天高い秋晴れの日であった。
その日の朝、彼は正式に奉行職を免じられ、同時に、家督を子に譲った。
一人の私人となった彼は、沐浴で身を清め、浅葱色の裃に黒袴という出で立ちで屋敷を出た。
切腹は、城のすぐ隣にある観音寺の本堂で行われる事になっていた。
海斗は、介錯人として先に本堂で待っていたが、元奉行である彼が到着する前に、城からの使いの者に呼び出された。
「北庭園に控えよ、と?」
城内の北庭園は、藩主未来ノ守兄正が居住する間の近くにある。
未来ノ守は毎日の朝と夕、この北庭園が望める廊下を渡り、執政の間と居住の間を行き来していた。
海斗が城内に入り、北庭園へ向かうと、そこには既に、浅葱色の裃に黒袴姿の彼が控えていた。
彼は海斗の姿を認めると、ほんの微かに笑みを浮かべて、少しだけ頷いた。
海斗は彼の左に並んで、同じ様に控えた。
程なくして、廊下を渡ってくる二人分の足音が聞こえてきた。家老・氷山清輝に先導されて、未来ノ守が近づいてくる。海斗と彼は平伏した。
その二人のすぐ近くで、清輝と未来ノ守の足音が、止まった。
そのままやや時が過ぎて、そして清輝が言った。
「殿がお許しである。両名、おもてを上げよ」
彼が上体を起こしたのに合わせ、海斗も顔を上げた。
海斗が藩主と相対したのは、召し抱えられた際にお目通りして以来、これで二度目である。しかし一度目は終始平伏していたため、その姿をはっきりと目にしたのは、今回が初めてだった。
小柄で、華奢な体格。
その肌は雪の様に白く、慎まやかな鼻梁と、控えめな唇。
黒目がちな大きな瞳が、彼と、そして海斗を見つめていた。
女と見紛うばかりの美貌の、十六歳の若き藩主である。
これが我が主か。と、海斗は一瞬見惚れ、そして直ぐに、その胸中に複雑な感情が沸き起こった。
この藩主の名の下に、敬愛する上司は死を命じられたのだ。それが侍というものであると、理解していた。しかし、不条理である。
その時、未来ノ守が、ふと目を伏せた。
「苦労をかける。……ありがとう」
その透き通った、そして哀しみを孕んだ声に、海斗はハッとなった。
傍で彼が静かに平伏し、海斗も慌てて頭を下げた。
足音が再び響き、未来ノ守と清輝が去っていく。
遠ざかっていく二人の気配を感じながら、海斗は、胸に宿った感傷を心内で抱きしめていた。
これが侍である。
これが、侍である。
日が暮れた。
観音寺本堂の仏壇の前には床よりもわずかに高くなった座が設けられ、そこに新畳と赤い毛氈が敷かれていた。
毛氈が赤いのは、血の色を目立たなくさせるための配慮である。
堂内は暗く、高座を囲む様に立てられた燭台の上で、蝋燭の灯火がゆらゆらと揺れながら辺りを薄明るくしていた。
高座の正面には、検視役として家老・清輝を始めとして、藩の重臣たちが集まっていた。
そこへ切腹人である彼が、介錯人の海斗と、そして付添役の三人の役人を伴って、堂内へとやってきた。
彼は検視役たちの前で立ち止まり、丁寧にお辞儀をした。
検視役たちもまた、厳かな答礼で応える。
彼はゆっくりと威風辺りを払う態度で切腹の高座へと上り、正面の仏壇に祀られている千手観世音菩薩像に礼拝した。
礼拝が済み、彼は仏壇に背を向け、毛氈の上に正座する。
海斗は腰の刀を抜き、右手を背中に回して刀身を隠した状態で、彼の左側に片膝をついて控えた。
付添人の一人が、白紙で包んだ短刀を三宝に乗せて、進み出てくる。
彼は両手で恭しく三宝を受け取り、自分の前に置いた。
そして再度、丁重に一礼した後、次の様な口上を述べた。
「拙者、堤防工事の発案、指揮を執り申し候えど、先月の大風にて堤防はその役目を果たし得ず、領民たちに多大なる損害を与え苦しませたる故、拙者今、その責を負って切腹致す。各々方には検視のお役目、御苦労に存じ候」
最後に一礼の後、彼は浅葱色の裃を腰帯辺りまで脱ぎ下げ、上半身を露わにした。
裃の袖は、上体が万が一背後へと倒れないよう脇の下へと差し込む。
そして彼はおもむろに、しっかりとした手つきで、三宝の上の短刀を手に取った。
そのまま、しばし、時が止まったかの様に、全てが静止した。
誰も声ひとつなく、ただ、蝋燭の灯火だけが揺れていた。
その明かりの中で、彼の静かな表情が浮かび上がっていた。
その背後では、千手観世音菩薩像が同じ表情で佇んでいる。
と、彼は短刀の切っ先を己に向けると、素早く左の腹下へと深く突き刺した。傷口からは血流があふれ出し、彼の周囲を赤黒く染め上げていく。
彼は腹に突き立てた刃をそのまま、ゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きを変えて、やや上方へと切り上げていく。
この凄まじい苦痛に満ちた動作を行っている最中、彼は呻き声を上げるどころか、顔の筋一つも動かさなかった。
血の匂いが立ち込めた本堂に、ずぶ、ずぶ、と刃が肉を深く断ち切っていく微かな音が響き渡っていた。
己の腹を存分に掻っ捌いた後、彼は腹部から短刀を引き抜くと、そこで糸の切れた人形の様に前方へと上体を倒し、首を差し出した。
その瞬間、海斗は立ち上がり、素早く刀を最上段から振り下ろした。
一閃。
重々しく辺りの空気を引き裂くような音。
ゴトリ、と音を立てて、首が落ちた。
海斗は低く一礼し、付添人から渡された白紙で刀の血を拭った。
その脇で、残る二人の付添人の内、一人が黒布で遺体を覆い、
そしてもう一人が首を三宝に乗せて、検視役たちの元へと運んで行く。
海斗はその様子を横目で見ながら、刀を鞘に収め、本堂を後にした。
後日、海斗は郡方代官へと昇格し、同時に、堤防工事の責任者に任命された。