……そうですか」
久遠の言葉を聞いた女は顔を伏せ、久遠に見えないように唇を噛んで憎しみ一杯という表情を作った。
しかし、それも一瞬のこと。
すぐに顔を上げて笑顔で久遠へ問いかける。
「せっかくこうやって出会えたのも何かの縁。お名前を教えて頂けません?」
「ああ、俺は天川久遠と言います」
「久遠さんというのですね、私は浅霧灯子と申します。家が商家でして、そこの一人娘なんです」
「浅霧というと、あの外国貿易などをしているという?」
「ええ、そうです」
その姓はニートでダメ人間な久遠でも聞いたことがあった。
この町の奥の方にある巨大な豪邸。確かそこが浅霧家の邸宅だったはずだ。
ということは……目の前の女は相当な金持ち……?
久遠の目に闘志が宿る。
「じゃあ浅霧さんはお嬢様なんですね」
「お嬢様などと言われる年ではありませんが、浅霧についてはその通りです。……それと、私のことは灯子とお呼びください。敬語も使わなくて結構です」
「え、いやそうは言っても……」
「お願いします、あなたに畏まられてしまうと私の居心地が悪いのです」
久遠は先ほどから少し疑問に感じる点があった。
目の前の浅霧灯子なる女性の反応が、今までに会った女性のそのどれともちょっと違うのである。
こうやって女性の方から距離を詰めてくるということも今まで何度もあったことだ。それ自体は良いし、灯子から感じられる好意のようなものも本物であると思われた。
しかし――、初対面にしては妙に落ち着いている。
今まで久遠の顔を見た女性は例外なく露骨な反応を見せてきたし、久遠もそれはもうルーチンのようなものだと思っていた。
灯子の反応は、なんというかそう何度か会ったことがある女性のそれなのだ。
だが、間違いなく久遠の記憶に浅霧灯子という名の女性はいないし、本人も初対面であるという感じである。
とりあえず久遠は思考をそこらで一旦ストップさせた。
「うん、じゃあ灯子さんで。灯子さんはもう結婚してるの? なんとなく俺より年上に見えるし、商家のお嬢様ならもうお相手もいるのかなって思って」
「いえ、それがまだなのです。25にもなるというのに浮いた話もなく、すっかり行き遅れてしまいまして……久遠さんがもらってくれますか? なんて」
「あはは、灯子さんなら喜んで……と言いたいところなんですけど、もう少し俺は独り身でいたいかな。それに、こんな俺を養ってくれてる優しい女の子もいるからね」
「…………そうですか」
そして再度灯子はうつむき、久遠に見えないような凄絶な表情を作る。
まさにこの世の憎しみが凝縮されているといってもいい、禍々しい顔だった。
ここまでくれば言うまでもないことかもしれないが、この浅霧灯子という女は何を隠そう無惨である。
あの後結局すぐに出発はせず、服装や化粧、その他諸々の準備をしてから久遠との邂逅に臨んだのだ。その準備には、久遠と会う際のシミュレーションも含まれる。
つまり、久遠にぶつかったのもタイミングを見計らった故意であるし、その後よろめいたのは久遠に抱き留めてもらいたかったからだし、敬語を禁じたのも名前で呼ばせたのも自分が視界で覗いた時のままの久遠で接して欲しかったからだった。
要するにここまではほとんど全て無惨の狙い通りに事が進んでいたといたのである。
久遠が働かずに養われているという話も聞いていたので、金持ちの女の方がいいだろうと、わざわざ実在する浅霧家を乗っ取ってその一人娘という設定まで作り上げたのだから。
まあ唯一、たびたび他の女の話が久遠から出るということ以外は、であるが。
それを久遠から聞くたびに憎しみを隠しきれない無惨だったが、久遠が好色な男であることも知っているため、これから自分の所に引き込めばいいのだ、と考えてなんとか心を落ち着けていた。
とにもかくにも、無惨にとって久遠との実際の対面は素晴らしいものだった。
眷属の視界越しに何度も見ていたというのに、実際にその顔を間近で見ると心臓がまた激しく脈を打ち、身体中に熱い血が巡るのを感じる。これが初対面で生の対面であれば、自分はどうなっていたのかと無惨は少し恐ろしく思った。
「あの……久遠さんは帰りを急がれておりますか?」
無惨の計画の内、上手くいけばこの後自分の家(本当は赤の他人の家だが)に招待して夕食を共にしようと考えていた。
だが、これは恐らくダメだろうと予測もしていた。
そしてその予想通り――
「あーうん、夕飯を作ってくれてるから帰らなきゃ。あまり遅くなると怒られるし。すねるとちょっとご機嫌を取るのが大変だから」
「そうですか、残念です……まだもう少し久遠さんとお話したかったのですが」
「また別の日にでもできるよ、だからそんな悲しそうな顔しないで」
そう言って無惨の頭に手を置いて優しく撫でる久遠。
こんなこと他の何者がやったとしてもその次の瞬間肉塊に変えているが、久遠だと不快に思わないどころか心が浮つき、喜びが抑えきれないほどこみ上げてくる。
しかし、蝶屋敷で久遠を養っているという女はなんと面倒くさい奴なのだろう、と無惨は思った。
夕飯なんてたまには外で食べてくるものだろうし、そんな程度のことを許容できず、機嫌を損ねるなどどうしようもない女である。
それに、先のお金を使ってきたら怒られるというのも気に食わない。
なんと器の狭い女だろう。自分ならどれほど使おうと怒らないどころかいくらでもお金を渡すというのに。
そんなとりとめのないことを考えながら、無惨はとりあえずその日は大人しく久遠と別れた。
あの男は自分の物にしたい。だが、焦りすぎてはいけない。
機が熟すのを待つのだ。
そして、また別の日に久遠と夜に会っては話をし、そこでまた次に会う約束を取り付けては何度もそれを繰り返す。何度目かの夜、ついに浅霧灯子としての自分の邸宅へと招待することに成功したのだった。
時間は夜ではなく昼だったが、屋内であるなら問題はない。
無惨は心を躍らせてその日を待つ。
そして、ついに久遠がやって来た。
召使いが扉を開け、その先に久遠を見つけると、無惨はすぐさま彼の側に駆け寄る。
「ここまで来て頂いてありがとうございます。上着、お持ちしますね」
「いや、そんなの悪いよ灯子さん」
「いいえ、私が勝手にしたいのですからさせてくださいませ」
そう言って久遠の羽織を預かり、居間へと案内する。
居間はとても広かったが、昼だというのに窓を厚いカーテンで閉め切り、灯りで部屋を明るくしているというなんとも異様な空間であった。
しかし、既に久遠には自分が太陽の光に弱い体質である旨を伝えているため問題はない。
まさか性質が似ているからといって鬼だとは思いもしないだろう。
それから、無惨は軽い茶会を開いた。
「これ、どうですか? 今日の為に作ってみたんですけど」
「あ、これは……クッキーか! うわー嬉しいな、こういう洋菓子は市井では結構高いから。っていうか作ったってこれ、灯子さんの手作り?」
「は、はい……料理自体、最近始めたもので不作法があるかもしれませんが、久遠さんのために頑張ってみました」
「ありがたくもらうね……うん、おいしい! 始めたばっかりなんて信じられないくらいだよ」
「ほ、本当ですか? 嬉しいです……」
無惨は喜色が顔に出るのを我慢できなかった。
赤く染まった頬を隠すように両手で押さえる。
手料理はよろこんでもらえた……、これからも練習はするとして次は何をしよう。無惨は考える。
女性らしいといえば、裁縫や家事全般だろうか。
お嬢様という設定だと何を発揮できるかは分からないが、いつ振るうタイミングが来るかもわからない。全部練習しておこう。もっと色んなことで尽くして、久遠の喜ぶ顔が見たい……。
『尽くす』。
そう、無惨はとにかく久遠に尽くすのが喜びになっていた。
これまでは全ての鬼を束ねる頂点に君臨し、尽くされるのが当然の立場だったというのに、自分が下となって奉仕しようとするだなんてよもや夢にも思わなかった。
しかし、今はそれでいいのだ。無惨がそうしたいのだから。
とにかく、久遠に喜んでもらえるのならばそれでよかった。
やがて宴もたけなわとなり、無惨は召使いにあるものを持ってこさせる。
そしてそれを久遠の目の前に置いた。
「え、灯子さんこれって……」
「これ、久遠さんに差し上げます。お好きに使ってくださいな」
「いやいや急にもらえないよこんなお金! どうしたの灯子さん?」
そう、無惨が久遠の目の前に置いたのはお金。
しかも250円にもなろうという大金である。
「私が久遠さんに勝手にあげたいんです。久遠さんはどうやら今いる所ではあまり自由にお金を使えていないご様子ですし、私がそれをお助けできたらと思いまして」
「い、いや……それでもなあ……」
「何も気にせずにお使いになってください。私、別にこれと引き換えに何かを要求しようだなんて思ってませんよ?
そうですね……こうやってまた時々一緒にお茶会をしてくれればそれで十分です」
「う、うーん……」
久遠は悩むようなそぶりを見せているが、さっきからずっと金をチラチラと見ている。
後ひと押しだ、と無惨は確信した。
「久遠さん、私このお金はあなたにお渡しするつもりでしたから、もらっていただけないと困ってしまいます。それに、この程度はうちの家にとって大したお金ではありませんし」
「……そ、そう? じゃあ、ありがたくいただこうかな」
嬉しそうにお金を手に取る久遠を見て、無惨は「久遠に喜んでもらえた……」と心が温かくなる。
完全に貢ぎ女の境地に達していた。
そして帰り際、ダメ押しとばかりに無惨は久遠の耳元でささやく。
「またお金が欲しくなったらいつでもうちに来てくださいね。久遠さんが望むだけ、差し上げますので。私はどんな使い方をしても怒りませんから。高い宝石を買おうと、賭場で全て使おうと。ですから――、安心して私を頼ってください」
無惨は思う。
これが、久遠をあの蝶屋敷とやらから引き離す第一歩だと。
まずはこうやって経済的な余裕を見せ、久遠の意識を徐々にこちらへ惹きつけていく。
それと並行して久遠に甲斐甲斐しく尽くして、自分の良さもしっかり刷り込み、気が付いた時にはもうここから離れられないという寸法だ。
自分は久遠に尽くせるし、久遠は堕落した生活が送れてうれしいだろうし、まさに一挙両得といえた。
無惨はこの完璧な計画の成功に向けて、一層力を入れていこうと決意したのだった。
貢ぎ女無惨様。
この後も、高い茶菓子やら洋服やらを貢ぎまくってます。
ホントはTSメス堕ち要素をちゃんと入れたくて、一回男状態になってから「でもあの女の状態で感じた気持ちが忘れられない……」みたいな展開もやろうと思ったんですけど尺の都合上カットしました。
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