突然だが、霧の中の貴婦人 ──【ミスト・レディ】について語ろう。
そもそも彼女は何故悪霊と成り果てたのか? 未練、悪霊に魂を喰われた?
彼女の場合は"未練"でも有るが、なぜ強い未練を宿し海上を行く人々を襲ったのか。少しだけ語るとしよう。
とある貴婦人は、愛する旦那と愛娘と豪華客船に乗船。煌びやかな調度品に彩られた客船に貴婦人は、間違いなく旅の思い出になると心躍らせる。
愛娘と海を眺めながら食べるアイスクリーム。
朗らかに笑う愛娘の笑顔が、彼女にとって何よりの宝だった。どんな工芸品や宝石であろうとも、愛娘の笑顔が彼女にとってこの世で一番の財。
人の幸福に齎すのは人でもあり、人に不幸を齎すのもまた人だ。
豪華客船に迫る一隻の海賊船が、勧告も無しに砲撃したのは、実に一瞬の出来事であり、また砲撃で数多の生命が奪われたのも一瞬だった。
貴婦人は我が子を抱き締め震える身体を抑え付け、海賊を睨む。
下卑た眼差しを向ける海賊、彼等の狙いは貴族が保有する金品だ。
当然貴婦人は我が身と愛娘を守るため、着飾った宝石と有り金の金貨を差し出しながら命乞いする。
『どうか! どうか、この子の命だけは……!』
だが、現実は余りにも無情だった。特に貴族の不当な行いによって島流しの刑に処された海賊達にとっては、貴族は憎むべき敵。
故に海賊達は貴婦人の願いを踏み躙り、貴婦人を娘から引き剥がした上で、刃を愛娘の小さな背中に突き刺したのだ。
絶叫する貴婦人と嗤う海賊。
愛娘の遺体を海へと投棄て、絶望に苛まれる貴婦人が最後に見たのは──
我が子を殺された強い憎悪から、いつのしか貴婦人は悪霊へと成り果てた。
最初は彼女にも理性が有ったが、愛する者を喪った失意が強い憎悪と満たされることの無い飢えて変わる。
だが彼女は僅かに遺った子の愛情で理性を保ち、同じく海上で不幸にあった子供達の霊魂を集めた。
喪った我が子の霊魂を探すため、また一緒になるために。
それでも悪霊と成り果てた彼女の理性が尽きるのは、必然であり避けようがない運命だ。
貴婦人は飢えと憎くて憎くて仕方ない海賊達への報復心から子供の霊魂を取込み、力を付け、いつの日か目撃者に【ミスト・レディ】と。そう呼ばれる様になったのだ。
蝋燭の灯りに照らされた船室で、レオは一冊の古びた本を閉じた。
「ほう、あの悪霊にそんな過去が有ったとはな」
同情はしないが無力感に苛まれ堕ちる事には理解が及ぶ。
レオはそう小さく呟き、本の表紙を撫でた。
この本は【ミスト・レディ】を討伐した後に、船長室に無造作に置かれていた。
タイトルの無い無銘、著作者不明の書物。白鯨海賊団の誰の物でもない。
所持者が判らない書物を破棄するのも惜しいと感じたレオがグランバに譲って欲しいと頼み、入手したのが事の経緯だ。
直感的にこの書物を誰が置いたのか、何を伝えたかったのか理解したからだ。
「ミディアも粋な事をする。彼女をただの悪霊と終わらせたくは無かったのだろう。前部には子供達の無念が記されていたが、成る程これは世に広まるべきだな」
人間界の書物を収集する趣味が有るが、この書物は個人で所有するより誰かの手から誰かの手に渡り、語り継がれるに値する。
「悪霊は人が生きる限り途絶える事は無いがな」
レオはそう一言呟き、瞳を静かに閉じるのだった。
彼が読み解いた書物は、過去に起きた出来事を記録する魔法が仕込まれた魔法書だ。
その魔法が仕込まれた魔法書は、世界の何処かに密かに出現し記憶を遺していく。
決して誰にも語られず幕を閉じた物語を遺すために──
土日は更新をお休みして月曜から三章の更新を始めます。