都から遠い地である九里府に藩を置く初音家は、将軍家に古くから仕える譜代の大名である。
将軍家に忠誠を誓う譜代大名たちは、全国各地の諸侯たちの間に楔のように配置されている。
特に九里府藩は将軍家お膝元よりはるか遠方に位置し、しかも四方全てをかつては敵であった外様大名に囲まれていると云う地である。
もしも外様大名が反乱を起こせば周り全てが敵となり、逃げ場が無い。
他の譜代大名の救援もアテにはできず、時間稼ぎの為に全滅するまで戦い続けることを宿命づけられた、言わば捨て藩である。
天下統一からわずか十余年、戦国の気風未だ覚めやまぬ時代であった。いつでも起き得る反乱に備え、九里府藩は腕に覚えのある藩士の募集を図っていたのである。
菩軽八年の夏に行われた新藩士選定の為の武芸試合。
そこには、あの始音海斗と、神威楽歩の姿があった。
仕官の道を求めて集まった浪人たちは実に二百名を超えた。
勝ち抜き戦の第一試合だけでも百組に及び、それは早朝から開始され、日が暮れて夜になっても篝火を焚いて行われた。
試合が行われた場所は、九里府藩家老・氷山清輝の屋敷である。
白砂敷きの広い中庭に、藩主・初音未来ノ守兄正から拝領した白葱紋を押した陣幕が張られ、そこで木刀を構えた浪人たちが次々と立ち合っていた。
「次」
清輝の穏やかだが威厳を感じさせる声に、試合場の東西に分かれて座している浪人たちが、順番に立ち上がり、中央へと進んでいく。
彼らは先ず清輝に一礼し、次に審判役の藩士に一礼してから、相手に対峙した。
「始め!」
すかさず審判役が告げると同時に、陣太鼓が打ち鳴らされる。
浪人たちはすぐさま気合いを発して木刀をぶつけ合った。
この試合には時間制限がある。わずか三分。陣太鼓を打つ者のすぐそばにある舶来品の砂時計の砂が落ち切るまでに決着がつかなければ、両者失格である。
勝たなければ名乗りさえ上げられぬ、過酷な勝負であった。
「次」
鍔ぜりあったまま砂時計の砂が落ち切って両者失格となった無念の退場者たちに続き、新たな浪人が進み出た。
それは海斗であった。
彼は東側から進み出て、清輝と審判役に礼を終えると、さらに既に構えている相手にも一礼した
時刻は既に夜、篝火の燃えたつ煙が上がる夜空に、月が浮いている。
海斗は相手への礼を終えざまに素早く大上段に構えた。木刀が天の月を真っ直ぐに突く。
陣太鼓が鳴った。
「チェストオオオオ!!!」
海斗の気合いと木刀がへし折れる音が響き渡った。
開始わずか一秒。
海斗の放った上段からの一撃は、それを防ごうとした相手の木刀をへし折り、額をかち割る寸前でピタリと止められていた。
「勝負あり!」
審判役が東側の旗を上げ、海斗に名乗るよう促した。
「愛洲浪人、始音海斗と申します」
「見事である。次」
海斗は下がり、続いて次の組が進み出る。これが第一試合最後の組み合わせであった。
西方から現れたのは、楽歩であった。
入場する楽歩と、退場する海斗の視線が一瞬、絡み合う。
楽歩はニヤリと笑い、海斗はそれに目礼を返して、試合場の隅にある控え場所に座った。
立ち合いが始まった。
海斗の時とは逆に、楽歩も、相手も正眼に構えたまま仕掛けようとしない。
しかし相手が楽歩の隙をうかがいながら小刻みに足を動かしているのに対し、楽歩は足どころか剣先さえ動かそうとしなかった。
(ああ、神威殿が勝つな)
隅で眺めながら、海斗はそう確信した。
その確信は、相手が楽歩の左側に回り込み始めても変わらなかった。
横へ横へと動く相手に対し、楽歩は剣先を向けるどころか、目さえ向けようともしない。
そんな楽歩の様子に相手は一瞬、訝しんだが、すぐに好機と見てかかっていった。
勝負はそれで終わりだった。
楽歩はその場から動くことなく、しかし相手だけが白目を剥いて倒れ伏していた。
海斗戦の時にも起こらなかったどよめきが、周囲から湧き上がった。声をあげなかったのは清輝と審判役、そして海斗だけであった。
「那須浪人、神威楽歩」
「見事なり」
楽歩の名乗りを受けて、清輝は立ち上がり屋敷の奥へと消えた。
これにて第一試合は終わり、翌日の第二試合以降へと続く事になる。
二百名を超えていた参加者は、三十名弱までその数を減じていた。
明くる日の第二試合でも、海斗と楽歩の技量は抜きん出ていた。
開始と同時に一撃で相手を倒す海斗と、わざと隙を見せ相手を誘い込み、神速の斬撃で返り討ちにする楽歩。
対照的な剣技を見せる両者であったが、その性格もまた対照的だった。
海斗は豪剣を振るいつつも、常に紙一重の寸止めで相手を傷つける事なく試合を決めるのに対し、楽歩は相手を容赦なく打ち据えていた。
それも一撃のみならず、二撃、三撃と恐ろしい速さで打ち込み、相手は必ず白目をむいて昏倒するのが常だった。
二試合目、三試合目が終わり、海斗と楽歩が四試合目まで勝ち進むに連れ、二人の気性の違いを、清輝もまた気づき始めていた。
(神威楽歩の剣。あれは邪剣であるな……)
準決勝である第五試合。相手の小手から、さらに肩、額と連続で打ち据えた楽歩を見て、清輝は心中でそう思いながら、スッと視線を脇に向けた。
わずかに離れた場所に、女中のおミクが控えていた。
おミクは清輝の視線に気づくと、茶を載せた盆を持って側へと歩み寄った。
清輝に茶を差し出しながら、おミクが呟いた。
「あの男の剣、怖いな。我流だったか?」
「およそ、他人に教えられる類の剣ではありますまい」
清輝は、おミクに目を向けぬまま、密やかに答えた。
しかし、と清輝は続ける。
「神威には居合の心得があるようです。居合は不意打ちに強い。殿の警護役に最適かと思料いたします」
「それはちょっと嫌だなあ。だってあの男、心底他人を小馬鹿にしたような目をしてるもん。自分の業前に自惚れているんだ。私は――」
おミクは清輝から離れ際に、ポツリと言った。
「――私は、海斗の方が好きだな」
(やれやれ)
清輝は去って行くおミクの後ろ姿を横目で追いながら、茶をすすった。
畏れ多くも御自ら淹れてくれた茶であるが、清輝にはその味を堪能する余裕など無かった。
(好みはともかく、勝負は勝負。こればかりはどうにもならん。海斗の勝利を祈る他あるまいて)
清輝の前ではその海斗の試合が始まろうとしていた。
海斗の相手は、彼と似た豪剣遣いだった。しかしこの男、海斗と違い寸止めにするような事をせず、楽歩のように容赦なく相手を叩きのめしながら勝ち上がってきていた。
清輝はこの組み合わせに不安を覚えた。
海斗の豪剣も、楽歩の神速剣も、どちらも修行で研ぎ澄まされてきた賜物である。
海斗の寸止めはその最たるものであるし、楽歩も止めようと思えば止められるのは想像に難くない。現に楽歩は昏倒させても、死人どころか大怪我させた人間さえ出していない。力加減が恐ろしく絶妙なのだ。
しかし、この相手は生まれもった膂力を頼みに力任せに勝ち上がってきた男だ。そのような男を相手に、どんな決着がつくか……
「始め!」
陣太鼓が鳴る。
「チェストオオオオ!!!」
「イヤァァァ!」
両者、間をおかずに飛び込み、木刀が肉を打つ鈍い音が響いた。
「……うぐぁっ」
脇腹を抑えてうずくまったのは海斗だった。
しかし、審判の旗は海斗に対して掲げられていた。
「勝負あり。勝者、始音海斗」
「馬鹿なっ、異議あり!」
この判定に、相手の男が叫んだ。
「俺の剣は奴の腹を抉った。どう見ても俺の勝ちだ!」
「始音海斗がお主の額に木刀を止める方が明らかに早かった。脳天を割られて尚、深々と胴を斬るなど不可能」
審判が冷静に説くが、相手は止まらなかった。
「寸止めなど笑止千万。侍同士の立ち合いだぞ、木刀なれど真剣勝負の覚悟で挑んで当然では無いか! 木刀で止めるような臆病者は、真剣でも止めてしまうであろうよ!!」
「負けを認めず、あまつさえ勝った方を臆病者と罵るか。ならば例えお主が勝ったとて、そんな無作法者は当家にいらぬ。さっさと出て行かれよ」
「おお、そうか。四方を外様に囲まれた捨て藩の覚悟、どれほどのものか身に来ればこの程度か! 戦場の気概も忘れ、寸止め稽古を有り難がる腑抜けどもよのう!!」
「当家までをも侮辱するか!」
放言もはなはだしい。もはや捨て置けなかった。
審判役の藩士が刀に手をかけようとしたが、相手は素早く後退し木刀を構えた。
その構えを前にして、審判役は動けなくなった。
相手は二百人から勝ち抜いてきた精鋭である。その腕前が並外れているのは確かであるし、その上、明らかに捨て鉢な覚悟をしていた。
合戦で死んでこその侍とされた戦国の気風が、まだ色濃く残る時代である。
天下統一後の戦の無い世の中で浪人となった侍たちの中には、やり場の無い鬱憤や社会への不満を晴らすため、捨て鉢に暴れに暴れて死んでやろうと考える者たちが少なく無かった。
要は自分の命を度外視した喧嘩好きである。死に華を咲かせる事が目的であるから、相手は大きい方がいい。
しかしそのような者に狙われた方はたまったものでは無かった。清輝の家来が複数人で押し囲んでしまえば討ち取れるだろうが、それでも少なく無い数の者が手負いにされてしまうだろう。
たった一人の浪人に家中の藩士が大勢傷物にされたとあっては、それは氷山家の恥となるだけではなく、九里府藩そのものの体面を傷つけかねない。
そうなれば清輝は切腹、氷山家はお取り潰しだ。だからこそ不用意に動け無いのである。
このように、天下統一後の侍の意識には、浪人と主君持ちとの間で、ここまで差が生まれていたのであった。
「どうした腑抜け侍ども! 木刀一本の俺に、腰の刀も抜けんのか。それとも腰の刀は飾りか? 揃いも揃って竹光侍ときたか!!」
男はそう言って豪快に笑った。
もはや捨て置けぬ。清輝が切腹覚悟で切り捨てを命じようとしたとき、
「ならば、俺が相手しよう」
そう言って進み出た者があった。
楽歩である。
「ほう、面白い。つまり決勝を戦おうという事だな」
「異な事を」
男の言葉に、楽歩は薄笑いを浮かべて答えた。
「寸止めもできぬ未熟者に、真剣勝負がいかなるものか教えてやろうというのだ」
「なんだと!?」
激昂する相手をよそに、楽歩は清輝に一礼した。
「この騒ぎは、先の判定への異議が原因。ならば拙者が此奴の脳天を割り、それでも尚、この男が胴を斬れるか確かめてみれば良いこと。僭越ながら真剣勝負をお許し願いたい」
「うむ、許そう」
「刀を二振り、お貸し願いたい」
清輝の許可を得て、家中の侍が二人、それぞれの刀を楽歩と男に手渡した。
男は刀を受け取ると、すぐさま鞘を払って楽歩に襲いかかった。
「イヤァァァ!!」
完全な不意打ちである。楽歩はまだ刀を受け取った直後だった。
卑怯、と誰かが叫ぶ間さえなく、男が横殴りに胴払いを放ち、血しぶきが舞った。
血しぶきを上げたのは、男だった。
男はその脳天から顎先まで深々と斬り込まれ、刀身を喰いこませたまま、胴払いを振り抜くこと無く立ち尽くしていた。
楽歩は相手の胸を押して、刀を引き抜いた。男はそのまま仰向けに倒れて息絶えた。
「見事である」
刀を納め、平然と礼をする楽歩を、清輝は労った。
そして、どうしたものかと思案する。
事を収めたのは見事であるし、もう一人の候補である海斗も倒れてしまった。
(この男を召し抱えるしかあるまい)
清輝がそう思った矢先であった。
「お待ち願いたい」
そう言ったのは、海斗だった。彼は苦しげな息で、血混じりの唾を吐きながら言った。
「先の試合は私の勝ちであったはず……ならばこれより、神威殿との立ち合いをお許し願いたい…っ!」
「その身体でか?」
「いかにも!」
海斗は立ち上がり、清輝を真っ直ぐに見た。
その顔は青ざめており、呼吸も浅い。恐らく肋骨の二~三本は折れているに違いない。
しかし……
清輝は一瞬だけ視線を横に流し、おミクを見た。
おミクもまた、清輝を見ていた。
おミクの目が発する声なき期待を受けて、清輝は頷いた。
「よかろう、立ち合いを許す。これより神威楽歩と始音海斗の決勝を行う」
「……これは、異な事だ」
楽歩は怪訝そうに呟いたが、すぐにその口元に薄笑いが戻った。余裕の笑みであった。
男の屍が片付けられ、楽歩に再び木刀が渡された。
作法どおり礼が終わり、二人が対峙する。
「始め!」
陣太鼓が鳴った。
しかし、今まですかさず斬りかかっていた海斗も、今度ばかりは動かなかった。楽歩の神速の剣捌きと、そして自身の負傷を自覚しているためだ。
「く……う……」
痛みで眩む海斗の視界に、楽歩の構えはまるで隙だらけのように映っていた。しかし、そこに飛び込んでいけば間違いなく敗北するのは明らかだった。
だが痛みで朦朧とする意識では、この魔力にも似た楽歩の誘いに抗うだけで精一杯だった。
そして海斗のその様子を、楽歩は当然のように見抜いていた。もはや放っておいても海斗は勝手に倒れるだろう。
もっとも、楽歩はそんな消極的な勝ち方をするつもりは無かった。
正眼に構えたまま、楽歩の足がスッと前に出された。これまでの試合の中で、初めて楽歩から仕掛けた瞬間だった。
これに海斗は慌てて後ろに退いた。楽歩に気圧されたのだ。
楽歩はさらに無造作に足を進めた。
海斗は見えない壁に押されているかのように退がり続ける。
刹那、楽歩が鋭い突きを放った。
「うわっ!?」
海斗はその突きを辛うじてかわしたものの、足をもつれさせ転倒してしまう。
楽歩がすぐさま追い討ちの一撃を振り下ろす。
海斗は仰向けに倒れたまま木刀を横に払って、楽歩の木刀を弾いた。
海斗はそのまま木刀を払った勢いで自ら転がり、楽歩から距離を取る。
海斗が間合いを離して立ち上がるまで、楽歩は攻撃しようとしなかった。そんな事をするまでも無く、次で決められると確信していた。
海斗が荒い息を吐きながら再び木刀を上段に構えたのを見て、楽歩も正眼に構え直す。
その切っ先がすぐに正面から外され、明らかな隙を作った。楽歩はそのまま無造作に前へと歩き出す。
海斗は後ろへと逃げる。
楽歩の足が早まり、その木刀が海斗めがけ振るわれた。
海斗は身をよじって避ける。
楽歩が間をおかず放った二撃目を、海斗はまろび転げつつ避けた。
もはや誰の目から見ても勝敗は明らかであり、そして、海斗の立ち合いは無様としか言いようが無かった。
それでも海斗は倒れそうになるところを、木刀を杖にして必死に持ちこたえ、そして、再び上段に構えた。
「……往生際が悪いな、お主」
楽歩のせせら笑うような声を、海斗は遠くに聞いていた。
既に意識が朦朧としかけている。
目の前の楽歩の姿が霞み、白濁した。
海斗は白濁した意識の中で、めいこの幻を見た。それを最後に、彼の意識が闇に落ちる。
海斗は木刀を構えたまま、意識を遂に失ったのだ。
その時、楽歩はほとんど無意識に木刀を振るっていた。
それは楽歩自身の意志では無かった。海斗の意識が落ちた瞬間、まるで吸い込まれるように打ち込んでしまっていたのだ。
楽歩は戦慄した。わざと隙を作り相手を誘い込ませて返り討ちにするという、まさに自分が得意とする剣法に、自らかかってしまったのだ。
しかし、海斗の意識は落ちている。ならば何を恐れる必要があろうか?
否、楽歩の剣士としての本能が恐怖にも似た警告を発している!
楽歩はとっさに木刀を引き、身体をひねった。間髪入れずに、頭上から稲妻の如き一閃が襲いかかり、楽歩のすぐ脇を掠めた。
楽歩は全身に怖気が走るような恐怖に襲われた。その鋭い一撃もさることながら、もっと恐るべき事は、海斗が未だ意識を失ったままであったことだ。彼は剣士の本能だけで木刀を振るったのだ!
だが楽歩もまた剣士の本能でそれをかわした。海斗必殺の示現流の一撃をである。
示現流に二の太刀は無い。ならばこの勝負、もはや決した――
楽歩がそう確信した次の瞬間、振り下ろされた海斗の木刀が燕返しに跳ね上がり、楽歩の顎先をしたたかに打ち上げた。
「かはっ!?」
衝撃が楽歩の脳を激しく揺らし、三半規管が機能を喪失した。足元から力が抜け、楽歩はその場に崩れ落ちた。
「ば、馬鹿なっ!?」
楽歩は激しく回る視界の中、必死に立ち上がろうともがいた。
(こんな馬鹿な、あり得ない、あれほどの渾身の力を込めて振り切った一撃から、二撃目が続くなど!?)
楽歩が立ち上がろうと顔を上げた時、彼はそこに、
鬼を見た。
「うぉっ!?」
木刀を高々と掲げ仁王立ちする鬼。
その今にも振り下ろされんとする構えを前にして、楽歩の心が折れた。立ち上がりかけていた足が折れて、再び膝をつく。
それを見て、審判が高らかに宣言した。
「勝負あり。勝者、始音海斗!」
それを聞いてなお、海斗は鬼の形相と構えで、意識を失ったままだった――