樹海が広がる広大な大地。その中心に天まで聳える大樹ユグドラシルがユグドの地をその影で覆う。
樹海国家ユグドラシルとは、大樹ユグドラシルの幹に建造された都市国家だ。
黒髪に鋭い目付きを宿し、無表情に大地を見詰める大柄の男──ザガーンは息を吐く。
「鍵は何処へ……これではいつまでも天界に入れぬではないか」
天界の門を開く鍵がユグドラシルから消えた。それを知ったのはザガーンとナナが邪竜隊と共に入国してから三日後のできごと。
二人は早速鍵の行方についてユグナ女王に尋ねたが、鍵の所在に付いて何も知らない様子。
そもそも鍵の管理は王家の役目なのだそうだが、ある日忽然と鍵が目の前から消えたという。
誰かが転移魔法で鍵を盗み出した。そう考えていたユグナ女王はザガーンとナナの素性を知りながら、調査に協力した。
だが、行商人見習いに扮し調査を行ったが、結局の所今日に至るまで鍵の所在は掴めず、情報収集に当たらせた部下からも有益な情報も無く、悪戯に時間ばかりが進んで行く。
「本当に鍵は何処に行ったんでしょうか」
悩むザガーンを隣から話し掛けるナナに、彼は首を横に振る。
「怪しい連中は隈なく調べたが、鍵の所在を知らぬのではな。……調査も一からやり直しだ」
「……そうですね。また見習い行商人ザガーンとその妻ナナですね」
行商人リドの下で修行に励むザガーンとその妻。この国で活動するに当たって用意した偽りの身分だ。
ただ、偽りの行商人見習いと夫婦生活も存外に悪くな
いと感じる自分が居る。
「偽りの関係はいずれ本物になり得るのか?」
心から漏れ出た言葉に、ザガーンは僅かに眉を寄せた。自分は一体なにを言っているんだ、と疑問が遅れてやってくる。
突拍子も無い言葉に、ナナは風で靡く髪を抑えながら微笑んだ。
「お互いが心から望めば本物になり得ますよ。例え立場も種族も異なるとしてもです」
「そうか。では、リドの下に戻り商売の続きと行こう」
ザガーンとナナは商業区へと歩き出す。
「安いよぉー! チルド産の野菜にチルド牛の燻製肉が今ならたったのユグド銅貨二枚だ!」
赤髪の青年──リドの威勢の良い声に惹かれたユグドラシル人の客人が露店に脚を運ぶ。
そして一人が燻製肉を凝視すると、リドは攻勢に出る。
「試しに燻製肉を試食してみては如何でしょう?」
リドの言葉にナナが愛想笑いを浮かべ、一口サイズのチルド牛の燻製肉が盛られた取皿を差し出す。
「それじゃあ試しに」
香料の効いた匂いに食欲を掻き立てられた客人は、燻製肉をひとつまみ、そのまま口に放り込みゆっくりと噛み締める。
「……! これは中々。三日分! 三日分くれ! あとそっちの水々しいレタスも追加で!」
羽振りの良い客人にリドは微笑む。
「毎度あり!」
注文から素早くザガーンが三日分の燻製肉とレタスを別々に包み、紙袋に入れナナに手渡す様に促す。
ザガーンの風貌では客人を威圧させ、怯えさせてしまう。だが、逆にナナの様な可憐な少女は客引きにも持って来いで、
「お待たせしました!」
「お、おう! ……惜しいな。ユグドラシルを放れる自分が惜しい。君の様な可愛い娘と離れなきゃならないなんて」
「あっ、すみません。わたしは夫が居るので……」
口説く客人から裏方で商品を補充するザガーンに、ナナが目を配る。するとたちまち口説いた客人の表情が青ざめ、
「す、すいやせんしたぁぁー!!」
購入した商品をしっかりと忘れずに走り去る彼の後姿にナナはポツリと。
「怖く無いですよ。本当に優しい方です」
誰にも聴こえない言葉を漏らした。
リドの手伝いを終え、夕暮れが大樹ユグドラシルを照らす頃。
リドは酒場で上機嫌に酒を呷る。
「いやぁ〜旦那とナナ様のお陰で商売繁盛ッスよ!」
「ふふ、上手くいって何よりです。でもわたしと彼はこれと言って何もしてませんけどね」
特別な事は何もしていない。リドに教えられた接客術を実行し、狼藉を働く者にザガーンが応対する。たったそれだけの事だ。
ナナがザガーンに視線を移すと彼は、静かにパンを齧る。行商人の日々の食事は後先考えなければならない。
今の商が上手く行くとは限らないからだ。商品の価値の下落、通貨の暴落が頻繁に起こる戦時中では特にだ。
「足ります?」
「……後で樹海の魔物を狩る」
ナナは思う。リアも結構食べる方だったが、ザガーンはその倍以上は食べる。パン三つとシチューでは彼の腹を満たす事は叶わない。
「旦那、少しは加減してくださいよ? 旦那のお陰でユグドラシルの魔物は大人しく成りましたけどね、その分兵の仕事が無くなると女王様もぼやいてましたし」
「……善処はしよう。しかし今日で仕入れた商品は全て捌いたのではないか?」
商品の在庫に付いて尋ねるザガーンにリドは名残り惜しそうに、
「ここで売る商品が無くなった以上、今度はメンデルの顧客に商品を仕入れ売り付けなければなりません。王都まで二週間、仕入れの日取りを考えても……旦那方とは今日で御別れでしょうね」
「そうか」
別れを惜しむリドに対してやはり無表情のザガーンに、彼は肩で息を吐く。
滞在中にザガーンの表情の変化が見られなかった。それは仕方ないかもしれないが、もう少し別れを惜しんでもいいじゃないか、とリドは不満気にナナに視線を送る。
「彼は充分惜しんでますよ。ほら、僅かに眉が下がってるでしょう?」
言われてリドは注意深くザガーンの表情を凝視すると、確かにナナの言う通り彼の眉が下がっている。
「旦那ぁぁ〜!!」
「お前も達者でな」
ザガーンの言葉にリドは酒を呷りながら咽び泣く。彼の様子にナナは微笑み、商人リドと最後の夕食を共に終えるのだった。