ダンシング☆サムライ~秘剣・左逆手居合~   作:PlusⅨ

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第十四幕・助太刀依頼

 九里府藩には高い山々と広い平野がある。

 

 冬の最も寒い時期、水分を多く含んだ空気は山の向こう側から来る。その空気は急峻な峰に遮られて大量の雪を山に降らせ、平野へは微かな粉雪が乾いた風に運ばれてくるのみである。

 

 そんな冬の日の朝、楽歩は廃寺近くの竹藪で、独り、佇んでいた。

 

 僅かにこうべを垂れ、左手は刀の鯉口を切った状態で鞘に添え、右手はだらりと下げている。

 

 空には雲もなく澄み渡った空気の中、竹の葉に薄く積もった粉雪が、さらりと舞った。朝陽にきらめく粉雪の粒子を追うように、枯れた竹の葉がハラリと落ちる。

 

 楽歩の左足が後ろにスッと引かれ、彼の目前で光が二度、キラリ、キラリと輝いた。楽歩が引いていた左足を戻すと同時に、その腰で刀を納める鍔鳴りの音が響く。

 

 その足元に、四つに切られた竹の葉が落ちた。

 

 抜刀し、浮遊する葉を二回斬り、それが地に落ちる前に納刀した。まさに神速の居合抜刀術だが、卓越しているのは、その静けさであろう。抜刀から納刀までの間、音を立てたのは最後の鍔鳴りだけである。

 

 殺気が無い。真剣を振るう気負いも何も無い。

 

 示現流達人の海斗の目を持ってして、ようやく楽歩の太刀筋を追えたにすぎなかった。剣の心得がない者には、それこそ楽歩が左足を引いて、戻しただけにしか見えなかっただろう。

 

(さらに腕を上げておられる……)

 

 海斗は感心しながら足を踏み出した。地面に積もった枯れ草が踏まれて、カサリと音が立つ。

 

 その足音に楽歩が反応して、身体ごと素早く振り向いた。

 

 楽歩は足音の主が十歩も離れていなかった事にギョッとして、そしてその正体を知って緊張を解いた。

 

「海斗……驚かせるな」

 

「失礼、そんなつもりはなかったのですが」

 

 苦笑する海斗に対し、楽歩は苦り切った表情で頭を掻いた。

 

 先程の居合は、楽歩自身、内心で自賛するほど冴え渡っていたが、その状態にあって海斗の接近の気配に気付けなかったのは不覚である。

 

 いや、海斗の気配の消し方がそれだけ上手かったこともあるのだが……

 

 楽歩はハッとなって海斗に目を戻した。

 

「それよりお主、何故ここに。出歩いて大丈夫なのか?」

 

 海斗の体調が回復するどころか悪化の方向に向かっている事は楽歩も知っていた。事実、今、面前に居る海斗の顔色は青白くやつれている。これで気配を消していたのだから、楽歩は当初、幽霊でも見たような気になってギョッとしたのだ。

 

「いや、まあ、その事で話がありましてね」

 

「……とりあえず本堂へ行こう。ここは寒い」

 

 楽歩は海斗の肩に手を置いて促した。

 

 本堂へ戻ると、ルカが朝食の準備をしているところだった。

 

「あ、二人とも、おかえりなさい。あのね、あなた、海斗さんからタコの干物なんていう珍味頂いちゃったの」

 

「ルカ」

 

「はいはい」

 

「海斗と話がある。奥の座敷の火鉢に炭を足しておいてくれ。それと白湯だ……いや、茶だ。一番いい茶葉を用意してくれ」

 

 高級茶葉は、同時に薬としても用いられていた。

 

「はいはい」

 

 と、ルカは大人しく従った。

 

 楽歩が奥の座敷の襖を開けると、そこでは朝から酒を飲む一座の面々の姿があった。

 

「おー、帰ってきたねぇ」

 

「いろは、何をやっている」

 

「お代官様から良い酒もらっちゃってねぇ」

 

「だからといって朝っぱらから飲む奴があるか。とりあえず外へ行け、外へ」

 

「やだよぉ、寒いんだから」

 

「酒持って出ろ。海斗と大事な話がある」

 

「お代官様かい。 だったら待たせちゃいけないねぇ」

 

 いろははフラリと立ち上がり、足元をもつれさせて楽歩に抱きとめられた。

 

「ええい、酔っ払いめ」

 

「えへへ、お侍は暖かいねぇ」

 

「俺を懐炉がわりにするな。おい、ミズキ、礼夫、優馬、こいつをなんとかしてくれ」

 

「はいさ」

 

 ミズキを始め、たむろしていた連中がいろはを連れて座敷から出て行く。

 

「すまんな、騒がしくて」

 

「いえ、こちらこそご迷惑をおかけします」

 

 二人は刀を腰から外すと、火鉢を挟んで向かい合って座った。

 

 だがすぐに楽歩は立ち上がって座敷を出て、さほど間を置かずに炭を持って帰って来た。その炭を火鉢に足す。

 

「茶はもう少し待ってくれ」

 

「どうかお気遣いなく。そこまでされると心苦しい。…しかし」

 

 海斗は座敷を眺め渡して、

 

「やはり人が居るとは、良いものですね。一座がいない時のこの寺は本当に廃墟同然の寂しさで――」

 

「海斗、用件を話せ」

 

「もしかして、怒ってますか?」

 

「当然だ!」

 

 楽歩は思わず語尾を荒げていた。

 

「さっきお主に触れた時にわかった。ひどい痩せ方だ。出歩ける身体では無い!」

 

 楽歩の声は微かに震えていた。

 

 海斗は有るか無いかの様な薄い笑みを浮かべた。

 

「その身体ですが、まだこれでも病状が軽いほうでしてね。これからもっと酷くなります」

 

「どういう事だ?」

 

「喉に腫れ物がありまして、今はまだ小さいですが、やがて大きくなり声を出す事さえままならなくなります。まぁ、その前に食事が喉を通らなくなり飢え死にするでしょうけど」

 

「なぜ……そう言い切れる」

 

「父が同じ病でした。祖父もそうだった様なので、我が始音家の血筋なのかも知れません。……私の命も、持ってあと一年でしょう」

 

 淡々とした海斗の物言いに、楽歩は言葉を失った。

 

 楽歩も命の遣り取りは何度もしてきたし、両親を始めとして死には何度も向き合ってきた。己の手で葬った命も多数ある。そうでなくとも、当時の社会は現代以上に死は身近である。

 

 海斗の体調が悪化しているという話を耳にした時から、死への予感はあった。

 

 それでも、今、その事実を本人から告げられて、楽歩は絶句してしまった。

 

 声すら発せられなかった。

 

 それほど、海斗の存在は楽歩にとって大きなものになっていた。

 

「楽歩殿」

 

 押し黙ってしまった楽歩に、海斗は言った。

 

「私は流浪の身から藩士に取り立てられ、そして領民のために働くことが出来た。息子も健やかに成長していますし、何より、良き友とも出会えた。……私は望もの全て得たと言っても良い」

 

「……」

 

「だからこそ、最期にひとつ、楽歩殿にお願いがあって参った」

 

「……赤人殿の祝宴の件か?」

 

 楽歩はやっとの事で声を絞り出したが、その質問の内容のあまりの虚しさに哀しくなった。

 

 しかし、海斗は首を横に振った。

 

「いいえ、私の願いは、楽歩殿ともう一度立ち合うことです」

 

「なんだと…?」

 

「私と立ち合って頂きたい。真剣で。私がまだ刀を握っていられる間に」

 

 海斗の声に感情がこもっていた。

 

 その切望を感じ、楽歩は思わず、

 

「理由を聞こう」

 

 そう言ってしまった。

 

 海斗は答えた。

 

「今、国境の旅籠に鏡音 蓮と凛と申す双子の姉弟が逗留しています。私がかつて斬った男の遺児です」

 

「……仇討ちか」

 

「左様、御家老の差配で近い内に立ち合いの場を設けて頂くことになりました。私はそこで、彼らを返り討ちにせねばなりません」

 

「つまり、そこで俺に助太刀せよと言うのだな? お主にでは無く……」

 

「はい。鏡音姉弟の助太刀をして頂きたい」

 

「断る」

 

「まだ十四の子供たちです」

 

「それがどうした。侍だ」

 

「できれば、斬られてやりたい」

 

「ふざけるなッ!!」

 

 楽歩は叫び、立ち上がった。

 

「斬られてやりたいなどと、それが侍の言うことかッ!?」

 

「左様、侍である以上できぬ相談です。私は全力をもって彼らを斬る。だからこそ、楽歩殿に頼むのです」

 

「お主の介錯など願い下げだ」

 

「介錯に非ず――」

 

 海斗もまた立ち上がった。

 

「――これは果たし合いにござる」

 

 二人は険しい目で睨み合う。

 

 刹那、海斗と楽歩は同時に抜刀していた。斬撃が互いの身体を斬り裂き、鮮血が吹き上がる。

 

 

 

 

 

 そんな白昼夢めいた幻想を、二人は見ていた。

 

 

 

 

 

 現実には、どちらも抜刀などしていない。刀は外されたまま、二人の足元にある。彼らは手さえ動かしていなかった。ただ、殺気だけが飛び交ったに過ぎなかった。

 

「どうか、お頼みいたす」

 

 海斗は一礼し、足元の刀を拾うと、楽歩に背を向けた。

 

 そのまま去り際に、ふと、海斗は立ち止まり、

 

「今の間合いならば、私はあなたを斬っていた。我が秘剣・無拍子によって」

 

 そう言い捨て、襖を開け放って去って行ったのだった。

 

 海斗が去って行った後、楽歩はその場に倒れるように座り込んだ。

 

 その額には玉のような冷や汗が浮いている。海斗の殺気に当てられたせいだ。

 

 斬られた。そう思った。海斗が斬れると言ったのは嘘でも虚勢でもない。事実だ。あの間合いで斬り合いになれば、間違いなく殺されていた。それを確信した。

 

 そのまま、しばし、楽歩は押し黙ったまま座り込んでいたが、やおら立ち上がると、刀をひっつかみ座敷を出た。

 

 襖を開けると、ルカを始め、ミズキ、礼夫、優馬たちが慌てて後ずさる姿があった。

 

 聞き耳を立てていたのは明らかだった。

 

「あ、あなた、その……」

 

「出かけてくる」

 

「は、はい。行ってらっしゃいませ」

 

 ルカたちは大人しく道を空けた。

 

 本堂から出たところで、縁側で徳利を抱えて座り込むいろはに出くわした。

 

「どこ行くんだい?」

 

「お主には関係ない」

 

「そうかい。でもさ、アンタ、怖い顔してるよ。まるで人でも斬ろうって顔だ」

 

「……」

 

 楽歩は黙ったまま、大股でいろはに歩み寄ると、彼女の腕の中から徳利を奪い取って一息に呷った。

 

「……行ってくる」

 

「…あいよ」

 

 遠ざかって行く楽歩の姿を見送った後、いろはは彼が残した徳利を拾い上げた。

 

「ま、気持ちは分かるけどね…」

 

 いろははそう呟いて、徳利の縁に唇をつけて、僅かに残る雫を舐めとった。

 

 冷たい風が吹き寄せる。

 

 いろはは膝を抱えて、そこに顔を埋めた。

 

 

 

 

 宿場町へ向かう楽歩は怒っていた。

 

 “人でも斬ろうって顔だ”

 

 いろはの指摘は、まさにその通りだった。楽歩は鏡音姉弟を斬るつもりだった。

 

 海斗を狙う者たちを先に斬る。

 

 海斗を守るという意味、斬られてやりたいなどと言った海斗への当てつけの意味、そのどちらの意味もあり、そしてそれとて深い考えでは無い。

 

 衝動的と言って良い。

 

 だから、宿場町までの長い道のりを冷たい風に吹かれながら歩いているうちに、その怒りと衝動は徐々に覚まされつつあった。

 

 双子を斬って、どうなるというのだろう。仇討ちを防いだところで、どの道、海斗は死ぬ。うめき声すら上げられず、血を吐き、痩せさらばえて、飢えて死ぬのだ。その姿を思った時、楽歩は胸の奥底まで冷風に吹かれた気持ちになった。

 

 剣士として生きてきた男に、そんな最期を迎えさせて良いのか。

 

 海斗自身が斬り死にを望んでいるのに、楽歩にそれを妨げることができようか。

 

 長い道のりの末に宿場町が見えてきた頃、廃寺を出たときの怒りと衝動はすっかり覚めきり、楽歩の感情は深く沈み込んでいた。

 

 楽歩が宿場町に足を踏み込むと、ちょうど近くを肩を怒らせながら歩いていた男が声をかけてきた。

 

「先生、神威先生じゃござんせんか」

 

「ん?」

 

 それはかつて楽歩が用心棒として賭場にいた頃に知り合った博徒の一人だった。

 

「そうか、ここはお主の縄張りだったのか」

 

「ええ、先生がここまで来るのも珍しいですね。何か御用でしたら、あっしが受け賜わりやしょう」

 

「そうか…」

 

 楽歩は少し考え込み、

 

「…ここの旅籠に鏡音という双子が逗留していると聞いた。知らぬか?」

 

 その名を聞いて、博徒の目がスッと細められた。

 

「先生、その名は誰からお聞きになりやした?」

 

「海斗――郡方代官、始音海斗からだ」

 

「そうですか、お代官様から直接……」

 

 博徒はため息をついた。

 

「……よござんす。ご案内いたしやしょう」

 

 博徒は楽歩を促して歩き出した。

 

 彼は歩きながら、

 

「双子の仇討ちについちゃ、この宿場の者は皆知っておりやす」

 

「相手が海斗である事もか?」

 

「ええ、なので皆戸惑っておりやす。何しろお代官様は領民のために力を尽くして下さる得難いお方です。だが、お侍である以上、あっしらには理解できないしがらみがあるんでしょう。仇討ちが来るのも仕方の無いことかも知れやせん。しかし」

 

「しかし?」

 

「戸惑っているのはそれだけじゃあ無えんです」

 

「どういう事だ?」

 

「見りゃあ分かりますよ」

 

 博徒はそう言って立ち止まった。

 

「静かに」

 

 そう言って耳を澄ます博徒。

 

 楽歩も耳を澄ますと、どこからか、カーン、カーンという音が聞こえてきた。

 

「やっぱり今日もやってますね」

 

「何の音だ?」

 

「双子の片割れですよ。そこの林の奥で剣の稽古をやってるんです。行きやしょう」

 

 博徒の足が林へ向いた。 彼の後に続いて林の奥へ踏み込むと、その音もはっきりと聞こえるようになった。

 

 同時に、どこか弱々しい掛け声も。

 

 博徒が立ち止まり、指差した先、そこで一人の少女が木刀を振るっていた。

 

 少女の前には太い薪が縄で括られ木の枝から吊るされている。

 

「えい!」

 

 息切れの激しい掛け声と共に木刀が振るわれ、薪を叩く。

 

 カーンという音が響き、大きく揺れた薪が勢いを付けて振り戻る。

 

「ッ、えい!」

 

 迎え撃った木刀は空振りに終わり、薪は容赦なく少女の肩に当たった。

 

「うっ!?」

 

 少女は肩を押さえて苦悶の声を上げたが、直ぐに木刀を構え直した。

 

「ああやって毎日、木刀を振るっています。精魂尽き果て気絶した事も一度や二度じゃござんせん……見ちゃいられねぇんすよ」

 

「……弟の方は?」

 

「身体が弱いらしく、あまり表に出てきやせん。しかし、旅籠の女将によれば礼儀正しく、宿の者にもよく気を遣う温和な少年だそうです」

 

「母親は?」

 

「幼い頃に亡くなった、と。双子は両親の位牌を大切に持ち歩いているそうです」

 

「……」

 

「正直、双子に同情したくなるんですよ。思いを遂げさせて仇討ちの旅なんか終わらせてやりたい。しかし、その相手はお代官様だ。だから皆、戸惑っているんです」

 

 二人の先で、再びか細い掛け声と、カーンという音が響いた。

 

 息を切らしながらも必死に木刀を振る少女の横顔は、間違いなくあの日、海斗の家に向かう途中ですれ違ったあの少女だった。

 

「案内、礼を言う。すまんが少し外してくれるか?」

 

「わかりやした」

 

 博徒は去り、楽歩は独り、少女・凛の姿を眺めた。

 

 凛は楽歩の存在に気付いていない。ただ一心不乱に木刀を振るおうとしている。

 

 しかし、その切っ先は常の正眼よりも低い位置に下がり、息も切れて肩が激しく上下しており、なにより足元の安定も欠いてしまっている。

 

 剣法を知らぬ者の動きではないが、それでも体力的に限界なのは明らかだった。

 

 しかし凛は、揺れる薪に向かって木刀をふるい続けた。

 

 カーン、と高い音が響き渡る。大きく揺れた薪が、凛めがけ振れ戻る。凛は振り下ろした木刀を返して、薪を迎え撃とうとしたが、そうするにはもう体力が残っていなかった。

 

 木刀を振り遅れ、無防備になった凛の顔面めがけ、勢いのついた薪が迫る。

 

 ぶつかる寸前、凛は襟首を掴まれ、強引に背後へ身体を引かれた。 そのすぐ鼻先を薪がかすめる。

 

「あっ…?」

 

「女子が顔を傷つけてどうする」

 

 襟首を離した楽歩に、凛が振り返った。

 

「…あ、あなたは?」

 

「通りすがりの素浪人だ。女だてらに剣を振るっているのが物珍しくて見物していた」

 

「そうでしたか。危ういところを助けていただいたことは感謝いたします。しかし、どうぞこれ以上の手出しは無用に願います」

 

「倒れそうになるほど稽古をして、よほど斬りたい相手がいるとみえる」

 

「……あなたさまには関係の無いこと」

 

「お主に人は斬れぬ」

 

 その言葉に、凛は疲れ切った顔に敵意を露わにして楽歩を睨みつけた。

 

「これでも幼少より剣術を修めております。女だからとバカにしないで!」

 

「バカにしてなどおらぬ。剣の心得があることは見ていれば分かった。疲れていたとはいえ綺麗な太刀筋だった。一朝一夕で身につくものではない」

 

「え…?」

 

 楽歩からの意外な評価に、凛は虚を突かれた。

 

 だが、

 

「しかし、所詮は道場剣法。人斬りの剣ではない」

 

「そんなこと、刃が当たれば人は傷つきます!」

 

「確かに道理だ。しかしそれが難しい。こちらの刃が当たるというのは、相手の刃もまた届くということだ。人は薪では無い」

 

「刃を避けようとするから当てられぬのです。身を捨ててかかれば成せぬことなどありません!」

 

 強い意志をその目と声に滲ませた凛を、楽歩は黙って見下ろした。

 

 彼の心は、未だ不可解な波に揺られているようだった。

 

 何故、自分はここに居るのだ?

 

 何故、この少女と関わりを持ってしまったのだ?

 

 迷いながらも、楽歩は、凛が木刀を振るっていた木のそばに立った。

 

「人を殺したければ、斬るよりも刺すほうが良い」

 

 楽歩は刀を抜き、正眼に構えた。

 

 右足を前に、左足を後ろに引いた構えから、スッと一歩、前に出る。同時に左片手で刀を突きだし、木の太い幹に深々と突き刺さした。

 

 それがあまりにも軽々と行われたので、凛は最初なにが起きたのか分からず、一瞬遅れてその技量の凄まじさに目を見張った。

 

「……凄い」

 

 楽歩は刀身が中ほどまで埋まった刀を、さほど力を入れた様子もなく引き抜くと、

 

「やってみろ」

 

 そう言って、凛に刀を差し出した。

 

 凛は大人しく刀を受け取り、木に向かって正眼に構えて、そのまま深呼吸ひとつ、

 

「…えいっ!」

 

 気合と共に両手で突きを放つ。

 

 その切っ先は、木の皮を浅くえぐって止まった。

 

「――くっ!?」

 

 刀を伝って手に響く衝撃に、凛は呻き声を漏らす。

 

 凛はすぐに刀を引き抜こうとした。しかし切っ先は木の幹に食い込んで、なかなか抜けない。

 

 全体重をかけて引っ張って、ようやく抜けた。しかしその際、勢い余って背後に倒れそうになった。

 

「きゃ!?」

 

 ぽすん、と凛の小柄な身体は楽歩に抱きとめられた。

 

「す、すいません」

 

「そのまま、じっとしておれ」

 

「え?」

 

 楽歩は自分の懐からサラシを取り出すと、抱いたままの凛の右手をとった。その手は血豆だらけになっていた。

 

「ちょ、ちょっと」

 

「大人しくしていろ」

 

 楽歩は、凛の血豆だらけの右手にサラシを巻きつけた。真っ白なその表面に、すぐに血の赤が滲んだ。

 

「左手も出せ」

 

「……はい」

 

 凛の血だらけの手に、楽歩は新たなサラシを巻く。

 

「……ありがとうございます」

 

「上手く突こうと思うな。相手の中心めがけ、身体ごとぶつかるつもりで良い。刃が当たれば人は傷つく」

 

「はい」

 

 凛は素直にうなずき、立ち上がった。

 

 しかし、再び刀を構えようとした凛を、楽歩が止めた。

 

「充分だ。心構えさえ分かっていれば、それ以上の稽古はいらぬ。むやみやたらと手を傷つけることも無い」

 

「しかし、相手は剣の達人。油断できる相手ではないのです!」

 

 そう言って、突き込もうとした凛の肩に、楽歩が手を置いた。

 

「ッ!?」

 

 肩に手を置かれただけなのに、とたんに足が前に出なくなる。

 

 呆然とする凛に、楽歩は言った。

 

「もう止せ。それ以上は俺の刀が曲がりかねん」

 

「あっ」

 

 ふっと凛の身体が軽くなる。

 

 凛は慌てて、楽歩に刀を返した。

 

「も、申し訳ありませんでした。侍の魂たる刀をお借りしておきながら、私はなんという失礼な真似を…ッ!?」

 

「いや、俺から貸したのだから気にするな。それより、稽古もほどほどにせよ。女子の手は男と違い、柔いのだ」

 

「承りました――」

 

 と、凛はここであることに気付いた。

 

「――そういえば申し遅れておりました。私、鏡音 凛と申します。よろしければ、お名前をお聞かせください」

 

「……神威 楽歩」

 

「神威……では、あなた様が」

 

「俺が、なんだ?」

 

「宿場町の方々がよく噂しておりました。始音 海斗に並ぶ剣豪が居る、と。それがあなた様でしたのね」

 

「そんな噂は知らんな」

 

 楽歩は何故だか急に居た堪れなくなり、踵を返した。

 

 しかし、その場を立ち去ろうとした楽歩の背中に、

 

「お待ちください!」

 

 凛の声に、足が止まる。止まってしまう。

 

「どうか、どうかお力をお貸しください!」

 

「俺に、何をしろというのだ」

 

「助太刀を……いえ、せめてお話だけでも聞いてくださいませ」

 

「……」

 

 楽歩は振り返った。

 

 それなのに、まだ、楽歩は迷っていた。あるいはその迷いが、彼に凛の話を聞く気にさせたのかもしれない。

 

「神威様」

 

「……」

 

 楽歩の無言を同意と受け取り、凛は、事のあらましを語りだしたのだった。

 

 

 

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