外に出るのは久しぶりだった。だがあまり外出したという気はしていない。まるでご令嬢のように馬車に乗って、屋敷に入れば執事に案内された。高級娼婦ならば慣れっこかもしれないが、俺はせいぜい館で貴族の端くれを面倒見るくらい。作法なんてカーテシーが出来れば上出来の部類だった。
俺の目の前には美しい女性が座っている。ワインレッドのビロードのドレスを前にすれば、俺の着てるドレスなんて布切れもいいとこ。よっぽど儲かっているのか、身に付けている宝石は前回会った時より大きくなっている。卑しい娼婦に盗まれるとは考えないんだろうな。人間がハエを鬱陶しがるようなもので、気にかかったら潰しはしても普段から警戒はしないんだろう。
女性は世間じゃ毒婦だ何だと騒がれている。なんちゃら夫人って名前だけど、なんちゃらって部分が前回とは違っていた。死がふたりを分かつまで。つまり旦那が死ねば次の男に。そうやって放蕩生活を途切れることなく続けている。
娼婦を呼んだってのに、通された先には料理が待っていた。様式に則ったコース料理じゃない。まずはステーキ。重いわ。それからレバーとトマトが中心の料理たち。無駄に凝っているから一流のシェフが用意しているんだろう。そこら辺の評価は、正真正銘の貧乏舌である俺に下せない。
体が男だったならこのステーキに喜んでかぶりついていたが、今は食べきれるのかを心配しなくてはいけなかった。数年前は餓死で死に掛けてたのに。それがかえって悪夢のようで。俺にとってはまるで過去をなぞりながら行われる拷問だった。まずは小さな胃に料理を詰め込む。口も大きくないし、もしゃもしゃと一生懸命咀嚼した。
娼婦を肥えさせるのが趣味の変わり者?女性と寝るのが好き?違う。そんな理由じゃ俺がお呼ばれされる訳がない。
「はぁ……あなたってやっぱりたまらないわ」
こちらをじっと見つめながら、夫人はステーキを喰らう。本性を隠そうともせず、伸びた犬歯が引き裂いた。
「安心して少女の生き血を啜れるなんて、まるで夢心地よ。処女じゃないのがザンネンだけど、そこは言いっこなしよね」
愛おしげにしているが、彼女が情をかけてくれているなどと勘違いしてはいけない。例えるなら、卵を産む鶏を愛でているようなものだ。目の前にいるのは人外の化生であり、相互理解は不可能である。それは人類が魔族と争う長い歴史が証明している。
それぞれの業界には不文律というものがあって、娼婦にももちろん複数存在する。サキュバスを隠匿すれば永久追放とかそういうのだ。しかしこの街の娼婦に限って、貴族の旦那を持つ夫人とは寝るなという不文律が存在する。一体いつから存在するのか、誰が言い出したかなんてのは分からない。しかしこの不文律の意味は良く分かる。この女がその理由だ。
夫人の屋敷に呼ばれると消える。噂にしか過ぎないが、俺の知り合いの娼婦は友人が実際にお呼ばれして二度と帰って来なかったと、俺が屋敷に行くのを止めようとした。臆病風に吹かれた娼婦が押し付けあった結果、口もきけぬ俺に回ってきたのだからしょうがない。
夫人はまさしくエリザベート・バートリーだ。正体を隠して人の社会に紛れ込んだ吸血鬼。俺が回数を重ねても生きているのは、正体を明かす手段を持たないからに過ぎない。
「ゆっくり食べていいのよ? 私はこれまで狩りを急くことはしなかったし、そのちいちゃなお口で血を生む餌を飲み込むのを見てるのも楽しいわ」
そう言いながらワインを傾ける。しかし瞳は縦に裂けていて、獲物を前にした怪物に相違ない。不興を買えばどうなるのかは火を見るよりも明らかだった。
「私みたいなのが人間たちに紛れているのは不思議? でも魔なるものは人々の澱みから生まれるの。いまの魔王なんてその極みね」
けれど私もその前は普通の女だったのよ、と内緒話のように囁く。
「何百年前かは忘れちゃったけど、アハハ!」
笑いながら鋭い爪を伸ばし、愛おしげに眺める。人間だった頃を回顧する気配など微塵も無い。人の道を外れた喜びに満ちあふれていた。
俺は無力な女に過ぎない。武器を持ったって扱えもしないし、魔法の適正以前に文字が読めない。そこら辺の暴漢にだってなすすべもなく嬲られるだろう。夫人のような存在を前には人間らしく恐怖を覚える。今も逃げ帰っていいなら息を切らして走り出すだろう。
しかし、こうも思うのだ。人外に逃げることが出来たら俺もどれだけ楽だっただろうなぁ、と。人々から生まれた澱みは、時たま個人の負の感情を中心に形を成す。本人が言っていたように夫人がその例だ。憎みさえすれば、呪いさえすれば──俺の知っている地球じゃ絵空事だ。平安時代の話かな?少なくともあり得るとは思えない。
なのに実在します!現実が嫌だったらとことん憎みましょう!そうしたら化け物になって力を振るって人をぶっ殺せます!あはははははははははは!
俺を拾った教会は、子供たちを揃えた日曜学校で馬鹿の一つ覚えみたく教えていた。どれだけ辛いことがあっても負の感情に囚われさえしなければ神様が幸せにしてくれますって。戦争で居場所を無くした子供たちを前に。いっそ憎ませまくって戦争の道具として本人たちに復讐させたらどうだ?そうすりゃみんなハッピーだ!
……なんてまあ、こんなことを言ってるから売られるんだろうがな。当たり前だよ俺。喉を裂かれる前のことは思い出すたびに黒歴史だなぁと記憶を消したくなる。
過去の恥ずかしい思い出と共に最後のレバーを嚥下する。
「ふふ、それじゃあそろそろメインディッシュを頂いても良いかしら?」
夫人が犬歯を見せつけるように口を開く。震える俺を、犬を撫でるように諌めた。
美味しいからつい飲み過ぎた、といって死んでいく娼婦を見届けたのは、初回。俺は気に入られている。だから死んだ娼婦の後釜のようなポジションに収まった。生かすも殺すも夫人の気分次第。
血、血だ。血がちょっと減るだけ。生理と変わらない。怖がることなんてない。人の体を流れる赤い液体。
緊張で、喉が渇く。
『……ケホッ、喉かわいたね』
掠れた幼い声は、忘れようとも忘れられない。
『お姉ちゃんには生きてて欲しいの』
皮と骨ばかりの体が二つ転がっていた。どちらも長くないことは分かっていたから、寄り添い合ってその時を待つ。カサカサの肌を重ねて老婆のようだと笑う。
俺は諦めていた。けれど妹と二人なら怖くなかった。
それなのに。
『飲んで?』
差し出されたのは、皮の内側にある赤い赤い──
『やめろ!』
かつてあった俺の声は何も伝えられない。
「フフ、何見てるのかしら。だからカワイイのよね。あんなに無愛想だったくせに、こんなにぐちゃぐちゃになって」
どうすれば止められた? 夢は幻想ばかりでIFを示さない。
『やめてくれ……頼む……』
呼吸が荒くなって、息がだんだん苦しくなる。
「ほら、大丈夫よ。あなたが飲まれるの。あなたは敗者側なの。首を晒して……そう。いい子ね」
ぷつりと牙が刺さる。痛みは罰のようで、今の俺には喜びだった。どくどくと脈打つ命の証が溢れて皮膚を伝う。涙は出ない。痛みに苦しめば苦しむほど、夫人は赦しを与えるように背中をさする。
「んふふ、ごちそうさまでした」
牙が抜けたそばから魔法によって治癒していく。
「美味しかったわ」
夫人は呆然とした俺にキスを落とす。血の匂いがして正気に引き戻される。生き延びられたという安堵が胸に広がり、深く息を吸う。俺の血で染まった赤い唇が瞼に焼き付いて離れなかった。
『私が死んでもお姉ちゃんが覚えててくれれば、それで私は……』
『そんなこと言うな! お前を失って俺一人で生きなきゃいけないくらいなら、二人で死んだほうがマシだ!』
『本当?』
『ああ。二人で一緒に天国に行って、二人で一緒に生まれ変わろう』
『……私も、それがいい』
『ずっと一緒だ』
『うん、ずっと一緒……!』
あー、こりゃ夢だな。夫人のところで思い出したからか。