幻想郷で生き残れるか? ~不運にも迷いこんだ者たち~ 作:ごぼう大臣
「あ、懐かしい」
アンパンがモチーフのヒーローが描かれた絵本を見つけて、少女が声をあげた。
今から一年前、まだ中学二年だったサタケ メグミは、古い教科書や玩具などがしまわれた狭い一室を掃除していた。部屋主であった兄が大学生となり一人暮らしをはじめて以来、その部屋は物置と化していた。
『兄さんも片付けてから引っ越せばよかったのに』
『悪かったよ』
当時たまの里帰りをしていた兄。彼が絵本を一目みて、妙に得意げな顔をしだしたのを、メグミはよく覚えている。
『なぁ、こんな話しってるか? そのヒーローって、元はパンを配るただのオッサンだったんだ』
『ん?』
『小さな力で世の中を変えようと頑張る……。俺もこうなりたいもんだなぁ』
『…………』
だんだんうっとりとしだす兄。それを見たメグミが表情をくもらせた矢先、兄は媚びるような笑顔になって言った。
『というワケでメグミ。この○○団体のパンフレット、一回読んでみないか? よかったら父さんと母さんにも……』
『イヤ』
兄が訪問販売のような手つきで取り出したパンフレットを、メグミは瞬時に払いのけた。一人暮らしをはじめて以来、兄がうさんくさい社会団体と付き合っているのを、彼女は知っていた。
あはは、と冗談めかしながら、それでも悲しげな表情でパンフレットを拾う兄を見ながら、メグミはばつが悪そうにしつつ、内心でつぶやいた。
(……お花畑)
――
「……ここは……」
お花畑、である。
あれから一年。中学三年となったメグミは、修学旅行に参加したさい、移動のバスの中で奇怪な事故に巻き込まれた。
バスが何の前触れもなく白い霧に包まれ、気づくと彼女はクラスメイトらと離れ、一人で見知らぬ場所にいたのだ。
建物の影一つない景色、舗装もされていない道路、標識もない道のり、人っ子一人いない一帯。それらをメグミは何度も夢だと疑ったが、朝になるたびに現実を思い知った。
かくして、3日ほどさまよい歩いた彼女は、この深夜の暗闇のもと、静まり返った鈴蘭畑に倒れた。白い鈴のような花がふわりと揺れ、小さな人魂のように視界を惑わせる。
(もう……疲れたなぁ……)
ごろりとあお向けになり、星空へと目を向ける。街灯もない、星の光がそのまま降り注いでくるような満天の空。それは美しかったが、一人で黙って見つめていると、どこかに取り残されたようで心細くなってくる。
きゅるる、と体が空腹をうったえる。持ち歩いていた修学旅行のバッグに目をやったが、めぼしい物はもう入っていない。お土産や自分用のお菓子、飲み水、ポケットティッシュなどは使いきり、今はいっているのは着古した下着や制服くらいだった。今着ているジャージもところどころ刷り切れ、土がついている。バッサリとショートにした髪が、これほどありがたく感じるとは思わなかった。
野暮ったい格好のメグミは、わびしさに強く唇をかんだ。お腹がすいて力が出ないという状態を文字通りに体験したのは、初めてだった。
その時。
バサッ、と上空で鳥の羽ばたきのような音が響き渡る。メグミが驚いて身をひそめると、視界のすみを大きな影が飛来した。目で後を追うと、それは巨大な鳥の翼を持っていた。翼を広げると横幅は1メートルをゆうに超え、一見すると大鷲のように見える。
しかし、実態はそれよりはるかに恐ろしげだった。なにせそれがケヅメで運んでいる獲物、手足を二本ずつ持つそれはまぎれもない、人間の死体だったのだ。
「…………!」
メグミはジッと息をひそめる。実は、彼女はそのような奇妙な生物を、この3日間に何度も目にしていた。そして時には、人間を食べている現場に出くわした事もあるのだ。
ただの獣とは違う、凶暴な目をしたそれら。食べていた人間の何人かは、メグミの見知ったブレザーの制服を着ていた。そう、あの修学旅行のバスに乗っていたはずの、同級生たちだ。
メグミは鳥の気配が消えると、鈴蘭畑をはい回って逃げ出した。何が何だか分からないが、自分がいつ殺されてもおかしくないのが分かる。ここまで逃げ回ってきたのだ。せめて明日の朝を迎えたい。
先ほどまでの感傷や空腹はどこへやら、やみくもに前へ、前へと進んでいく。すると、鈴蘭をかき分けた先に、彼女は変わったものを見つけた。
「……あれ?」
鈴蘭畑を囲むようにそびえる小さな山々。そのふもとの一角に、小さな洞窟があった。わずかに月光を反射する茂みをくりぬいたように、ぽっかりと黒い穴が空いている。
しかもさらに目をこらすと、その中にはいくつかの物品が置かれていた。椅子、机、布団……。遠くからだが、人が住んでいる雰囲気が察せられた。
しかし、一体何が? 思いがけず見つけた人間の気配に、メグミはかえって警戒した。あんな洞窟で住む者なんて、よくてホームレスか、犯罪者か……もしかしたら、あれも人間を食う存在の住みかかもしれない。
近づかないでおこうか。いったんはそう思うが、そこで忘れかけた空腹がよみがえる。腹が痛いほどに収縮し、骨までしみるようだ。
「うぅ……」
ひとしきり顔をゆがめ、荷物を置き去りにして洞窟へと近づく。身軽な状態となり、食べ物でもあれば持ち出して、逃げてしまおう。盗みになってしまうが、こちらも命がけなのだと、彼女は自分に言い聞かせた。
3メートル、2メートル、腹ばいのまま、慎重に距離をつめていく。そして鈴蘭に隠れられる限界まで来た時、彼女は洞窟へと一気に飛び出した。
手のひらにつく感触が、柔らかい草からゴツゴツした岩のそれに変わる。冷たく湿って、寒々とした洞窟に潜り込むと、メグミは腰を落としたまま辺りをうかがった。
外に輪をかけて暗かったが、それでも空気をかぐだけで分かる事はある。まず、意外とホコリっぽくはなかった。人が少なくとも最近まで出入りしていた証拠である。
そして、かすかに見える家具をよけながら奥へ進むが、人影がなかった。今は誰もいないのだろうか? メグミは慎重に目と耳を研ぎ澄ませる。人でなくとも、野生動物など潜り込んでいれば一大事だ。
と、その時。彼女はベッドの隅に、あるものを見つけた。布団をかぶってこちらに背を向けている。小さな小さな女の子、一瞬人だと疑ったが、よく見るとそれは人形だった。子供だと一抱えもありそうな、金髪の洋人形。
こんな場所に人形? とメグミはいぶかしんだが、直後に彼女はもっと気になるものを見つけた。ベッドの脇に置かれた、小さな包み。そばに寄るとそれは大きな葉でくるまれ、糸で結ばれている。
メグミはそれを見て、ごくりと喉を鳴らした。葉で包んだそれの中身を、食べ物だと直感したのだ。昔は、おにぎりを笹の葉に包んだりしたというではないか。
本能に突き動かされ、彼女は糸をほどく。すると葉の中にあったものが姿を現した。それはおにぎりではなく、なにか黒々とした、奇妙なものだった。
メグミはそれを見てつい手を止める。葉の上を転がった物体が、ニチャッ、とねばっこい音を立て、プルプルと震えた。暗い手元で、かすかに点々と光るものがある。それは物体からしたたった液体のようだった。
肉感的な感触と、したたる液体。それを見てメグミはやっと理解した。これは焼いた肉の切り身。出てきた液体は、脂だ。
反射的に三切れほどつかみ、かぶりつく。咀嚼すると柔らかい食感と、それからひりつくような苦味が口いっぱいに広がったが、かまわず呑み込んだ。3日間も引きずった空腹を前に、細かい心配などしていられない。
が、直後。彼女はその判断を後悔する事になる。
「ぐうぅっ!!?」
突如、メグミを激しい腹痛が襲った。食あたりなどという生やさしいものではない。胃をえぐるように重く鈍い、それでいて刺すような痛みが立て続けにうずく。
姿勢を保っていられず、メグミは地べたに倒れ込んだ。それでも痛みは引かず、みるみるうちに胸、腰、手足と全身に回っていく。指先がしびれ、喉に不快な熱がせりあがってくる。
「うええぇぇっ!!」
耐えきれずに、メグミは食べたばかりの肉をもどしてしまう。虚脱感が襲い、意識がもうろうとしてくる。
(だ、誰か……助けて……)
視界がかすむ中で、彼女はか細い息をしながら手を伸ばす。すると目の前に、いつからいたのか小さな子供の影があった。
それはおぼろげにしか見えないが金髪で、人形のような大きさだった。あの、ベッドに寝ていた人形に似ていた。
(…………)
目の前のその存在が何なのか。メグミは途切れそうな意識の中で考えようとしたがあえなく限界となり、深い闇の中へと気を失ってしまった。
――
「う……ん」
うめきながらメグミが目を開けると、周りは明るかった。何度かまばたきをすると、横から差し込む光でグラデーション状に暗くなっていく、岩の天井が目に入る。
鈍い意識の中で、彼女は記憶をたどった。夜に家具の並べられた洞窟へ入り、そこで見つけたよく分からない肉を食べて、それで……。
「あ、起きた?」
突然の声に、メグミは驚いてはね起きた。見ると、足元にちょこんと、小さな人形が立っている。金髪で、黒のブラウスと赤のロングスカートをはいた女の子の人形。それには見覚えがあった。ベッドに置いてあったものだ。
いつの間にこんな風に立たされていたのだろう。さっきの声の主がやったのだろうか? メグミは誰かいないかと辺りをキョロキョロ見回した。
すると、さっきの声が、やや不機嫌そうになってもう一度。
「ちょっと、無視しないでよ」
「……え?」
メグミは、おそるおそる声の場所へと向き直る。そこにあるのは、まぎれもなく人形。それが腰に手を当て、頬をふくらませながらメグミを見上げているのだ。
信じられず、無言でまばたきを繰り返す。それを見た人形は、あきれたようにため息をつき、メグミの手元へと歩み寄る。
「ボケッとしないでよね。人の家に勝手に上がり込んだと思ったら、寝ちゃって」
「あ、ああ……」
口をポカンと開けて、生返事をする。人形が意思を持ってしゃべっている。それがにわかに信じられなかった。
人形はそんなメグミを見つめ、ぶっきらぼうにたずねる。
「アンタ、名前は?」
「あ……メグミ。サタケ メグミ。……あなたは?」
「私はメディスン・メランコリー。人形よ」
「へ、へぇ……」
人形、と確かにそう言った。メディスンと名乗る彼女をメグミはしばらくポカンとして見つめていたが、メディスンはあらためて言った。
「で、どういう了見なのよ。勝手に入って、しかも食べ物まで盗み食いするなんて」
メディスンは地面に落ちた大きな葉を拾い上げた。メグミがほどいた、肉を入れていた葉だ。
あの肉を食べ、全身を痛みにさいなまれた時の事を思い出すと、メグミの頭が激しくうずく。額を押さえながら、彼女はこう聞き返した。
「ねぇ……メディスンちゃん」
「ん?」
「私……どのくらい寝てた?」
メディスンはやれやれといった調子で首をかしげ、答える。
「一晩だけ。で、これで最後よ。どうして勝手に入ったの?」
「ああ、それは……」
あの食べた直後の激痛は何なのだろう。メグミはずっとそれが気にかかったが、とりあえず考えないようにしてメディスンに昨日のいきさつを話した。
突然、見知らぬ場所に一人でいた事。3日間さまよっていた事、その間に同級生が食われるのを何度も見た事、そして飢え死にするかと思ってこの洞窟に忍び込み、肉を食べて倒れた事。
それらを聞き終えると、メディスンは神妙な顔になり、「意外と苦労したのね」とつぶやいた。その言葉に、メグミが切羽詰まって言いつのる。
「ねぇ、この変な世界は何なの? 街はないし、人は食われるし、でも日本語は通じるしで、こんな場所はじめてよ」
「あー……それね」
メディスンはばつが悪そうに目をおよがせ、信じられないような事を語りだした。
いわく、この世界は幻想郷といい、現代にはいない神や妖怪がひしめいているのだという。普段は結界で囲まれているのだが、時々メグミたちのように迷い込む者たちがおり、そういう人間はたいてい妖怪のエサになるのだという。
そう告げられたメグミは、しばらく絶句していた。恐ろしい話ではあるが、嘘とは言いきれない。なんせ彼女自身、今まで命からがらだったのだから。
メディスンはメグミの表情を見て気の毒そうに、無理に笑顔をつくって言った。
「ま、まぁそういうワケだから。しばらくここにいなさいよ。大丈夫、うろつかなきゃ危険も少ないから」
「え……いいの?」
「人間は嫌いだけどさ、メグミはその……ほら、事情が事情だし」
メディスンの笑みは何故かぎこちなかった。ただ、外は危ないというのはメグミにも分かっていたので、素直に礼を言ってうなずいた。
そうこうしているうちに日が暮れ、メディスンは洞窟の中から古びた鍋や食材、マッチなどを取り出し、入り口そばの石をつんだ釜戸で簡単なスープをつくってごちそうした。メグミは最初はこわごわと口をつけたが、普通の味だった。あの肉を食べた時のような痛みが、ウソのようだった。
夕飯の席で、メグミはふと、メディスンにたずねた。
「そういえばさ」
「……どしたの?」
「さっき『人間は嫌い』って言ってたけど……何かあったの?」
メディスンはふと食事の手を止め、うつむいた。気まずい沈黙が流れ、メグミはまずい事を聞いたかと後悔する。
その時、メディスンがぽつりと口を開いた。
「……捨てられたのよ、昔」
「捨てられた?」
「そ。人間って、人形を可愛がるように見えて、すぐ捨てるの。まだ妖怪になる前に、私も捨てられて……動けるようになった頃には、一人ぼっちだった」
それだけ話して、メディスンはそそくさと食事を再開する。目はスープに向けられて表情は見えないが、雰囲気から落ち込んでるのがありありと見てとれた。
「ごめん……私、何も知らないで」
「いいのよ。どうせ、タダで済ます気はないわ」
メディスンは勢いよくスープを飲み干すと、口をぐいっとぬぐって立ち上がり、高らかな声で言った。
「私はね、いつか必ず、人形たちを人間から独立させてみせるわ! ものいわぬ人形たちを、縛られた立場から解放するの!」
「……!」
「今はまだ、鈴蘭を売ってお金をかせぐくらいだけど……そのうち、人間たちの立場をひっくり返してみせる! それが本当の自由よ!!」
話しているうちにメディスンは目がキラキラと輝き、セリフに熱が入りはじめる。メグミは多少めんくらいながら、愛想笑いしてたずねた。
「……ちなみに、今どのくらい貯まってるの?」
「それは……えーと……き、機密事項よ! でもすでに沢山あるわ。百万、いや二百万! とにかく巨額よ!!」
わたわたと精いっぱい見栄を張るメディスンを見て、メグミはつい吹き出しそうになった。そして、その無邪気な、熱心な様子に、彼女は社会団体をすすめる時の兄の姿を思い出していた。
――
それから、メグミとメディスンの共同生活が始まった。山でたき木を拾い、川で洗濯をし、電気もない中で山菜や川魚を細々と調理し、共に食卓を囲んだ。
幻想郷の過酷な環境は身にしみていたので、メグミも不便とは思いつつ、出ていきたいとは思わなかった。メディスンも何日か経つにつれ、次第に態度がやわらかくなっていった。
何より、メグミにとっても楽しかった。メディスンが鈴蘭の取引先から小銭を受け取ってうれしそうに見せびらかすのを、いつも微笑ましそうに見つめていた。
その時はきまって、メディスンが理想の人形社会を口にする。人形たちがめいめい家族になり、友人をつくり、結婚する。ある者はおとぎ話のお城に住み、ある者は大自然の広がる農村に住み、ある者は海辺の浜で毎晩、夜空をながめる。そこはみんなが幸せで、貧富の差は存在しない。何故なら、そこには人間の手が介在しないのだから。
そんな事を大真面目に、満面の笑みで話すのだ。今は誰も同志がいないが、いつか必ず大勢でその社会を実現してみする、とメディスンは息巻いていた。メグミはいつも、冗談半分にはげましていた。
ただ、奇妙な事もあった。メディスンが片時もメグミを洞窟から出そうとしないのである。
外が危険なのはすでに述べたが、それでもメディスンは徹底していた。普段、共にいる時はもちろん、メディスンが取引先に行く時や、山へのたき木拾い、川への洗濯に行く時まで、全て洞窟から出ないように言った。それも、文字通り"一歩も"出るなというのだ。
最初のうちはメグミも安全のためと納得し、家具のホコリを取ったりなどしていたのだが、すぐに飽きてしまった。洞窟には鏡も置いておらず、オシャレなどもできない。ショートヘアをありがたく思ったのは、これが二度目だった。
一月もたった頃。メグミはいつものように鈴蘭を売りにいったメディスンに言われて留守番をしていた。その頃になると、壁面にもたれて考え込む事が多くなった。
(何か目的があるのかしら……。例えば私を閉じ込めて、太らせて食べるとか……)
あまりにも退屈すぎてそんな邪推までしてしまうが、彼女はすぐさま否定した。まさか、恩人でもあるのに、そんな風に疑っていいワケがない。
しかし、いくらなんでも下着まで洗濯してもらっている状況はいかがなものか……。洞窟のすみに座りながら、ボンヤリと考えていたメグミは、何の気なしに晴れている外の景色へ目を移した。
青空の下に鈴蘭がゆれる、見飽きた風景。しかし、その日はある事件があった。
「た、助けてぇーー!!」
メグミは久しぶりに、メディスン以外の声を聞いた。若い少年の悲鳴。ただならぬものを感じた彼女は洞窟の出口に飛びつくと、声の方角をにらんだ。
そこでは、妖怪らしき毛むくじゃらの獣に、一人の少年が追われていた。遠目でも分かるほどの焦った走りでバタバタと逃げまどっている。熊のように大きい妖怪はずんずんと獲物にせまり、今にもその爪をかけそうだ。
(あの服……!)
メグミは、その少年の服装に見覚えがあった。その現代的なブレザーの制服は、まさにメグミが着ている制服と同じ母校のもの。
逃げている少年も、同じ立場で幻想郷に迷い込んだのだろう。
「うわああぁ!!」
とうとう少年が妖怪につかまり、押さえつけられる。それを見た瞬間に、メグミは飛び出していた。同郷の人間を食らおうとする怪物に向けて、鈴蘭畑を一足飛びに駆ける。とっさに動いたせいか体が軽く、小さかった妖怪にみるみるうちに近づく。
「?」
気配に気づいた妖怪が振り向く。毛に隠れがちな黄金色の目に、黄ばんだ肉食獣のキバ。その異形の顔に、メグミはヤケクソ気味にパンチを打ち込んだ。
ばちん。
素人が殴った時そのままの音が響く。降り立って距離を取り、メグミは一瞬しまったと思った。感情にまかせて飛び出したはいいが、自分はしょせん人間。メディスンの言うところによると、妖怪は人間より何倍も体が頑丈らしい。ただでさえ熊のような体格をしているヤツに、素手で勝てるワケがない。
それでも、妖怪はいきなりのパンチに面食らったのか、顔を押さえて固まった。今しかない、そう思ったメグミは、少年を急いで逃がそうとする。
しかし、その刹那に予想外の事態が起こった。
「グオオオアァァッ!!」
妖怪が突如、吠えるような悲鳴をあげたのだ。メグミが驚いて振り向くと、妖怪はちょうど殴られたあたり、目の部分を押さえて歯を食いしばっている。
敵意をむき出しにして、メグミをにらみつける。押さえていた片目もさらけ出し、両目で刺すように眼光を向ける。
そのさらけ出された目を見て、メグミは息をのんだ。
眼球が真っ赤に血走り、まぶたが紫色に腫れ上がっている。目の周りの毛が心なしか縮れて変色し、しかもかすかに煙まであげている。
とても殴っただけの傷には見えない。メグミがうろたえている間に、妖怪はきびすを返し、一目散に逃げていってしまった。
「…………」
何が起きたのか分からず、メグミはしばらく呆然としていた。ふと自分の拳を見ると、生き物を深くえぐったように血がベットリついている。
あの傷は、自分のせいなのだろうか。しばし言葉を忘れていた彼女だったが、先ほどの少年を思い出し、ハッと振り向いた。
少年は顔面蒼白となり、鈴蘭畑にへたり込んでいた。よほど怖かったのだろう。メグミの顔を見ても表情はこわばったままだ。
「ねぇ、大丈夫……?」
とりあえず落ち着かせよう。そう思ってメグミが手を差しのべた。すると。
「うぎゃあーーーっ! 化け物っ!!」
少年はまたもや叫び声をあげると、メグミの手から逃れるように飛び上がって立ち上がり、一直線に逃げ出した。まるでさっきの妖怪と同じように、全力で振り返りもせずにメグミから離れていく。
「あ……」
メグミは、手を出した格好のまま取り残された。あっという間に見えなくなってしまった少年の行き先を一瞥し、困惑の表情を浮かべる。
いくらパニックになったからって、私からまで逃げなくてもいいじゃないか。そう口をとがらせながら、彼女は自分の差しのべた手を見る。もしかしたら、この手についた血がいけなかったのかもしれない。
気持ち悪いから洗っちゃおう。そう思ったメグミは、水場を求めて歩き出す。メディスンが洗濯や飲み水に使っている小川が近くにあるのを、彼女は知っていた。
100メートルほど歩くと、川のせせらぎが聞こえてくる。メグミが鈴蘭畑の切れ目に目をやると、山からのわき水が細い流れをつくっているのが見えた。
川辺にしゃがみ、手を浸けようとする。しかしそうしてメグミの顔が川の水面に反射した時、彼女は悲鳴をあげた。
そこに映っていたのは、顔半分が紫色にただれ、別人のようになっている姿だった。紫色の中にある片目は、白かった結膜が真っ黒に変色し、瞳が血で塗ったように赤くなっている。瞳の中心の瞳孔部分だけが、穴が空いたように黒い。
「何……これ」
メグミはうわごとのようにつぶやいて自らの顔をさかんに触った。水面の顔も全て同じように手で触れ、そのたびに両者の表情が凍る。
一体、どうなっているのだろう? いつからこんな風になっているのだろう。そもそも、この変化は見た目だけの問題で済んでくれているのだろうか? 妖怪に向かって飛び出した時、いやに体が軽かったような気がする。
一人でぐるぐると混乱しながら、メグミは水面の顔といつまでもうつろに見つめ合っていた。するとその時、不意に近くから見知った声がする。
「……メグミ?」
ボンヤリ振り向くと、そこにはメディスンが立っていた。顔色は悲しげで、どこか隠し事がばれてしまった子供のような、弱りきったものだった。
「メディ、ちゃん」
1ヶ月間に何度も呼んだニックネームを、震える声で口に出す。その時のメグミの顔は、両目から一筋の涙を流していた。
――
「……妖怪のお肉を人間が食べるとね、妖力を得るの。つまり、妖怪になるのよ」
洞窟にもどってから、メディスンは重たい口調でそう告げた。それを聞いて、メグミは初めてメディスンのところに来た際、包みにあった肉を食べてしまったのを思い出した。
「じゃあ……あの時から……」
「そう。私が狩った妖怪のお肉で……ずっと、顔は変わってた。体だって、同じなのは、見た目だけ……。もう……人間じゃ、なくなってる」
話すうちに、メディスンの声は途切れがちになり、すすり泣きをはじめた。寝食を共にした友人に事実を打ち明けるのが、よほど辛いのだろう。
メグミにもそれは痛いほど分かった。それでも、今さらになって、何故そんな事を知らされなきゃいけないのだというやるせなさが、否応なしに体を震わせた。
メグミは、わなわなと肩をいからせ、苦しげな顔をしてメディスンに叫んだ。
「なんで……なんで最初に言ってくれなかったのよ! なんでこんなに経つまで秘密にしたの!?」
「言おうと思ったよ! 何度も、何度も……。でも、言えないじゃない。現に、こんな……」
メディスンも涙ながらに言い返す。本当に伝えるか悩んだのだろう。しかし結局は話せなかった。今のようにショックを与えるのは分かりきってたから。
だから極力バレないように努めてきた。洞窟から出さないようにしていたのも、その為。
メグミは何も言えなくなり、うつむいた。元はといえば勝手に肉を食べた自分が悪いのだ。そう思うと、どうしていいか分からなくなった。
暗い空気が二人の間に流れる。その中で、メディスンが唐突にこう言った。
「ま、まあ……妖怪だって、見かたによってはいいものよ! 体はじょうぶだし、寿命は長いし!」
その声が打ってかわって明るかったので、メグミは顔を上げる。メディスンはやけに口角を上げていたが、目の奥に悲しみをたたえていた。あからさまな作り笑い。
メグミがそう思っているのを知ってか知らずか、メディスンは彼女の手を取り、さかんに動かしてみせた。
「それにさ……ホラ。妖力に毒が混じってるのかな? こうやって、触れ合える」
メディスンは弱々しく微笑んでみせた。メディスンの体は鈴蘭の毒をまとっているのだと、いつだったかメグミは聞いた事があった。
そのメディスンが手にかけた妖怪を食べた事で、お互い似たような体になったのだろうか。それは同時に、他の生物に近づけなくなった事を示していた。
「これからだって、いい事あるよ。ね?」
「…………」
子供ながらに、精いっぱい元気づけようとするメディスンの言葉に、メグミは浮かない顔でうなずいた。
……それから、メグミはフードやマントで顔をかくし、メディスンと一緒に行動するようになった。鈴蘭を売りに行く時も、たき木や食べ物を拾いに行く時も、メディスンは片時もそばを離れなかった。今まで行っていた場所だけではなく、近所のヒマワリ畑や、滝の名所や、人妖に人気のコンサートまで。それはまるで、少しでも一人で落ち込んでいると、メグミがどこかへ行くのではないかというような、そんな不安を抱いているようだった。
メグミも、変わった。無理をして酒を飲んで笑ったり、また幻想郷の人間を妖怪の手から助けたりもした。嫌いな人間を助けても、メディスンは何も言わなかった。人の心を持つ妖怪。そんな立場にいる彼女の、数少ない生きがいなのだと思ったから。
そんな生活をしているうちに、二人は"スキマ妖怪"を名乗る妖怪に出会い、『その子はもう、現代には帰れないわね』と告げられた。
――
二人が出会ってからちょうど半年、薄雲が浮かび、星の見えない深夜。
メグミは隣で眠っているメディスンから隠れ、鈴蘭畑のただ中に一人で立っていた。
冷たい夜風が頬をなでる。すっかり長くなった髪がたなびいて、ふわりと背にかかる。『人形も人間も、髪は長い方が色々できるわ』と、いつかメディスンが言っていた。
「……ふぅー」
彼女はおもむろに、片手を胸に置く。そして深呼吸ののち、妖力をありったけ体内に流し込んだ。
口から血が噴き出し、体が痛みと虚脱感に包まれる。それでもメグミはやり続けた。毒に耐性がある分、妖力の効き目は薄いが、歯を食いしばって自らを傷つけた。
自殺するために。
メグミは妖怪化を知って以来、自分なりに明るく暮らそうとした。メディスンと他愛ない話で笑い、酒を飲んでうさを晴らし、人間を助けてヒーローを気取った。
楽しい時もあった。感謝される事もあった。しかしメグミの心の奥底は晴れなかった。むしろ妖怪として寿命がのびた分、あまりにも長い先の人生が闇に包まれているような気がして、空しさばかりがつのっていった。
メディスンがなぜ初対面の人間に、妖怪となった自分に親切にしたか、今なら分かる。互いに"帰る場所がなかったから"だ。捨てられたメディスンは元の家を失ったが、新たに自分の、そして人形たちの居場所をつくろうと野望を抱いている。
しかし、メグミは違っていた。いまだに、元いた家への、家族への、世界への未練を引きずっている。
他人と違っているというのは、辛いものだ。疎まれ、居場所がないというのは、苦しいものだ。人の群れに流されて暮らす事ができない。何の心配もなく甘ったれているという事ができない。常に心の中の生きがいを再確認し、、わずかな仲間となぐさめ合いながら日々を歩んでいかなければいけない。周囲の大多数が無関心で、ともすれば嫌悪してくるという現実に耐えられなくなる。
メグミは、兄のいた社会団体の事をまた思い出した。知らない人が大勢いる、また知っているうちの過半数から嘲笑されている団体。それでも本気で周りのためを想っていれば尊敬できる面もあるが、果たして、彼らのうちの何割が真剣に惰性でなく活動しているのだろうか。
――いつか、自分のように空しさしか残らなくなったり、しないだろうか。
そのような思いにふけっているうちに、メグミはがくりと膝をついた。とうとう全身から痛みさえも無くなり、意識がもうろうとしだす。メグミは血の味が広がる口をかすかに動かし、消え入りそうな声でつぶやいた。
「ごめん……ね。メディちゃん……」
そして間もなく、メグミは鈴蘭畑の中に倒れ伏した。うっすらと笑って。
彼女の胸中にあったのは、後悔ではなく、やっと楽になれるという解放感だった。
……それから次の日、朝早く。メディスンは冷たくなって倒れているメグミの姿を見つけた。
サタケ メグミ――死亡