ダンシング☆サムライ~秘剣・左逆手居合~   作:PlusⅨ

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第十八幕・鶯桜の決闘

――

 

 御触書

 

 来ル如月ノ廿日、印種川河原ニテ次ノ者決闘致ス

 

 当家家中郡奉行所代官 始音海斗

 

 愛洲藩藩士 鏡音蓮也子息 蓮、凛

 

 以テ本音村二決闘場ノ普請ヲ申シ付ケル也

 

――

 

 

 印種川の下流域には広い河原があり、そこには長年の水害にも耐え続けた桜の老樹がある。

 

 この老桜は鶯が鳴くころに花をつけるところから、鶯桜、または春告鳥に習い春告桜とも呼ばれ、近隣の村々からも親しまれ、大切にされてきた。

 

 例年ならば鶯の鳴きはじめと共に人々が花見に訪れるこの場所に、しかし今年は物々しい陣が敷かれていた。

 

 広い範囲を囲む形に竹矢来が組まれ、その内側の地面は草木や小石が念入りに取り除かれた上に平坦に均され、さらに砂利までが敷かれていた。

 

 その北側には白葱紋の陣幕が張られ、毛氈と床几が置かれていた。見届け人のための貴賓席である。

 

 同じく、決闘場の東西それぞれにも陣幕が張られ、蓆が敷かれていた。

 

 決闘当日の朝、その場所には出流をはじめとした本音村の者たちだけではなく、藩内各地から多くの人々が詰めかけていた。

 

 娯楽の少ない時代、決闘という血なまぐさい事件は格好の見世物であった。

 

 しかし、この日集まった人々は、誰もが一様に沈痛な面持ちをしていた。

 

 海斗がこの地に来てから三年、誰もがその人柄を知っており、そして慕っていた。だから、彼を仇と狙うものが現れた時は誰もが驚き、困惑し、そして仇討人に対し憤慨する者さえ現れた。

 

 しかし……その仇討人が弱冠十四歳の少年少女であり、そして彼らの人柄に触れてしまったとき、誰もが思ってしまった。

 

 この子たちの悲願を成就させてやりたい、と。無間地獄のような仇討の旅から解き放ってやりたい、と。今日、ここに集まった人々は、皆、そんな矛盾した思いを抱えていた。

 

 昼近くの頃、仇討人である鏡音姉弟が、楽歩と、そして猫村一座と共に現れた。

 

 蓮、凛ともに白装束に身を包み、すでに襷掛けに鉢巻き姿である。

 

 楽歩もまた濃い紫の着物に襷をかけ、後ろ曲りの鉄板を縫い込んだ鉢金を額に当て、袴を股立ちにとっていた。

 

 人々は静かに、彼らを迎えた。

 

 楽歩たち三人は猫村一座と別れ、東側の陣幕をくぐり、蓆に並んで座した。

 

 向かいに見える西側の陣に、海斗たちの姿はまだ無い。

 

 楽歩は、隣に座る蓮へ目を向けた。蓮は瞑想するかのように目を閉じ、かすかに俯いていた。

 

「蓮」

 

「…先手は譲りませんよ」

 

 目を閉じ俯いたまま、蓮は答えた。

 

 楽歩はそんな蓮と、そしてその奥で弟を心配そうに見つめる凛を見ながら、言った。

 

「それは構わぬ。だが、決闘に臨む前にひとつだけ聞かせて欲しいことがある」

 

「なんでしょう」

 

「お主は、海斗を憎いと思っているのか?」

 

 その問いに、蓮は顔を上げ、楽歩を見据えた。

 

 蓮は、驚きに目を見開いていた。しかし何故か、その口角には微かに笑みが浮いていた。

 

「なぜ、そう思われました」

 

「お主には殺気が見えぬ。会った時からずっと、そして今もだ。ずっと疑念に思っていたが、今なら断言できる。お主は海斗を憎いと思っていない」

 

「……ははっ」

 

 楽歩の言葉に、蓮は小さく声を出して笑った。

 

 それは、秘していた己の心を見破られたことへの、諦めや自嘲が含まれた、複雑な笑いだった。

 

「蓮、どういう事なの!?」

 

 凛が、蓮に詰め寄った。

 

「姉上、落ち着いてくだされ。しかし神威殿の言うとおり、確かに憎いとは思うておりませぬ」

 

「そんな……どうして……っ!?」

 

「父の名誉に関わることゆえ今まで黙っておりましたが、この期に及んではお話すべきでしょうね」

 

 蓮はため息を付き、そして、左手の刀の鯉口を切った。

 

「これは父の形見、あの日、刺客御用に用いたものです」

 

 蓮は刀を立て、わずかに刀身を引き抜いた。

 

 それを見たとき、楽歩は目を疑った。

 

 鞘の内から現れたのは、鈍く光る鋼鉄の刃ではなく、薄く削られた木の板だった。

 

「竹光……」

 

「そうです、父は竹光を持って始音殿に挑んだのです。……父は、始音殿を斬る気など無かった」

 

「嘘……」

 

 呆然とする凛。

 

 蓮は続けた。

 

「あの日、料亭には他の刺客も待ち伏せていました。次席家老の甥をはじめとした派閥に与する道場の者たちです。父が斬られ、海斗が去った後に別の座敷から現れたのを、私は見ています。すぐに出てこなかったのは、海斗の技前に恐れをなしたからでしょう」

 

「では、蓮也殿はその者たちの目を欺くために竹光で斬りかかったのか」

 

「始音殿から刀を遠ざけた上で、得意の居合で素早く斬りつける。今にして思えば、黙って俺の剣を受けよ、という父の言葉も、斬られたふりをしろという意味が込められていたのでしょう。しかし、父には誤算があった」

 

「海斗の秘剣・無拍子、か」

 

「ええ。始音殿にしても咄嗟に身体が動いてしまったのでしょう。そして、父の刀を見て真意に気づき、刀を納めた……」

 

 蓮はそう言いながら、竹光を鞘に戻した。

 

 もしこの竹光が他の者に知られれば、刺客御用の命に背いた明確な証となる。それは命じた次席家老側への叛意とも取られ、残された双子たちにまで害が及ぶ恐れがあった。

 

 だから、海斗は竹光を鞘に戻した。それがあの時、海斗にできる精一杯のことだったのだろう。

 

「始音殿は、父が自らの刀を竹光に代えてまで救おうとした方。そして父が斬られたは、剣の達人ゆえの不幸な事故。それを知ってしまった以上、憎もうにも、憎み切れませぬ」

 

「蓮、しかしお主はそれでもここに居る。それも、形見の竹光をそのまま持って……それでも海斗に挑むのか」

 

「……侍の宿命と心得ておりますれば。それに、私の脇差は竹光ではありませんよ」

 

 そう言った蓮の顔は、再び静けさを取り戻していた。

 

 そのとき、ざわり、と人垣がざわめき、向かいの陣幕がめくられて新たな人影が姿を現した。

 

 それは、妻と幼い息子を連れた、海斗だった。

 

 海斗もまた紺色の着物に襷をかけ、鉢金を巻き、股立ちを取った戦装束だ。

 

 その相貌は、長い病のため、白く痩せこけていた。

 

 それは、もはや死相であった。

 

 しかし、楽歩はそこに不可思議な光を見た。どこか、春の陽射しにも似た、ほがらかで、穏やかな輝きだった。

 

 楽歩はしばし、その輝きに見惚れた。

 

「踊らされたのです」

 

 不意に、蓮がそう言った。

 

「私たちは皆、侍の宿命に踊らされたのです。けれど、私はそこから逃げようとは思いません。それは、父も、始音殿も、そして神威殿、貴方も……」

 

「……そうかも知れぬ」

 

 それから、しばしの時が過ぎた。

 

 群衆が再びざわめき、見届け人の席に、氷山清輝の姿が現れた。そのそばには、おミクの姿もあった。

 

 清輝は東西を眺め渡し、そこに座る決闘者たちの姿を認めると、厳かな声で告げた。

 

「両名、前へ」

 

 蓮は床几を立ち、竹光の刀を腰に差した。

 

「凛を頼みます、義兄上」

 

 そう言い残し、蓮は決闘場へと進んでいった。

 

 海斗もまた、中央へ進み出る。

 

 二人は互いに十歩の間合いで足を止め、清輝へと向き直った。

 

 清輝が懐から一通の書状を取り出し、掲げた。

 

「上意である」

 

 その言葉に、海斗と、蓮、そして群衆も全員、頭を下げた。

 

 清輝は書状を開き、その内容を読み上げた。

 

「九里府藩藩主、初音未来ノ守兄正公の名において、下す。ここに当家家中・始音海斗及び愛洲藩士・鏡音蓮也が一子、蓮の決闘を執り行うもの也。

 此度のこと、始音海斗が鏡音蓮也を私闘にて殺めたる事に端を発し、将軍家が定めし法度における喧嘩両成敗の原則に則り、鏡家縁者による仇討と認めるところであれば次のように申し渡すもの也。

 ひとつ、此度の決闘は始音海斗が愛洲藩士であった頃に起こした事件が元であれば、当家には一切の関わりも責任も無いこと。

 ひとつ、将軍家の定めし法度に則り、両家はこの場において全ての始末をつけ、後に一切の禍根を残さぬこと。

 ひとつ、決闘後の始末の如何にかかわらず、今後、この決闘に起因する全ての報復行為を固く禁ずること。

 ひとつ、以上の事項を守る限りにおいて、この決闘は将軍家が認めし正当な行為であり、初音未来ノ守兄正公の名において保証するものであること」

 

 清輝は書状を読み上げ終えた後、それを再び掲げ、そして懐に戻した。

 

「両名、面を上げよ」

 

 海斗と蓮が顔を上げた。

 

 清輝は言った。

 

「初音家家老、氷山図書ノ介清輝である。御殿より此度の見届け人を仕った。両名とも、侍として恥じぬ戦をせよ」

 

 清輝は言い終えると、再び一礼した海斗と蓮を見据えながら床几に腰を下ろした。

 

「いざ、仕れ」

 

 その言葉に、海斗と蓮が向かい合う。

 

 互いの間合いは約十歩。

 

 二人はその間合いのまま、同時に左手を鯉口にかけた。

 

「始音殿」

 

 ふと、蓮が声をかけた。

 

「刀を鞘に戻し、父の名誉を守って下さったこと、礼を言います」

 

 海斗の目がわずかに見開かれた。

 

 だが、蓮の言葉の意味に気づき、彼は全てを承知したかのように頷いた。

 

「もうひとつ」

 

 と、蓮は続けた。

 

「父がかつて工夫せし示現流崩しの技、これを貴方にお伝え致します」

 

 その言葉に、海斗の目が、笑った。柔らかな眼差しだった。

 

 腰を落とし居合抜刀の構えを取った蓮に対し、海斗は刀を抜き放ち大上段に構え上げた。

 

 両者はそのまま、すり足でゆっくりと、間合いを詰めていった。

 

 じり、じり、と間合いが狭まっていくごとに、決闘場を取り囲む群衆の間に緊張感が高まっていった。

 

 不憫な少年が斬られるのか、それとも心優しき青年が斬られるのか、いや、両者どちらも斃れ果てるのか、いずれにしろ心痛む結末が、間もなく現実になろうとしていた。

 

 海斗と、蓮は、虫が地を這うような足取りながら、それでも、六歩、五歩と、その間合いを徐々に縮めていた。

 

 そして、残る間合いが三歩、すなわち一足一刀の剣の間合いに入ったときである。

 

 海斗が、声も無く踏み込んだ。

 

 あの示現流独特の気合を放つには、海斗の喉は病魔によって傷付きすぎていた。しかし、それでも尚、その刀閃は凄まじいものだった。それどころか、かつてよりもその鋭さを増してさえいる。

 

 病に侵された男が、何故これほどまでの一閃を放てるのか。いや、病によって死の淵に立ったからこそ、その一閃にこの世ならざる凄味が宿ったのかもしれなかった。

 

 これに対し、蓮はこの二年間ひたすら磨き続けてきた技を繰り出した。

 

 恐れることなく前へ深く踏み込むと同時に、鞭のようにしなった右手が柄ではなく鞘の鍔元を掴み、弾丸のように刀を前に突き出す。

 

 その柄頭は狙い過たず、海斗の一撃を捉えて見せた。

 

 柄頭の金具と、刃がぶつかり合い、火花を散らす。

 

 そして―――

 

 

 

 

 ―――柄頭の金具が、切り裂かれた。

 

 

 

 

 示現流の一撃は弾かれることなく、そのまま柄を真っ二つに押し割ったのである。

 

 蓮の両手に、凄まじい衝撃が圧し掛かった。

 

 海斗の刃は柄の根元まで押し込まれ、鍔に当たって止まっていた。示現流の一撃を食い止めることには成功したのだ。

 

 しかし、蓮はそこから身動きすることができなかった。刀を通じて手元へと押し込まれ続ける重さに、蓮は動きを封じられていた。

 

 その事実に、蓮は相手の力量の恐ろしさを思い知り、総毛立った。

 

 しかも、海斗が刀を振り下ろした姿勢のまま、さらに押し込んでくる。

 

 増した重みに、蓮の腰が落ちる。

 

 耐えきれずに姿勢を崩したのか。と、見えた瞬間、蓮は上体を大きく左へとひねり、刀を逸らした。

 

 海斗の手元も刀ごと大きく逸らされ、そこに大きな隙が生まれた。

 

 蓮はすかさず己の脇差に手をかけ、相手の脇腹から肩めがけ、逆袈裟に斬り上げようとした。

 

 だが、それよりも早く、海斗が手元の刀をひねり、刀身を回転させた。刀身を挟んでいた柄が完全に粉砕され、自由になった刀が、蓮の逆袈裟斬りを追うように、同じ軌跡を描いて跳ね上がった。

 

 ギン、と金属同士が擦れ合う音が響き、蓮の右手から脇差が宙を舞った。

 

 武器を失った蓮に対し、海斗が刀を振り上げた姿勢から肩を使って当身を繰り出した。

 

 蓮の小柄な身体が、当身によって容易く後方へと吹っ飛んだ。

 

「っぁ!?」

 

 蓮は、背中から地面に叩き付けられたものの、すぐに立ち上がろうとした。しかし、そのときすでに目の前には、大上段に構えた海斗の姿があった。

 

 蓮の背中に、ゾッと悪寒が走った。

 

(これまでか――)

 

 蓮は心中、死を悟った。

 

 仇討に臨むことは、侍の宿命と覚悟していた。博打同然の戦い方に、文字通り命を懸けた。

 

 だが、その博打も真正面から打ち破られた。そして、命を代償に払わされようとしている。

 

 格が違った。と、蓮は思い知らされた。

 

 悔しさは無かった。

 

 ただ純粋に、怖いと思った。

 

 蓮は、刀を振り下ろさんとする海斗を、必死に見つめていた。

 

 それは、死への恐怖に対する最後の抵抗であったか、それとも、限界を超えた恐怖ゆえの金縛りだったのか。

 

 刀閃が、蓮の視界を縦に切り裂いた。

 

 蓮の頭頂から背筋にかけて剣気が貫き、その身体が大きく震えた。

 

 しかし――地面に座り込んだ蓮の目の前に、その切っ先はあった。目先わずか三寸。海斗の一撃は、蓮を捉えることなく空を切っていたのだ。

 

 何故?

 

 蓮がそう思ったとき、彼は、自分が誰かに襟首を掴まれていることに気が付いた。

 

 蓮が振り返ると、そこに楽歩が居た。

 

 楽歩が、咄嗟に蓮の襟首を引いて、海斗の一撃の間合いから外したのだ。

 

「充分だ、蓮。よくやった」

 

「……はい」

 

 答えた声は、喉から絞り出したようなかすれ声だった。

 

 それもそのはず、蓮は海斗の剣に飛び込んだ時からずっと息を止めていたのだ。そして極度の緊張は、自身が息を止めていたことさえ忘れさせていた。

 

 肺の残り少ない息で声を出して、蓮はようやく大きく息をついた。瞬間、蓮は身体をがくがくと震わせ、その瞳に大粒の涙をあふれさせた。

 

 涙はとどまることなく、蓮の頬を濡らしていく。

 

 泣きながら、蓮は、己の心を塞いでいた何かが崩れ去ったような気がした。

 

 それは父が死んで以来、彼の心をずっと塞いでいたものだった。

 

 呆然とした面持ちで泣く蓮の頭に、そっと、大きな手が乗せられた。

 

「後は、俺に任せろ」

 

「はい……」

 

 楽歩は蓮を優しく撫でると、海斗に向き直った。

 

「那須浪人、神威楽歩。鏡音家との縁により助太刀いたす」

 

 その言葉に、海斗は一つ頷くと、素早く後ろに跳び退り、再び大上段に構えを取った。

 

 楽歩もまた抜刀し、正眼に構える。

 

 楽歩はその構えのまま、スッと横に動き出した。

 

 海斗もそれに合わせて横へと動き出し、二人は対峙したまま、蓮の位置から遠ざかって行った。

 

 やがて、蓮からある程度、距離が離れたところで二人の足が止まった。

 

 そのまま時が止まったかのように、二人は動かなくなった。

 

 対峙する二人だけではなく、それを見守る人々もまた、声ひとつあげることなく静止していた。

 

 そこには静寂と、耐えがたいまでの緊張があった。

 

 張りつめていくこの緊張の糸は、ほんの些細なきっかけで切れてしまうという予感が、誰の心にもあった。

 

 そして、その糸が切れた時こそ、二人の切っ先が動き、楽歩か、海斗、どちらかが命を落とすことになるという予感も……

 

 

 

 

 

 竹矢来のすぐわきにそびえ立つ桜の木の枝から、一羽の鶯が飛び立ち、軽い羽音を立てて二人の頭上を過ぎ去った。

 

 その影が楽歩の剣を行き過ぎ、白刃の刃が瞬いた―――

 

 

 

 

 

 ――次の瞬間、二人は同時に斬り込んでいた。

 

 

 

 きらり、と春の陽射しに二筋の光が流れ、きん、と冷たい音が鳴り響いたと思えば、楽歩と海斗の位置が既に入れ替わっていた。

 

 遅れて、群衆が、ハッと息をのんだ。彼らには太刀筋どころか、二人が動いた瞬間さえ見えなかった。

 

 この場においてそれが見えたのはただ一人、見届け人の清輝のみである。

 

 彼の目には、大上段から逆落としに仕掛けた海斗の剣を、楽歩がそれを額の鉢金をかすらせる絶妙の間合いで外すと同時に面打ちに斬り込んだものの、海斗もまたさっと首をめぐらせてその切っ先を鉢金で弾いた様子が見えていた。

 

 その証として、互いの位置を入れ変えた二人の額の鉢金には、確かに一筋の傷が残っていた。

 

 楽歩は正眼に、海斗は大上段に構えたまま、また二人はゆるゆると横へと動き始めた。互いに右へ、右へと円を描く。

 

 半周程して二人が元の位置に戻った瞬間、楽歩が正眼から突きを放った。左片手のみで放つ間合いの広い突きである。

 

 だが海斗は素早く後退すると同時に、その伸びきった剣先に一撃を振り下ろした。

 

 左片手のみの突きは容易く打ち落とされ、刀ごと楽歩の左手が大きく振れた。

 

 その隙に、海斗の振り下ろされた切っ先が、跳ね返るように斬り上がった。逆袈裟の斬撃が楽歩を襲う。

 

 しかし楽歩は、刀を打ち払われた姿勢から、そのまま流れるように上体を逸らして、剣を避けた。左手の刀が下から弧を描いて上に回ったかと思うと、その柄に右手が添えられ、サッと光の筋を描いて海斗に襲いかかる。

 

 耳をつんざくような甲高い音と火花が跳ね散り、楽歩の身体が大きく仰け反った。

 

 海斗が再び楽歩の刃を打ち払ったのだ。真っ向から振り下ろしてからの燕返しの逆袈裟に続く、神速の返し技である。

 

 楽歩が上体を仰け反らせたまま、流れるように後退していく。海斗が大上段に構えながらそれを追う。

 

 仰け反った楽歩が背中から倒れるとみえた瞬間、その身体が独楽のように横回転し、刀が螺旋を描きながら、迫る海斗の足元めがけ薙ぎ払われた。

 

 楽歩の切っ先が海斗の向こう脛を切り裂こうとする寸前で、海斗が剣を足元向かって振り抜き、それを打ち払う。

 

 剣を弾かれた楽歩はその反動を殺すことなく、今度は逆に回転しながら斬り上げた。

 

 その斬撃を海斗は上体を仰け反らせてかわし、そして大きく後退した。

 

 楽歩が再び左片手で切っ先を突き付けながら、海斗を追って間合いを詰める。

 

 海斗の喉元めがけ、楽歩の切っ先がすぅーと延びてくる。海斗はこれに対し、足を止め、逆に前かがみに踏み込んだ。わずかにひねった首に、切っ先が擦れる。

 

 突きをかわすどころか、首の皮一枚を切らせつつ飛び込んできた海斗を、楽歩はさっと身を翻して避けた。そのすれすれに海斗の横薙ぎの一閃がかすめ、楽歩の着物の前が横一文字に裂けた。

 

 楽歩はそのまま海斗の脇を身体をまわしつつ擦れ違った。これにより既に振り返った楽歩に対し、海斗は背中を無防備にさらすことになった。

 

 楽歩が、海斗の背中めがけ、容赦なく刀を振り下ろす。しかし、その切っ先が肉を斬ることはなかった。

 

 海斗は振り返りもせずに、咄嗟に刀を背後に回してその一撃を受け止めたのだ。海斗はそのまま軸足に力を籠め、大きく振り返りながら楽歩の刀を払った。

 

 楽歩はそれに抗うことなく、逆に海斗の力を利用してひらりと身体を回しながら深く沈み込んだ。

 

 再び、楽歩の地を這うような横薙ぎの一閃。

 

 海斗が宙へと舞い跳んで、それをかわした。咄嗟とは思えぬほどの高い跳躍だった。

 

 尋常よりもはるかに高い位置から降下しながら、海斗が大上段の一撃を振り下ろした。

 

 地上では、横薙ぎをかわされた楽歩が、そのまま螺旋を描きながら斬り上げた。

 

 空中と大地の両者の間で、激しい火花と衝突音が上がり、二人は同時に後方へと跳ね飛んだ。

 

 大きく間合いを取った二人の間に、金属の破片が二つ、きらりと輝きながら地面に突き立った。

 

 それは折れた刀身だった。楽歩と海斗、互いの刀が鍔元から折れていた。

 

 楽歩は素早く体勢を立て直すと同時に、咄嗟に刀を手放し、脇差に手をかけた。このまま海斗の懐に飛び込んで、居合抜きに斬り込むつもりだった。

 

 しかし、

 

 ぐっと楽歩の足が止まった。

 

 彼の前には、同じく脇差に手をかけ居合の構えを取った海斗の姿があった。

 

(秘剣・無拍子――っ!?)

 

 今踏み込めば、間違いなくその秘剣に返り討ちにされる。その予感が、楽歩を踏みとどまらせた。

 

 そのまま、二人は動きを止めた。

 

 剣戟が鳴り響いていた決闘場に、再び静寂が落ちた。

 

 さらさらと流れる川音が、再び辺りに拡まった。

 

 その中で、楽歩は静かに、深く、長く、息を吐いた。知らぬ内にこわばっていた肩や腕、手の内から力を抜いた。

 

 そうやって楽歩は、改めて海斗の姿を眺めた。

 

 海斗は、居合の構えを解いていた。

 

 両手はぶらりと下げられ、ばかりか上体が緩やかに前へ傾きながら、徐々に腰を落としていく。

 

 いつの間にか、その両の目さえ閉じられ、正坐となった。

 

 しかし爪先の立った腰の高いその正坐は紛う事無き“居合腰”である。いよいよもってそれは、秘剣の構えに相違なかった。

 

 だが傍目には、海斗のその姿はなんとも長閑に見えていた。目を閉じ伏せられたその横顔は、春の陽射しに微睡んでいるようにさえ見えた。

 

 楽歩はそこに、あの不可思議な光を再び見た。

 

 ほがらかで、穏やかな輝きである。

 

 それを眺める楽歩の脳裏に、不意に、これまでの海斗との思い出が奔流となって過ぎっていった。

 

 決闘前に眺めた死相の浮いた、しかし見惚れる程の穏やかな彼の顔。暁闇の中で、互いの呼吸を探るように拍子を踏んだ、あの約束の舞い。廃寺で向き合い、果し合いを挑まれたあの冬枯れた日の朝―――

 

 ―――あの時、至近距離で交わした殺気と、その後に海斗から告げられた「秘剣・無拍子」の存在。

 

(そうか、あの間合い、あの呼吸か)

 

 そう、あの時の二人の立ち位置こそが、秘剣の間合い。あの暁闇の中での海斗の呼吸こそ、秘剣の拍子だったのだ。

 

 楽歩がそれを悟った、その時、

 

 ふと、鶯が鳴いた。

 

 緩やかな笛の音のように、さえずりが響く。

 

 楽歩はまたひとつ、静かに息を吐き、そして脇差にかけていた手を放した。

 

 一声さえずった鶯が、続いて長々と谷渡りに鳴いた。

 

 その鳴き声に乗るかのように、楽歩は海斗に向かってするすると歩み寄った。それは決闘中とは思えないほど無警戒で、無造作な足取りだった。

 

 海斗は動かぬまま、楽歩は一足一刀の間合いを超えた。

 

 鶯の谷渡り声が余韻を残して消えてゆく。

 

 ふ、と楽歩の身体が半歩下がり、同時に海斗の身体が浮き上がって脇差が光と共に抜き放たれた。

 

 海斗の左手首は返されて脇差の柄を順手に握っていた。その脇差を引き抜きざまに、刀の峰に右手を添えて、左手首の返しに合わせて刀身を内回りに前方へと高速回転させる。

 

 これこそが、秘剣・無拍子であった。

 

 その刃は、楽歩の脇差にかけようとしていた右腕を肘から切断した。

 

 だがそれは楽歩が半歩、拍子を変えた結果である。でなければ間違いなく胴を斬られていた。

 

 右腕を囮に捨てた楽歩は、すかさず海斗に密着しつつ左逆手で脇差を抜刀し、すり抜けざまにその左脇腹を斬り裂いた。

 

 楽歩と海斗はそのまま数歩、駆け抜け、足を止めた。

 

 一瞬おいて、二人の足元に鮮血が降り注いだ。

 

 楽歩は素早く左手で脇差を納めると、刀の鞘を腰から抜いて、斬られた右腕の脇に挟み、そして余った裾をぐっと引き寄せて歯で銜え込んだ。

 

 そうやって咄嗟の止血を行い、背後を振り返る。

 

 そこに落とされた己の右腕と、そして脇腹から袴を血に染めて立ち尽くす海斗の背中を見た。

 

 左脇腹の傷は深く、流れ続ける血は致死量に達していた。

 

 海斗の左手から脇差が落ち、そして、足元に拡がる血だまりの中へ崩れるように膝をついた。

 

 この決着に、人々は誰一人として声を上げなかった。誰もが声を失い、彼らを見つめていた。

 

 その中で、海斗は膝を付きながら、ただ一点だけを見つめていた。

 

 その視線の先に、めいこと赤人の姿があった。

 

 幼い息子は、何が起きているのか意味も分からぬ様子で、ただ海斗をじっと見据えていた。

 

 その小さな身体に、めいこが震える手をまわして、固く抱きしめた。

 

 めいこの瞳に、じわ、と涙が浮かんだ。

 

 声を殺して泣くめいこに、海斗は静かに頷いて、そしてゆっくりと身体を回しながら、見届け人である清輝に正対した。

 

 そして、

 

「…介錯を」

 

 かすれた声が、楽歩の耳に届いた。

 

 楽歩は海斗のそばに歩み寄り、左手で脇差を抜いた。

 

 脇差を順手に持ち替え、振りかぶったとき、

 

「その介錯しばし待て」

 

 清輝が床几から立ち上がり、言った。

 

「双方、美事なり。そして、始音海斗に申し渡す。その方、敗れたとはいえ家中随一の遣い手の名に恥じぬ戦振りであった」

 

 清輝は一度言葉を切り、横目でおミクを見た。

 

 彼女は膝に置いた両の手をぎゅっと握りしめ、唇をかすかに震わせながら、小さく頷いた。

 

 清輝が海斗に目を戻し、言った。

 

「此度の事、殿にお伝え致す。さすれば殿は、必ずや始音の家名存続、役目据え置きとし、嫡子元服の折にはそれを継がせることを約束されるであろう」

 

 その言葉に、海斗は安堵のため息を漏らした。

 

 海斗が倒れるように両手を着き平伏する。

 

 そして、最期の力を振り絞って上体を少しだけ起こし、楽歩を見上げた。

 

「楽歩殿――」

 

 その顔は、微笑んでいた。

 

「――ありがとう」

 

 そう言って眼を閉じ、俯いた海斗に、楽歩は脇差を振り下ろした。

 

 赤い血しぶきがさっと上がった。

 

 楽歩はそれを見届けると、彼もまた、意識を失い、その場に崩れ落ちたのだった……

 

 

 

 

 

 

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