燭台の火に照らされた地下水路の中で、レオは足元に座り込むクマのぬいぐるみに視線を向けていた。
やがて背後から忍びよる気配に振り返る。
「お前か……ジドラ」
ジドラはフードを取り外し大胆不敵な笑みを浮かべる。
魔族の一部は人間の生活に溶け込み、魔族領に帰還せずふらりと気の向くままの旅を送っている。
行商人ジドラはそんな魔族の一人で、レオは彼が人間との間に子を成したと記録していた。
「レオ様、先程勇者リアとお会いしましたが……本日中には領主の屋敷に向かうとのこと」
「……そうか、俺は俺の用件を片付けた後に向かうとしよう」
「ああ、レオ様に襲い掛かった暗殺者の件ですかい? 彼なら領主の屋敷に呼ばれたそうで此処には来ませんぜ」
その言葉にレオは顔を顰めた。
暗殺者が追ってくるならここで迎え討つ算段だったが、予測が外れ屋敷に乗り込まなければならない。
もっともこの地下水路は屋敷の厨房と中庭の井戸まで続いていることは、一日中調べて判明している。
潜入するならここから、本来なら真正面からと行きたいところだが、それでは無駄な戦闘を強いられるだろう。
特に魔力量に限りが有る状態では正面突破は自殺行為だ。
「ふむ、なら屋敷に侵入するがお前はどうする?」
「遠慮しておきますよ。……ああ、それと混沌結晶についてですがね、アレはどうも人を狂わせ魔物を魅了するそうで、魔核研究所にも運び込まれたらしい」
ルシファーが名付けたにしてはいいセンスだと、レオは混沌結晶を評価しながら眉間に皺を寄せた。
あの頭のぶっ飛んだ連中に混沌結晶が渡っただけでも胃が痛む。
今でも魔核研究所は、不老不死誕生の実験を進めているという情報が有る。
人間の魔核に魔族の魔核を溶け込ませることで、長寿と再生力を得ようと試みた。
噂では実験対象に選ばれているのは、勇者リアとその仲間達だという。
「……やはりリアの再生力は……」
彼女本来のものなのか、それとも弄られた魔核の影響なのか。
そもそもレオがその情報を掴んだのはつい先程。
それ以前に不老という形は、魔法使いの到着地点【魔女】が体現しているが、アレは魔核に宿る膨大な魔力で若さを保っているに過ぎない。
(世界、土地に恵まれているというのに人間の欲は底知れんな)
「諜報員として放ったぬいぐるみ族ですらやっと掴んだ情報だが……お前達は引き続き人間社会に溶け込み情報収集に当たれ。ああ、ここ一月余りの情報は魔王城に送るなよ」
クマのぬいぐるみ族は立ち上がり、
「了解しやした魔王様!」
野太い声で水路に入り込み流されて行く。
このまま地上に流れ、誰かに拾って貰う計画のようだ。それそれでゴミとして処理されないか心配では有るが、彼らなら何とか生きていけるだろう。
「……やあ、まさか百年前に人間の市場にぬいぐるみ族を紛れ込ませるなんて思いもしなかったなあ」
「連中の同族間による長距離念話魔法に着目した結果だ。それに愛玩として適しているだろう?」
確かにあの見た目は人間を虜にするとジドラは思う。
現に勇者リアとその仲間達ですら虜にされているのだから。噂では滞在している王城の部屋には彼女達が集めたぬいぐるみが大量に置いてあるとか。
「……ふむ、しかし聞けばニヶ月程前から樹海国家ユグドラシルの情報が途絶えたそうだ」
「……あそこは戦乱当時から鎖国はしちゃいますが、行商人は通してますからねえ。しかし──」
「うむ、ユグドラシルには天界の門が存在している。俺も一度あそこから天界に向かったが、ルシファーは天界の門を通過したと思うか?」
レオの問いにジドラは考え込む。
通常の手段で有れば門を通る必要が有るが、取り分け魔力が高い者は次元の壁を超えた転移魔法で移動可能だ。
しかし、それは異空間の流れに押し流されるリスクもあるため誰も多用しようとはしない。
そもそもレオ自身が過去に、三界世界とは全く異なる法則が働く世界に流れ付いたこともあるぐらいだ。
ただ、ジドラは思う。人間界側の次元の壁に修復不可能な孔を開けばそこから通り抜けることも可能だと。
「次元の壁に孔でも開けたんですかねえ」
「天界の兵器ならば可能だが、女神ウテナが許可するはずがない代物だ……しかし、その女神ウテナもどうなったことやら」
「殺されたら何かしらの崩壊は起きるかと思いますがねえ」
「うむ。神々が死に絶えし時、世界の時は停滞し灰色に染まると言い伝えられては居るが……そんな前兆は無いな」
レオは女神ウテナの件は考えても仕方ないと思考の外に追いやる。
仮に女神なら自らの民の手綱ぐらい握っておいて欲しいと思わなくもないが、とレオは息を吐く。
「……ところでお前はまた行商人として旅に出るのか?」
「ええ、十二年も放ったらかした嫁さんにそろそろ会いに行こうかと」
「……お前は、随分変わった。昔は近付く者は殺す、抜き身の刃のような男だったのにな」
「ハハッ、昔の話ですぜ? それに人間界に来て太陽を見たら……なんだか誰かを愛したいそんな感情が芽生えたんですよ」
レオはそんな感情を未だ芽生えていないが、少なからず人間界に来てから百年の間で魔族は多少なりとも変化しつつ有る。
家族を持つ者が僅かではあるが増えつつ有る。しかしそれは千年以上生きた魔族のみに現れた変化だ。
それも人間を愛する者も現れ始めたのは、レオとセオドラにとって大きな兆候と呼べるものだった。
(太陽、あの温かさが冷え切った魔族の心を溶かすか)
やはり魔界に太陽は無くてはならない。
「……愛する感情が芽生えたのなら、なぜ妻子を放置した?」
「……どう愛すれば、どう育てればいいのか分からず逃げてしまったんですよ。理解できない感情が胸を占めることに恐怖を感じたと言えば分かりますか?」
「ふむ、概ね人間界で家族を捨てた者はそう語っているな。……戦乱が落ち着き次第、新たな法を立てるとしよう」
ジドラはきっと良い方向に持っていく方だと確信しながら、フードを目深く被り直す。
「それじゃあそろそろ行きますんで、他に何かご要望は?」
「ああ、この周辺の魔物が活発化しているそうだ、ついでに数を減らしてくれぬか?」
「お安い御用で」
ジドラは一礼し、静かにその場から立ち去っていく。
レオは身を振る返し屋敷の地下まで足を運ぶのだった。
全ては混沌結晶の破壊するために──