廃寺への帰路はすでに夕暮れで朱に染まっていた。 楽歩は目の前に伸びる己の長い影に目を落としながら、重い足取りで歩みを進めていた。
山へと帰るカラスの鳴き声をどこか遠くに聞きながら、楽歩は物思いに耽っていた。それは、海斗との立ち合いを望むと言ってしまった、己の心についてだった。
何故、助太刀をする気になったのか。
海斗から頼まれたから? 凛から身の上を聞き、同情したから? それとも、純粋に剣士として再戦を望むから?
いや、どれも違う。答えはもっと別の、もっと単純なものだった。
侍だからである。
蓮也が刺客御用を受けたのも、海斗がとっさにそれを返り討ちにしたのも、双子が仇討に臨むことも……
……そして、楽歩が助太刀するのも。
それらは全て、侍が為すべき責務から生じたものであり、個人の意思を超越したものである。
いや、責務や個人の意思などという概念自体が、当時には存在しない。侍として生まれ、侍として育った者たちにとって、侍の責務はそのまま己の生きる道であり、為すべきことだった。だからこそ、海斗も、双子も、仇討に臨むことを当然として受け入れている。
しかし……しかし……
楽歩は心のどこかで、未だ納得できぬ、割り切れぬ思いを抱いていた。その思いに言葉を与えられぬまま、いつしか日は沈み、あたりが薄暗くなりつつあるなか、
「……おかえりなさい、あなた」
迎えに出てきた、ルカが、楽歩を待っていた。
薄闇の中に妻の存在を感じた時、楽歩は、己の物思いの理由が分かった気がした。
(ああ、そうであったか……)
かつて侍として腹を切ろうとしたとき、それを止めてくれたのが、ルカだった。
面目だの、誇りだの、それで死ななければならぬと思い定めていた自分の馬鹿馬鹿しさを、彼女や、そして猫村一座の者たちが教えてくれた。
そのことに気付いたとき、楽歩は目の前のルカのことが改めて愛おしくなり、彼女の身体を引きよせ、ぎゅっと抱きしめた。
「へ? わ、わ、ちょ、あなた!?」
「暴れるでない。抱きづらいではないか」
「だ、だって、往来のど真ん中ですよぉ……」
「まわりに誰もおらぬ。誰も見てはおらぬ」
「…お天道様が見てますよぉ」
「日は沈んだ。月も出ておらぬ」
「で、でもぉ」
「俺にこうされるのは、嫌か?」
「う……」
ルカが、腕の中で小さく身動ぎしながら、上目づかいで楽歩を見上げた。
「あなたって人は、いつもイジワルなんですから」
ルカが目を閉じる。その唇に、楽歩は口づけをした。
その夜、廃寺に戻り、彼ら夫婦のために割り当てられている座敷で、楽歩はルカを抱いた。
行為の後、楽歩は、ルカにぽつりと、こんなことを呟いた。
「ルカ……子供ができたら、どうする?」
「へ?」
楽歩の胸に頬を寄せていたルカは、唐突な質問に間の抜けたような声を上げたが、すぐに、
「産みたいに決まってます」
と、少し口を尖らせて言った。
「いや、すまぬ。そういう当たり前の意味ではないのだ」
「じゃあ、なんですか?」
「子供を……侍として育てたいか?」
「え…?」
ルカは一瞬、楽歩を見上げたが、すぐに彼の胸に顔を埋めて、ふふ、と笑った。
「あなたの子ですもん、あなたそっくりに育つに決まってますよぉ」
「……そうか」
楽歩はルカの髪をなでながら、暗い天井を見上げた。
いつしかルカの寝息が聞こえてきたが、楽歩は寝付けないままだった。
その二日後のことである。
「可愛いお客さまがお見えですよ」
とミズキが案内してきたのは、凛だった。
「突然お邪魔して申し訳ございませんでした。神威様がこちらにいらっしゃると聞き及びまして……」
切なげな瞳でひたむきに見つめられ、楽歩は内心たじろいだ。
とりあえず人払いをして、奥の座敷へと案内する。
「して、要件は? ……やはり、助太刀の件か」
「はい。ですが、蓮は――弟はどうしても聞き入れてくれないのです。あの子は、とても頑なですから」
「そうか」
楽歩は静かに頷いた。しかし、それ以上のことは口にはしなかった。これは楽歩から進んで働きかける話ではないはずだった。
いらぬと拒む話を、無理に押し付けるのは道理にあわない。
しかし、
「あの……実は……」
「んむ?」
まだ何かを言いかける凛に、楽歩は首をかしげた。
凛は人目を気にするように周りに視線を動かしているが、今、この座敷には二人のほか誰もいない。
「その……あの……」
うつむき、何かを必死に言おうとする凛。
楽歩は黙って待った。
やがて凛は、きっ、と顔を上げて楽歩を見つめた。
その瞳が熱っぽく潤んでおり、楽歩は当惑した。
(なんだ、この異な様子は?)
「神威様……」
「う、うむ」
「どうか、どうかこの凛めを………娶って下さいまし!」
「うむ――へぁ!?」
何の聞き間違いか、いや、聞き間違いでなければ何と突飛な話か。思わず妙な声を上げた楽歩に続いて、座敷の襖を押し倒して、一座の面々が雪崩れ込んできた。
「あああ、あなたっ!?」
「兄貴、なんだよ、めかけ、めかけなのか!」
「こら優馬、妾なんてはしたないわ。ご側室でしょう?」
「いやぁ、旦那もいつのまにこんな美少女を」
「お主ら、待て、異なことを言うな、これは誤解だ!」
「神威様、凛は本気にございます!」
凛の言葉に、楽歩も、一座の面々も言葉を呑んだ。
凛が床に三つ指を付いて、楽歩に向かって必死に訴えた。
「身勝手なお願いであることは重々承知の上です。ですが、あなたさまのご慈悲におすがりするには、こうするより他ないのです。どうか、どうか……」
凛は額を床に着けてひれ伏した。その肩が、その背中が、目に見えるほど震えていた。
その姿を見て、楽歩はようやく冷静さを取り戻した。
「なるほど、そういうことか」
「あなた?」
ルカを始め、状況を理解できぬ一座の面々の視線が、楽歩に集まった。楽歩はため息をついて、言った。
「この娘は、海斗を仇と狙う双子の片割れだ」
「え?」
一座の視線が、今度は凛に集まる。
「こんな、少女が…?」
ざわめく一座に対し、楽歩は説明を続けた。
「俺がこの娘と夫婦になれば、養父の仇を討つという名分が立つ。弟の蓮が何と言おうとも助太刀できるということだ」
「はい」
凛が顔を上げて答えた。
「形だけの妻などと虫の良いことは申しません。この身、いかように扱っていただいても結構でございます。覚悟は、できております」
凛の言葉に、一座は更にざわめいた。
こんな少女が、仇討のために身売りにも等しい行為に出たのだ。もはや正気とは思えなかった。
「だ、だめですよぉ、夫婦の契りは女にとって大切なものなんですよ。それをこんなことで……」
ルカが、おずおずと凛のそばに寄り添った。彼女の様子は、夫を取られるという不安よりも、純粋に凛の身を案じているようだった。
しかし、凛は、
「………」
ただ頑なに、楽歩を見つめ続けていた。
「あ、あなた。あなたからも何とか言って下さいよぉ」
「………」
ルカが訴えるも、楽歩もまた、押し黙ったまま凛を見つめていた。
「あぅ……」
異様な緊迫感が座敷に満ち、ルカは言葉を失った。
そのまま、どれだけ時が過ぎたのか、いや、実はほとんど時は過ぎていないのかも知れぬ。そんな、時間の感覚も分からなくなる中、
「お侍!」
険を含んだ声が、座敷を貫いた。
いろはだった。
「アンタまさか、受ける気じゃないだろうね!?」
「………」
楽歩は数瞬、目を閉じ、黙考した後、答えた。
「……受ける。受けねば、この娘は自害しかねん」
その言葉に、凛が頷き、その予想が事実であることを示した。
いろはは、ぎゅっと目を閉じ、唇をかみしめた。いろはの小柄な身体がわなわなと震えた。内から湧き上がる激昂を必死に堪えているのだと、楽歩には分かった。
楽歩には、いろはの心の声がまざまざと聞こえていた。
――相手はお代官様だよ! アンタにとって大切な友人を斬るっていうのかい!
――そのためにこの娘との契りを利用しようってのかい!
――こんなことして、誰が救われるっていうんだい!
――侍ってのは、そこまでしなくちゃいけないものなのかい!
しかし、いろははそれらを全て、胸の内に押しとどめた。
そして、彼女は瞼を開き、微笑みを――ひどく物哀しげな微笑みを――浮かべて、言った。
「……わかったよ。だったら、祝言は派手にやらないといけないね。何せ、一生に一度の、女の晴れ舞台だ」
「姐さん……」
「ルカ、悪いけど、ここは呑んでやりな。これが、お侍たちの世界なのさね」
「……はい」
凛が、再び床にひれ伏した。
「ありがとうございます……ありがとうございます……っ!」
凛の声には嗚咽が混じり、彼女はひれ伏したまま、しばらく泣き続けていた――
あの後、凛は一座の者に送られて旅籠へと帰って行った。
翌日、楽歩はひとりで旅籠へと向かった。
しかし楽歩が旅籠につく前に、宿場町の入口で、彼を待つ人影があった。
蓮であった。
「神威殿、お待ちしておりました」
蓮はこれまでと全く変わらぬ、静かな態度のままだった。
楽歩は言った。
「大方のあらましは、凛殿から聞いておろう」
「ええ。我が姉ながら、その言動にはいつも驚かされます」
蓮は表情を変えぬまま、静かにため息をついた。
「お主は、どうする」
「姉の頑なさは身に染みております。もはや私が何を言っても聞き入れてくれないでしょう」
なるほど、双子である。と、楽歩は納得した。姉弟揃って頑なである。故に、蓮の次の言葉も、楽歩にとっては意外ではなかった。
「かくなるうえは、何としても私が先手を務めなければならぬと思います。あなたにそれを伝えるために、ここで待っておりました」
「凛はお主を守るために、俺に嫁ぐ真似までしたのだ。ならば俺が先手であろう。なにより、お主では海斗の相手にならぬ」
「それは心外なお言葉。勝算も無くこのようなことは申しませぬ」
「あるのか、策が」
「かつて父が考案せし示現流崩しの技。秘策なれば余人に見せたくはなかったのですが、やむをえませぬ。神威殿に検分していただくとしましょう」
蓮はそう言って、脇の雑木林へと足を踏み入れた。
楽歩もその後を追う。
やがて、雑木林の中でわずかに開けた場所に出た。そこは先日、凛が稽古をしていた、あの場所だった。
「ここなら人目に付きませぬ」
蓮は楽歩に向き直り、
「これより秘策をお見せいたします。神威殿は、いかようにでも仕掛けて下さって結構です」
「ふむん」
楽歩は改めて、蓮の立ち姿を観察した。
蓮はわずかに左足を引き、顔がわずかにうつむく程度に上体が前へ傾いている。その左手は腰の刀の鍔元を押さえ、右手は脱力した状態で下げられていた。まさしく居合抜刀の構えである。それも、かなり手慣れている。
凛の話しぶりからは、蓮は身体が弱く稽古にもさほど熱を入れてないように思えたものだが、目の前の蓮は全くの真逆、相応の技量の持ち主であると楽歩は見て取った。
楽歩は刀を抜き、正眼に構えた。
しかし、ふと思い直し、大上段にとった。示現流の構えである。
楽歩は大上段に構えたまま、じり、じり、と足を進めた。
そして、間合いに入った瞬間、恐ろしい勢いで斬りかかった。
全く同時に、蓮もまた踏み込んできた。
蓮の右手が鞭のようにしなり、腰の刀へと延びる。しかしその右手は柄ではなく、左手と同じく鍔元を掴むと、両手で刀を前方へと突き出した。
刀は鞘に納まったまま弾丸のように飛び出し、その柄頭が楽歩の刃とかち合った。
楽歩の刀は柄頭の金具に弾かれ、鍔に当たって止められた。
蓮は鞘を外に払って刀を逸らすと同時に、右手を鍔元から離して脇差を抜き放った。
ひたり、と楽歩の首筋に、蓮の脇差の刃が押し当てられ、寸止めされた。
「……なるほど、田宮流居合術の“行合い”か」
「どちらかと言えば伯耆一貫流の“〆”に近い、と父は言っておりました」
蓮は答えながら、刀と脇差を元に納めた。
田宮流、伯耆一貫流、どちらも居合術を中心とする流派である。
田宮流の“行合い”は相手が斬りつけてきたとき、咄嗟に左手を刀の鯉口に、右手を脇差にかけて、すっと相手の懐に飛び込み、左手で突き出した刀の柄で相手の手首を打つと同時に、右手で引き抜いた脇差で相手を刺す技である。
そして伯耆一貫流の“〆”も、同じく左手を使って、刀を鞘のままで突き出す技である。こちらは、相手の刀を額をかすらせる絶妙な位置で、鍔で受ける。この敵味方の刀の一瞬の構図が“〆”の字に似ていることが技名の由来であった。
今、蓮が遣って見せた技は、この両流の技から着想を得て、工夫した技だった。そして本来ならば左手のみで突き出す刀を両手としたのは、示現流の一撃の重さを鑑みてのことであろう。
確かに、よくできている。しかし、楽歩は言った。
「博打にすぎぬ」
「博打にすらならぬより良いでしょう。それに、勝負は所詮、一時の運」
「海斗は無拍子なる秘剣を遣うというぞ」
「秘剣・無拍子……恐らく、父を斬った時に遣った居合のことでしょう」
蓮はそう言って、左手を脇差にかけた。
「始音海斗はあの時、左手に脇差を下げておりました。つまり左手による抜刀術」
「逆手抜刀か」
「いえ」
蓮は首を横に振りながら、左手で脇差を抜いてみせた。その持ち方は逆手、つまり脇差を逆さまに持った状態になっている。
「左逆手ならば確かに早く抜刀できますが、己の腕より先に間合いが伸びませぬ。それに父は右脇腹を横薙ぎに斬られておりました。左逆手抜刀から右脇腹を斬るならば、一度、刀を返さねばなりませぬが、それでは父の居合より早いことへの合点がいきませぬ」
蓮はそう言いながら、左手の脇差を逆手のまま鞘に納めなおした。
蓮の説明から、秘剣・無拍子とは左手で抜きつつ間合いを伸ばし刀の返しを一瞬で可能にする技だと思われた。
実に、恐るべき技である。
「ですが、始音海斗が最初から秘剣を遣ってくるとは思えませぬ」
「なぜ、そう思う」
「示現流が、刀を鞘の内に納めたまま戦の場に立つとは思えませぬ」
全く持って道理である。
居合を得意とする楽歩とて、立ち合いの場にあって進んで居合を遣う気はない。居合はあくまで、咄嗟の事態に対応するために遣う技なのだ。
むしろ蓮のほうが異端である。まさしく、示現流崩しに特化した技と言っていい。恐らく蓮はその技のみをひたすら磨いてきたのだろう。
楽歩はそれを博打と評したが、少なくとも勝算の無い博打ではなかった。
「わかった。先手はお主に譲ろう。しかし、初太刀で仕留められなければお主の負けだ。その時にはすかさず俺が出る。良いな」
「ご随意に」
蓮は承諾した。
これで話は決まった。しかし、と楽歩は思う。この蓮の静けさは何なのか。示現流崩しの秘策に対する自信というには、そこに全く気負いも自負も感じられぬのが不思議だった。
海斗に対しても、そうだ。父を斬った相手のことを語るときも、妙に淡々としている。
解せぬ。
解せぬが、しかし、楽歩はそれ以上に踏み込むことはしなかった。
理解を拒んだわけではない。楽歩は、蓮の姿にある種の諦観と覚悟を見たからである。蓮も紛う事のない侍である。ならば、信じるより他になし。
楽歩は、雑木林から立ち去っていく蓮の背中を眺めながら、そう思った――