秋が深まった頃、猫村一座は村の秋祭りでの興行を最後として九里府藩を離れた。
楽歩もまた一座と行動を共にしていた。
葱の種は注文通り海斗の元へ届き、本音村での栽培が開始された。
冬になり年が明けてしばらくたった頃、城下にある氷川清輝の家老屋敷を、郡奉行所の上役が訪れた。
その目的は本音村で行われている新種の葱の栽培状況の報告である。この報告は奉行所を通じて正式な文書として上がってきてはいたが、それとは別に上役からの個人的な報告も、こうして定期的に上げられていた。
これは、この上役が清輝の従兄弟に当たる人物であるという事と、本音村が氷川家の知行地であるという事に起因していた。
知行地とは、通常の藩士のように金銭で払われる扶持と違い、その土地から上がる年貢を自分のモノにできるという、一種の私有地であった。無論、藩に収めるべき年貢は割り引かれるし、管理自体は郡奉行所の管轄下にあるが、それでも本音村が氷川一族の領地である事に違いは無い。
つまり今回の件で新種の葱の栽培がまず本音村で行われたのも、この村なら氷川一族の融通がかなり効くからであった。
今朝方に降った粉雪に白く染まった家老屋敷の庭園を眺めながら、上役は本音村での葱の生育が順調に進んでいる事を告げた。
そしてその話は、自然と海斗に関する話題へと移っていった。
「役目に付いてからしばらく経ち、彼の者、今では本音村から家族のように慕われております。新参者にして、半年も経たずにここまで領民から信頼を得た者はそう居ますまい」
「同輩とはどうなのだ?」
「如才なくやっております。元来が人当たりの良い男ですが、侍として一本筋の通った考えの持ち主ですので、頼りにする者も多くなっております」
「そうか」
清輝は静かに頷いて茶を一口飲んだ。
その部屋の隅には、いつものように女中のおミクの姿もある。
上役は最初の内はこの女中がいつまでも居座っている事を訝しく思っていたが、さほど重要な話では無いのと、そして、この女中は清輝の個人的なお気に入りなのだろうと推察して、気に留め無い事にして話を続けた。
「しかし始音にも妙な点がございます」
「ほう?」
「文武両道、人品骨柄申し分ない男でありながら、愛洲藩が取り潰された訳でもないのに浪人となった。一体どんな理由があったのか。……ご家老、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「うむ……」
清輝は腕組みし、横目でかすかにおミクを見た。
さては人払いが必要なほど差し障りある話であったか、と上役は思ったが、だがおミクは別に退出する訳でもなく、清輝も気にする事なく話し始めた。
「……人を斬ったそうだ」
「私闘で?」
「うむ、些細な口論が切っ掛けで刀抜き合うのっぴきならない羽目に陥り、同輩を心ならずも殺めてしまったらしい。召し抱える際に、本人から聞いた話だ」
「私闘ならば喧嘩両成敗が鉄則。では、始音は成敗を恐れて愛洲藩から逐電したのですか」
「腹を切って自裁しようとしたが、妻に止められ、共に逃げたそうだ。すでに子を身籠っていたらしい」
「卑怯者と罵しられても言い訳できませんな」
上役の言葉に、おミクがかすかに肩を震わせたが、気付いたのは清輝だけだった。
清輝は言った。
「本人もそれは覚悟の上で、自ら打ち明けたのだろう」
「左様でしょうなぁ。始音は、自らに不利と分かっていても己を偽らぬ男ですから」
そう言った上役の目尻は、下がっていた。
しかし、と上役は続けた。
「この話が真ならば――恐らく真でしょうが――愛洲藩は始音を捨てて置かぬはず。殺された者の一族から仇討ちの追っ手が出ているでしょう」
「かも知れぬが、愛洲藩には確認しておらぬ。わざわざ此方から始音の所在を知らせてやる義理は無い。問い合わせあらば別だがな」
「それで、よろしいのですか?」
「この件については殿がお決めなさったことだ。ならば始音はどのような過去があろうと初音家中の侍である」
「失礼いたしました、仰る通りにございます。始音が信じるに足る男である事は、私もよく存じておりますよ」
上役のその言葉に清輝は黙って頷いただけだったが、その部屋の隅で、おミクはひっそりと嬉しそうに笑みを浮かべていた。
九里府藩に春が来た。
葱の栽培は順調に進み、本音村の収穫量は先年の二倍にも達していた。葱の品質もこれまでのものとほぼ変わらず、この結果を受け、新種の導入は成功とみなされたのであった。
そして、春が過ぎて、梅雨が終わり、また夏が来た頃、この九里府藩に、猫村一座とともに楽歩が帰ってきた。
海斗は、彼らが以前と同じ廃寺に根城を構えたと聞き、すぐにそこを訪れることを決めた。
目的は新種の葱の種を追加注文することと、そして、楽歩に会うためでもあった。
だが、訪れた先に楽歩は居なかった。
応対に出たルカが、
「お役人さん、ごめんなさいね。ウチの人、いま去年お世話になったヤクザさんの所に挨拶に行っちゃってて」
帰ってくるのは翌日になるという。
いろはもちょうど外していたが、こちらはすぐに帰って来るというので、それまでルカと世間話をして過ごした。
この世間話の中で、ルカが楽歩のことをしきりに「ウチの人」と呼ぶのが気になった。
やがて、いろはも帰ってきて追加発注の件も滞りなく終わり、海斗は廃寺を後にした。
境内には、もう土饅頭は無かった。あれは去年、この寺から一座が去った後、海斗が遺骨を引き取って別の寺で供養し直していた。
その翌日のことである。役目を終えて帰宅した海斗の元へ、一人の客人が訪れた。
それは楽歩だった。一座の者も連れず、酒を入れた大徳利ひとつをぶら下げていた。
「昨日はせっかく訪ねてくれたのに不在で済まなかったな。俺もここに来てすぐにお主に会おうと思ったが、役目中らしくなかなか行き合わんでな」
「いや、私こそ急に訪ねて申し訳ありませんでした。実を言うと神威殿を驚かせてやろうと思っていたものですから」
「それは俺も同じだ」
二人は互いに笑った。
「できれば一座を連れて来たかったのだが、やんごとなき事情らしく控えることにした。息子殿を盛大に祝えなくてすまんな」
「いや、お気遣いなく」
九里府藩では先月、先代藩主が病で亡くなっていた。このため、喪が明けるまでの間は過度な催しは避けるよう、触れが出されていたのである。
「村の昔ながらの祭りなどは例年通り催されるものの、やはり家中の者が己の都合で宴を開くのは憚れまして」
「城勤めの辛いところよな。だがサシで飲むぶんには文句はあるまい?」
楽歩は笑って、大徳利を示した。
「旅の途中で手に入れた酒だ。今はせめてこれで祝わせてもらおう。祝いは、また喪が明けてからだな」
「ありがとうございます。ささ、上がられよ」
この日は月が綺麗な夜であった。
二人は庭に面した座敷の縁側で酒を酌み交わした。こじんまりとしていながら、剪定された庭木が上品に配された庭園に、月がよく映えた。
「良い屋敷だな。豪勢ではないが、よく整っている」
「通いの中間の他にも、近隣の村の者たちがよく世話をしてくれるおかげです」
「慕われているのだな。他の村々でもお主の名をよく聞くようになったぞ。良い噂ばかりだ」
「よしてください。私は大した事はしていません。領民たちの頑張りに私たちが支えられているのです」
「謙遜だな。しかし、あるいはそうかも知れぬ。俺も一座の連中と旅をしていて、その考えも分かる気がしてきた。……侍とは、領民に支えられて初めて生きていける存在であるとな」
「そうですね。私たち侍は何を生み出すわけでもない」
「浪人なら尚更だな」
楽歩が冗談めかして言った。
海斗は笑おうとして、すぐにそれを堪えた。なんなれば、楽歩が浪人であるのは海斗のせいでもある。
楽歩も、海斗の様子に気がついた。
「や、これは変な気を遣わせてしまったな。すまん」
「あ、いえ、そういうわけでは」
「良いのだ。お主が気に止むことはない」
「……神威殿」
「ん?」
「実はその件ですが」
海斗が何かを言いかけた時、座敷の襖が開き、めいこが肴を持って現れた。
「どうぞ、先日採れた茄子を糠で漬けたものです」
「おう、これは良い。俺は茄子漬けに目が無くてな」
楽歩が上機嫌に顔をほころばせた。
「本音村の出流さんから頂いたものです。いつもお裾分けしてもらって助かってます」
めいこも微笑みながら説明した。
楽歩とめいこが顔を合わせたのは、あの雨宿り以来二度目である。あの日、楽歩に対して身構えていためいこだったが、今日はそんな素振りは少しも見当たらなかった。
襖の奥から子供がぐずる声が聞こえてきた。
「あら、赤人だわ。すみません、私はここで失礼いたします」
めいこは一礼して去っていった。
「お子か?」
楽歩の質問に、海斗が答えた。
「ええ、大人しく寝ていましたが、どうやら夜泣きしたようです」
「騒がしかったかな?」
「あの年頃は何も無くとも夜泣きいたしますから、気になさらずに」
「そうか。赤人というのか、良い名だな。喪が明けた後が楽しみだ。そうさな、来年の春頃で良いか?」
「そうですね」
「待たせてすまんが、その頃には赤人殿も走り回っている事であろう」
「今でもあちこち元気に這いずり回っていますよ。妻が、目が離せないとぼやいております」
「そうか、そうか。…おぉ、そうだ。これを渡そうと思っていたのに、忘れていた」
楽歩はそう言って、懐からでんでん太鼓を取り出した。
「赤人殿にと思って、買ってきた」
「そこまで気を遣っていただけるとは」
「いや、昔の俺なら気にも掛けなかったが、近頃は、なぁ」
苦笑する楽歩。
海斗はその姿に、ふと、ルカと世間話をした時を思い出した。あのとき、ルカは楽歩の事をしきりに「ウチの人」と呼んでいた。
「さては神威殿、嫁御でも貰いましたかな?」
「む」
海斗の言葉に、楽歩は一瞬、酒を飲む手を止めたが、すぐに、
「まあな」
そう言って、照れくさそうに笑った。
「もしや、ルカ殿ですかな?」
「あいつめ、自分からしゃべったか」
「いえ、言ってませんよ。ただ、ルカ殿が神威殿について話すときの雰囲気に、深い情愛が感じられたものですから」
「お主、凄いな」
「ルカ殿を大事にされてるのですね。昨日の彼女は、とても幸せそうでした」
「ん…む……まあな」
「ふふ」
楽歩の様子に、海斗も笑みを浮かべながら酒を飲んだ。
美味い酒だった。
海斗は、先ほど言いかけた言葉を、再び口にする事にした。
「神威殿、もしもまだその気があるのなら、当家に仕えてみませんか?」
「む? 仕官?」
「はい。今、新たに藩士を召し抱えようという話があるのです」
「また武芸試合を開くのか?」
「いえ、あのような事はもう無いでしょう。これからは剣以外のことも多く求められます。私はその中で、貴方を推したい」
「剣以外が求められるなら、俺は駄目だな」
「駄目などと。剣に秀でた者は、他方面にもその才を発揮できる者です。私はいつぞや神威殿の舞を見せて頂いたが、あれは美事なものでござった」
「だからといって、踊って城勤めは出来まいよ」
苦笑する楽歩に、海斗は、
「では、何故あの日、武芸試合に出られた?」
「剣士だからだ。剣で名を馳せ、出世したいと思っていた。だが城勤めとはそういうものでは無いのだな。外からお主の働きぶりを見て思った。……必要なのは剣では無い。大切なモノのために命をかける覚悟なのだとな」
「神威殿……」
「お主のように領民たちまで守れるほど、俺の懐は大きくない。嫁ひとり守るので精一杯よ。……それにな、なんだかんだ言って、一座の連中の生き方が気に入ってな」
そう言って、楽歩は一座と共にした旅暮らしの様子を楽しそうに語り始めた。
「………」
その楽しげな様子に、海斗はふと、楽歩は侍をやめる気ではないかと思った。
この時代、侍に上がる以外は、身分を変える事はそんなに難しい事ではない。生き方ひとつ、変えれば良いだけだった。
だが、楽歩の真意を確かめる事は、海斗には憚られた。
「ん? 始音殿、どうした。酔ったか?」
「え? …あぁ、そのようです。しかし、興味深い話です」
「そうであろう」
楽歩は屈託無く笑った。
海斗は、楽歩が侍をやめてしまう事に寂しさを感じたが、しかし彼が選んだ道ならば、それも良いと思った。
楽歩が徳利を差し出して、海斗の盃に酒を注いでくれだ。海斗はそれを飲み干し、夜空を見上げた。
月が、ちょうど中天にさしかかっていた。
冴え冴えと輝く月光下で、二人は酒を酌み交わしあった。