仕事の準備というには日が昇りきっていない。しかし外に出かけるような女性たちは支度を始めている。彼女たちが身に纏うアクセサリーの輝きが日の光に当たり、仕事中とは違う輝きを発していた。
娼館の人々は寝静まっている穏やかな時間。外出を控えた娼婦たちの弾む会話が小間使いにも届いた。小間使いはいつも気に掛けている少女がそこに来ていることを知っている。少女は外に出られるような人間ではない。世間知らずで声を出せない少女。人さらいには都合がよすぎる。
だからだろうか。外に焦がれ、憧れるように外と接する人に少女は寄り添う。少女はどんなくだらない話だろうがニコニコして話を聞いている。娼婦がするような会話は歯に衣着せぬというんだろうか。基本は下世話な話が多いというのに、それがまるで絵本を読まれたようにほんわかと受け流していた。真っ白な肌、透けるような銀髪も相まって、少女がほころぶ様は妖精や天使にだって負けていないと思わせる。
小間使いの少女が衣装部屋に入るとその想像通り、出かける予定の娼婦たちに混じって少女が優しく微笑んでいた。
「それでね、淫魔が出たってことで騎士団が大勢動員されたんだってさ」
「嘘でしょ!?アレ露出狂の男だってここらで有名だったじゃんか」
「だから騎士団も恥をかくっていうんでさ、上が淫魔に唆されたとかなんとか証言させたっていうわけよ」
「へー、淫魔に唆されたんじゃ軽犯罪になるよね。そりゃ暴動が起きるわ」
「まったくバカだよねー……あ、声無しちゃんそこの靴取ってくれない?」
少女は頷いて靴を渡す。ありがとう、といってまた世間話を始める。
「それでね、えーっと、そう、昨夜の客が騎士のひとだったのよ。もう上司の愚痴ばっかなんだけど、そんときに聞いたのよ。露出狂、騎士学校の出身だったって」
「うそ!じゃあ顔見知りなわけ?」
「その客は違ったんだけど、同級生も騎士団にいたらしいよ〜」
「えー!なにそれ!同級生の人もびっくりしたろうねー」
「声無しちゃんも騎士の常連さんいたじゃない?疲れ切ってたら優しくしてやってよ、同級生の人かもしんないからさ」
少女はなにも分かっていないような、それでいてさも全てを分かっているような不思議な顔をして頷いた。
「声無しちゃん、外の話大好きだもんね。またなんかネタ拾ってくるよ」
「いってきまーす」
少女の真っ白で小さな手が左右に揺れる。小間使いも娼婦たちと入れ違いになりながらいってらっしゃいませと声を掛けた。それから少女に近寄って懐からあるものを少女に見せる。
「あの、掃除してたらベッドとマットの間に落ちていたお客様の忘れ物が見つかったんですよ。これ、昨日のお客様ですか?」
少女は首を振った。困ったような顔はしていない。つまり全く知らない品というわけでもなさそうだ。
「心当たりはありますか?」
頷いた。
「その人ってまたご来店するでしょうか?」
それにも頷いた。どうやら常連のものらしい。
「とりあえずこれをお任せしても?」
小間使いが内心恐々としながら手渡す。忘れ物は短剣であり、見るからに高価そうな代物であったからだ。
短剣には魔法陣と思われる模様が彫ってある。刃は黒色だが、光にかざすとガーネットのような色を煌めかせる。艶々とした光沢は鉱物のようだが、手にとってみるとプラスチックのように軽い。魔獣かなにかの角を加工した品だろうか。少なくとも一般市民が手にするものではない。貴族階級や上位の戦士が使うような代物だった。
「あと私もちょっと出かけてくるんですが、なにかほしいものはありますか?」
首を横に振る。言った後でしまったと反省する。声を出せないのだから何が必要かなんて少女は言えやしないのだ。
「えっと、お菓子とかどうです?あとはアクセサリーとか」
またも曖昧に微笑む。いつもそうだ。欲が薄いのは重々承知だが、こうも«普通の女の子»が欲しがるようなものを求めないと心配になる。こういったことが小間使いが構い倒す理由なのだが、当の本人は気づいていない。
結局小間使いは少女の欲するものを当てることができなかったのでもやもやとしたものを抱えながら外に出かけた。こういう日はせめてもの思いで花を買って帰り、少女の部屋に飾るのが習慣だった。
たいしたことはないような軽いお使いなのだが、娼館から外に出ることもままならない少女のことを思うと、外を自由に歩くということでさえ特別なことのように思える。
お世話になっている娼館は、いわゆる奴隷階級の人間も幾人か在籍している。しかしあそこまで自由がないのは彼女くらいのものである。言葉は出せず、文字も使えぬか弱い存在。他人に意志を伝えることがどれほどままならないのであろうか。だから小間使いの少女は――いや娼館の皆はこぞって彼女を甘やかす。衣食住に不自由はないように計らっているし、良いうわさを流して客がやってくるように手をまわしている。
「あの店には妖精がいるらしい」
外に出た瞬間、聞こえてきた声。これがみんなが作り上げた少女の幻想。ああバカらしい。小間使いは頭の中で罵倒した。
彼女はそんな都合のいいような、湧いて出てきたものじゃない。だって妖精なら――あんな暗い瞳をせずに済んだだろう。
少女がやってきた日のこと、生まれて初めて見た絶望の瞳は小間使いの目に焼き付いた。
実質この娼館を取り仕切っている中年の女性は、少女を見てもピクリとも眉を動かさなかった。なぜならばそんな絶望はこの世界にはありふれているからだ。同情や憐みは相手を下に見るような行為だと知っていた。娼婦らも少女を軽く一瞥するだけで、親身になるような人間は誰もいなかった。
しかしそんな経験もない小間使いは、この世で最も不幸な少女に出会ったようなものだった。みんなが薄情者に見えてしまい、身勝手な怒りすら感じる。
市場で少女を買って連れてきた店の男が中年の女性に少女を渡す。
「ちょっとは声出せるんかい?……そう。文字は?……だめかい。困ったね、安かったっていってもこれじゃどうしようもないじゃないのよ」
「す、すいやせん」
中年の女性が店の男をなじる。傍らには棒のように細い少女が薄汚れた布を被るようにして着て立っていた。
「あたしゃ売れそうな子を頼むって言ったんだよ?」
「でも別嬪じゃないですか?それにまだ若い。長く客がとれますよ?」
「このバカッ!愛嬌がなきゃ客は居付かないよ!喋れないってんならどうすりゃいいんだい」
「うっ……すいやせん」
「それに……えらく酷い目に遭ってきたんだねぇ、こんな顔してたんじゃ客が萎えちまうよ。まずは飯食って、寝て、心を休ませてからだね」
中年の女性が少女の背中を弱めにたたくと少女はよろめき、あららと中年の女性に支えられて体勢を戻す。
「さて、こんな調子じゃ一人で風呂に入れそうもないね。誰か!新人を風呂入れるんで手伝いをしておくれ!」
声が響いて、注目が集まる。好奇の目で見る者、興味なさげにする者、汚いものを見る目でいる者。さまざまな視線が針の筵のように注がれていた。まるで晒し者だ。
「あ、あの、奥様、私がお手伝いしてもいいですか?」
小間使いは咄嗟に声を上げた。
「あんたが?大丈夫かい?今でも忙しいだろう」
「でもそのお姉さん……その、この店に来たばかりの私にそっくりで……」
小間使いは娼婦と客の子供だ。厄介なのは、母親は高級娼婦として有名な人間であり、父親は貴族の中でもやんごとなき血を引いているらしい。小間使いはいわゆる私生子ということである。
小間使いは、生まれてからしばらくは父親の屋敷に住んでいた。しかし子供を授かることのできなかった正妻は親子に嫉妬し、酷い仕打ちを受けた。親子は追い出されるような形で屋敷を後にした。その時の傷は今もなお彼女に深く残っている。
高貴な血を引いた彼女を、母親と同じ娼館に置いていると父親が見つけ出すかもしれない。だから系列店として繋がりのあるこの店に小間使いとしてやってきた。
仕事は大変だが、屋敷の暮らしと比べればよっぽどいい。もうあんなところに戻りたくない。
つまるところ無意識のうち小間使いは少女に同情していたし、憐れみを感じていた。
だがそれ以上に強く小間使いを動かしていたのは、誰にも感じたことのないようなシンパシーだった。
「……そうかい。それならあんたが適任だね。仕事はこっちで融通きかすからさ、しばらく付き合ってやってくれるかい?」
「はいっ!喜んで!」
「じゃあお行き……えーっと、困ったね、声が出せないんじゃ名前もわからないよ。お前聞いてないのかい?」
「市場の奴らも声無し、声無しって呼ぶばかりでさぁ」
「後で名前をつけてあげないとねぇ。はてさて、やることが山積みだね」
二人の会話をよそに小間使いは少女に駆け寄った。少女の視線は床に向かっている。
「大丈夫ですから」
少女の両手を強く握り、目線が上がる。少女の絶望の瞳に、小間使いの顔が映る。
「私がお手伝いしますから!安心してください」
強く、強く握った手が乾いた手に握り返され、小間使いの目に涙が浮かぶ。彼女の心は死んでいない。それが分かると、彼女がぼろぼろの心でどれだけの苦しみを味わってきたのだろうかと考えてしまったからだ。
涙につられたように少女は柔らかく優しげに微笑み、少女の手を包む。そして小間使いの握った手をほぐし、骨ばって乾いた手で小間使いの頭をなでる。
これは泣く妹に少女がよくやっていた慰めだった。
もっとも音を紡げない少女の過去など、誰も知るよしもないのだが。