幻想郷で生き残れるか? ~不運にも迷いこんだ者たち~ 作:ごぼう大臣
シュウジは激怒した。今さっき読んだライトノベルを、全く存在に値しないと確信した。シュウジには需要が分からぬ。
ニイミ シュウジは、日本生まれの中学三年生である。暇さえあれば漫画と小説を読み、ゲームをやって育ってきた。
ブレザーが包む体は痩せぎすで、肌は青白く、背が高いにも関わらずたくましい雰囲気がまるでなかった。ものぐさのせいで髪はのび放題になり、後ろ髪は結んで前髪は目を覆い隠さんばかりになっている。その隠された目は、見るからに不満がたまってギラついていた。
彼は先ほどため息まじりに閉じたラノベを、もう一度パラパラとめくってみる。視界は暗くなっており、読むのに疲れて、また閉じた。
つまらない。というか酷い。
内容は、高校のあるクラスが中世ヨーロッパ"風"の世界へ転移し、そこである一人の孤立ぎみだった少年がはぐれて苦難にあい、並外れた能力を手に入れて大活躍、というものだった。
しかし、文章は素人に毛の生えた程度で、それを置いても主人公は知り合いであるはずのクラスメイトにぞんざいな態度をとり続け、能力を振りかざして周囲を見下し、批判には終始耳を貸さず、そのうえ現地の女の子たちには不思議とモテモテ……という、なかなかに人を選ぶ(実際、一部の界隈では人気を博しているらしかった)特徴がそこかしこにあった。
しかし、シュウジが何よりも許せなかったのが、本来は異世界のロマンとなるであろうドラゴンやさまざまな怪物たちを、銃器をつくって蹂躙している部分だった。高校生が機械技術を持ち込んで使いこなす世界観のミスマッチもさる事ながら、古来より、英雄への試練であったはずの幻獣との対決が、まるで主人公の活躍の踏み台にされているのが我慢ならなかった。
「はぁー……」
シュウジは深いため息をついた。異世界へのロマン、幻獣へのロマン、未知へのロマン。そんなものが、いつの間にか忘れ去られたような気がする。今まで見てきた娯楽作品を思い出して、彼は憂鬱になった。たまに変わり種でもと手を出してみたら、このありさまだ。
「こんな事してる場合じゃないんだがなぁ……」
シュウジはそう言って、あおむけに転がった。視界には、夕暮れの明るい夜空が、いっぱいに広がった。辺りには街灯も、建物も一つもない。青々とした草原が広がり、遠くに山の陰がうつる。
彼はかれこれ一時間ほど、この自然のままの見知らぬ場所にいた。果ての見えない野山を前に、足はとっくに動くのをやめている。
こんな場所に来た理由は、シュウジにも分からなかった。ただ、修学旅行で乗っていたバスが、急に白い霧に呑まれ、気づけば一人でここにいた。
最初こそ戸惑ったが、人の気配があまりに無いので、彼は早々にあきらめてしまった。なので日の沈んでいく間じゅう、のんびりラノベなど読んでいたのである。
「うーん……。いや、これは夢だろ。いくらなんでもありえない。そうに決まってる」
今では目の前の光景を夢だと決めつけて現実逃避する始末。彼は開き直ったように手足をうんと伸ばし、頭の後ろで手を組んでぼーっとしだした。
「……………………」
いつしか空は藍色に染まり、ぽつぽつとした見えなかった星が数えきれないほどに輝いている。プラネタリウムなどとは比べ物にならない、天然の宝石箱である。
涼しい夜風が、ざあっと草をゆらす。満天の星空の下、ただ一人で草原に寝そべるという構図が、まるで一枚のイラストのようだとシュウジは思った。しかし、今ではれっきとした現実の感覚として伝わる。
あのつまらないラノベの作者は、こんな風景に感動した事がないのだろうか。ふとそう思った。異世界に行けばおのずと、知らないものを次々と目にするはずだ。たとえば手つかずの自然、たとえば魔法、たとえば初めて見る動物……感動と恐怖のるつぼにはまって当然ではなかろうか。
いや、そんな描写はあえてカットしているのかもしれない。しかしシュウジは、ものを感じとる感性や想像力が鈍っているためではないかと、つい考えてしまうのだ。
彼は思い出す。家ではネットやスマホにかじりついてばかりで、アニメやゲームに夢中になっている、ある家族の姿を。
似たような人間は、社会にたくさんいるのではないだろうか。
「……この体験を生かせば、俺だってもっとマシな小説を書けるんじゃねーかな。はは」
シュウジは鼻で笑って、両腕を空へと伸ばす。はるか遠くの星空が、手の中に落ちてくるかのような錯覚。未知との遭遇、宇宙との抱擁、そんな言葉が浮かんだ。
いまだ自分の置かれた状況は分からない。もしかしたら明日に死ぬのかもしれない。それでもこの光景を見て死ぬのなら本望だと、シュウジは思いはじめた。長らく愛好してきた娯楽作品まで、みみっちく感じはじめたところである。感激にひたって死ぬのも、素敵ではないか。
いやむしろ、自分では及びもつかない雄大な自然、その中で死ぬかもしれないという緊張……そういったものに囲まれてこそ、神秘というものが味わえるのではないか。
「そうだ……降りてこい。とびっきりの神秘よ、降ってこい」
そのうち眠気におそわれ、まぶたを半分閉じながら、シュウジはうわごとのように言った。
そして瞳に映る景色が、とうとう糸のように細くなった時。
「こんばんは」
不意に、上から魅惑的な女性の声が降ってきた。思わず目を開けたシュウジの視界に、空から顔をのぞかせる金髪の女性が映る。
「うわっ!?」
シュウジは寝ぼけた状態から覚醒して驚き、女性の姿を見てまた驚いた。金髪の上に白く平たい帽子をかぶり、紫と白の導師服を着て、片手に傘を持っている。夜の暗闇に浮き立つような白い肌と、ぞっとするほど整った顔立ち。
その風変わりな女性は、"空間の裂け目"としか形容しようがない紫色の空間から半身を下向きに乗り出していた。裂け目の奥では、無数の目玉がギョロギョロと動いている。
「は……え、え? 誰?」
シュウジは口をあんぐりと開け、上体を起こして後ずさる。対して女性は宙に浮かんだまま、薄い笑みを浮かべて言った。
「あなた、名前は?」
「な、なまえ?」
「ええ、あなたの名字と名前」
「あ……ニイミ シュウジです」
おっかなびっくりに答えるシュウジ。女性はそれを聞いてうなずくと、どこからか扇子を取り出して広げ、口を隠しながら言う。
「私の名前は
「幻想……妖怪?」
女性もとい紫の言葉に、シュウジは首をかしげる。そんな彼の前へぬるりと全身を出して降り立ち、紫は続けた。
「いきなり言っても理解できないわよね。……君、ここに来るまでに妙な目にあわなかった?」
「あ……まぁ、はい」
「それよ。そこにはちょっと事情があってね……」
生返事をするシュウジへ、紫は現実離れした事を次々と話しだした。
いわく、この世界は幻想郷といい、現代で忘れ去られた幻想、神様や妖怪がたくさんいるのだという。人間は外界とは反対に、小さくまとまって生きているらしい。
ただ、現代との境目を守る結界が不安定で、シュウジをふくめた同級生らはあやまって迷い込み、今頃ちりぢりになっているだろう……というのが、紫の話した内容だった。
シュウジは正直、半信半疑になりながら紫を見つめていた。確かに自分では何が起こったのか見当もつかぬゆえ、紫の言も一応は説得力がある。しかし、「そうですか」と納得できるわけではない。
少し考えてから、彼はこう探りを入れてみた。
「あの……みなさん、ていうか妖怪は、こっちだと元気にやっているんですよね?」
「ええ、なんとかね。それがどうかした?」
「そもそも、なんでわざわざ結界までつくってこもっているんです? 外にはいられないんですか?」
それを聞いた紫は、「あー、話してなかったわね」と言ってから、女性教師かなにかのように話しはじめた。
「まず、あなた方のいる世界では、妖怪なんて信じられていないでしょう?」
「ええ……そうですが」
「存在を信じられていないと、私たちはどんどん弱っていくのよ。だから幻想郷をつくって、そこに避難したの」
「
「そう。幻想郷の結界は仕掛けがあってね。あなた方がゲームとかアニメなんかで妖怪をマボロシ扱いするだけ、こちら側の妖怪が強くなるの。だから、私たちは安泰ってわけ」
「ふぅむ…………」
紫はわざとらしくウインクしてみせる。シュウジはその顔を見てしばらく無言でいたが、やがて納得したのか、一つうなずく。
そして何を思ったか、急に声を出して笑いはじめた。
「あはっ……あはははは! なるほど! なるほどねぇっ!!」
「……?」
けげんな顔をする紫をよそに、シュウジは額を手のひらで押さえ、投げやりな調子で話しだした。
「言われてみれば、たしかに妖怪なんて夢マボロシだよなぁ……。いや、それより酷いですよ、向こうは」
「……酷い?」
「そうですとも! マボロシならまだいい! 現代の扱いはそれどころじゃない、消費物だ、陳腐化ですよ!!」
シュウジは口角を異常に上げてわめき散らす。その勢いにのけぞる紫へ、さらに激しく声をあびせた。
「見た事あるか分かりませんけどね、日本じゃ妖怪なんて、もうこれっぽちも恐れられていませんもん! もう大体がマスコットか、モチーフの材料にされてますよ!」
「…………」
「畏怖も崇敬もあったもんじゃない! 一部のバカどもがイメージを歪めに歪めてネタにして、いくつも矮小な代物をこしらえてんです。モノによってはネタどころかズ○ネタにして喜んでんだから、あ~~~~っくさいクサイ臭いっっ!!!」
「…………」
シュウジが突然に早口となり、妖怪の権威の失墜を熱弁するさまを、紫は冷めた表情で見つめていた。シュウジは一通りしゃべり終えると相手の白けた様子に気づかず、詰めよってまだ叫ぶ。
「どんなありさまか、見たらきっと仰天しますよ!? もう
「じゃあ見せてよ」
「へ?」
「どんな風になってるのか、興味があるわ」
「や……えーと」
紫が平然と答えると、シュウジは意外そうに目を丸くして、携帯をポケットから取り出し、またしまった。
「いやぁ……やっぱりやめときます。その、決してウソをついてるわけじゃないんですが」
「……そ」
急に顔を赤らめてしどろもどろになるシュウジを見て、紫はなんとなく察した。いざ見せるという段になって、照れて躊躇してしまうもの。おそらく彼の携帯には、先ほど言った○リネタのたぐいでも収められているのだろう。思春期男子というのは、はたから見て分かりやすいものだ。
冒涜と言いつつ、自らも性的コンテンツを利用する。矛盾しているようだが、まあエロスを前にした男子などそんなものなのだろう。大体、実態を知っているという事は、彼自身もいくつか目にしたに違いないのだから。
「ずいぶん入れ込んでくれてるのねぇ」
「ぐっ……」
紫が扇子であおぎながらからかうと、シュウジは歯がみして顔をそらす。
そして勢いをつけてまた向き直ると、今度はこう切り出した。
「そ、そりゃもう悪い見本みたいなのがいますからね! ウチの兄貴みたいな!」
「お兄さん?」
「そうですよ! 高校生なんですがね、勉強も部活もやらないで、ゲームばっかりやってるんですよ!?」
「ふーん」
興味なさげな紫に、シュウジは大げさな身振り手振りをまじえ、聞かれてもいない兄の事を話しだした。
「成績も悪い、友達もいない、家にこもりがち……それだけならまだしも!」
「え、けっこう重くない? それ」
「一番ゆるせないのはっ!!」
「……うん」
わざわざタメをつくり、声をあらげるシュウジ。
「妖怪とか、神とかのロマンのかたまりをっ! 気安く萌えキャラクターとして弄ってるところですよ!
「お、おう」
「『作ってくれる人がいるから』なんて言い訳になりませんからね! 手ぇ出したのは自分なんですから!!」
「それ私に言われても……」
ある種の信条までうかがえるシュウジの剣幕を、紫は面倒くさそうに眺めていた。彼は、さらに続ける。
「ネット上の連中も大概ですよ。少し探せば、件のキャラクターが変な衣装で踊ってる動画やら、あれやこれやされる本がわんさか見つかるんですから。実に軽薄っ!!」
「似た者同士ってワケね」
「兄貴だってどうせああいうので散々シコ――え、なに?」
「だから、お兄さんもあなたも似たような事してるのかなって」
「だっ、いや、か、その……」
紫の言葉に、シュウジはあからさまに狼狽して後ずさった。図星だ。紫には一目で分かった。
一方でシュウジは罪悪感に満ちた、苦悶とさえいえる表情となり、うつむいた。
……中学に入る少し前、彼は兄と共謀し、親を騙して携帯のサイトブロック機能を解除した。おかげでシュウジは色々と不健全なサイトのお世話になれたのだが、その記憶は彼の中で恥ずべきものとして残っていた。……が、サイトの利用は相変わらずであった。不遜、軽薄と唾棄したたぐいの人間たちにも、感謝の念を捨てきれなかった。
彼は、その性的刺激と同調のるつぼにどっぷりと嵌まりながら、かえってその顔も見ぬ同好の士たちに侮蔑の念をいだき、彼らがさまざまなロマンを人形あつかいして辱しめているように見えて我慢ならず、自分だけが分かっている、自分だけが本当の姿を知っている、などと一人で決めつけて、それでも夜中にこっそり自らを慰めて発散し、後から嫌悪にかられ、またしかめっ面をして兄をはじめとした"軽薄"な輩どもに憎悪をつのらせる。彼の近頃はその繰り返しであった。
「で、でも! 兄貴よりはマシなんですよ俺は!!」
シュウジは言い逃れをするように叫んだ。紫はかったるそうに耳をかたむける。
「俺はまだ、罪悪感ぐらいは持っていますけど、兄貴はそれすらも無いですもん。神話を完全にネタ扱いして」
「神話ってどんな?」
「兄貴のは例えば、イカとかタコのお化けが……いや、あれは神話"モドキ"だな。どっちにしろ兄貴はカスですわ」
「イカタコねぇ……」
シュウジの中で格付けでもされているのか、歴史の浅いある架空の神話を、彼は毛嫌いしていた。苦い顔をしながら、なおも話は続く。
「あと、神をたたえる文句らしいんですが、いあいあナントカって事あるごとにはしゃいでるんですよ。やっすい呪文だ、ホント」
「呪文って何よそれ。気味悪いわねぇ」
「はっ、気味悪かったら幸いですよ。ひとり言なのか知りませんが、いつも楽しそうに鳴いてますからね。いあいあ鳴いてりゃ楽しいんだ、バカなんですよ」
シュウジは吐き捨てるように言った。紫は相づちを打つだけだったが、彼は知っている。兄が「いあいあ」と神をたたえるのは、ちょうど昨今のオタクがこぞって「うま○ょい! う○ぴょい!」と叫ぶのと、本質的に変わらないのだ。そして同じような連中が日本中に、いや世界中に山ほどいると、彼は確信していた。
むしずが走る。なんだってあんな連中が、神話などという概念を口にするのか。お前たちに神を語る資格はない。妖怪を語る資格はない。頼むからこれ以上、神聖なロマンを
怒りが腹の中でぐるぐると煮えくり返り、シュウジは吐き気さえもよおした。それをとっさにこらえると、今度は代わりに涙がにじむ。
「あんなのは神話じゃない……妖怪の姿なんかじゃない……!」
「ちょっと、大丈夫?」
「こんなに近くに本物がいるのに、畜生、畜生……!」
嗚咽をもらす様子にぎょっとして、紫が近づく。不意に、シュウジは彼女の腕をつかんだ。
「……紫さん……」
「な、なに?」
「一度でいいから、
「殺すって、アンタねぇ……」
「お願いしますっ!! 俺は恐ろしいはずの怪物たちが、美少女だのマスコットだのに変えられるのが、我慢ならないんですよ! 本物を知らしめてやりたいんですよ!!」
シュウジは紫の胸にすがりつくようにして泣き出した。それを見下ろしながら、しばらく紫は困惑していたが、ふと、ピンとくるものがあった。
そもそも妖怪は、人々に認識され、恐怖をさまざまに"解釈"して生まれた存在だ。幻想郷の妖怪が力を保てるのは、科学が発展しておらず「よく分からない、恐ろしい存在がいる」と解釈されているお陰でもあるのだ。
なんの事はない。この子は、自分の信じる神や妖怪の姿、それらへの向き合い方、果ては創作物での表現のしかたまで、さまざまな理想に対する周りとのズレ――いわゆる"解釈違い"に苦しんでいるのだ。
バカバカしいが、本人にとっては深刻なのだろう。現にシュウジは胸に顔を埋めたまま、子供のように泣きじゃくっている。本物の妖怪に会った感動もあるのだろうか。
泣きやむ気配が見えないので、紫はぐいと彼を引き離した。
「とりあえず落ち着きなさいな。もう……」
「けど……」
「あのね……シュウジだっけ? よく聞きなさい」
紫は深いため息をつき、教えさとすような口調で話した。
「最初に言ったわよね? 現代で私たちが幻想あつかいされるだけ、こっちでは強くなるって」
「…………」
「だからね、あなたのお兄さんみたいにしてくれた方が、正直助かるのよ。少なくとも、現代に姿をあらわす気はないわ」
シュウジはすねたように目をそらしていたが、話がとぎれると勢い込んでこう問いかけた。
「じゃあ……俺にも兄貴みたいな生き方をしろってんですか!? 毎日パロディの成れの果てみたいなの見て……あんな人間になりたくないですよ!!」
「そうじゃないけれど……あークソめんどい……」
頭をガシガシかいて、紫は声を厳しくする。
「とにかくね、あなたにはただ、幻想郷の事を大っぴらにして欲しくないのよ。本当の姿を知ってもらおうとか、思わない事」
「けど……でも……」
「でももだってもない。帰ってからも、私たちの話は口外しない事。くれぐれも覚えておきなさい」
そう言って紫はシュウジを突き放すと、その触れた手の指先を、わずかに動かした。すると突然、シュウジの足元の地面がぐにゃりと歪んだかと思うと、がばりと彼を呑み込めるほどに大きい、裂け目が出現した。その裂け目の奥では、紫が出てきた時と同じように、いくつもの目玉がうごめいている。
「うわっ――」
シュウジは虚空にむかって大きくバランスをくずし、とっさに紫へ手を伸ばす。その手はまるで届かず、シュウジと一緒にまっ逆さまに落ちていった。
「忘れない事ね。私はいつでも、どこからでもあなたを見ているわよ」
それは、遠ざかっていくシュウジへの慰めだったのか、それとも警告だったのか。いずれにせよ真意など考えるヒマもなく、シュウジはみるみる裂け目の奥の奥、真っ暗闇のすき間まで落ち込んでいき――とうとう見えなくなってしまった。
――
……バスが消えてから三ヶ月ほどのち、シュウジは車の通らない山の中で見つかった。発見当時に彼は何も言わず、家族の質問に答える以外は、ほとんど無言だったという。
しかし、彼は覚えていたのだ。幻想郷の存在も、紫の話も。
家に帰りついてから、シュウジはしばらく休みをもらった。ある休みの日、共働きの両親がいない時に、彼は自室からリビングに下りた。
そのまま隣接する台所へ行き、コップに水を注いで飲む。飲みかけのコップを持ったまま、彼はきびすを返す。足音すらろくに響かない、力ない足取り。
シュウジの目は光がなく、焦点がろくに合っていなかった。周りのものが、ほとんど目に入っていなかった。
彼は、頭の中でひたすら幻想郷の事を考えていたのだ。あの夢のような出来事は、果たして本当だったのか。目にした本来の"妖怪"は、実在したのだろうか。なまじ確認できないせいで、どうしても頭から離れない。
リビングを横切る際、ふと家族のパソコンに目がいった。その席には、定位置だと言わんばかりにふんぞり返る、一人の少年がいた。
兄だ。シュウジに背を向ける形で、ヘッドフォンをつけて画面に見入っている。
帰ってきてから、シュウジは兄とろくに会話していなかった。ケンカするわけではないが、互いにどんな調子で話せばよいか、分からなかったのだ。特に兄はその傾向が強く、逃げるようにパソコンや携帯ばかり見るようになった。
その兄がふと、気配でも感じたのか後ろを振り向いた。シュウジと目が合うと、兄は気まずそうな表情をした。
「おうシュウジ。その……大丈夫か?」
不慣れなつくり笑いを浮かべる兄。シュウジはそれを見て、つくづく気づかいが下手なのだと思った。だから友達もできずに、架空の世界に逃避する。神や妖怪を矮小化した、卑小な人間むけの、歪んだ世界に。
兄を見るシュウジの中に、また底知れぬ侮蔑の気持ちが再燃しはじめた。こんな人間が、自分より幻想郷の役に立っている? ありがたい? ……ふざけるな、あり得ない!
シュウジは眉間にシワをつくり、いら立ちに顔をこわばらせていたが、兄は自分を取りつくろうので精いっぱいなのか、のんきに口を開く。
「あの……とりあえず、何かあったら言えよ? 大した役に立たないかもしれないけどさ、一応兄弟だし……おっと」
その時、話していた兄が身じろぎした拍子に、彼のヘッドフォンがパソコンから抜けた。直後に、兄の見ていた動画の音声がリビングに流れる。
『いつもニコニコ! あなたの隣に這い寄る混沌~…………』
それは、兄が子供の頃から定期的に見ていたアニメだった。シュウジの嫌いな架空の神話を題材にしたものだ。その声を聞いた瞬間、シュウジの頭にさまざまな怒りが去来する。
またあのエセ神話に入れ込んでるのか。
また軽薄なパロディを見てるのか。
神秘を汚している自覚がないのか。
俺は見てきたんだぞ、他ならぬ本当の妖怪を!!
気づけば、持っていたコップを兄に投げつけていた。反射的に兄が避け、パソコンにガラスと水がはじける。
「うわっ!?」
「死ね……お前なんて死ねばいいんだっ!!」
思わず顔をかばった兄の胸ぐらを、シュウジは猛然とつかみ上げた。椅子が大きな音を立てて倒れ、シュウジの足にガラスの破片が食い込む。しかしそれを気にも留めずに、シュウジは怒鳴る。
「この能無しの、美少女中毒が! 神も、妖怪も、異世界も、どこまで陳腐にしちまえば気がすむんだ!?」
「いだっ、お前、何言って……」
「お前みたいな奴らがいるから、ファンタジーはおかしくなったんだよ! くだらねぇモノばっか広めやがって。少しは本物を想像したらどうなんだ!?」
わけも分からず苦しがる兄を、シュウジは憎しみのこもった目でにらんだ。今まで腹の内に留めていた"軽薄"な者たちへの憎悪が、兄をきっかけにどこまでも溢れ出していた。
その怒りは留まるところを知らず、シュウジはさらに、今日一番の怒声をあげた。
「なんなら教えてやろうか!? 本物の事を!!」
「…………?」
「恐ろしい存在ってのは、本当にいるんだよ! こことは違う世界に……幻想郷に――」
言いかけて、シュウジの台詞がとぎれた。
「わっ!?」
途端、兄の体が床に落ちた。ドスンと音を立てて、彼の尻や足にガラスが刺さる。
「いたたっ、あっだ!」
兄は大慌てでその場から逃れる。バタバタと這って一息つき、彼はふと、部屋がやけに静かな事に気づいた。
勢いよく顔を上げ、部屋を見渡す。いつも見ているテーブル、テレビ、本棚。そして倒れた椅子、砕けたガラス。パソコンからは相変わらず、アニメの甲高い声が流れ続けている。
部屋にいるのは、兄一人だった。
「……へ? シュウジ? おいシュウジ?」
煙のように消えてしまった弟の名を、兄は何度も叫ぶ。答える者はいなかった。アニメの音がぷつりと途切れ、部屋がしぃんと静まりかえる。
兄は焦燥感にかられ、なおも弟を呼ぼうとした。
しかし、口を開きかけて、彼はふと、眉をしかめる。そして頭を押さえてうつむき、呆然と、こんな事を言った。
「……あれ、シュウジ……? シュウジって……誰だっけ?」
その言葉は、冗談ではないようだった。顔色は険しく、心当たりが本当に見つからないという風だった。
その時、玄関でがらがらと戸が開いた。兄が行くと、パート帰りの母がいた。
「ああシュウイチ。ただいま」
「あ……おかえり」
「洗濯物、取り込んでおいてくれた?」
「え、いや……やってない」
母と話す間も、兄は違和感に戸惑っていた。そんな彼に、母は笑って言う。
「全く、家にはアンタしかいないんだから。少しはお父さんお母さんを手伝ってよ」
やれやれと、兄の脇を通りすぎる。その背中へ振り返って、兄はためらいがちに問いかけた。
「あの……母さん」
「どったの?」
「俺ん家って……三人家族だっけ?」
深刻そうに首をかしげる兄。母は吹き出しそうになりながら、こう答えた。
「何言ってるのよ、当たり前じゃない。アンタは昔から一人っ子よ?」
「……だよね、うん」
母の答えを聞いて、兄はようやく納得したように微笑んだ。それからも、変わった事は起こらなかった。
ただし、兄はこの日をさかいに、どこかから自分たちを見つめる、何者かの不思議な気配を感じるようになった。それこそアニメや漫画とは違う、恐るべき何かを。
ニイミ シュウジ――存在消滅(生死不明)