翌日から工事は再開された。
しかし人足たちに昨夜の宴の疲労は見られなかった。むしろ動きには機敏さが戻り、掛け声には張りが出て、目には光が宿っていた。
猫村座はそれからも他の工事現場や各村で興行を開いて回った。
海斗は一座に礼金を渡そうとしたが、いろはから断られた。それどころか呼ばれた村からの礼金さえわずかしかもらって無いという。
「アタイらの心意気さね」
いろははそう言ってニッコリと笑った。
海斗は大人しく引き下がり、代わりに他人の名義を借りて興行ごとに振る舞い酒を差し入れた。
それは始音家の家計的にも厳しい出費であったが、めいこはこう言った。
「あなたの好きになさいまし」
「良いのか?」
「昔、あの事件の後に腹を召されようとしたのを、私が無理に引き止め、共に逃げて下さりました。あなたの侍の面目をつぶす行為を、あなたは受け入れてくれた。私と、赤人のために……。あれが私の、一生で一度の最後の我侭でございます。だから、あなたは好きに生きてくださいまし」
そう言って、めいこは微笑んだ。
秋になり、稲の借り入れと、二期作である葱栽培の準備が始まった。それでも工事に参加している人足たちの数は減らなかった。
「お前たち、それで良いのか?」
海斗の問いかけに、人足たちを代表し、出流が答えた。
「多少の無理は承知の上です。大丈夫、刈り入れを遅らせるようなことはしませんし、工事を遅らせることもしません。……皆、昨年と同じ轍を踏みたくはないのです」
「そうか。すまぬ、ならばその心意気に甘えよう」
しかし、と海斗は続けた。
「無理がたたるようなら遠慮なく申し出てくれ。皆の働きにより、工事の日程に余裕が出てきた。遅らせることもできよう」
「それで万が一ことが起きてしまったら、お代官様が責任を取られるのでしょう?」
「それが仕事だ、気にするな」
「御免こうむりましょう。私らのために前のお奉行はご切腹された。この上あなたを死なせては、私らの矜持にかかわります。……お侍さまに面目があるように、百姓にも譲れぬものがありますのでね」
出流はそう言って、不敵な笑みを浮かべた。いや出流だけではない。人足たち皆が、やる気に満ちていた。
工事は遅れることなく、そのまま進められた。
そして、彼らの覚悟と努力とその結果が、試される時がやってきた。
天候が急変したのは、堤防工事も終盤にさしかかった頃だった。
朝から異様に生ぬるい風が吹いていたが、それが昼過ぎになって急激に強くなった。山の木々が軋むほどの強風はすぐに黒雲を伴い、滝のような雨を叩きつけた。
海斗を始め、誰もがついに来たと悟っていた。
海斗が最も工事の遅れていた現場へと駆けつけたときには、すでに工事が終わった現場から多くの人足たちも駆けつけ、土砂降りの中で作業にかかっていた。
「出流、皆に伝えよ。工事は中止だ。決壊の恐れがある。すぐに逃げよ!」
「できませぬ。あとわずかで完成なのです。そうすれば決壊はしません!」
「決壊するかせぬかは神仏にしかわからぬ! 雨風はすでに昨年以上だぞ!」
「ならば、いまここで投げ出せば間違いなく決壊いたしましょう。神仏にしかわからぬ? そんなことは百も承知です! だからこそ諦めてはならんのです! 百姓を舐めないでいただきたい!」
出流たち人足は頑として譲らなかった。
そうこうしているうちに、さらに激しさを増す豪雨のなか、近隣の村々からも次々と人が集まって来ていた。
誰一人として避難勧告に従わず、水かさを増した危険な堤防の水際で、土嚢を積み上げ、板と柱で押さえて補強工事を進めていく。
ならば是非もなし。海斗も腹をくくった。
「出流、いま最も危険な個所はどこだ? 案内せよ!」
「はい!」
海斗は出流と共に、濁流の圧力が最も大きい、川の彎曲部に移動した。この部分が最も危険であるだけに、堤防の幅も高さも他より一段以上高い。
その上に立った海斗の視界には、怪物のような吠え声をあげる濁流や、それに必死に抗う各工事現場の様子が一望できた。
「出流、皆に伝えるのだ。私はここを動かぬ。もしここから私の姿が消えるとすれば、それは水がここを超えた時だ!」
「お代官様!?」
「私が見えなくなったら、何をおいてでも逃げよ。良いな!」
「はっ!」
出流がうなずき、現場へと走っていく。
その先では、領民が総出で危険な工事を続けている。
百姓の矜持、百姓の覚悟。
――始音よ。我ら侍が、何故、人の上に立っているのか、分かるか?
不意に、かつての上役の言葉が蘇った。
――堤防を工事したのは民だ。被害を受けたのも民だ。豊作になれば喜ぶのは民であり、不作になれば苦しむのも民だ。だが……
「……責任を負うのは、我ら侍だ」
海斗は声に出して呟いていた。
「侍は責任を負うために、上に立っているのだ。それが、役目なのだ。侍が命をかけて責任を負うからこそ、領民は困難に立ち向かってくれるのだ」
海斗は、自分に言い聞かせるように呟いていた。
工事現場から少し目をずらせば、そこには既に足もとにまで迫ろうとしている真っ黒な濁流があった。
風もすさまじく、両足を踏ん張っても飛ばされそうだ。
海斗は必死に堪えた。
風に、雨に、そして足元へと迫りくる恐怖に堪え続けた。
時折、意識が飛ばされそうになる。
連日の疲労は、まったく癒されていない。休息などとっていない。
海斗の身体は限界に近づいていた。今立っていられるのは、死の瀬戸際にあるという極限の緊張感のためだ。
だがそれゆえ、終わりは不意に訪れる。
張りつめた糸が切れるように、海斗の視界が暗転した。
そこにひときわ強い突風が吹き、海斗の身体が大きくかしぐ。
落ちる。
濁流に呑まれる。
その寸前、海斗は誰かに抱きすくめられた。
「海斗殿……海斗っ!」
「が…く……?」
「起きたか。また気絶しておったな? 無理も大概にせよ」
楽歩が、雨に濡れながら呆れ顔で笑った。
「海斗、立てるか?」
「面目ない」
楽歩に支えられながら、海斗は立ち上がる。
しかし足元がおぼつかず、楽歩が肩を貸す。
「楽歩殿、なぜここに?」
「野次馬しにきたらお主を見つけてな。……ここは、なかなか見晴らしが良い」
「一番危険な場所です」
「知っておる。だから、それ以上は言うな」
「………」
海斗は押し黙った。楽歩が支えてくれる肩が、ただ有難かった。
楽歩が言った。
「ここから見る景色は壮絶だな。まるで戦だ」
「百姓の戦です。彼らはこうやって、神仏にも等しい大自然の脅威と闘い続けてきた。私たちにできるのは、ただ見守るだけです」
「彼らに命を預けておるのだな」
「不思議なことに、怖くはありませぬ。先ほどまでは怖かったのですが」
「それはまた、異なことだな」
「ええ、異なことです」
二人は顔を見合わせて笑った。
濁流はすでに間近に迫り、吹き上がる水飛沫が二人に襲いかかっていた。
風雨は夕刻になり、ようやく衰えを見せ、日暮れ近くには水かさは引き始めた。
堤防は、無事に完成した。
祭囃子が遠くに響く。
秋祭りの日の、日暮れ時である。
大風を無事にしのいだことと堤防の完成を祝って、盛大に開かれた今年の秋祭りには海斗も招かれていた。
しかし、時刻も時刻である。
平役人時代と違い、代官職にある者が夜遅くまで酒宴にふけっていては体裁があまり良くない。
海斗は日暮れとともに席を辞し、帰路についていた。
秋虫が鳴く涼やかな夜道を、海斗はひとり歩いていた。
時折、足元がおぼつかなくなる。
酒を飲みすぎた?
否、彼はそこまで飲んでいない。
では、相も変わらず疲労がたまっていたのか。
確かにそれはある。
だがそれだけではなかった。
海斗は急に激しく咳き込んだ。
背中を丸め、口元を手で押さえる。
誰もいない薄闇の道で、海斗の咳き込む声が遠くの祭囃子をかき消した。
ややあって、海斗はようやく落ち着きを取り戻し、上体を起こした。
その目が、口元から離された手のひらに落とされる。
その手は、赤く染まっていた。
海斗は血で汚れた手を握り締め、しばし、その場に立ち尽くしていた―――
一方、その頃。
国境の関所に、二人の旅人が訪れていた。
歳は十四、顔だちの良く似た少年と少女の二人連れである。
少年は自分たちを、愛洲藩に仕える鏡音家の者だと名乗った。
彼は関所の代官に、一通の書状を差し出した。
それは、仇討御免状。
仇討のために他藩への滞在を許すという、将軍家公認の通行手形である。
「この藩に、我が父の仇が居るという噂を聞いて推参致した次第」
少年は声変わり前ながら、落ち着いた声で問うた。
「元愛洲浪人、始音海斗殿にお引き合わせ願いたい」
それは、間もなく冬が訪れようとする、晩秋の頃……