幻想郷で生き残れるか? ~不運にも迷いこんだ者たち~ 作:ごぼう大臣
「……みんな、一体どこ行ってしまったんだ……」
日差しの強い昼下がり。終わりの見えない鬱蒼とした森の中で、中年らしき見た目の男性はため息をついた。
男性の名はカワグチ マサシ。白いポロシャツに白茶色のチノパンという地味な格好と、やせこけた体格が老けた雰囲気を醸し出している。
彼は午前中の時間帯には、▼▼中学の修学旅行の引率として、生徒らと一緒にバスに乗っていたはずであった。しかし、そのバスがとつじょ白い霧に巻き込まれてから、彼には記憶がない。目が覚めたら、一人きりで森の中にいたのだ。訳も分からず生徒らや他の教師の名を呼んだが、ついぞ答えてくれる者はいなかった。
「つっ……」
森の中をあてもなく歩いていたカワグチはやがて、顔をしかめて膝を折った。中腰になって押さえた両足が震えている。
彼は今年、37になる。体は少しずつ衰え、歩き続けるのもつらくなってきた。
細面な顔のシワを深くしてため息をつき、汗をぬぐう。40手前にして生え際の後退してきた額が、かすかに光った。
「はぁ、まいったなぁ……」
いまだ生徒の発見どころか、事態の把握さえできていない。しかしカワグチはあきらめず、重たい体を引きずった。
自分は教師だ。教え子をあずかる教師だ。何度も自分に言い聞かせ、歩を進める。
そうして、30分ほど経った頃。どこからか、川のせせらぎが聞こえてきた。音から察するに、おだやかな流れである。
ありがたい。川の水が飲めるかは分からないが、少し涼んでいこう。そう思ってカワグチが音に近づいていくと、不意に目の前の立木が開け、幅の広い川があらわれた。
その川はちょうど中流にあたるであろう見た目で、対岸までの距離は20メートルほどもあり、間には両手で持てるくらいの大きさの石がいくつか顔を出している。この川をたどってみようか、などと考えながらカワグチが砂利を踏みしめ川岸をうろついていると。
「ん!?」
ふと、川のただ中に妙なものを見つける。少し下流へ向かった水流の真ん中にある、小さな中洲。それによりかかるようにして、誰かが沈んでいるのだ。
その人物は胸から下まで水に浸かっていたが、見た限り女性のようで、それも10代なかばくらいの少女であった。赤いリボンのついたセーラー服を着て、ショートの黒髪や白のキャップまで濡れている。ずぶ濡れの彼女は動く気配がなく、何かの拍子に流されてしまいそうだ。
危ない。そう思ったカワグチはとっさに川へ足を踏み入れた。水はあんがい深く、腰から下までがドポンと沈む。水の勢いにふらつきながら、カワグチは一本ずつ少女に近づき、その体を中洲へ引き上げる。
横たえた少女の体は、黒く光る頭からキュロットをはいた足の先まで、一つの外傷もなかった。一体こんな場所で何を……とカワグチがいぶかしんでいると、中洲の隅に酒らしき一升瓶と盃が置いてある。
一人で酒を飲んでいたのかと気になったカワグチだったが、今は少女の介抱が先だと気を取り直す。青白い少女の顔と、閉じたままのまぶたを見ながら、彼は動揺する頭で考える。
(こういう時は……そうだ。まずうつ伏せにして水を吐かせてから……)
そうして、姿勢を変えようと少女の肩に手をかけた。その時……。
「……ん……?」
ちょうど、少女が小さくうなって意識を取り戻す。うっすらと開いた目が、上から見つめるカワグチの目と合った。
「あ……」
よかった、目を覚ました。カワグチが一瞬、ホッと安堵の息をもらした、その直後。
「きゃあっ!?」
少女は何を思ったか胸をかばいながら飛び起きると、悲鳴と一緒に、カワグチの頬を平手で思いっきりひっぱたいた。ぱぁん、という高い音が青空にこだまする。
頬を赤く腫らしたカワグチはしばしポカンとし、まばたきしながら頬をおさえ、少女へと向き直る。少女はそこで我にかえったように「あっ」とつぶやくと、座ったままちょっと離れて頭を下げた。
「ごめんなさい。ビックリして、つい……」
「いや、いいんだ。驚かせてしまって、すまない」
ばつが悪そうにする少女へ、カワグチは気弱く微笑した。内心では理不尽だと思わなくもなかったが、特に気にはしない。
カワグチは気を取り直し、真面目な顔をして尋ねた。
「……ところで、君は何をしていたんだい? まさか、
言いながら、かたわらに置いてある一升瓶と盃をちらと見る。死ぬ前に無理にでも酔って、決心をつける手合いがたまにいるので、ひどく心配になった。
しかし、当の少女は戸惑ったように目を丸くすると、あははと笑って首を横に振る。
「まさか、違いますよ。たまーにこうやって水に浸かってると、気分いいんです」
「気分いいって……しかし、そんなの危ないだろう」
「うーん、なんと言ったらいいかな……私、死なないんで」
「??」
カワグチはまるっきり要領を得ないという顔をする。少女は困ったように帽子をぬぎ、こう言った。
「舟幽霊……って言ったら信じます? ホラこうやって……」
「!? うわあぁ!??」
「……やっぱ、無理か」
腰を抜かしてへたり込むカワグチを、少女は
……それから、舟幽霊と称する少女――名を、
今いる森を含め、カワグチは"幻想郷"なる異界にいるらしい。現代とは隔絶されており、村紗のような人外がそこらじゅうにいるのだという。
おそらく、一緒にバスに乗っていた生徒たちや他の教員らも、幻想郷のどこかにいる可能性が高い、との事だった。
初めは半信半疑といった表情で聞いていたカワグチだったが、しだいに本当ならば一大事だと思いはじめたのだろう。顔つきが険しくなっていく。
やがて、カワグチはさっと立ち上がると、村紗に向かって言った。
「でしたら……すぐにでも皆を探しに行かないと!」
「ああいや、ちょっと待ってよ」
「何故!?」
いつの間にかタメ口になり、村紗は後ろを振り返って一升瓶と盃を取ると、焦ってやきもきしているカワグチの足元に置いた。
「まずはこれ飲んでくれない? さぁ、ぐーっと」
「何を言ってるんだ、こんな時に!」
「いやこれには、ちゃんとしたワケがあって」
村紗はあわてて笑い、こう打ち明けた。
これから別の場所に行き、村紗の仲間たちを頼れば快く協力してくれるだろう。
しかし、困った事にその仲間たちも村紗自身も、ある寺の関係者なのだという。寺という場所柄、今のように酒など飲んでいるのがバレたら、きつい罰が待っている。もちろん、一升瓶と盃をそのまま持ち帰れば間違いなく厳罰だ。
「だからさ、いっその事あなたに飲んじゃってもらいたいのよ。捨てるのもったいないし」
「……いや、なら君自身が飲めばいいだろう。そもそも私は酒が……」
「えへへ、飲んじゃいたいのはヤマヤマなんだけど……ホラ、よそ者のあなたはともかく、私があんまり酒気をおびて帰ったら……ねぇ」
村紗は苦笑し、最後にふっと目をそらすと、横顔をさぁーっと青くした。よほど寺の罰とやらが怖いのだろうか。カワグチは内心でため息をつき、どっかと中洲に座りなおすと、一升瓶から盃へなみなみと酒をそそいだ。
どのみち、村紗の見た目は10代なかばだ。ならばこれは未成年飲酒を防ぐため、と無理やりに割り切り、彼は盃の酒をぐっとあおる。教え子を少しでも早く救出したいという一心で、二杯、三杯。次々と飲んだ。
ところが、そのハイペースがいけなかったのか、それともカワグチには強すぎる酒だったのか、彼は突然ふらりとその場に倒れそうになる。
村紗があわててその体を支えると、カワグチは「や、ごめん」などと言って立ち直ったが、すでに
「……俺は、教え子たちを我が子のように思っている。聞かない年頃で、憎く思う時もあるけれども、見捨てるつもりはない。そうとも、俺の仕事さ」
「はぁ……」
村紗はなんとなく正座をし、かしこまった様子で相づちを打った。そんな姿を見て、カワグチはにやりと笑って続ける。
「昔は俺にも、本当の家族があったんだが……離婚しちゃって、今は、一人」
「何か、あったの?」
義理のような口ぶりで村紗がたずねる。カワグチはひっくとゲップをすると、いくぶんか沈んだ口調になって、言った。
「ヒサコが……いや妻が、言うにはさ。『愛情がなくなった』って……。小さい娘を連れて、ずっと前に出ていった」
「あらら……」
ぐすっ、と鼻をすするカワグチ。やばい、泣き出したかと村紗があわてだすと同時に、彼は声を張りあげた。
「俺は何度も言ったんだ、『理由を教えてくれ』と。だけどもアイツは、とうとう答えてくれなかった。"家族と感じられない"、"一緒にいたいと思わなくなった"。そんな、ボンヤリした理由ばかりだ……」
「…………」
「なぁ、どう思うよ……。女ってのは、具体的な理由もなしに離婚できるもんなのか? 村紗ちゃん」
カワグチがふっと顔をあげて村紗を見る。村紗は突如として愚痴を言いはじめた彼の瞳を見て、困惑しつつ、どこか腑に落ちるような気もした。
具体的な理由。それを明示して別れるのは、なるほど理想的だろう。だが現実には、ハッキリした理由は出てこないけれど、とにかく別れたい。そんな事も、たまにはあるのではなかろうか。
離婚協議中にしつこく「理由を教えてくれ」と言われ、妻はますます何も言いたくなくなり、愛想ばかりが尽きていく……。もしかしたらそんな一幕があったのかもしれないと、村紗は思った。
しかし、それを口には出さなかった。目の前で「ヒサコぉ……サヤ……」などと名を呼んでしゃくりあげている人間に向けて憶測をぶつけるほど、彼女は無神経ではなかった。
「今は……どうしてるのさ。奥さんと娘さん」
気まずいのが嫌で、村紗はそれだけ聞いた。カワグチは一つ鼻をすすり、すねたように答える。
「ああ……実家づたいに聞いたが、シングルマザーでちゃんとやっているらしい。俺には過ぎた女だったかな」
「なら……そんなに悲しむ事ないじゃない。カワグチさん、だっけ? あなたにも教え子たちがいるんでしょ? 元気だしなよ」
「…………」
村紗は作り笑いをして励ましたが、カワグチはうつむき、「教え子は、大事だが……」などとブツブツつぶやいたかと思うと、顔をあげて低い声で言った。
「……ただ、女は分からん」
「へ?」
「だから、女は分からんっ!!」
ぎょっとする村紗へ、語気を強くするカワグチ。そして座ったままぐいと顔を近づけ、早口にこう言った。
「中学校に勤めて何年もたつがな、女だけは分からん。なんであんな、人の悪口ばかりを言えるんだ」
切なげだった彼の目が一転、ぎろりと鋭くなる。村紗は戸惑いながら、遠慮がちに聞いた。
「悪口って……たとえば?」
「悪口は悪口さ。いや、陰口か。俺の見えないところで集まって、こぞって笑ってたんだ。一度や二度じゃないぞ」
カワグチは舌打ちし、村紗を尻目にある過去の事を思い出した。
――数年前、学校の休み時間での事だった。彼が廊下を通りがかると、数人の女子が物陰にたむろしていた。その会話が、耳に流れてくる。
『ねー、今日のカワグチの授業、分かった?』
自分の名を聞いて、彼は思わず立ち止まった。気づいていない女子たちが本音を口にする。
『んー、いまいち。つーかあの先生いつも段取り悪いじゃん』
『"えーと、えーと"って何回も言うんだよね。早よ進めろって』
『私、塾で予習してるからさー、ノロくさいだけなんよね。ぶっちゃけ役立たず。今日ちょっと間違えてたし』
『違うだろーー!! このハゲーーーっ!!!』
『あははははは!』
その一連の会話を聞いて、カワグチは気づかれないようにそそくさと職員室に向かった。知らず知らず涙がにじむのを、情けないと思った。
生徒たちは表は明るく、または真剣な顔をして過ごしていながら、裏では愚痴や陰口をたえず話している。鈍感だったカワグチは自分への陰口に気づいて初めて、その後ろ暗い部分を意識した。しかも悪い事に、意識してからは一転、その面を内心で憎悪し、また恐怖するようになってしまったのだ。
酒のせいもあるだろう。今のカワグチは目がすわり、一升瓶の首部を手が白くなるほどに握りしめ、溜め込んだ思いを漏らしている。
「……なんなんだ。俺は悪く言われる筋合いはない。話し方がたどたどしいのは罪か? 授業の段取りが悪いのは罪か? それともやっぱりハゲがいけないのか、畜生!」
独り言はヒートアップし、一升瓶の低部を叩きつける音が響いた。それに顔をしかめながら、村紗は黙って、ボンヤリと自分の身の回りを思い出していた。
――村紗の住む寺は、尼の多い場所である。戒律はあるにしろ、金銭、食事、派閥などの問題はとりたてて無く、和気あいあいと過ごしている。男がちらりと覗き見すれば、花園のようだと見とれるに違いない。
しかし、それが全てでは決してない。誰しも、心のうちに大なり小なり不満を抱えている。寺ではそれに囚われまいと修行しているのであるが、やはりままならぬものがある。
席を外している者がいれば、そいつの悪口を誰かが言う。修行中の不真面目さ、食事や掃除の出来について、金銭の多少の貸し借りなど……。
村紗に、いや寺の尼たちにとって、それは息をするような自然な事だった。習性といってもいいのかもしれない。もう何年、何十年……いや、舟幽霊としての経験上、千年近く前から変わっていない。
ただ、決して憎みあっているのではない。貶めたいのではない。ただ、彼女らは我慢しているのだ。
不真面目な者をほほえんでたしなめ合い、食事や掃除の仕事をつとめて誉めてやり、お金を貸してと寄ってくる仲間を、叱責の言葉をこらえて甘えさせてやる。そうやって険悪になりそうなのを我慢して我慢して、表だけでも、その場だけでも美しい、優しい雰囲気をつくるのに努力する。それは悪ではないと、村紗は思っていた。当たり前だと思っていた。
ただ、カワグチはそんな彼女の思索はつゆ知らず、今度はこうわめく。
「……道徳も倫理もない、理屈になってやしない。小学生のイジメとやってる事は一緒じゃないか」
理屈。男というのは、やる事なす事にいちいちそれを照らし合わせているのだろうか。村紗が仲間たちと話すのは、もっぱらささいな好き嫌いがきっかけだった。それが楽しいのだ。口をはさまれるような事か。
面と向かって言えば傷つくだろう。角がたつだろう。だからせめて陰口で発散して、明朗快活な顔で接しているんじゃないか。
カワグチの話を聞いているうちに、村紗までモヤモヤした思いが胸中に湧きはじめた。このうえ駄弁っていても仕方がない。そう思った村紗は立ちあがり、カワグチへ手を差し出す。
「……ま、とにかくもう行こうよ。日が暮れちゃう」
そう言って、作り笑いを浮かべる。しかし、カワグチは手を取らず、もう一つ愚痴を言った。
「……この前なんざ」
「え?」
「この前なんて、女子の心配したらひどい目にあったよ。聞きたいか?」
顔をあげて口角をあげるカワグチ。戸惑い手を下ろす村紗に、聞きたいと言わないうちから彼は語りだす。
「……廊下でな、すごく気分悪そうにしてる女子がいたから、『大丈夫?』って声をかけたんだよ。そうしたら……」
「…………」
「その子、すごい嫌そうな顔して去っていっちまってよ。後からウワサで聞いたら、生理だったみたいでな。その子と友達から、しばらく白い目で見られたよ」
吐き捨てるように言って、カワグチはそれこそ"すごい嫌そうな顔"をした。村紗は気の毒だと思う反面、その表情に無神経さを感じとっていた。
誰しも、触れられたくない問題というものがある。人助けはもちろん尊いけれど、タイミングも重要だ。とくに生理など、善意から知らずに声をかけられても、他人に打ち明けたくはないだろう。不用意に踏み込まれたら嫌悪感だって湧く。これは理屈や道徳という次元じゃないのだ。嫌なものはどうしても、嫌だ。
出会った時、カワグチが村紗を介抱しようとした時もそうだ。目を覚ましてすぐの村紗は、他人に自らの体を触られまいとした。しかも相手は初対面の、見知らぬ40近くのハゲた男だったのだ。見た瞬間に思わずたたいてしまった。皮膚が、感覚が、するどく反射的に拒否したのだった。
すぐに助けてくれたのだと理解し、謝罪したが、感謝の念はさほど湧かなかった。元から幽霊なのもあるが、触れられたくない気持ちに、目的はあまり関係なかったから。
直後、立ち上がろうとしたのか、カワグチが前かがみになってふるふると手を伸ばす。村紗は思わず後ずさった。理由はない。ただ、この無神経に毒を吐く酔っぱらいに、触れたくないという気持ちがあった。
すると、カワグチはぐらりとバランスをくずし、中洲に手をつこうとする。すると、置いてあった一升瓶に腕をぶつけ、瓶に手をついた。瓶がゴロゴロと転がりだし、それにつれて、カワグチが手を滑らせ、そのまま中洲に倒れ込んだ。
「のわっぷ!」
酒で体が重かったのか、カワグチはそのまま転がり、川に落ちてしまった。ばしゃあ、と派手な水音に続いて、手足をバタバタと無様に振り回す。
「た、助けてくれ! 俺は泳げないんだ、引き上げてくれ!」
カワグチはとたんにあわてふためき、村紗へ助けを求める。しかし村紗は驚きのためか、その場で固まってしまっていた。くわえて――カワグチの肌に触れたくないという気持ちも、無意識にあったかもしれない。
村紗が見つめている間にも、カワグチは川の流れにおされて少しずつ中洲から遠のいていく。ただでさえ泳げないのに酔っぱらい、水中であわれに七転八倒しながら、彼は必死の形相でさけんだ。
「俺が一体、どんな悪い事を……したというんだぁ! あっぷ、こんなの嫌だ、何が、いけなかっ……ヒサコ、サヤ、教えっ……ヴぁ」
声はみるみる弱々しくなり、最後はうわごとのようにつぶやいて泣きながら、カワグチは沈んで流されていった。村紗はそれを、ただ呆然として見送った。
彼は果たして、閻魔様から何と言われるだろうか。彼女は頭のすみっこで、そんな事を思った。
カワグチ マサシ――死亡