高嶺の花が枯れたとき 作:ルーフェ
重ね重ね積みあがる思いのように降り積もった雪に、始まりを告げるように暖かく心地良い風が吹き込む。
微かに花の芳香を漂わせながら、かつて秋を吹き飛ばした厳しい暴風雪の代わりとなって、雪化粧の肌をこそばゆく撫ぜる。
溶けた雪より出でる若葉の風が、次第に冬に埋もれて目を閉じた、かの生ける時がかつての時を取り戻す。
そして、刻み始める時計の音を聞いた冬に眠る生き物はすべて、生まれて間もない赤子のように目を覚ます。
この春の風に埋もれて溶けていく、あの悲しい思いを積み重ねていた雪は、目覚めた生き物に代わって大地へと眠りについていく。
そしていつの間にか春が来たことを知った木は、いつの間にか蕾をつけ始めていくことで短い絢爛の時を始める。
北の丘の雪化粧はすでに風で洗い流され、春の訪れを必死に告げんとするかの如く準備を急ぎ始めている木の足元から、白い花が咲き乱れていき次第に丘を覆いつくすのが時とともに見える。
それに負けじと木も、黄色い花をつけて丘が薄黄色に染まっていくのが北の丘のしきたりである。
この自然に作られる薄黄色は、新しい時を告げ続ける太陽から放たれる陽光の一側面、暁の色でもあった。
そして何時もの春のように北の丘から放たれる暁の色が屋敷を照らしていたが、その色が届かない部屋が一つ。カーテンを閉め切った部屋がぽつりとある。
昼間でもランタンで照らされるほど薄暗い部屋、そこにずっと響く二つの呼吸の声。
一つは決して黙し続ける召使いの音、もう一つは微かに笛のような音が混じって聞こえており、呼吸が常に荒くなってしまったお嬢様の音であった。
お嬢様は、冬を超えても徐々に病魔に蝕まれ続けている。
どのような医師にも、魔法にも、呪術にも、神官に頼っても、もはや手の施しようがなくすごすごと帰ってしまう。
もう誰も信用できなくなってしまったお嬢様は、ついに召使い以外をすべて排除するようになってしまった。
あの召使いに自らを扇がせて暑さをしのいだ夏の日も、あの召使いをいきなり呼びつけて紅茶を淹れさせた秋の日も、あの召使いの思いを知った冬の日も。
ただそれだけ、治るという希望を持ち続けて、ずっと自らを治してくれるものを待っていたのに、と。
死そのものに呼吸を止められかけているお嬢様は、ついに自分をこう結論付けてしまった。
―――生きる屍みたい―――と。
そうすると、急に召使いの顔が見たくなってしまう。
いつ治るのか考えるのをやめてしまう前に、どうか自分の好きな人の顔が見たくなってしまう。
どうせ先に旅立つのだからと、生きるために使ってきた気力をどうにかそちらへ向けられないかと。
そう思いながら、ゆっくりとごくゆっくりと自らの左側、召使いがいるはずの場所へと顔を向ける。
「...セ...バス」
「おはようございます、レディ・ドパルデュー。今日は、北の丘がとても綺麗です。白い花と黄色い花が合わさって見えて...えっと、はっきり言い表せませんでしたが、今年もこのお屋敷にとても似合う景色だと思います。」
まともにお嬢様がしゃべれなくなってしまってから、召使いはどうにか希望を失いつつあるように見えるお嬢様を元気づけようとしている。
どうにか自分が幸せだったこと、自分が思ったことを、十数年だったか二十年に満たないような人生の中で絞り出しながら、お嬢様を鼓舞し続けている。
いつの間にか一方的に話しているのには、召使いは気づいていた。聞かれてもいないようなことを話し続けるなどと、はしたないと思われても仕方ないのかもしれない。
そう思い浮かべながらお嬢様を想い続けていることを証明するように、ずっと朝から夜まで話し続けた。
自分たちが遭遇し苦しんだ疫病の話も、流行り病で死んでいった妹の話も、家族との楽しい思い出の話も、お嬢様との今までの思い出の話も、もしも自分たちが婚約相手として認められた後の話も。もう既に吐き出し終えている故、何にも残された話はない。
わずかに得られた日々の取り留めのない話を、精いっぱい希望を持ち続けて、生きる希望を持ち続けるように話し続ける。
それを聞いているお嬢様もその話を聞いているときだけは、あの苦しみに満ちて口を開けて息をし続ける事だけに集中しているはずの顔が和らいで微かに笑っている。
臥せってしまったお嬢様を微笑ませ続けて、そしてお嬢様をずっと気遣う。
召使いは才能もないが執念はあった。なぜなら、妹を亡くしているから。大切な者を手放してしまう苦しみを一番よくわかっている少年だったからこそ。
お嬢様が病気で臥せってしまった最初の日々でも、常に感じていたひたむきな姿を感じて、口づけを通して実際に知ってしまったからこそ、召使いをそばに置くこと。これを選んだのかもしれない。
「よろしかったら、北の丘をお見せしたいのですが...」
召使いは話をここで切った。
お嬢様の反応を見たかったからだ。
しばらくして、お嬢様の目が少し開く。
屋敷の色と同じだった胡桃色の瞳は、希望を失いつつある時の中でいつしか濁ってしまった。
特に最近はベッドの右側にある壁掛けの時計ですら見えているのか怪しくなってしまったが、しかし召使いをしっかりと見据えると。
お嬢様はゆっくりと顎を引いて、元の位置に戻す。
それを肯定の意ととった召使いはすっと立ち上がり、最近ずっと締め続けられていた北側の窓のカーテンを開け放つ。
そして、横たわるお嬢様の体にかけられていた紅い毛布を優しく避けていく。
突如入ってきた薄黄色の光の奔流にまぶしさを覚えたのかお嬢様は目を閉じているが、それに構うことなく召使いはお嬢様の背中を少し持ち上げて、自分の右腕を背中に通す。
次に召使いは、お嬢様の両足の下へ左腕を通して、ゆっくりとお嬢様の周りに注意しながら、お嬢様を持ち上げていく。
そして、薄黄色の光の元へと赴く。
あの美しい薄黄色の春の芽吹きを。
命を。
お嬢様は、召使いの腕の中である覚悟を決めた。
最後に浴びたのは数日、もしかしたら数十日経ってしまっているかもしれない、あの陽の光を、懐かしい陽の光を浴びることができるのかもしれない。
そう思うと、私は呼吸を忘れてしまいそうになる。
もしそうなってしまったら、私は死へと飲まれてしまう。怖くなってしまった。
だけれど、私の召使いがずっといつまでもこうして、景色を見せてくれるなら。
ここで息絶えてしまっても。
ここで疲れ果ててしまっても。
美しいあの薄黄色の丘のどこかで枯れ果ててしまう木のように、髄の奥まで希望が枯れてしまっても。
死にゆく私を看取ってくれるなら、精いっぱい最後まで生きてみよう。
死への覚悟を以って。
「...ジル...あり...が...とう...」
「レディ・ドパルデュー、光栄です。こちらこそ礼を言うべきだったのに、申し訳ありません。」
「...ジ...ル...わた...くしを...イザベル...と...よん...でほし...い...」
「わかりました、イザベル。ずっと傍にいますとも、安心してください...というと安い言葉ですが、とにかくずっと居ります。」
「...ジル...あの...丘...の...ように...幸せ...になれ...ますか...?」
「もちろんですとも、イザベル。身を寄せ合えれば、いつでもどこでも幸せになれます。私の父と母も、そう言っておりました。」
「...ジ...ル...あ...いして...います...」
「不肖ながら私もでございます、私たちがあの丘の向こうに行ける事を...」
その後は、たった一つの呼吸音が響くことになる。
言葉を不意に切った召使いは、静かにお嬢様を元居たベッドに横たえると、紅い毛布を掛けていく。
召使いは得も言われぬ表情で、感情が爆発するのを召使いの意地をもって、さらに歯を食いしばって必死にこらえながら、こう言い放つ。
「なぜ!!!あなたは!!!こんな顔で死んでいけるんですか!!!」
「なぜ!!!あなたは!!!私を残していくんですか!!!」
「なぜ!!!なんで!!いつも!大事な人は、この腕から...零れていく...?」
お嬢様の顔は、かつて召使いの顔があった場所を向いている。
その顔は、最後の最後に希望をつかみ取ったような、そんな安らかな顔で眠ってしまっている。
生きることを数日前にあきらめていたわけでもない、かといってやり残したこともないわけもない。
そういう彼女がなぜその顔で死ねるのかが召使いには全くわからなかった。
いつも残されていた時のその気持ちしかわからない、今の少年にはわかるはずもない、かもしれなかった。
そして、もう二度と潤うことのないお嬢様の唇に、召使い自らの唇を重ねた。
もう二度と聞こえてくることのない、あの凛とした声で。
いまだに聞こえてきそうな、その自分の誇りある名前を、彼女の声で。
悲しみに濡れてしまったその心の中で反芻しながら、彼女の頬を自らの涙で濡らしてしまった。
もう二度と会えることのない、妹に重ねてしまったあの時から。
もう二度と繰り返すまいと、必死になってやってきたことが無駄になってしまったと感じてしまえる、この深い深い悲しみを。
もう二度と自らの腕から大切なものを取りこぼさないと誓ってきたのに。
召使いは、あふれる感情をせき止めることができず、慟哭した。
もう二度と戻ることのない、大切なものをまた失ってしまった悲しみが滲んでいる、この際涙声でも構わなかった。
そしてその慟哭は誰にも届かない。お嬢様の部屋の近くには誰も近寄らず、声すらも聞こえないような作りになっているからだ。
召使いは泣きじゃくった。もう既に外聞すら気にしない。
彼女に向かって。戻って来いと、戻って来いと。あの日々を過ごそうといったのは、元気であった頃の彼女から言い出したのではなかったか?
そう問いかけても、なにも返ってくるはずもなかった。
慟哭する召使いの横で、冷たくなっていく彼女の体から一筋。
お嬢様の目のふちには、流れるはずのない涙が、零れていた。
ひとしきり、慟哭した召使いは。
ふと横に置いてあった、果物を切るための果物ナイフを手に取った。
あの懐かしい、自分が洋梨を切ってお嬢様の口元に運んで、楽しそうに食べているお嬢様の姿を思い出したのか。
数瞬動きが止まりながらも、ゆっくりと安全のためにつけていた鞘を抜き放つ。
薄黄色たる暁の光と、今やか細く感じるランタンの光に照らされて、鈍色が輝く。
そして自らの喉元にあてがう。
洋梨を自らに見立てて、彼女への供物と思ったのかは定かではない。
ただ言えるのは、自らにあてがったナイフは鋭く喉元を切り裂くことと、
自刃したとは思えないほど、静かに血を流して崩れ落ちていくその姿があったということ、
彼はとても安らかな顔で、冷たくなっていくということだけである。
すっと自分が消える感覚がして、どのぐらいの時間がたっただろうか。
お嬢様の体から、いつの間にか力があふれてくるのはある種の合図でもあった。
お嬢様は目を開けたがそこに広がる景色は部屋の中ではなく、緋色の花が咲きほこらんとするどこか懐かしい丘の上であった。
すかさず飛び起きて、どこか心地よい感覚を不思議に思いながら、周りを見渡してみる。
そして、ここはどこなのでしょうと独り言ちてみるが、誰もいないのかなにも返ってくる気配がない。
「一面の赤色ですわね...?確か、この花は何の花だったかしら...」
ふと考えてみると、私はさっきまで死にかけていた。そのしばらく後にこのような意味不明な場所に召使いが、一瞬で届けてくれるはずもない、そしてずっと傍にいてくれると言ってくれたあの召使いもいないとなると。
おのずと答えが出てしまった。
「彼岸花...私、ついに死んでしまったのね」
「ごめんなさい、私を看取らせてしまって。」
「でも、どうか妹のように次に踏み出してほしい。なんて、最後まで私はわがままでしたわね...あの時は、看取ってほしいなんて考えていたのに、彼に苦しみを与えて、そのまま私は逃げているだなんて...私は本当に身勝手で、どうしようもないほど腐ってしまっているのね」
あの時の判断をどうしても後悔してしまう、自分がいた。
呆然と、あの時の自分を今から何回も責めようとしているその時。
ふと、左肩に懐かしい感覚がした。
その瞬間に悟ってしまった。
会えて嬉しいという感情を、押し殺してしまいたかった。
なぜという疑問も、押し殺したかった。
とんでもないことをしてしまったかもしれないという後悔も、押し殺したかった。
「もっと遅く来なさい、馬鹿」
こうこぼすので精いっぱいだった。
「いつでも隣にいますと、そう申し上げました。ならば、そうするしかなかった。」
「どうしようもない、この私めをどうか罰してください。」
「私めには、レディ・ドパルデュー。あなた様が必要だったようです。」
「もう、召使いじゃないでしょ貴方...」
お嬢様が一文一文をこぼすたびに、大粒の涙が止まらなくなっていく。
その嬉しさ、悲しみ、後悔。それらがすべてめちゃくちゃに、ないまぜになってしまった。
この感情を静めてくれたのも、召使いでもあった。
召使いは、左肩に置いた右手をお嬢様の右腕から前に通し、左手を左腕から前に通して、前にしっかりと結ぶ。
そしてゆっくりと温めるように、慈しむように抱きしめた。
「そうですね、もう私は召使いではないでしょう。」
「ですから、一人の男として改めて聞いてほしいことがあります。」
そう呼ばせてほしい。
そしてイザベルには、ずっと私のことをジルと呼んでほしい。
そしてもう二度と、この幸せを手放したくない。
あの時だけの、たった一度だけの記憶だけにしたくない。」