春になり田植えの時期が来た。
農民たちは田畑の整備にかかりきりになり、堤防工事に割くことのできる人員は激減した。
だが、そのような状況にあっても海斗は工事を続行した。そうしなければ秋までに間に合わぬからだ。なんとしても今年の大風が来るまでに修理を終える必要があった。
しかしただ修理するだけでは足りない。去年の反省を踏まえ、あれ以上の大風でも耐えられる堤防に改良する必要があった。
少ない人員、限られた時間、決して豊富とは言えない予算。
新しい郡奉行が復興全体の多岐にわたる業務の指揮をとる中、堤防工事について一任された海斗の両肩には、これだけの難題がのし掛かっていた。
海斗は工事に必要な人足を集めるため、一村一村を訪ね歩き、工事の必要性を訴えた。
その一方で、奉行所や城内では、工事の進捗状況や追加予算に関する会議が連日続けられ、そして空いた時間があれば、実際に工事現場へ足を運び状況を自分の目で確認する――
――このように、海斗の毎日は多忙を極めていた。
そしてまた、夏が来た。今年は猛暑であった。
梅雨に数回、土砂降りの雨が降り、海斗をはじめとした堤防工事関係者の心胆を寒からしめたが、それ以外はカンカンと照りつける強い日差しと、猛烈な暑さの日々が続いた。
九里府の険しい山々に貯えられた雪解け水によって川の流れが枯れることはなかったが、それでもこの猛暑は作物の生育に少なくない影響を与え、領民たちの間では今年も豊作は見込めないだろうという悲観的な見通しが拡まっていた。
さらに、工事に参加している人足たちにとっては、自分たちの田畑の心配に加え、この猛暑下での重労働という悪条件が加わり、現場の士気は否応もなく下がっていった。
そんな、夏のある日の朝。
早い日の出とともに海斗は起床した。
日の出とともに目覚めるのは当時としては一般的なことであったが、海斗は最近、夜遅くまで書類業務を続けていたので、その睡眠時間は非常に短くなっていた。
実は夜間の業務というのは、この時代あまり一般的では無い。なぜなら照明が無いからである。ロウソクは大変な高級品であったし、安い行燈の油も、毎晩遅くまで消費していては費用も馬鹿にならない。
つまり夜間の業務とは経済的にかなり余裕のある人間にしかできなかったのである。しかし皮肉なことに、海斗は代官に昇格したことによって、行燈を毎晩遅くまで使える程の経済的余裕を得ていた。
出世に伴う昇給というのは、仕事の増加量やそれに伴う支出と実にうまく釣り合いが取れているものだ。と、海斗は昇格前とさほど変わらぬ始音家の苦しい台所事情を鑑みて納得した覚えがある。
その台所を預かる妻めいこが、今ちょうど女中の“はく“と一緒に朝食の準備をしてくれていた。
はくは本音村出身の、住み込みで働く女中だ。昔、別の侍の家でも奉公したことがあるので勝手を分かっており何かと重宝して助かっている。奉公が明けた後、別の村の農家に嫁いでいったが、嫁入り先の家族とうまくいかず離縁されてしまったらしい。
本音村に戻ったものの出戻りの気まずさに落ち込んでいたのを見かねた出流が、海斗に住み込みで働かせてやってくれないかと願い出たのがきっかけだった。
めいことは歳も近く気が合い、海斗の激務によって相対的に重くなっためいこへの負担をずいぶんと和らげてくれている。
そのことに感謝の念を抱きながら、海斗は刀を差し、書類荷物をまとめて表玄関へと向かった。
途中、台所へ顔を出す。
「あら、あなた。もうお出かけですか?」
「今朝は村の田畑を見回ってから工事現場へ向かう予定なんだ。弁当はできてるかい?」
「はい、こちらに」
と、はくが笹包を二つ差し出した。
「一つはお昼、一つはご朝食用です」
「はくさん、いつもありがとうね。途中でいただくよ。じゃあ行ってくる。赤人のことを頼んだよ」
玄関口で、めいこと、はくに見送られ、海斗は家を出た。
空は抜けるように青く、早朝のまだ低い気温もあって心地よい。しかしこうも雲一つなければ、昼にはまた倒れかねない猛暑になるだろう。
現に工事現場では熱による体調不良を訴える人足たちが後を絶たない。下手をすれば近いうちに死人まで出かねなかった。もしそうなれば工事の士気が下がるどころか、工事反対の一揆まで起きかねない事態になるだろう。
だが、工事の士気が下がっているのは、別に気候ばかりの問題でもなかった。そもそもここ一年間、藩内には明るい話題もなく、どこか沈鬱とした空気が漂っていた。
その原因は、去年の夏に先代藩主が亡くなったことで主だった祭りや宴が自粛もしくは規模が縮小されたこと、そして喪が明けたと思ったところに大風による水害が起きてしまい、結果、領民たちが憂さを晴らせるような祭りや宴を催す余裕が無くなってしまったことだった。
それは侍階級も同じことで、領地の被害復興を支援するための年貢の減少と復興費用の捻出のため、藩は緊縮財政を敷いていて、領民の慰安に避けるような予算は出そうにも出せない状況である。
これではいけない、と海斗は危機感を抱いていた。
何でもいいから明るい話題が必要だった。つらい毎日をひと時でも忘れられるような、何かが必要だった。
(こんなとき、楽歩殿が……猫村一座が居てくれたなら……)
せめて工事現場の者たちだけでも慰撫できるのだが。そんな思いを抱いたからか、海斗の足は自然と、例の廃寺へと向かっていた。
たどり着いた廃寺は、昨年、猫村一座が居た時よりもさらに寂びれているように思えた。
実際、昨年の大風によって本堂もかなり傷ついていた。しかしそれ以上に、あのにぎやかだった一座がいない寂しさが、廃寺の荒廃に輪をかけているように海斗には感じられた。
(頭の痛い問題だな……)
そう思いながら見上げた空が、不意に、傾いた。視界が回り、平衡感覚を失いかける。
幸い、一歩だけたたらを踏んだだけで目眩は収まった。
きっと連日の疲労と睡眠不足がたたったのだろう。海斗はいったん休憩することにして、本堂の縁側に腰掛けた。
ついでに朝食も摂ってしまおうと思い、笹包を取り出す。開くと、形の良い握り飯と大根の漬物が数切れ入っていた。
朝食を摂り終え、竹筒の水を飲んで一息ついたとき、また軽い目眩を感じた。
それを堪えようとまぶたを閉じたとき、彼の意識もまた、闇に落ちた。
海斗の疲労は、彼自身が考えている以上に、深刻にその身体を蝕んでいたのである。
――…は……殿」
暗闇に落ちた意識を、誰かの声が揺さぶった。
「始音殿」
「っ!?」
ハッとして顔を上げた先に、楽歩の姿があった。
「あ……?」
海斗の思考に一瞬、空白が生じた。待ち望んでいた相手がいきなり目の前に現れ、それがまるで白昼夢のように思えていた。
海斗は、己が意識を失っていたことを自覚していなかった。
「がく…神威殿? いつのまにここへ?」
「いつと言われても、つい今しがただ」
楽歩の後ろには、いろはやルカをはじめとして、猫村座の面々も揃っていた。
「まさか始音殿が居るとは夢にも思わなかったから、俺たちも驚いた。しかもお主、眠っておったぞ」
「眠っていた……私が……?」
海斗はようやく、その事実を自覚し、あっ、と叫んだ。
「神威殿、今は何刻ですか!?」
「そうだな」
楽歩は太陽を見上げ、
「そろそろ、明け五つ頃(夜明けから約一時間~二時間後)ではないか」
「そんなに…!?」
そこへ、遠くから風に乗って鐘の音が響いてきた。ゆっくり間をおいて、五つ。明け五つ刻を告げる鐘の音だった。
「これはいけない!」
「用事か?」
「ええ、このままでは遅刻です。…あぁ神威殿、話したいことがたくさんあるのに、急ぎ仕事に行かなければならないのがもどかしい!」
「ふむん…なら、俺もついて行って構わんか?」
「え? よろしいのですか?」
「どうせ暇を持て余した浪人風情だ。いろは、ルカ、少し始音殿に付き合ってくる。構わんな」
「はいはい、好きにおしよ」
「せっかくの再会ですもん。構いませんよぉ」
いろはとルカから微笑みと了承を得て、楽歩は海斗に向き直った。
「では、行こうか。急ぎなら少し早足のほうが良いか?」
「駆けても?」
「構わん」
「では」
たっ、と二人は並んで走り出した。
廃寺が見る見るうちに遠ざかっていく。周囲に田畑が広がる景色の中を、二人は風と共に駆けた。
野良仕事に向かう農民たちと行き会うたび、彼らは道を駆ける海斗の姿を目にして多少驚きつつも、嫌がるそぶりひとつ見せることなく道端へ控え、丁寧に頭を下げた。
楽歩は駆けながら話しかけた。
「道を譲る者たちに疑心や警戒心が感じられぬ。相変わらず慕われておるな」
「そうで…しょうか…。私も…役目がら…無理を、言って…」
「代官になったそうだな。大したものだ」
楽歩はまるで我がことのように嬉しそうに笑った。
しかしかなりの速度で駆けながらも息ひとつ乱さずに笑う楽歩に、海斗は内心で舌を巻いた。
やはりこの御仁は美事な男だ。と、海斗も我が事のように嬉しかった。
連日の疲労で息は上がっていたが、それでも楽歩と共に駆けることに誇らしさを感じながら、海斗は走り続けた。
走ったおかげで、工事現場へは遅れるどころか、却って少し早く到着することができた。
海斗は現場入りする前に近所の農家で井戸を借り、その水で喉を潤して呼吸を整え、顔を洗って身だしなみを整えた。
その間に、走っている間に言えなかった話題を、楽歩に話した。
「ふむ、一座に広く興行してほしいということか」
「ええ、昨年から暗い話題ばかりで民心は沈んでいます。こういう時こそ明るくならなければ……一時でも良い、苦しみや悩みを少しでも忘れることが、明日への活力を生み出すことに繋がると思うんです」
「実にもっともだ」
海斗の言葉に楽歩はうなずき、 そして笑った。
「まさにそれなら、うちの一座の得意とするところだ。なにしろ、うたい文句にしているくらいだからな」
楽歩はそう言って、猫村座の口上を口ずさんだ。
――――
古今東西、古今東西
寄ってらっしゃい、見てらっしゃい
歌に踊りに大芝居 浮いた浮世に夢芝居
苦労も悩みも笑って晴らせ
猫村一座のお出ましだ
――――
それはすこしおどけた調子の歌だったが、海斗は、楽歩のその声に聞き惚れた。
低く、深い、男の色気とも言いたくなる声だった。
「始音殿」
「は、はい」
呼びかけられて我に返った海斗の前に、再び楽歩の笑みがあった。
「案ずるな。九里府藩の事情は噂で聞いておった。こんなことだろうと思って、うちの一座はすでに興行の準備を始めておる」
「ま、まことですか!?」
「去年はろくに興行もできなんだし、その意趣返しの意味もある。もう各村にも話を通したし、明日からでも始められるぞ」
「おお!」
海斗は喜びのあまり、楽歩の手を両手で握りしめた。
「さすがは楽歩殿だ。あなたが居てくれて本当に良かった!」
「ん? んむ、いや、ちと大げさではないか?」
「そんなことは――あ?」
海斗は、自分の行為に気づき、慌てて手を放した。
「こ、これは失礼した。“神威”殿」
「いや、構わんよ。“海斗”殿」
「あ…う…」
楽歩からにこやかに名を呼ばれ、海斗は赤面した。親しき仲にも礼儀あり。それを踏み越えた海斗を、楽歩は快く受け入れてくれた。
「海斗殿、これからもよろしく頼む」
今度は楽歩が、スッと、手を差し出した。
「はい、こちらこそお頼みいたします。…楽歩殿」
海斗がその手を取ると、楽歩はそれにもう片手を重ね、先ほどの海斗と同じように両手で握った。
海斗も同じく、両手で応える。
それは熱く、硬い、剣客の手。
侍の手だ。と、二人は互いに感じあった。
その日も照りつける陽射しのきつい、暑い日だった。
堤防の工事現場では、午前の仕事を口数少なく終えた人足たちが、思い思いの場所で弁当を広げていた。
さぁっ、と涼やかな風が吹いた。
そして、それにのって流れてきた、のびやかな笛の調べ。
堤防の上の見晴らしの良いところで昼食をとっていた人足たちがそれに気づき、風上へと目を向けた。
広がる青田が風に揺れて波うち、それとともに派手な装いをした一団が色とりどりの幟を立てて、にぎやかな調べを奏でながら歩いているのが見えた。
「ありゃあ、猫村の一座じゃねえか?」
「おお、そうだ、そうだ」
その声で、他の場所にいた者たちも一座の存在に気付く。
「あいつら帰ってきたんか」
「待ちかねたなぁ、これで今年の祭りも少しは賑やかになるよ」
一座の姿を目にしただけで、人足たちの声に心なしか明るさが戻ったようだった。
だが一座の歩みが真っ直ぐにこの工事現場に向かって来るのが明らかになるにつれ、そこに驚きの声が混じるようになった。
「なんじゃあいつら、まさか?」
「皆の者、よく聞いてくれ!」
海斗が堤防のもっとも高いところに立って、告げた。
「本日の作業はここまでとする。後はそれぞれ、思い思いに過ごしてくれ!」
海斗の思いがけない言葉に人足たちはざわめいた。
しかし、近づいてくるお囃子の音に、彼らようやく海斗の意図に気づき、そして歓声が上がった。
――――
古今東西、古今東西
寄ってらっしゃい、見てらっしゃい
歌に踊りに大芝居 浮いた浮世に夢芝居
苦労も悩みも笑って晴らせ
猫村一座のお出ましだ
――――
猫村一座が大八車に酒樽を満載にして現場へと到着する。
その酒樽の上に一人の若者、優馬が駆けあがった。
「さあさあ、振る舞い酒だよ。こいつはお代官様からのお志だぁ!」
優馬が扇をふるいながら告げると、大八車の周りに、わっ、と人が集まった。
「あぁ、ありがたや、ありがたや、お代官さまさまだ!」
「かぁー、うめぇっ、昼間っから呑む酒は格別だなぁっ!」
「おい肴だ! 弁当だけじゃ足りねえ、近くの村から肴もってこい!」
「肴だけなんてケチ臭いこと言わねえで、村の者たちも呼んでこいや!」
「おう、おう、おう、宴じゃ、宴じゃ」
たちまちの内に近隣の村々からも人が集まってきた。
しかも手ぶらではない。みな肴どころか自前の酒まで持ち寄って、酒宴の席が整った。
あとは歌だ。踊りだ。いろはが笛を吹き、ルカを始めに一座が舞った。
人々は手を叩いて喜び合い、やがて共に踊りだした。
音楽は止むことなく、踊りは輪となって広がり、笑い声が弾けた。
やがて日が暮れて、暗くなっても宴は続いた。人々は憂いを忘れて、悩みを忘れて、歌い、踊り明かした。