雨が降り続き、こもった湿気でどこか苛立ちが募る。窓から見える景色は酷く淀んでいるが、人々は隠れた月を気にすることもなく、恵みの雨に喜ぶばかり。雨に憂鬱さを感じるのは、俺が狂っているからなのだろうか。
寝苦しさに負けて、俺は珍しく娼館の中をぶらぶらと歩いていた。履き慣れたヒールが音を立てる。
すれ違う客や同僚に、愛想よく笑いかけながら上階を目指す。今日の俺は休みだが、同僚の娼婦たちは仕事中だ。部屋の壁一枚隔てた向こう側で何が行われているのか、俺はよく知っている。
ことさらに憂鬱だと感じる何よりの原因は分かっている。淫紋のような術式の下から発生する鈍痛と、止まらない頭痛。血を流す周期だからだ。蒸れた股が苛立たしい。
娼婦ならそれを早めに終わらせるべく、洗浄をすることもある。しかし大概は娼婦たちの休みを兼ねているので、急ぎ金が必要な娼婦の取る手段になっている。
そうだよな。娼婦ってのは金に困窮してる者が少なくないはずだ。俺は急を要する売春をしたことがないんで忘れちまいそうになるぜ。腹痛に悩めるだけ幸せというもんだ。
梯子を登り、屋根裏部屋に入る。物置同然の雑然とした部屋だが、この娼館のどこよりも静かな場所だ。ズキズキとした頭が心なしか落ち着いてくる。
部屋の隅に寄ってうずくまる。肌寒い夜から身を守るみたいに。
俺はまだ世間的にも少女の範囲だが、身体はもう女になろうとしている。それが苦しい。笑えるような淫紋だが、なけりゃ子供が出来るかもしれない。まだガキの年齢なのに。
俺は「前世の男」という鎧があるから、か弱い少女じゃないと思える。か弱い少女は俺のアバターに過ぎないはずだ。なのに肉体はどんどん変わっていってしまうし、心にまで干渉してきやがって。
クソッタレ。こんなことで弱ってたまるか。俺は俺。誰にも干渉されない。俺自身の肉体にですらな。
月光が覆い隠された夜が明けるまで、俺は屋根裏部屋で一人悪態をついていた。
仕事を再開するぞという日。藍色のドレスを着て、月経で少しだけ荒れた肌を隠すよう、俺にしては珍しくしっかりとメイクをした。
特に予約があるわけでもないが、だからといって休みになるわけでもない。数奇な客足は絶えないのだ。
「声無しちゃん、お客さんだよ」
ほら、まだ夕暮れ前だが客がやってきた。いつも同じく、愛想よく笑顔で迎える。
客は、歳をとった男だった。初老ぐらいだろうか。人好きのする笑顔を浮かべている。顔のシワは、男が笑顔を浮かべ生きてきた証を刻んでいた。白毛が目立つ髪は綺麗に整えられている。初老って、ここ娼館なんだが相手出来るのか?
というか、だ。格好がまずアウトだ。司教服をこなれた様子で着込んでいる客は、どう考えても色事に触れてはいけない聖職者だ。そもそもそんな格好でやってきて良いのか?
聖職者の男は、生まれて初めて娼館にやってきたような態度で、歳に似合わず目を輝かせながら部屋をまわし見る。扉を閉めては結界に感嘆し、再び扉を開けては結界の構造を興味深げに眺める。
声を出せない俺は客を宥めることもせず、ただ奇行を放っておく。
突然だが、俺は神サマなんて幻想が嫌いだ。心の底から信仰しているような善人ヅラなんて言わずもがな。だから聖職者なんてモンを尊敬できるわけもない。
肘をついて聖職者を見ているが、そもそも俺が眼中にない。ならばなぜ娼館なんかに来たのだろうか。
聖職者は棚の上に置きっぱなしになっていた、客の忘れ物の短剣を見つけ、勝手に手に取る。流石に客のを好き勝手にされるのは不味いので止めに入る。
「ああ──すまないね。つい、好奇心が勝ってしまった。終ぞ彼がこれを貸してくれたことはないものでね。護身用かい?」
客の忘れ物であり、俺が貰ったものではない。首を振りながら短剣をひったくる。
「おっと、嫌われてしまったかな?」
安心しろ、聖職者の時点で嫌いだ。わざとらしく淑やかに笑ってみせ、意思表示する。
「ふむ、声が出せないと聞いていたが、なにかハンドサインで話すことはしないのかね? それとも文字を書いた紙を指さすとか。それとも、はいかいいえで答える会話形式を取るかい?」
興味深げに捲し立てながら俺に詰め寄ってくる。俺の答えは全てに対してノー。手をひらひらとしながら聖職者と距離を置く。話をしたいんなら普通の娼婦を買え。
「そういえば文字すらも読めないとか。それでは生活に困るのではないのかね? 今はまだなんとかなっているかもしれないが、将来的には必要になるだろう」
おめーは風俗で説教垂れるおっさんかよ。
ご期待に応えてこの世界でも通じる簡単なハンドサインを実践してやろう。親指を立てて、首を横に掻っ切る。全く聖職者ってやつは他人の人生に首を突っ込んで金を恵んで貰っているからか、踏み込んでくることに躊躇がない。
将来? じゃあ他所様は綿密な人生設計の下に生計を立ててんのか? 誰も彼も自分を棚に上げて他人には具体性を求めてきやがる。
娼婦やってるやつの大体は、成り上がる夢を見ながら泥臭く生きている。そして刹那的で享楽的な仕事に身も心もどこか染まっているから、仕事から離れられるのは極々一部。染まらない固い決意を持った人間か、よっぽど幸運な人間か。
俺はどうだって? 言わずとも分かるだろう?
俺に下心ありで文字を教えようとした客は一人や二人じゃない。でも、俺は首を縦に振ることはなかった。
言葉を話せないからこそ客の口は軽くなり、心の重荷を分散させてやれる。
そうやって知った秘密の中には、一介の娼婦が知ることを許されぬようなものが山ほどある。国のスパイでもやれるんじゃないかと思うね。
もし俺が文字を覚えたり、言葉を表せるようになったら。そうなれば俺は即座に殺されるだろう。貴族か、騎士か、冒険者か、はたまた他の誰かか──。覚えがありすぎて誰に殺されるのかも想像がつかない。
なればこそ、言葉を覚えないことが最大の自衛手段となる。
未来がないということによって今生かされているんだ。なにもわからねぇやつが人の人生に口突っ込むんじゃねぇよ。口に突っ込むのはいいがよ。
俺には未来なんて元よりない。ただ命だけがここにある。
「私と話すつもりはないのかな」
だから話せないんだよゴミ。喉を指さす。
「なるほど。ではどうしようかな。本当は君とおしゃべりしようとやってきたんだ。私は一生童貞を貫くつもりなのでね」
聖職者は勝手に魔法で紅茶を沸かし、優雅に寛ぐ。どうぞ、と手で促されて不承不承ながら席につく。
「では、そうだね。君には何を話しても外に漏れないんだって? では告解室で聞いたエピソードでも話すとしようか」
喉の奥で笑いながら、聖職者はつらつらと話し始めた。
手違いで妻を殺した男の話。親友を蹴落とし昇進した男の話。
告解された過去を回想しているような顔をしていて、他人の不幸を心から楽しんでいるような語り口調だった。次第に恍惚にも似た表情に変化していき、聖職者というより悪魔に近い。
「いいね、他人に話すというのは。普段は口外を禁止された話ばかり背負っているから。君の客には常連が多いと言うのも頷けてしまうよ」
一方俺はすっかり冷えてしまった紅茶を眺めていた。
「では最後にもう一つ愚痴を聞いてくれるかい?」
俺は頷く。人の話を聞くのは慣れた仕事だから。
「最近世間を騒がせている勇者だけどね、私は教会の人間として勇者の仲間を選出しなくてはいけなかったんだよ。本当ならもっと上がする仕事なのに酷いと思わないかい?」
知らん。というか、俺は勇者が一体どんな存在なのかすら知らない。ほとんどの人は勇者と聞くと御伽噺を思い出すそうだが、親に絵本を読んで貰った覚えのない俺はそういった知識を一切持たない。俺の妄想の世界でのフィクションとどこまで同じなのかも分かりはしない。
「皆も納得するよう、聖女と呼ばれるような子を放り込んだんだけど、今思えば失敗だったかもしれないね。勇者が子孫を残す気になるような手練手管を持った女性を選べば良かった。あの子は無垢すぎるね」
本当に心から後悔しているというふうな態度だった。一体聖職者の中で勇者というものがどんな扱いなのか、同情を禁じ得ない。
「もうこんな時間か、早いね。また今度面白い告解を聞いたらやってくるよ。それでは」
面白い告解とは、どんな告解なのだろうか。聖職者基準ならばさぞロクでもない話なのだろう。
固定客がまた増え、俺の気分はまた沈んだ。