幻想郷で生き残れるか? ~不運にも迷いこんだ者たち~ 作:ごぼう大臣
「エリカちゃーん、シホちゃーん! ミチカちゃーん! ……ああ、皆どこ行っちゃったんだろう」
夜が白み、冷えて湿った空気がただよう時間帯。朝露が残る一面の草原の中を、一人の少女がさまよっていた。
名は、アサクラ ノゾミ。▼▼中学と書かれた制服姿で、長い黒髪をサイドアップにまとめている。丸く大きな目は純粋そうな印象を与えるが、今この時、その目は焦りにくもっている。
「うー……重たい……」
ノゾミは持っていた大きな旅行カバンを地面に置き、小さくため息をついた。修学旅行の荷物であるカバンを、彼女はかれこれ一時間ほど、一人で抱えてさまよっていた。
彼女を含めた▼▼中学の三年生は、修学旅行の移動のために4台に分かれたバスに乗っていた。ところがそのバスが不意に濃霧に包まれたかと思うと、気がつけばノゾミはこの誰もいない草原に、荷物と一緒に横たわっていた。
目が覚めるまでの間に何があったのか、頭の中にはまるで記憶が無い。携帯で時間を確かめたが、バスにいた時から三十分も経っていなかった。
一体何があったのだろう。昼間バスにいた頃からそう経っていないのなら、周りの風景が朝方なのは何故なのか? 知らぬ間に外国にでも来たというのか?
「……っ!?」
ノゾミが途方に暮れていると、突然足にむずがゆいような感覚が走った。驚いて足を見ると、膝ほどの高さの草むらから小さな虫の
「いやっ!」
ノゾミは顔色を変えて反射的にブユをつぶそうとしたが、直前に思いとどまる。そして首をふるふると横に振ると、その場から急いで駆け出した。虫が全身にでも回ったかのように歯を食い縛り、嫌悪感を存分に顔に出していたが、彼女はこらえた様子で走り続けていた。
少しの間走っていると、やがて草むらの丈が低く、いくらか踏み
「ふぅー……」
膝を折って息を整えてから、彼女は先ほどまでブユがたかっていた足を見る。案の定、何ヵ所も赤い噛み跡ができ、まだ何匹かがしつこく血を吸っている。
あちこちがムズムズするのをこらえつつ、ノゾミは残っているブユを震える手でていねいにつまみ、近くの草むらに投げ捨てた。そして足をわずらわしげに撫でると、かたわらの荷物を探り出す。
「そういえば虫よけ使ってなかったな。まさか知らないうちに森にいるなんて……」
一人で思い出したように言い、彼女はまず虫さされの薬を足に塗ると、次に虫よけスプレーを全身に噴射する。ケミカルな匂いが鼻をつき、少しだけ頭が冷静になる。かれこれ目覚めてから、森で縁遠く感じていた人工物の気配。
しかし、その直後に彼女は苦笑いし、スプレーや薬をしまいながらつぶやいた。
「でも、ちゃんと効いてくれるかな……こんな薬で」
そう言って、ノゾミはそっと辺りをうかがう。彼女の懸念はさほど間違ってはいなかった。視界に映った一匹の虫を見るだけでも、それが分かる。
目の前の一本の木に、大きな羽を持つ蛾が止まっている。正確には"蛾らしきもの"と言うべきだろうか。広げている羽は手のひらの二倍ほどの大きさがあり、虹色のまだら模様。そして羽から中心に向かうとある顔や胴体はケバケバしいピンク色で、もっさりと毛が生えている。
ノゾミはそれを遠巻きに見つめ、異様な姿に顔をしかめた。背筋に寒気が這いのぼり、息がつまるほど苦しくなる。その嫌がりようはブユの時よりも一層ひどかった。
昆虫界広しといえど、こんな蛾は見た事がない。いや、熱帯地域ならいるかもしれないが、周りの景色はどうして、ノゾミにとって身近な気候のそれに近かったのだ。
実際、こんな非現実的とまでいえる虫を、彼女は目覚めてから何度も見てきた。
血のように真っ赤な、50センチほどある蜘蛛、オオスズメバチと見間違えるほど巨大な、黄金色のハエ。ノゾミはそれをおののきつつも避け、ここまで逃げてきた。
「とりあえず行こう」
困惑しながらもノゾミはそう言い、荷物を持って歩き出す。カバンが周りの虫に触れないよう注意し、踏みそうになっても出来るだけ避ける。その気配りは虫を嫌悪しての行動でもあったが、彼女の場合、それだけではない。
「――あっ」
ふと、ノゾミがかたわらの木に目を留める。ある枝にしげった葉の一枚から、毛虫が落っこちそうになっている。
例によって、子供の上腕ほどの長さのある、巨大な虫。しかしその不気味な幼虫へノゾミは見るなり駆け寄ると、手を差しのべた。
素手では刺されるかもしれないので袖の部分を使い、毛虫を葉の上へ押し上げてやる。のそのそと葉に乗った毛虫を見て、ノゾミはほっと息をつき、足早に立ち去った。
親切、というべき地味ながら大きな長所が、彼女にはあった。迷子の子供がいれば親を探してやり、財布を拾えば漏れなく交番に届けて分け前も辞退し、重そうな荷物を持つ人がいれば一緒に持ってやる。今のような見知らぬ場所においても、嫌いな虫に対しても、その気概は健在であった。
それからさらに十分ほど歩くと、ノゾミはようやく草原を抜け、土を均した道らしき場所に出た。左右を見渡しても人のいそうな場所は見当たらないが、これをたどれば誰かに会えるだろうと、彼女は一安心する。
その時。
「あの、そこの人!」
「え?」
背後で急に、小さな子供の声が呼び止める。ノゾミが振り向くと、十歳ほどの見た目の、少女が立っていた。
「あなた、さっき毛虫を助けた人だよね?」
「へ……あ、うん。そうだけど」
だしぬけに聞かれ、ノゾミは戸惑いながらも返事をする。さっきまで誰もいなかったのに、と思いながら彼女はその妙な少女をまじまじと見る。
緑色の短いショートヘアに、細めの体を包む白シャツ、紺色のキュロットパンツ。少年のようにも見える外見で、背中には燕尾状の二股に分かれたマントを羽織り、頭には虫のような触覚がついている。
そんな彼女はノゾミの返事を聞いて顔を輝かせると、素早く駆け寄って上目遣いに言った。
「わぁ、良かった! 仲間から『親切な外来人がいる』って聞いて、探してたんだ!」
「……がいらい……??」
話が見えずに、ノゾミは愛想笑いをして少女を見る。見慣れない格好で怪しさもあったが、この状況において貴重な会話のできる相手である。そして見たところ友好的でもあり、ここは邪険にしてはいけないだろう……。
などと頭の隅で考えていたノゾミだったが、少女の次の言葉で、その目が点になった。
「はじめまして、私はリグル・ナイトバグ。幻想郷の虫の女王だよ」
「……はい?」
――
「……それなら、リグルちゃんは虫の妖怪って事……?」
「うん。こんな姿だけど、幻想郷では唯一の女王様だよ」
数分後、ノゾミと並んで道を歩きながら、リグルは胸を張ってそう言った。
幻想郷、ノゾミが聞いた事のないその地名が、今いる一帯の地域の名前らしい。リグルいわく、人間が幻想と認識している神や妖怪の楽園らしい。リグルはその中で、虫の妖怪のリーダー格であるという。
正直、ノゾミはにわかに信じがたかった。幻想郷という世界じたいは、確かに今まで見てきた巨大な虫たちからして信じないでもないが、ならばなおさら、その女王たるリグルが小さな少女の姿をしているのが不自然に思えた。
そんな事を思いながらリグルを見つめていると、ふとリグルが振り向き、困ったように笑った。
「あんまり怖くないでしょ、私」
「それは……まぁ」
下手にうなずくと失礼に当たるのではと思い、ノゾミは言葉を濁す。そんな彼女の心情を見透かしてか、リグルはおどけるように肩をすくめた。
「無理もないけど、こっちにも事情があるんだよ。虫ってさ、やっぱり見た目とかでよく気味悪がられちゃうから、嫌われてつぶされる率が高かったんだ」
「…………」
「それで比較的に人気があったホタルの妖怪の、私が女王の座についたって訳。まあ数が多いのが救いだったね」
「そうだったんだ……」
リグルの話に、ノゾミは形だけの返事をした。リグルや虫たちに同情する気持ちと、嫌うのに共感してしまう気持ちが、内心でせめぎ合っていた。
そんな葛藤を知ってか知らずか、リグルはパッと表情を明るくして向き直り、感心して言った。
「ノゾミさん……だったっけ? その点、あなたはすごいと思うよ」
「え、何が?」
「だって、困ってる虫を真っ先に助けてくれたじゃない。あんな人、あまり多くないよ」
「大した事ないよ。体が勝手に動いたの」
ノゾミは苦笑し、短く答えた。動く前に少しでも考えるヒマがあれば、虫に触る事など耐えられなかったに違いない……と、彼女は自分ながらに想像できた。
それは口には出さなかったが、リグルがすごいと言ってくるのが、どうにも心地よくなかった。ノゾミは話を合わせて愛想笑いをしながら、うっすらと幼少期のある体験を思い出していた。
――彼女の父は働き者だった。毎日会社へ遅刻もせずに出かけ、定時に帰れる日などほとんど無いにも関わらず、暇があれば家事も喜んで手伝った。
当時は小学生、遊びたい盛りであったノゾミの目には、それはとても大変に見えていた。ある日、ノゾミはふと、父にこう言った。
『お父さんはえらいね。仕事と家のお手伝いを両方してるなんて』
それを聞いた父は、『ありがとう』と返してから、事もなげにこう言った。
『でも本当は、このくらい出来なきゃダメなんだ。私は当たり前の事をしてるだけさ』
『えー、でももっとエラそうにして良いんじゃない? クラスのクロサワくん家なんて、お父さんはろくに働いてないって』
からかうように言ったノゾミだったが、父は苦笑いし、いましめるように話しだした。
『ノゾミ、あまり自分をえらい、すごいと思いすぎない方がいいんだよ。特に他人と比べてはダメだ。ムカデの
『む、ムカデ……? 知らない……』
『一匹のムカデがある時、アリに会ってこう言われた。「ムカデさんはすごいですね。そんなにたくさんの足を、絡ませもしないでスイスイ走れるんだから。僕にはとても出来ないや」と。
それを聞いたムカデはふと、「はて、なぜ私は今までこんなすごい事が出来ていたのだろうか」と疑問に思った。その瞬間、今まで苦もなく動かしていたはずの足が、思うように動かせなくなった……というお話さ』
『……?? よく分かんない』
『人間にもね、見返りや理屈ぬきでやれている事がたくさんある。それを「自分はコレができる!」とあんまり意識したら、かえって出来なくなってしまう事があるんだ』
そう言って、父はノゾミの肩に手を置き、しんみりと続けた。
『お前にはまだ難しかったかな。でも、考えすぎずにやった積み重ねが、だんだんと長所になる事もあるかもしれないよ』――
その父の解釈が正しかったのかは分からない。ただ、ノゾミは父の言う通り、理屈より先に動くというのを実践していった。その結果に習慣となり、彼女の性格の一部となったのが、虫を含めて周りに向けた親切だった。
(懐かしいなぁ……)
ノゾミがボンヤリと思いにふけっていると、隣から、大声で呼ぶ声が聞こえてくる。
「……ゾミさん、ノゾミさん!」
「……あ、え?」
「もー、私の話ちゃんと聞いてた?」
「ゴメンゴメン。何だったっけ」
どうやら知らず知らずにリグルを無視してしまったらしい。リグルは眉根を寄せて「ムシだけに……」などとコッソリつぶやいた後、仕切り直して口を開いた。
「だから、仲間を助けてくれたお礼に、他の外来人を探してあげようかなって言ったの」
「本当に!?」
リグルの言葉を改めて聞いたとたん、ノゾミは驚きと喜びが入り交じった表情でリグルを見た。リグルは近くなった相手の顔にまごつきつつも、やれやれといった調子で続ける。
「か、勘違いしないでよ。仲間が言うから仕方なく力を貸してあげるんだ。感謝するんだね」
「うん! ありがと~」
照れくさそうなリグルに、ノゾミは屈託なく笑って礼を言う。その場では本当にありがたく、本心から感謝していた。
しかし、次にリグルが口にした言葉で、ノゾミの顔色がさっと変わる。
「じゃあ紹介するよ。全部でざっと百億匹はいる」
「……え?」
ノゾミは嫌な予感がし、言葉を失った。リグルはそれには気づかず、合図のように一つ、指を鳴らした。
瞬間、ノゾミの目の前の光景が一変する。
リグルの足元の土が、突如下から突き破られたように穴を空け、黒い波のようなものが吹き出してたちまち地面に広がりだす。よく見るとそれは数えきれないほどのアリの大群で、リグルの影を埋め尽くすかのように隙間なくうごめいている。
それを見ただけでノゾミは絶句してその場に倒れてしまいそうになったが、恐怖はそれだけに留まらない。
アリの大群に続き、今度は周りの茂みから無数のてんとう虫が這い出てきた。赤地に黒の斑点模様が密集し、赤黒いかたまりとなってアリと共に地面を彩る。
続いて、そばにある木々の枝から、大小さまざまなクモが糸に垂れ下がって現れた。エメラルドグリーンの小グモから焦げ茶色の毛が生えたクモ、そしてあの腹部に虎のような模様が入った大グモまで、まるで昆虫図鑑の絵のように一匹のこらず全身をさらけ出している。
「あ……あぁ……」
ノゾミは情けない声をあげてへたり込んだ。もはやリグルを頼ろうという気持ちは真っ白に塗りつぶされ、代わりに恐怖と焦燥があふれ出す。体が震えて言う事を聞かず、涙が勝手ににじみ出る。
しかし、今度は背後から、耳を通じて新たな恐怖が遅いかかる。先ほどまで雲一つなかった上空から、何かの羽音が何重にも共鳴してこだまする。その騒音に嫌な予感がしたノゾミは、ネジの切れた人形のように振り向いた。
そこには――彼女の想像通り――ガスのように空を覆う、黄色いハチの群れがあった。ブオォン、という野太い羽音を鳴らし、肉眼で見えやすい巨大なオオスズメバチと、小さく数の多い種類のミツバチ、ついでに黒いクマバチが混ざり合って頭上に渦をつくる。
「……………………」
ノゾミはしばし、周囲の光景を呆けたように見つめていた。リグルが「ハチは社会性が高いから扱いやすいんだ」などと呑気に話していたが、耳に入らない。
もしかすると幻想郷だけに、周りの虫たちも現代のそれに似ているだけで、細かい違いがあったり、意外と賢かったりするのかもしれない。しかし今では、ノゾミには恐ろしい異種の生物にしか見えなかった。
「夜行性の蛾やコガネムシを使えば、二十四時間みんなを探せるよ。これが虫の力……あれ?」
ペラペラと自慢げに語っていたリグルは、茫然自失で固まっているノゾミに気づき、手を差しのべた。
「どうかしたの、座り込んで。具合悪い?」
虫を怖がっているとは思いもよらないのか、リグルはためらいもなくノゾミを助け起こそうとする。
しかし、彼女がノゾミの手をつかんだ瞬間、ノゾミはびくんと体を震わせ、低い声で言った。
「……離せ……」
「へ?」
「離せ、って言ってんだろがぁっ!!!」
まるで別人のような怒鳴り声をあげてノゾミは手を払いのけると、戸惑っているリグルを思い切り蹴飛ばしてしまった。
警戒していなかったリグルはあっけなく吹っ飛び、アリとてんとう虫の絨毯の上にどうと倒れる。ノゾミはそれに振り返りもせず、荷物も何も置いて、無我夢中に逃げ出した。
走る背後で、虫の羽音がうるさく鳴る。それがいつまでも耳にこびりついているような気がして、ノゾミはいつまでも、ひたすらに逃げ続けた。
――
それから、彼女は運よく"巫女"を名乗る人物に保護され、現代に帰る事ができた。
コンクリートやアスファルトに囲まれた社会にいると、幻想郷での出来事を夢かと思う時がある。しかし、両親の驚きようや日々の態度、いまだ姿を消しているらしい同級生らの報道を見るに、あれは実際の出来事なのだと実感する。
何の罪もないのに好意をむげにしてしまったリグルや、間接的に見捨ててしまった同級生たちを思うたびに、ノゾミは内心で胸を痛めた。
しかし、その他に心に引っかかる事が、一つ……。
ある日、失踪のショックを考慮して家で休まされていた時の事。彼女は自室の隅で、一匹の小グモが糸にからまり、机に引っかかってもがいているのを見た。
以前のノゾミなら、気味悪がりながらもどこかへ逃がしてやっただろう。しかし、その時の彼女は違っていた。
見るなりティッシュを一枚取り、まるでゴミのように小グモを取り上げると、ためらいなくつぶしてしまった。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
ただ、子グモの死骸があるだろう部分を見つめながら、内心でかすかにある疑問を持つ。
『自分は、何故今まで虫を助けるなんて真似ができていたのだろう?』
あの寓話のムカデをちらと思い出し、ノゾミは事もなげに子グモをつつんだティッシュを投げ捨てた。
アサクラ ノゾミ――生存
コンチュウカイ=ヒロシって書くと、なんか人の名前みたいだと思った