その日、楽歩は廃寺の裏手の川で釣りに興じていた。
周囲の木々は長い枝を渓流の上に伸ばし、鮮やかな紅葉がちらちらと降っては川面を彩っている。
そんな風流に浸りながら、楽歩は無念無想で釣り糸を垂らしていた。
剣を構えるが如く釣竿を構え、流れに潜む魚の気配に全身を研ぎ澄ます。
彼がこの境地に達してから既に一刻ばかりが過ぎていた。
そして、いまだに魚籠は空である。
楽歩の身体がわずかに前かがみになり、頷くようにガクリと頭が振れた。
「!?」
次の瞬間、楽歩はバッと上体を起こし、釣竿を振り上げた!
見事な紅葉を残したまま流れてきた枝が、楽歩の目の前にぷらぷらと揺れていた。
「ほう、風流ですなぁ、旦那」
と、傍らで礼夫が笑った。彼の魚籠も空である。
「良い枝ぶりだろう?」と、楽歩。
「腹は膨れねえけどな」と、優馬。彼の魚籠も空である。
無益な釣り糸を垂れる三人をあざ笑うかのように、渓流から魚が跳ねた。
「なぁ兄貴、釣りよりも爆竹投げたほうが早くねえか?」
「持ってるのか?」
「持ってねえけど」
「では、無意味だ」
「じゃ石投げようぜ。あそこで飛び跳ねてる魚めがけてさ!」
「当てれるのか?」
「やったことねえ」
「では、無意味だ」
「兄貴はできねえの?」
「むしろなぜ出来ると思った?」
「なんかそんな気がして」
「手裏剣の得意な忍者じゃあるまいし、飛び跳ねる魚に礫など当たるものか」
「お、礫を投げずに正解でしたぞ」
と、礼夫。彼の釣竿が大きくしなっていた。
「これは大物だぞ!」と、礼夫が興奮して叫ぶ。
「今度は盆栽でもかかったか?」と、楽歩。
「負け惜しみは見苦しいですな、旦那!」
「お、兄貴。姉貴たちが帰ってきたぜ」
と、優馬が後ろを振り返り言った。
楽歩も振り向くと、廃寺からの小径を三人の女たちが下りてくるのが見えた。
買い出しに出かけていた、いろは、ルカ、ミズキたちだ。
「どうだいアンタら、釣れたかい?」
「いま、礼夫が大物と格闘中だ。だが盆栽かもしれん」
「はぁ?」
そのとき、二人の背後で礼夫がついに川から獲物を引き上げた。
「おお、こいつは見事な―――」
流木だった。流水に長く浸され、表面に飴色の風合いが出ている。
「詫び寂だな」
「ええい、くそ!」
「よくわかんないけど、アンタたちの魚籠が空っぽだってのはわかったよ。そんなことより、アンタ、大変さね」
「ん?」
「始音のお代官様が倒れちまったそうさね」
「なんと!?」
「町で本音村の連中にあって聞いた話さ。彼らはお代官様と親しいから、間違いないよ」
いろはの話を聞き、楽歩はやれやれとため息をついた。
「海斗め、いつかこうなると思ったぞ。だからあれほど無理をするなと言ったのだ」
「お代官様はお忙しいのさね。ひがな一日釣り糸垂れて釣果なしの浪人と違ってね」
「日々これ修行なり。釣りは禅に通じるところあり、禅は剣に通ずる」
「だとしたら、剣の名人にはほど遠そうだね」
「未熟なり」
「そんなことより」
と、横からルカが口を挟んだ。
「お代官様が臥せってしまわれたんじゃ、今度やるはずだったお子様のお祝いも延期になっちゃいますよぉ」
「んむ。今年こそはと思っておったのだがなぁ。春には間に合わなんだし、夏と秋は興行三昧。一息ついてようやく約束が果たせると思うたが……」
「いちどお見舞いに行かれたほうが良いんじゃないですか?」
「そうだな。…ルカ、お前も行くか?」
「ん~…」
ルカは少し迷って、首を横に振った。
「遠慮しときますよぉ。あなたは始音様とゆっくり話したいでしょうし」
「そこまで気を遣う必要は無い」
そう言った楽歩に、
「おバカ」
と、いろはが呆れて言った。
「お侍の、それもお代官様の家に行くんだよ。あんたは始音様を相手にするから気にしないだろうけど、ルカは奥方様を相手にしなきゃならないんだからね。気を遣って当然さね」
「ん…む」
いろはの言葉に、めいこの品の良い姿が楽歩の脳裏に浮かんだ。
確かに、仮にも侍である楽歩と海斗と違い、かたや旅芸人として、かたや侍階級で育った女では、お互いやりづらかろう。
ルカが始音家の門をくぐるのは、彼女が本領を発揮できるとき、すなわち祝いの席で舞を披露してからのほうが良かろう、と楽歩は思った。
ルカの舞を見た後ならば、誰しもが彼女に一目置くことを、楽歩は確信していた。
「ではやむを得ぬ。今日のところは俺一人で行くとしよう」
「けど、手土産はどうするさね? 魚の一匹でも釣れてりゃ恰好ついたろうに」
「言うな。…仕方ない。なにか途中で、精のつくものでも買っていくか」
「あら、それには及びませんよ」
と、そう言ったのはミズキだった。
彼女はいつの間にか楽歩の釣竿を持って川べりにいた。
そしてその釣り竿の先には、見事な大物の川魚が釣れていたのであった。
出流がその少年少女と出会ったのは、見舞いのために始音家を訪れた直後のことだった。
彼が普段から出入りしている裏口から出て、屋敷の正面に回ったところで、
「もし」
と、少年から声をかけられたのである。
「こちらは始音海斗殿の御屋敷で相違ないでしょうか?」
折り目正しいその少年は小柄で、歳の頃はおよそ十四か十五ほどと見えた。その腰には刀と脇差の二本を差していることから、年若くも元服した侍だと分かる。
傍には顔立ちのよく似た少女がおり、どちらも見目麗しい、美少年と美少女だった。
「はい、こちらは確かに始音様のお屋敷でございます。しかし」
「しかし?」
「始音様は今、お身体の具合が芳しくなく、臥せっておられます。訪うのはご遠慮なされた方が宜しいかと」
そう言う出流自身、海斗には直接会わずに、はくに見舞いの品を渡しに来ただけである。
「左様ですか。ありがとうございます」
「では、失礼致します」
出流が立ち去った後、少年と少女はしばらくの間そこに留まっていた。
二人の目は、じっと屋敷に向けられている。
「蓮……」
と、少女が口を開く。
「蓮、今なら――」
「戻りましょう、姉上」
少年はそう言って、元来た道を帰り始めた。
「蓮、どうして!? あの男は病んでいるんだよ!」
「病人の寝込みを襲っても、父の名誉は取り戻せませぬ」
「…っ!」
少女は唇を噛み締めながら、遠ざかっていく弟の背中と、屋敷とを交互に見た。
「蓮っ!」
だが少年は構わず去っていく。少女もついに諦め、その背中を追った。
屋敷からやや離れたところで少女は少年に追いつく。ちょうどそのとき、二人の先からやって来る一人の男の姿があった。
楽歩だ。
彼は右肩に魚籠を下げながら、海斗の屋敷へ向かっている途中だった。
楽歩は向かいから来る二人に然程の関心を向けて居なかったが、ある程度まで近づいて来たところで、フッと皮膚が泡立つような感覚を覚えた。
(殺気?)
楽歩の剣士としての鋭敏な感覚が、正面から放たれる微かな殺気を捉えていた。
楽歩はわずかに歩幅を狭めて歩みを落とし、右肩に下げていた魚籠を下ろして右手で下げるだけにした。
左手は既に、自然と刀の鍔元を押さえている。
そうやってすぐに抜刀できる体勢を整えたところで、楽歩は違和感を抱いた。
殺気は確かに近づいてくるが、それは楽歩に向けられたものでは無いと気付いたからだ。
しかも、
(あの少年……では無いな)
前方から歩いてくる少年の気配は静かなものだ。目先や歩き方からも、楽歩に何の関心も持っていないことが分かる。
(だとすれば、もう一人の?)
少年のすぐ後ろを歩く少女だ。彼女の雰囲気には明らかに殺意があった。
しかし、誰に?
いや、誰に向けるまでもなく、やり場の無い殺意を抑えているのだ。楽歩はそれを、二人とすれ違った時に少女の表情を見て悟った。
思い詰めた、ともすれば自ら命を絶ちかねないように見えて、楽歩は立ち止まり、振り返った。
遠ざかろうとする二人の背中を見つめ、しばし迷い、そしてようやく声をかけてみる事にした。
「失礼――」
だが彼自身にまだ迷いがあったのか、声は二人には届かず、そのまま去って行ってしまった。
「……未熟なり」
楽歩はポツリと呟いて、魚籠を肩に担ぎ直して屋敷へ向かった。
はくに訪いを告げると、奥からすぐに、めいこも出てきた。海斗の様子を聞くと、さっきまで眠っていたが、今ちょうど起きたところだという。
楽歩の来訪を知り、是非上がって欲しいとの事だった。
案内された先で、海斗は寝具から上体を起こして楽歩を迎えた。
「楽歩殿、よく来てくれた」
「空元気か? まだ顔色が優れぬぞ。寝ておれ」
「……楽歩殿には敵いませんね」
海斗は力無く笑って、大人しく横になった。
「医師には診てもらったのか?」
「ええ…まあ大した事はありません、単に疲れが溜まった結果だと。奉行所からもしっかり休めと言われました」
「そうか、ならば良かった。もうじき冬が来る。これ以上身体を壊さぬようにな。元気になったら今年こそ赤人殿の祝いをやろう」
「その話、まだ覚えていらしたんですね。ありがとうございます。しかし、冬になればまた旅立たねばならぬのでは?」
「その心配はいらん。今年はここで冬を越す事にしたからな」
「そうでしたか」
「うむ。夏と秋の興行が評判良くてな。正月も是非頼むとあちらこちらから引っ張りだこだ。情けは人の為ならずとはよく言ったものだな。赤字が消えて却って儲けが出そうだ。いろはもやたら機嫌が良い」
「そうですか、なにやら想像できそうです。しかし、いろは殿といえばあの方、年を経ても全く変わりませぬなぁ」
「見慣れてしまったから今更だが、あやつ、本当に妖怪ではないかと疑う事がある。きっと十年たってもあのままだぞ」
「それは、さすがに……」
無いと否定しようとしたが、あり得なくもない気がして、海斗は苦笑した。
二人はその後も当たり障りの無い世間話をして過ごした。
しかし楽歩は海斗の体調を気遣って、今日のところは早めに切りあげる事にした。
「また来る。早く良くなれとは言わぬ。ゆるりと休め」
「かたじけない」
楽歩は立ち上がり、去り際にふと振り返った。
「そういえば、俺が来る前に誰か訪ねて来たか?」
「出流が来てくれたそうです。もっとも、彼は遠慮してすぐに帰りましたが」
「ふむん」
楽歩は顎を軽く撫でて、
「いや、なんでもない。お邪魔した」
そう言って帰って行った。
それから数日後、ある程度体調が回復した海斗は、久しぶりに屋敷を出た。
向かった先は奉行所ではなく、家老・氷山清輝の屋敷である。出歩けるようになったら先ず家老屋敷に来るようにと、以前から言われていたのだ。
屋敷に着いた海斗は、すぐに清輝の元へと案内された。
ちょうど粉雪がちらつき始めた寒い日である。
障子が閉め切られた薄暗い部屋で、火鉢で燻る炭だけが赤くぼうと光り、清輝の影を濃くしている。
いつも側に控えている女中のおミクは、今日は居なかった。
「体調はどうだ、始音」
「おかげさまで、すっかり回復してございます」
「嘘を言うな、医師から聞いておるぞ。この寒さでまた熱を出したそうではないか」
「………」
「回復しきってから来いと伝えたつもりであったが……まぁ良い。直ぐに済む話だ」
そう言って清輝は、少しの間黙って、周りの気配を伺うような素振りを見せた。
つられて海斗も周囲の気配を探る。
誰の気配も無かった。
(人払いされている?)
海斗がその事をいぶかしんだ時、清輝が口を開いた。
「お主、鏡音蓮也という名に覚えはあるか」
「それはっ!?」
海斗が答えようとした時、清輝は手を振ってそれを遮った。
「分かった、それ以上答える必要は無い。後は黙って聞け」
「………」
「先日、蓮也の遺児と申す者たちが藩内へ来た。双子の姉弟だ。十四の子供だが弟の方は既に元服を済ませておる」
清輝がいったん言葉を切ると、部屋に耳が痛くなるほどの静寂が降りた。
火鉢の炭が小さく、キンと鳴った。
「仇討御免状を持ち、始音海斗に会わせろと言ってきた。……調べて確認した後、該当者が居れば連絡すると伝えて、取り敢えずその場は追い返した。これが十日ばかり前の事だ。お主の元へ、それらしき者は来たか?」
「いえ……」
「いつ来るか分からぬ。用心せよ」
「…ご家老、それは」
「よい、なにも言うな。お主の過去については殿も了承された事だ。その事でとやかく言うつもりは無い。だが…」
「………」
「だが、父の仇を討つは侍として為さねばならぬ事である。その上、ご公儀公認の御免状まである以上、藩としてお主を庇い立てする事はできぬ。ゆえに、お主の回復を待って然るべき場を用意する。…そこで返り討ちにせよ」
「っ!?」
その言葉に、海斗の肩が震えた。伏せがちだった目が上げられ、清輝を見る。
清輝は言った。
「始音、お主は武芸を持って召し抱えられた身。下手な情けを出して、無様を晒すで無いぞ」
「……はっ」
「話は終わりだ。以後も体調の回復に努めよ。それと帰りは護衛をつける。念の為だ」
海斗は一礼し、部屋を後にした。
玄関へ向かう長い廊下を渡る途中、
「あ、始音様…?」
一人の女中が彼の姿を見つけ、寄ってきた。
それは、おミクだった。
「お、お呼び止めして申し訳ございません。まさか、いらっしゃるとは思わなくて。その、お身体の方はいかがですか?」
「…いえ、心配なさるほどではありませぬ」
「そうですか。でも、まだ顔色が優れないようですが。よろしければ空いた間で休まれてはいかがですか? 温かいものも直ぐにご用意いたしますよ」
「いや、結構です」
「そ、そんなこと仰らずに、どうぞ此方へ」
おミクが海斗の袖を引こうと手を伸ばしたとき、
「止せっ!」
海斗が声を荒げてその手を振り払い、おミクはビクリと震えて後ずさった。
「も、申し訳ございません」
怯えながら頭を下げたおミクの姿に、海斗もハッとなった。
「わ、私こそ済まなかった。お主に非は無い、非は無いのだ」
「始音…様…?」
「済まぬ……御免」
海斗は逃げるように去っていった。
おミクは目尻に涙を浮かべながらそれを見送ったが、やおらキッとまなじりを決して、足早に清輝の部屋へ向かった。
「図書ノ介、どういう事か!?」
襖を音を立てる程勢いよく開けて叫んだおミクに、しかし清輝は動じる事なく答えた。
「不調法が過ぎるぞ、おミク」
「念入りに人払いをしておいて、なにがおミクか!」
「失礼致しました」
ずかずかと部屋に入って来たおミクと入れ替わりに清輝は立ち上がり、開け放たれた襖を閉めた。
上座に着いたおミクに対し、清輝は下座に控える。
「私にも内緒で海斗を呼びつけて、いったい何を告げた?」
「彼を父の仇と狙う者たちが現れたので、返り討ちにせよと申し付けました」
「まことかっ!?」
「鏡音蓮也の遺児、蓮と凛という双子の姉弟にございます。まだ十四の子供ゆえ、討つは容易いかと」
「子供を……子供を斬れと言ったのか!?」
「子供といえど侍にございます。仇討を果たさねば故郷へ帰る事さえ許されず、生涯追い続けねばならぬ宿命。ならば双方にとって、ここで決着をつけさせてやるのが、侍の情けというもの」
「けど…けど……っ!」
「始音を召し抱える際、私は申し上げた筈です。いずれ、このような時が来ると」
「………」
おミクは言葉も無く、唇を噛み締め、うつむいた。
「……私は、どうすればいい?」
「これはあの男の問題。手出し無用にございます」
「………」
薄暗い部屋の中、静寂の果てに炭が小さくキンと鳴った。