「ところで今日は、旦那さんはどうしたんだい?」
「えぇと……小さい子を驚かせないようにってずっと外にいるのよ」
「なんだ。クレセントを色んな人に会わせてやりたいんだ。入ってきてもらえないかな?」
「それなら……」
すっかりこわさもわすれたぼくは、フフフンと鼻歌をならしながらパンをえらびなおしています。すると、急に大きなかげができてぼくをおおいました。
……い、いったい何でしょうか。
おそるおそる上を見ます。
するどい目つき。ぼくの二倍以上はある体。キラリと光る頭とその顔には、たくさんの切りきずが目立ちます。
なぜだか分かりませんが、ボス、というよび方が頭をよぎりました。
ころされる。パンの具にされる。
ボスに見つめられるなり、そう思いました。
「……たぁ、たぶん、おいしくにゃいとぉ……、おぉ、思いまぇす……」
ガクガクふるえるしかなく。
なんとか、はかせの後ろにかくれます。
「……や、やっぱりこうなりますか」
ボスが何か言います。
やっぱりころすしかない?
あぅ、あぅあぅおぅ……。もうだめだ……。
はかせが、コホンとせきばらいをしました。
「ええと、クレセント。この人がいつもパンを作ってくれている人だ」
「……ふぁ?」
パン屋さんは、パン屋さんでしょう?
「あのね、彼は私の旦那。この人がパンを焼いて、私が売ってるの。だから、私は売り子さんで、彼がパン屋さんなのよ」
パン屋さんがつけ足す。
つまり、ボスがパン屋さんでパン屋さんはパン屋さんじゃなくて売り子さん?
「??」
「あーだめだ、これはパンクしてる」
はかせがカラカラとわらいます。
よく分からないけれど、ボスは安全なのかもしれません。
それと、パン屋さんじゃないけれどいつもパンをやいてくれていたのはパン屋さんじゃないけどボスなのかもしれません。パン屋さんじゃないけどパンをやくのは何屋さんなんでしょうか。
「あ、あのっ……!」
「は、はい!」
「い、いつも、パン、おいしいです。ありがとうございます、ボス」
「……! ……はい。どういたしまして、小さなお客さん」
カチコチになってボスにお礼を言うと、ボスはひざをついて、ぼくと目線を合わせてから頭をなでてくれました。
その手つきが、ボスの大きな体からは想ぞうできないほどやさしくて、ぼくはこの人はいい人なのだと思い、ニッコリとわらいました。
「ボスは、けがは痛くないのですか?」
「あぁ……これは、パン屋の修行時代ドジやらかして何度も切ってしまったんですよ」
「パン屋の道ってけわしいんですね……」
「えぇと、この人がドジなだけだと思うわよ……? まあ、だから私が面倒見なきゃって思えたんだけどね」
経過報告58
・対象の情動の変化を観測。Ⅲ-ⅣとⅧ-Ⅳに分類。Ⅷ種とクラスⅣが得られたことはとても良い成果であると言える。ただし、対象の気性からしてⅦ種の観測は難しいかもしれない。
・対象に個体名クレセントを与えた。個人的にはクロワッサンでも良かったのだが、世間に馴染みやすい名前というのは、クレセントの平穏な生活のためにも重要である。