結局、そのまま境内で寝落ちした。
目覚めたのは夜明けからしばらく経ってからの事だった。すでに朝もやも無く、蝉がじいじいと鳴き始めている。
境内ではまだ、一座の面々がそこかしこで高イビキをかいて眠っていた。その中で、楽歩以外に一人だけ起きている者が居た。
女だ。いろはでも、ルカでもない、別の女。
ただ、ムシロの上で正座したその膝の上には、あの太刀の若者が膝枕されて寝こけている。彼女は若者を膝枕したまま、楽歩に声をかけてきた。
「おはようございます、お侍さま。ご機嫌はいかがですか?」
「……二日酔いだ」
そう答えると、女は、ふふ、と上品な笑みを浮かべた。
確か名は、ミズキと言ったかな? と、楽歩は痛む頭で思い出す。膝枕されてる若者は、ミズキの弟で優馬と名乗っていた。粋がった若者だが、酔い潰れて姉に介抱されてる辺りまだまだ子供だ。
「いろはとルカの姿が見えんな」
「姐さんとルカちゃんでしたら、近くの川で髪を洗っておりますよ。気持ちの良い水が流れておりますので、お侍さまもお顔を洗いになったらいかがでしょう?」
「そうか。なら俺も、ちと行ってこよう」
「右手の小径を降りた先ですよ」
そう言ったミズキ自身の身なりは小ざっぱりしていた。おそらく、誰よりも早く起きて身を整えたのだろう。
穏やかに弟の髪を撫で続けるミズキを残して、楽歩は川へと降りた。
右手の小径に入って緩やかな坂道を下ると、青々とした梢の向こうに清流の水面が、夏の日差しを浴びて煌めいているのが見えた。
小気味良いせせらぎの音も聞こえてくる。
河原に降りたところで、すぐ近くの太い木の枝に、女物の着物が二人分、かけられているのを見つけた。その着物の柄に見覚えがあった。いろはとルカの物だ。
視線を巡らすと、二人が流れの中で、身を清めているのを見つけた。
「ふむん」
河原の岩に腰掛け、水浴びする二人の様子を眺める。
すぐに、いろはが楽歩の視線に気づいた。いろはが半身を水に浸かったまま、楽歩に振り向く。
「あら、早いねアンタ」
「え、お侍さん? ……え、え、え? きゃあ!?」
ルカが悲鳴を上げ、とっさに首もとまで水に浸かった。
「おおおおおおお侍さん! なんでここにっ!?」
「顔を洗うのに丁度良い川があると聞いてな、顔を洗いに来た」
「誰から聞いたんですか!?」
「ミズキだ。お主らは髪を洗っていると言っておった」
「なるほど、犯人はミズキかい」
いろはが苦笑しながら河原へと上がってきた。
「異な事よのう。どうやら俺は、たばかられたらしい」
「そのようだねえ」
「ひどいっ、ミズキさんひどいですっ!」
「それにしても」
と、楽歩は、いろはをまじまじと眺めた。
「お主、本当に童女では無いか。まだ生えそろってさえおらぬ」
「色気が無いってかい? 昨日、裸にひん剥こうとしたクセによく言うよ」
「む」
「アタイはさっさと着替えるから、代わりにルカでも眺めてな」
「ふむん、そうさせてもらおうか」
「姐さんもお侍さんもひどい! みんなひどい?!」
「はっはっは」
笑う楽歩。
「ねえ、アンタ」
と、いろはが楽歩を呼んだ。
「ん?」
振り返り見れば、着物を纏いかけたいろはが、
「そうやって笑うと男前だね」
微笑みと、未だ乱れた着物からのぞく白い肌が艶めいていて、楽歩は思わず見惚れそうになって慌ててかぶりを振った。
(全く、異な事だ……)
溜め息をつきながら川の流れに目を戻すと、水に肩まで浸かったままの涙目のルカと目が合って、どこかホッとした気持ちになった。
「お侍さ~ん、早くどっか行ってくださぁい……」
猫村一座は旅芸人集団だが、しばらくはこの廃寺を根城に九里府藩各地で活動するつもりらしかった。
楽歩はそんな集団と朝飯を食べ、昼飯も食って、それから後もまだ一緒に居た。何故ならまだ夕飯が残っていたからだ。
昨日の宴会で買ってきた酒と肴はまだ充分残っていたし、楽歩が彼らに渡した金子もたっぷり余っていた。
楽歩は守銭奴でも吝嗇家でも無い。渡した金が余ろうとも、それを返せと言う気は無かった。しかし一座の者たちが酒も肴も金も残っている内は楽歩も残るべきだと主張したので、それに付き合う事にしたのである。
猫村一座は、楽歩をすっかり受け入れていた。
で、昼下がりである。
昼飯後、とりわけやる事も無い楽歩は堂の縁側に腰掛けて、一座の者の芸の稽古風景を眺めていた。
今、楽歩の視線の先にいるのは、あの太刀の若者・優馬であった。
彼は楽歩が暇そうに縁側に居るのを見つけると、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら近くに寄ってきて、自分の芸の準備を始めていた。
彼は足元にムシロを拡げ、そこに様々な物を並べていた。大根に人参、銚子に竹筒、ついでにサイコロもある。
楽歩は声をかけた。
「大根と人参以外は売れそうに無い物ばかりだな」
「売りもんじゃねえ、斬るんだよ」
優馬はそう言い返して、大根を拾い上げた。それを手近な木の枝にヒモで縛って吊り下げる。
そして数歩下がって、太刀を腰に差し直した。
「へへっ、よぉく見てろよ。優馬様必殺の居合斬りだあ!」
優馬はグッと腰を落とし、上半身を左に捻って溜めを作った姿勢で、居合抜きの構えを取った。
楽歩は欠伸を噛み殺した。
「行くぞ、行くぞ、行くぞ………うおりゃっ!!」
気合いと共に長い太刀が引き抜かれ、ぶら下がった大根に振り下ろされた。
大根はバシッという鈍い音を立てて二つに折れた。
優馬はいっぱしの剣豪のようにもったいぶりながら太刀を鞘に納め、それから得意げな表情になって楽歩に向き直った。
「どおだ、お侍! 俺の居合スゲーだろ!」
「今日の夕飯はお主が作るのか?」
「あん?」
「大根の煮物でも作るつもりなら包丁を使え。もう少し小さく切らねば鍋にも入らんぞ」
楽歩の返しに優馬はムッとした。
「バカにすんな。ぶら下がった物を切るのがどれだけ難しいか知ってんのか」
「斬れておらん。お主のは叩き折ったと言うのだ」
楽歩は縁側から降り立ち、優馬のそばに落ちた大根を拾い上げた。その断面はザラついていた。
「刃筋が通っておらぬ。居合よりも先に素振りをしろ」
「素振りだあ? なにカビの生えた道場のジジイみたいなこと言ってんだよ。いいか、俺にとっちゃ大根なんて序の口なんだよ。俺にはもっとスゲー技があるんだ。見てろよ」
優馬はそう言って、今度は銚子を拾い上げた。
だいぶ年季の入った銚子だな、と楽歩は見て取った。汚れているだけで無く、口も欠けている上に、縦一直線にヒビらしき線まである。
まるで半分に割れた銚子をニカワか何かでくっつけたような銚子だった。
優馬はそれを、
「行くぞ、行くぞ。……ほいっ!」
高々と頭上に投げた。
「とりゃあ!」
気合いと共に太刀が引き抜かれ、空中の銚子めがけて振るわれる。
楽歩の見た所、明らかにその刃先は銚子には届いていない。しかし、銚子は地面に落ちると、その場で綺麗にパカリと割れた。
「どおだ、秘剣・真空斬り! スゲーだろ!」
得意満面の優馬に、楽歩はただ苦笑した。
「フフン、俺の腕を認める気になったか?」
「ああ、可愛い芸だ」
「ああん!?」
すごむ優馬を無視して、楽歩は先ほどまで自分が座っていた縁側に戻り、そこに置きっ放しになっていた新しい銚子を手に取った。
当然、その銚子には縦にヒビなど入っていない。
「持ってろ」
「な、なんだよ。これでやってみろっていうのか!?」
「やるのは、俺だ。銚子の首あたりを二本の指で挟むようにもつんだ。……そのまま動かすんじゃないぞ」
楽歩はそう言って銚子を優馬に手渡すと、足元にしゃがみ込んだ。ムシロの上にあるサイコロを拾って、指で弾いて打ち上げる。
サイコロは放物線を描いて、優馬が手に持つ銚子の口に、チリンと音を立てて入った。
「あん?」
優馬の注意が手元の銚子に移った時、光の筋が銚子を縦に貫いた。
「……へ?」
優馬が呆気にとられたその前で、楽歩が刀を鞘に納める。
優馬の手の中で、銚子が綺麗な断面を晒して縦に二つに割れた。断面からサイコロもころりと落ち、それも二つに割れた。
「うぉ……ま、マジか!?」
一瞬の早業に固まっていた優馬だったが、すぐに興奮状態になった。
「マジかよ、これ、うわ、スゲー!!」
優馬が落ちた銚子の片割れを拾い上げ、残る片割れと断面を合わせた。
「スゲー、ピッタリくっついた、スゲー!」
「ニカワで貼り付けておけ。大道芸で使う小道具が一つ増えるぞ」
「ははっ、そりゃ良いや!」
優馬が目を輝かせて楽歩を見た。
「な、なあ、お侍、アンタのこと師匠って呼ばせてくれよ!」
「師匠だ?」
「そうだよ、師匠、先生、兄貴、とにかく俺、アンタに惚れちまったんだ。なあ、弟子にしてくれよ!」
「やれやれ、異な事を言うやつだ」
楽歩は苦笑して、優馬に背を向けた。
「あ、ちょっと待ってくれよ、師匠」
「うるさいやつだ。用を足しに行くだけだ」
「いいね、いいね、男同士ツレションと行こうぜ、師匠」
「師匠なんて呼ぶな。ケツがむず痒くなる」
「先生?」
「それじゃ用心棒だ」
「んじゃ、兄貴だ」
「好きにしろ」
楽歩と優馬は連れ立って堂の裏に回った。そこの藪の奥に杉の大木がそびえている。二人はその根本に並んで立った。
じょろじょろと音を立てながら、優馬が問う。
「なあ、あれ、どうやって斬ったんだ? 全然見えなかったよ」
「拍子だ」
「拍子?」
「そうだ。物事には全て拍子がある。剣法にもな。抜く拍子、斬る拍子、これが相手の拍子と上手く合えば、神速の剣となる」
「へえ……でもさ、俺は別に拍子取ってなかったぜ。ただ銚子持ってただけ」
「サイコロでお主の気を引いただろう。あれもひとつの拍子だ」
「はあ~、なるほどねぇ。俺にも出来るかな?」
「先ずは基本からだ。素振りしろ」
「どんだけ?」
「正面斬り三十本、右袈裟斬り三十本、左袈裟斬り三十本、右袈裟から逆袈裟斬り三十本、左袈裟から逆袈裟斬り三十本、右横胴から左横胴斬り三十本、早抜き十本、しめて百九十本を朝昼晩繰り返せ」
「けっこう具体的なんだな。でも、意外と少ねえな。千本くらい振れって言うかと思った」
「適当に振ってる内は千本振ろうが万本振ろうが上達せん。一本一本、集中して本気で振れ」
「あいよ」
スッキリしたところで二人は藪から出た。
手でも洗おうかと二人して河原へ降りたとき、
「ん?」
渓流のせせらぎの他に、笛の音が聞こえてきた。
たおやかな調だ。思わず立ち止まって、目を閉じて聞き入りたくなるような、心に沁みる音色だった。
「こりゃ姐御の笛だな」
「いろはの?」
「いい笛吹くだろう。河原で吹いてんだな。行こうぜ、兄貴。手を洗うついでにいいものが見れるぜ」
「また、いろはが水浴びでもしているのか」
「何言ってんの、兄貴? ……ん? ……また?」
「別に面白い物でもなかった」
「いや、そりゃそうかもだけど、そうじゃ無くて、見たの!?」
「ああ、居た居た」
河原の先で、いろはが岩に腰掛け笛を吹いていた。
その笛の音に合わせ、ルカが扇を手にして舞っている。
「ふむん」
楽歩と優馬は少し離れたところで手を洗い終えると、そのまま手近な岩に腰を下ろした。
ルカは流れるように舞い続けていた。
ゆったりとしていて、上品で、それでいて、ときおり官能的な仕草が差し込まれ、見ている者を楽しませてくれる。
しかし、それにしても、
(まるで別人だな)
ルカの事である。今まで子供っぽい、そしてどこか間の抜けた様子しか見てこなかったせいもあり、たおやかに踊る彼女の姿に驚かされた。
元から美人ではあるが、今のルカはそれに輪をかけて美しい。
と、流れるような調べが、不意に変化した。
拍子が変わったのだ。曲調は細かく跳ねるような拍子に変わり、ルカの舞も躍動感ある動きに変わった。
だがその瞬間、楽歩は全身が震えるほどの怖気を覚えていた。
最初はその理由が分からなかったが、顎先がチリチリと痛み出したとき、その理由を悟った。
この拍子は、あのときのものと同じ拍子だ。
そう、武芸試合の決勝において、海斗が放った最後の一撃。まさにその拍子の変化と同じものだった。
楽歩が顎先を撫でながら憮然としている内に、笛の音が止み、ルカが舞い終えた。
いろはの目が、楽歩に向く。
「おや、アンタ。見てくれてたのかい」
「お、お侍さん……っ!?」
ルカが、楽歩を目にした瞬間、持っていた扇で顔を隠した。
楽歩が腰を上げて二人に近づくと、ルカは扇の影から僅かだけ顔をのぞかせて、
「う~……」
と、上目遣いで睨んできた。
一緒に側にやって来た優馬が、そんなルカを見て首をひねる。
「ルカ姉、何やってんの?」
「……今朝ね、お侍さんにイジワルされたの」
「へえ。イジワルしたんだ、兄貴?」
「うむ」と、楽歩。
「どんな?」と、優馬。
「言えないよぉ」と、ルカ。
彼女は顔を真っ赤にして、また扇の影に顔を伏せた。
「え? なに、なに? マジで何されたの?」
好奇心のままに問い詰めようとする優馬を、いろはが横からペシリと頭を叩いた。
「止めな、優馬。しつこい男は嫌われるよ。ルカもルカだよ、なに裸見られたぐらいでウジウジしてんのさ」
「あ、姐さん!?」
「え、兄貴、見たの? ルカ姉の裸のぞいたの? 羨ましいな、おい!」
「異な事を言うな。のぞいてなどおらん」
「違うのか?」
「堂々と見た」
「マジで!? やっぱスゲーな、兄貴!」
「お侍さんの馬鹿ぁぁ!!」
「あー、やかましいねぇ。ルカも優馬もいい加減にしな。お侍、アンタもだよ。稽古の邪魔をしないでおくれ」
いろはの言葉に楽歩は苦笑した。
「うむ。しかし変拍子の多い曲だな」
「なかなか良い曲だろう? 次の廿日市の興行でお披露目するつもりさね。まぁ、まだ上手く行ってないところも多いけどさ」
「拍子の変わり目か。ところどころ、ルカが追いついていないように見えた」
「おや、ご慧眼」
いろはの目がルカに戻る。
ルカは、また違った意味で扇子の影から涙目を覗かせた。
「だって、いつ拍子が変わるかスゴく分かりにくいんですもん」
「合わせよう合わせようと身構えてるから拍子に乗り遅れるのさ。余計なことを考えずに舞えば良いさね。そうしたら自然と身体が拍子に乗るよ」
「はーい」
楽歩は、いろはの言葉に心中なるほどと頷いた。
楽歩自身が先ほど優馬に語って見せた通り、剣法にも拍子がある。相手の拍子を上手く捉えることができれば、わずかな動作で相手より速く斬り込むことが可能だ。
と、すれば……
楽歩は昨晩のことを思った。いろはに斬り込んだ時、それを難なくかわされたのも、楽歩の拍子を、いろはに読まれたからだろう。
考え込む楽歩の前で、いろはとルカが再び稽古を開始した。
いろはの旋律に、楽歩は目を閉じ、耳を傾けた。緩やかな笛の調べに、あの武芸試合で脳裏に焼き付いた海斗の姿が映り込む。
満身創痍で体力も尽きかけた中で見せた大上段の構え。そこから、無駄な力も、意識さえも削ぎ落とされていく。
海斗の身体から体力も意識も何もかもが消え去った、あの静寂の一瞬、楽歩はそこに吸い込まれるようにして打ち掛かって行った。
(ここだ!)
そう思った時からわずかにズレて、拍子が変わる。
「仕損じた」
楽歩は思わずポツリと呟いた。顎先がまた痺れている。
「う……バレたぁ」
顎先を撫でながら目を開くと、ルカが落ち込んだ表情でうなだれていた。どうやら楽歩の呟きを自分へのものと思ったらしい。
いろはが笛を吹き止め、楽歩に目を向けた。
「アンタ」
「すまぬ、邪魔をしたな」
「いや、いいさね。それよりアンタ、いまアタイを捉えようとでもしたかい?」
そう言って、いろはは薄く笑った。
心を読まれた。楽歩は苦い顔になる。
「……お主、やはり妖怪の類か?」
「おバカ。妖術でもなんでもない、ただの人間業だよ。これも拍子の一つさね」
拍子が合えば心が読める。そんな馬鹿な、と楽歩は言いかけたが、ふと有り得なくもないと思い当たった。
例えば精神研ぎ澄まされた真剣勝負の場で、不意に相手の動きから精神状態まで読めたことがあった。
相手がいつ、どんな剣で斬り掛かってくるか全て読めたのだ。
だがそれは命懸けの真剣勝負だったからこそ至った境地と言える。笛や舞の稽古程度でその境地に至るだろうか?
いや、と楽歩は思い直す。
芸を生業とする者たちにとって、その稽古に真剣に挑むのは当然のことだ。達人と呼ばれる域に達するにはそれこそ命までかけよう。
ならばそこに剣法との差など、どこにも無い。
いろはとルカが再び稽古を始めた。
楽歩もまた耳を澄ます。
いろはの拍子、ルカの舞に、剣の拍子を心内で重ね合わせる。
しかし、外す。上手く捉えられない。
歯痒い思いでいると、不意にルカと目があった。
ルカもシュンとした顔でうなだれている。彼女もまた外したらしい。
「「上手くいかんな(いかないなぁ)」」
思わずもらした呟きが二人重なって、互いにクスリと笑った。
「はいはい、仲がよろしいことで」
いろはがため息をついて、
「こんなんじゃ埒があかないね。ルカ、アンタちょっと休んでな。……で、お侍」
「ん?」
「代わりに踊ってみないかい?」
いろはの突飛な提案に、楽歩だけでなく、ルカと優馬も目を丸くした。
「そんな姐さん、いくらなんでも無茶ですよぉ」
「そうだぜ、兄貴は剣ならともかく、踊りは――」
「ふむん、やってみるか」
「えっ!? お侍さん、良いんですか!?」
「てか、兄貴、踊れんの!?」
「ルカの踊りを見ていた。見よう見まねだが、なんとかなるだろう」
楽歩はルカから扇子を借りると、いろはの前へ進み出た。
いろはが笛を吹き始めた。穏やかな拍子だ。これなら合わせられる。楽歩はルカの舞を思い出しながら、円を描くように足を配り始めた。
剣法と舞踊には重心の置き方、足の配り方に共通点が多い。身体を動かす理屈が分かっていれば、初めて見る舞でも覚えるのは容易だった。
それでも最初はぎこちなさがあったが、それもすぐに慣れてきた。
滑らかに舞う楽歩の姿を、ルカと優馬は声もなく見入っている。
いろはの笛の音が、ひときわ緩やかになった。聴く者の心根を溶かすような、優しい調べだ。
だがこの曲は、ここから一気に激しい拍子へと転調する。
変拍子。
楽歩はサッと身を翻して地を蹴った。
そのまま跳ねるように二、三度舞ったところで、笛の音が止んだ。
「ひぇー、兄貴マジかよ」
「お侍さん、すごい……」
ルカと優馬は思わず拍手しようとしたが、舞い終えた楽歩と、笛を吹き終えたいろはが、共に真顔なのを見て、手を止めた。
「……硬いねえ」
と、いろはが呟く。
「お侍、アンタも身構えちゃってるよ。それでもルカより反応が良いから上手く行ったように見えてるけどね」
「ああ」
楽歩も頷きながら、己の顎先を指で軽く撫でた。今回も避けられなかった感覚だった。
「俺も修行が足りん」
「修行なら付き合ったげても良いさね」
「そうか?」
楽歩の声が思わず弾んだ。
「ただし、タダという訳にはいかないよ。お代替わりに、今度の興行でアンタも踊ってみないかい?」
「それは御免こうむる」
「そうかい、だったらこの話は終わりさね。……稽古の邪魔だよ。とっとと引っ込んでおくれ」
「む」
ほれほれ、と、いろはに追い払われ、楽歩はやむなく引き下がった。
(変拍子、か……)
再び吹かれ始めた笛の音を背中で聴きながら、楽歩は優馬と共に河原を後にしたのだった………