猫村一座はそれから二ヶ月の間、廃寺を根城に各市をまわって興行を行った。楽歩も、夜は賭場の用心棒をしながら、猫村一座と生活を共にしていた。
そして、時が過ぎ、秋も深まった頃の事である……
始音 海斗は初音家に召し抱えられた後、郡奉行所に配置されていた。
郡奉行とは農村を管轄する役所であり、年貢の取立てや、村々の生活・治安を管理している。当然、役目上ここの役人は常に村々の様子を見て周り、農民たちと付き合っていく必要がある。
だが、年貢を取り立てるという役目柄、農民からは良い目で見られにくい役職でもあり、不作の年ともなれば、その仲はさらに険悪になった。もし一揆でも起きようものなら、農民たちの監督責任を問われ切腹せねばならないという、中々に難儀な役目であった。
海斗がその役目に配属されたのは、彼がかつて愛洲藩に仕えていた頃、同じように郡奉行所の役人だったという経歴を買われたのと、そして、もう一つはその剣の腕前であった。
九里府藩ではここ数年、不作が続き、年貢の引き下げを求める農民側と、郡奉行所との間で対立が強まっており、役人が夜道で襲われて重傷を負うという事件まで起きていたのである。
そして海斗は、その襲撃事件が起きた現場の近くの村、本音村を担当する事になったのだった。
ある日の夜であった。
海斗は本音村の庄屋を訪ね終えて、共もつけず一人で、提灯一つを下げて帰路についていた。
今夜の月の入りは早く、空には雲もあり、辺りは暗い。
村を離れてしばらく歩いた先での事である。
海斗の背後から、三つの人影が、闇に紛れて密かに後を尾けて来ていた。
三人とも濃い藍色の野良着に野良袴、顔には覆面をし、海斗に気づかれぬよう足音を忍ばせていた。
彼らは海斗との距離がある程度まで詰まった所で、互いに目配せをして、声を出す事なく一斉に襲いかかった。
三人の襲撃者たちが持っているのは、太い巻藁である。それが、海斗めがけ振るわれる。
次の瞬間、海斗は持っていた提灯を高々と宙へ舞いあげた。頭上の提灯の微かな灯りの下、白刃が闇夜に煌めき流星の様に光の筋を描いた。
海斗が振り向きざまに抜刀し、三人の手首、肩、脇腹を次々と打ち据えたのである。
峰打ちである。しかしその太刀筋は、投げ上げた提灯が地に落ちるよりも早かった。
海斗のそばに提灯が落ちて破れて燃え出す中、その明かりに照らされ、うずくまった三人の襲撃者の姿が浮かび上がった。
覆面から覗くその目は、恐怖に怯えていた。
「本音村の者か?」
海斗の問いに、襲撃者たちは答えず黙って目をそらした。海斗は刀を納めると、彼らのそばにしゃがみ込んだ。
「突然のことゆえ、致し方なく刀を抜いて対処した。骨までは折ってはおらぬと思うが、大事無いか?」
海斗の気遣いに、三人は驚いて顔を上げた。
提灯が燃える火の向こうで、海斗は優しく微笑むと、そのままその場に腰を下ろし、左腰から刀を鞘ごと抜いて右側に置いた。
刀は右手で抜くものであるから、それを右側に置いてしまうと、とっさに抜刀できなくなる。
「お前たちと話しがしたい。構わんか?」
「は、話しですか!?」
襲撃者の一人が思わず問い返し、ハッとなって口元を押さえた。声を出せば素性がバレるかも知れぬのに、それでも驚きの方が勝ったのだろう。
海斗は頷いた。
「左様、お主らが郡方の役人を襲うまで追い詰められている理由を知りたい。もし話してくれるなら、お主らの正体の詮索はせぬ」
海斗の言葉に、三人は互いに顔を見合わせた。しばし迷っていたようだが、やがて一人の男が海斗と目を合わせ、口を開いた。
「あなた様のお言葉、信じさせて頂きます」
そう言って、その男は覆面を外した。白髪が目立つが、顔つきはまだ海斗とほぼ同年代くらいの男だった。
「私は出流(でる)と申します。後の二人のご詮索はご容赦願います」
「わかった。私は――とっくに知っていると思うが――新たに郡方の役人に任じられた始音 海斗だ」
「存じております。始音様、突然の無礼、許させるものでは無いと分かっておりますが、せめて謝らせて頂き等ございます」
出流を始め、襲撃者たちは海斗に平伏した。
「顔を上げてくれ。許すも許さないも無い、これは交換条件だ。お前たちの知っている事、思っている事を全て話してもらいたい」
「では……」
出流が顔を上げた。その目は死を覚悟した者のそれだった。海斗の言葉が真実であろうと無かろうと、ここで全てを訴え、そしていざとなれば自分一人が罪を被って死ぬ覚悟だと、海斗は見て取った。
出流は村の現状を語り出し、海斗はそれを熱心に聞いた。
その話しは延々と続き、明け方近くになるまで終わる事はなかった。
出流から話を聞いて、それからさらに数日後の事。
海斗は奉行所へ出仕すると、上役の前へ大量の資料を携えて出頭した。
「始音、お主は役に任じられてから一ヶ月余りの間、奉行所にあまり寄り付かず、村々を歩き回っておったそうだな」
上役の訝しげな視線を受けながら、海斗は答えた。
「前任者からの申し継ぎや、残された記録の全てに目を通しましたが、やはりそれだけでは不明瞭な所が多く、己の目で確かめて参った次第にございます」
「それは殊勝な心掛けだが、聞いた話では、共もつけず、夜道さえ一人でいるそうではないか。前任者のように襲わ……事故に遭ったら如何する?」
「幸いにして、そのような事もなく」
と、海斗はさらりと流した。
上役が「襲われる」とはっきり口にしなかったのは、仮にも侍が不意打ちとはいえ敗れたことが公になれば面子を失うからである。
従って襲われてしまった前任者は、表向きは病気によって隠居した事になっていた。
「始音、お主の腕を見込んでこの役につけたのは確かであるが、それを過信してもらっては困る。己の命を的にして不埒者を誘き出そうと考えているのなら、止めることだ」
「……畏まりました」
諭すような口調の上役に、海斗は大人しく頭を下げた。しかし既にその目論見は達成している。
恐らく上役も、その事実にはとっくに気づいていると海斗は思った。その上で今まで海斗を好きに泳がしていたのだろう。
その証拠に、上役はすぐにこう訊いてきた。
「それで、一人で歩き回った結果、お主は何を得た? 申してみよ」
「はっ」
この上役は切れ者だな、と内心感じ入りながら、海斗は資料を前に差し出した。
「こちらは各村々の今年の稲の生育状況です。昨年程ではありませんが、今年もやや不作気味と見積もられます。しかし我が藩の年貢は定量で定められておりますので、農民からは年貢を下げて欲しいとの訴えが出ております」
「そんなことは言われる迄もなく、村の庄屋たちを通じて聞いておる話だ。それに農民たちには刈り入れ後の田を使っての葱栽培を認めておる。こちらには年貢をかけておらぬ故、その売却収入で不足分は補える筈だ」
上役は試すように言った。
事実、試している。この程度の事情は郡方役人ならば当然知っていなければならないからだ。
なお、葱栽培に関しては確かに年貢は無いが、葱の売却先は藩御用達の商人に卸すよう決められており、藩はその御用商人が他国へ葱を売った際に得た収入に税をかけていた。
いわば葱栽培は九里府藩の特産品だったのである。
そのため、田を使って葱以外に二毛作を行えば年貢が発生した。(田以外に畑を持っていればそこの作物に年貢はかからないが、それが可能な土地を持っているのは庄屋などの大百姓だけである。)
ちなみに、この政策を推し進めたのは先代藩主であった。
「されば、問題はその葱栽培にございます」
「ふむ」
「こちらをご覧下さい」
海斗は新たな資料を出した。
それは過去数年間の葱の収穫量だった。しかもそこには、九里府藩のものだけでなく、他藩の収穫量まで載っていた。
「これは……むう、よく他家のものまで調べ上げたものだ」
「御用商人以外にも藩をまたいで葱を買い取っている商人がおります。その者を通じて、他家との取引状況から見積もった資料を手に入れました」
「如何にして?」
「愛洲藩にいた頃、役目上、このような商人と付き合いがありまして、その伝手にございます。それより、この資料によりますと、同じ葱を特産としている地方に比べて、収穫量に三倍近い差が出ております」
「ふうむ、葱栽培が思ったよりも捗っていないとは聞いていたが、他家とここまで差が出ておったとは」
「これも既にご存知でありましたか」
「葱栽培は先代様のご意向で推し進められたものだ。ご隠居なされたとはいえ、先代様がまだご健在の今、成果が上がらないからといって取りやめる訳にもいかぬ」
「ですが、当地において、この種の葱は必ずしも栽培に適しているとは言えませぬ。先ず生育時期が刈り入れの直後であり、水田から畑への置換の余裕が少なすぎます。さらに葱がある程度育つ頃、この地方には特有の大風が吹き、それに堪えきれず倒れてしまうのです。このため思った以上の収穫が上がらず、却って農民たちの負担になっております。彼らは葱ではなく、もっと別の作物を植えたいと訴え――」
「そのへんにしておけ」
海斗の言葉を、上役は手を振って止めた。
「始音、お主の言うことはいちいち最もだが、それは何度も言うとおり既に承知のことだ。しかし殿でさえ先代様にはまだご遠慮がある。我々がこの件で下手に声を上げれば政治的な問題に発展しかねんのだ」
「なるほど、やはりそうでしたか」
海斗はさほど落胆するまでも無く、静かに頷いた。上役は、海斗のその様子に目を細めた。
「始音、何か考えがあるな? 申せ」
「葱栽培を止める事が出来ませぬなら、収穫を上げる他ありませぬ。……種を変えましょう」
「出来るならとっくにやっておるわ。しかし当地に適した葱の種が無い」
「ありまする」
「何?」
「私が流浪していた折、同じような条件で葱を栽培していた地を通った事がございます。そこの葱は生育時期が秋遅くから冬でも問題無く、また丈夫で風にも強い。味はまあ、悪く無いそうです」
「それは……まことか?」
「都合が良すぎるとお考えでしょうが、事実です。と、言いますのも、実は私よりも先にこの葱に目をつけていた人物がおりまして」
海斗はそう言って、また別の資料を差し出した。
「本音村の出流という男が、既にこの葱を試し、成果を得ております」
「そんな報告はこれまで受けてはおらぬぞ」
「どうやら前任者が握り潰していたようで」
「何故だ?」
「さあ、私もそこまでは分かりかねます」
海斗はトボけたが、実際は出流から聞いて知っている。前任者は葱の御用商人から賄賂を貰っており、その商人から葱の種を農民へ斡旋していたのだ。
そこへ新種の種が入ってしまうと、これまでの斡旋が成り立た無くなってしまう。そのため前任者は出流に対し執拗に嫌がらせを続けていたのだった。
そして遂に我慢の限界に達した出流によって襲われ、前任者は隠居せざる得なくなったのである。
ちなみに海斗まで襲われたのは、彼もまた御用商人の息がかかった者と思われ、前任者程では無くとも少なくとも脅すくらいのつもりで襲ったのだと出流は白状した。
上役は海斗の話を聞き、しばし沈黙した。海斗も同じく口を閉ざし、上役の答えを待つ。
やがて、
「始音、その新種は今、どれだけ用意できる?」
「多くはありませぬ。恐らく本音村ひとつ賄うのも難しいでしょう。しかし、この種の葱を扱っている商人に覚えがございます。話をつけることができれば今月中には買い付けが可能でしょう」
「今月か。刈り入れの時期も迫っている事を考えれば、さほど余裕はなかろう。話をつけるアテはあるのだな?」
「出流の申すところによれば、猫村一座という旅芸人が、その商人の荷受も行っているとのこと。その一座が今、近隣に来ております」
「よかろう」
上役は膝を叩いて言った。
「この一件、お主に任せる。先ずは一村分買い付け、本音村に栽培させよ。金子はこちらで用意する」
「まことにございますか!?」
上役の決断の早さに、海斗もさすがに驚いた。
「ぐずぐずしておれば機を逸する。これは藩と農民たちの未来がかかっておるのだ。お主も、私も、共に命を賭ける覚悟で挑まねばならぬ。良いな?」
「承知いたしました!」
海斗は平伏した。
その声は、喜びと気概に満ちていた――
海斗が出流の案内によって猫村一座のもとを訪れたのは、その翌日のことであった。
猫村一座はちょうど市での興行を終え、例の廃寺で次の興行に向けた稽古の最中であった。海斗と出流が訪れた時、それなりに広い境内で多くの者がそれぞれの芸を磨いていた。
二人を出迎えたのは、ミズキだった。
「座長に会いたい」
と言う海斗に、
「姐さんなら今、河原で稽古中ですよ」
と、ミズキは答えて、案内してくれた。
堂の脇から小径を下って河原へと向かう途中、せせらぎに混じり笛の音が聞こえてくる。
「姐さんの笛です」
「そうですか。良いものですね」
海斗が素直に感想を述べると、ミズキはにっこりと微笑んだ。
河原に着くと、そこには笛を吹く少女と、そしてその音に合わせて舞い踊る一人の男の姿があった。
(はて?)
笛を吹いていたのは座長と言ってなかったかな? と、海斗は座長らしき人物が見当たらない事に首をひねったが、それよりも、
(ん? ……あの男は!?)
海斗は舞っているのが何者であるか気付いて、思わず声を上げそうになった。
(まさか、楽歩殿!)
何故ここに? という疑問が浮かんだが、それよりもすぐに、楽歩の舞の流麗さに目を奪われた。
(……お美事)
海斗自身、さほど舞踊に詳しいわけでは無い。だが剣士としての腕は一流である。その目で見たとき、海斗は楽歩の舞の中に剣士としての業前の程を見出したのだった。
笛が止み、楽歩が舞終えたとき、海斗は思わず拍手を送っていた。
「これは良きものを見せて頂いた」
「んむ?」
楽歩といろはが振り向いた。
「お、お主、始音 海斗!?」
「お久しゅうござる、神威殿」
海斗が一礼した。いろはが楽歩に問うた。
「お侍、アンタの知り合いかい?」
「うむ」
「お友達?」
「ふむん」
楽歩はどう答えたものかと迷った。木刀を持って叩きのめしあった仲だ。などと正直に説明しても理解はしてくれないだろう。
そんな風に楽歩が迷っている間に、海斗が口を挟んだ。
「神威殿には以前、私が旅の途中で野盗に襲われたところを助けて頂いた事がござった」
「へえ、お侍、アンタもやるもんだねぇ」
「ん」
楽歩は短く唸った。海斗の説明は確かに嘘ではないが、実際に野盗を相手にしていた数は海斗の方が多かったのも事実だった。
「そうそう、ちょうどこの寺のお堂で雨宿りをしていた時のことでした。ここでまた神威殿と再会するとは、奇妙な縁でございますなぁ」
海斗はどこか懐かしげに語った。
しかし楽歩はどういう態度を取るべきか考えあぐねていた。顎先がさっきからチリチリと痛む。
「で、始音さんとやら。ウチのお侍に用があって来たのかい?」
「あぁ、いや、そうではありません」
海斗は慌てて頭を振った。
楽歩は顎先を撫でながら、一拍遅れて、いろはが自分の事を「ウチのお侍」と呼んだ事に気づいた。
「いろは、ウチのとはどういう――」
「実はここの座長に用があって参ったのですが、今、どちらにおられますかな?」
「――意味だ?」
「どちらも何も、ここに居るさね」
「はて?」
海斗は辺りを見渡し、首をひねった。
「どこに?」
「アンタの目の前だよ。アタイだよ、アタイ」
「なんと!?」
「猫村座筆頭、いろは。どうぞお見知りおきを」
「……」
海斗はもう一度周りを見渡し、楽歩やミズキや出流の表情を確認した。皆、誰も笑っていなかった。笑いを堪えている者も居なかった。
「ま、まことなのか?」
いろはを含め全員が頷いた。
海斗は少しの間、妙な表情をしたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「失礼いたした。私は郡方役人の始音海斗と申します」
いろはに対し、真顔で頭を下げる。
「これはこれはご丁寧にどうも。けど、お役人様がアタイらにどういう御用件でありましょう?」
「実はここにいる本音村の出流から、この猫村座が商人の荷受も引き受けていると聞き、是非とも注文したい品があってここに参った次第」
「あら、そっちのお客様でしたかい。そんなわざわざお出で下さらなくても、一声お掛け下さればこちらから伺いましたものを」
「急ぎの品でしたので」
「それでしたら喜んで。あらやだ、こんなところで商談なんて失礼でしたね。むさ苦しいところですけど、どうぞお堂へお上りくださいませ。ミズキ、ルカも呼んでお茶の準備だよ。……あ、お酒の方がよろしかったでしょうか?」
「いや、私は今、役目中ゆえ」
「でしたらやっぱりお菓子ですね。さ、さ、どうぞどうぞ」
いろはは海斗の手を取ってお堂へと歩き始めた。
楽歩もその後に続きながら、商売ともなるとああも愛想良くなるものか、と、いろはを眺めた。そういえば初めて会った際、金を渡した時もあんな感じだったと思い出す。
現金な女だな、と思いつつ、楽歩は二人の後を追った。
いろはと海斗が堂内で商談している間、楽歩は縁側で手持ち無沙汰にぼんやりと顎を撫でていた。だが、話はすぐにまとまったようで、いろはが大福帳片手に上機嫌な様子でピョンと飛び出してきた。
「嬉しそうだな?」
「そりゃねえ、これだけのでかい注文だもの。手数料もたんまりもらえるしありがたい話さね」
「というか、荷受なんてやっていたのか?」
「旅暮らししているとあちこち顔が広くなってね、色んなこと頼まれるようになるのさ。といっても荷受に関しちゃアタイらは注文をまとめて届けるだけだけどね」
「で、あの男。何をそんなに大量に買い込むつもりだ?」
「葱の種だよ。この辺りでも丈夫に育つ新種の葱さね」
「葱だ?」
「稲刈り後の田んぼを使って葱を育てて、それをこの藩の特産品として売り出そうと数年前から頑張ってたみたいなんだけどね――」
いろはは現状を簡単に説明してくれた。
「――またこの前任の役人が本当に嫌な奴でねぇ!!」
「なるほど、つまりその悪しき現状が覆るかも知れぬということか」
「そういうことだよ。それにしてもあの始音様は前任者と違って立派なお方だねえ。アタイ、惚れちゃいそうだよ」
「……惚れる?」
「あら、どうしたんだいアンタ。やきもちかい?」
「異な事を……バカな」
「あっはっはっ」
いろはは大笑いして、
「さて、こんなことしてる場合じゃ無いね。ちょいと誰か、この手紙を早飛脚に頼んでおくれ。ああもう、あたいが自分で行った方が早いさね」
いろははそう言って、縁側から猫のようにピョンと飛び降りると、そのまま境内から走り去ってしまった。
楽歩はそれを見送ってしばらく、まだ自分の顎を撫でていたが、
「ふむん」
やおら立ち上がって、堂内へと足を踏み入れた。
堂内では海斗が、お茶菓子を美味しそうに食べているところだった。
「おぉ、はむいほの」
海斗が口の中のお茶菓子を慌てて飲み込もうとして、思わずむせかえってしまう。
「げほけほ」
「あわわ、お役人さま、大丈夫ですか」
お茶汲みとして傍にいたルカが、お茶を差し出しながらその背中をさすった。
「うぐ……はぁ、ありがとうございます、ルカさん」
「いいえ、気にしないでくださいな」
にこにこと笑顔を振りまくルカに、楽歩は何故だか面白くない気分で、仏頂面になった。
「あ、お侍さんもどうぞ。今、お茶淹れますね」
「んむ」
楽歩は海斗の斜向かいに座った。
「神威殿、この猫村座の者たちは、中々面白い者たちが揃っておりますね」
「んむ……まあ、芸人たちだからな」
「それもそうですね。しかし何より、いろは殿には驚かされましたな。まだ幼い少女でありながら大人顔負けで座長を務めている」
「あれは子供でもなんでも無いぞ。妖怪だ」
楽歩のつぶやきに、お茶淹れていたルカがくすりと笑った。
「お侍さんたら、姐さんが聞いたらまた怒りますよぅ」
「知ったことか。あいつは化け猫みたいなものだろう」
「ははは」
楽歩の容赦無い言葉に、海斗も思わず笑っていた。海斗はすぐに口元を押さえ、
「おとと、これは失敬。……しかし意外ですね。神威殿とこのように話せるとは」
「意外?」
「ええ、初めてお会いしたときは、もっと、こう、なんというか」
「近寄り難かった?」
「……ええ」
海斗は苦笑した。
その笑顔を見て、楽歩は自身が感じていたためらいが泡のように消えていったのを自覚した。いったい俺は何を拘っていたのだろう? 武芸試合で負けたことなど、今さら些細な事ではないか。そう思うと、心の中で踏ん切りがついた。
楽歩は居住まいを正し、言った。
「あの折は不遜な態度を取り、申し訳なかった」
「い、いや、滅相も無い!?」
「俺はな、ヤクザ者との付き合いが長過ぎて、ついついあの様な態度を取ってしまうのだ。だがお主に鼻を折られて、少しは反省できたように思う」
「鼻を折ったなどと、そんな」
「そうだな、鼻を折られたのではなく、顎を打たれたのだった」
楽歩はそう言って笑いながら自分の顎を撫でた。痺れる様な感覚は残っていたが、不思議と嫌な気はしなかった。
「始音殿、今は郡方の役人らしいな」
「以前仕えていた藩で同じく郡方をしておりまして、昔とった杵柄を買われたんですよ。……それより神威殿は、どういう経緯でこちらに?」
海斗の質問に、楽歩は眉間にしわを寄せた。
海斗はそれに気づき、
「あ、いや、話し辛いことであれば失礼した!」
「いやいや、さほど大した話でも無い。まあ、その、な。……武芸試合でお主に負けた後、実は腹を切ろうと思っていたのだ」
「な、なんと、腹を!?」
「んむ。この剣一本、腕一つで名を馳せられると自惚れていたからな。それが見事に打ち砕かれて、もう駄目だと思った。……だがなぁ、存外腹は切れんものでな。切ろうかどうしようか迷っているうちに、こいつらが来てしまった」
楽歩はそう言って、ルカを見た。
「そうそう、私がこのお堂を覗いたとき、ちょうどお侍さんがお腹を切ろうとしてて、すごいビックリしちゃいました」
「さ、左様ですか……」
「こいつら、この通りおかしな連中でな。付き合っているうちに切腹するのもバカバカしくなった。で、今はまたヤクザの用心棒なんてやりつつ、のんびり生きているというわけだ」
「のんびり、ですか」
海斗は少し安堵したように微笑んだ。
楽歩も微笑みながら、
「そう言えば始音殿、お内儀はどうされた?」
「おかげさまで、あれからしばらくして無事に子を産みました。男児です」
「おお、後継が産まれたのか。それはめでたい」
「ありがとうございます」
「せっかくだ。祝いにこの猫村座を招かんか? なあに、費用はご祝儀として俺が出す」
「そ、それは嬉しい申し出ですが、そこまでしていただくのは心苦しい」
「そう言うな。浪人とはいえ俺も侍の端くれだ。言い出したことを無碍にしないでくれ」
「そこまで仰って下さいますか。ならば、有り難くお受け致しましょう」
「良かった」
楽歩は破顔した。
海斗も嬉しそうに笑いながら、しかしふと、顔を曇らせた。
「ただ私も重要な役目の途中でありますので、今すぐというのも難しい。まことに申し訳ないが、今の仕事がひと段落ついてからでよろしいでしょうか?」
「新種の葱の件か」
「左様です。上手く行けば来年の春には結果が出るでしょう」
「春か……参ったな」
「どうかされましたか?」
「んむ、こやつらは来月にはもうここを出て行くのだ。次に戻って来るのは来年の夏頃になろうと言っておった」
「では差し支えなければその時でよろしいでしょうか。それならば我が子も産まれてちょうど一年と区切りも良いですし」
「そうか。それは助かる」
「助かるなどと、礼を言うは私の方です」
お互いに頭を下げ、その様子に二人また笑った。
楽歩と海斗はその後も少し世間話をして、そして席を立った。
「長々とお邪魔を致した」
「見送ろう」
二人して堂の外へ出る。
境内を渡る最中、海斗が片隅にある土饅頭の墓に目を向けた。
「あれは?」
「あの時、お主と俺で斬った野盗の墓だ」
「花が供えられてますね」
「埋葬したのは一座の者たちだ。ここを根城とする際に片付けたらしい。花は、ルカだ。信心深い娘でな、毎朝あそこで拝んでいる」
「私も少しよろしいかな?」
「ん?」
海斗は楽歩に断ると、土饅頭の前へ行き、手を合わせた。
その殊勝な態度に、楽歩は首を捻った。
「始音殿、野盗を斬ったことを悔いているのか?」
「いや……」
海斗は手を合わせたまま答えた。
「……妻と我が身を守るため、致し方ないことでした。しかし、彼らも元は領民。生活苦に止む無く野盗に堕ちた者たちです。このような者たちをこれ以上増やしてはならぬと思いましてね」
「立派な心掛けであることだ」
「立派なんかじゃありませんよ。それが郡方に任じられた、私の今の役目であるだけです。そうでなければ、彼らのことなど忘れていたでしょう。私は、その程度の人間ですよ」
海斗は手を離し、楽歩に向かって一礼した。
「では神威殿、またお会いできる日を」
「ああ、楽しみにしておる」
涼やかな秋風がさあっと吹き抜け、それと共に海斗は去って行った。