幻想郷で生き残れるか? ~不運にも迷いこんだ者たち~ 作:ごぼう大臣
「誰かああぁーーっ! 助けてえええぇぇーーーっ!!」
一人の少女が、暗闇の中で悲痛な顔をして叫ぶ。その声はしばらく余韻を残して虚空に消えた。しぃんと静まり返った森の中で冷たい夜風が吹きぬけ、木々が思い出したようにざわめく。
誰の返事も返ってこない事に、少女トミザワ チサトは泣き出しそうになった。寒さに赤らんだ頬を涙がつたい、やけくそ気味にぬぐう。
これまで、さっきのような大声をいくつあげただろう。くり返し叫んで喉が枯れても、誰ひとり助けに来てくれない。
吹奏楽部で鍛えた肺活量などクソくらえだ。そう思って、チサトはかたわらに転がったバッグを蹴飛ばした。
修学旅行の自分の荷物。これを見るだけでもこうしてさ迷うきっかけを思い出して、ムカムカする。
チサトは数時間前まで、中学の修学旅行でバスに乗っていたはずだった。ルートも普通の国道で、このような森の奥深くへ踏み込むルートではなかった。
それが、一体何が起こったのだろう。そのバスが唐突に、白い霧に包まれたのだ。天気にそぐわない、不思議な霧だった。
何かの見間違いだったのかもしれないが、真相は分からない。気づいた時には周りにいたクラスメイトたちの姿はなく、一人で地べたに寝そべっていた。起きてみると辺りは真っ暗闇、そして明かりも人もない、深い森の中だった。
夢でも見ているのだろうか。最初はそう疑ったが、荷物の重さも、歩き続ける疲労も、不安でわき出てくる汗も、まぎれもない現実のそれだった。現実味がないのはただ一つ、今この状況だけである。
「……ちくしょうが」
ふと、チサトの口から罵声が飛び出す。小さく漏れた、低いひとり言。吹奏の練習で一人だけがミスし続けた時など、よくこうやって文句を言っていた。
思えば多人数で、何日も練習し続ける意義とは何なのだろうか。中学時代はたった三年しかない。その中で足を引っ張られ、喧嘩をし、気まずい空気をこらえ、やっとそこそこの曲を仕上げる。そう考えるとろくでもない。自分も今まで、他にできる事があったんじゃないだろうか。
そんな事を考えながら、チサトはトボトボと道を歩く。首の後ろに垂れる三つ編みが寂しく揺れる。一人になりたい時は今まで何度もあったが、今こうして一人で取り残されるのは心細いばかりだった。
そんな時、チサトの耳にかすかに何かが聞こえた。虫の声や草木の音ではない、聞き覚えのある音。
彼女はとっさにその方角をにらんだ。耳をこらすと確かに聞こえてくる、夜の森に不似合いな高らかな音。
楽器の音だ。チサトは直感した。近づこうと夢中になって走ると、ほとんど黒一色だった視界の中に、急にぽつんと小さな灯りが見えた。
さらに近づくと、その明かりは建物の窓から見える光だと分かった。突然、その場所に古めかしい小さな洋館が現れたのだ。
壁はひび割れて塗装がはがれ、円錐形の屋根がいくつか途中でもげ、茂みが好き勝手に伸びて荒れ放題になっている。しかし、窓から漏れている明かりは本物だった。
誰かいるのだろうか。一部が割れている窓をそばで見つめながら、チサトは考え込んだ。人がいるならば、助けてもらうチャンスかもしれない。しかし、こんな森の廃墟にいる何者かを信用してよいのだろうか。
有り金をうばわれる……なら良い方で、最悪なら殺されるかもしれない。体中に悪寒がはしり、チサトは思わず身を震わせた。
「……ちょっとだけ。ちょっとだけ覗いてみよう」
決めかねたチサトは、とりあえず窓から中を窺おうと顔を近づけた。危なそうなタイプだったら逃げればいい。そう思っていた。
ところが、壁にはりつくようにして、いざ割れ目から中を見ようとした、その時。
「誰!?」
「ぶっ!?」
不意に、誰かが声と共に中から窓を開け放った。ちょうど近くにいたチサトは見事にぶつかり、そのまま地面にひっくり返る。
「いっ……たたたた」
「……あれー?」
倒れ伏してうめくチサトを、先ほど窓を開けた人物がきょとんと見下ろす。薄桃色の帽子と髪が印象的な、ミディアムショートの少女であった。背丈は小学生高学年くらいだろうか。
「だいじょぶ? おねーさん? ねえねえ、おーい」
「…………」
顔をしかめて見つめるチサトへ、少女は矢継ぎ早に声をかける。心配しているのだろうが、その調子は少し鬱陶しかった。
「どうしたの? メルラン」
「虫でもいたー?」
すると、薄桃髪の少女の後ろから、また同じような背丈の少女が二人、顔を出した。一人は黒い帽子に金髪のショートヘア、もう一人は赤い帽子に茶髪のショートヘアだった。心なしか、三人で並んで見えると雰囲気が似ている。
チサトが、文句を言ってやろうと鼻を押さえていた手を離す。その時、彼女はハッと息を呑んだ。
今、自分を見下ろしている三人の後ろで、トランペット、ヴァイオリン、キーボードの三つの楽器が、人魂のようなものと共に宙へ浮かんでいたのである。
――
「へぇー、気づいたら森に。そりゃ災難ね」
「…………」
それから、チサトはその奇妙な少女たちに洋館へと招かれ、客間らしき場所へと通された。ホコリだらけのテーブルについて、「こんなモノしかないけど」と差し出されたサンドイッチに手をつけず、チサトは黙って座っていた。
無愛想にしていたにも関わらず、少女たちの中で赤い帽子に茶髪の子は、気さくに話しかけていた。
「で、他に友達はいなかったの? ずっと一人?」
「……まぁ、ね」
「あちゃー、それは大変。運がよかったんだか、悪かったんだか」
茶髪の少女はそう言いながら、自分たちで差し出したサンドイッチをもそもそと頬張った。彼女はリリカという名で、彼女ら三人――姉妹の三女という事だった。
自分より年下に見える姉妹とやらが、こんな所で何をしているのだろう。チサトが不審がっていると、今度は隣にいた薄桃色の髪と格好をしたメルランと名乗る少女が、身を乗り出して割り込み、言った。
「ねぇねぇねぇ! チサトは、その学校でどんな風にすごしてたの?」
「どんな風って……別に」
「お友達は何人いるの? 楽しい? 授業料どのくらい?」
「えーと……」
「それ学校の制服なの? ねぇもっと近くで見せてよ! 私そういうのめったに見ないんだ!」
メルランは目を輝かせ、戸惑っているのもかまわずチサトに詰め寄る。その一方的な聞き方は相手をろくに意識していないのが窺えた。
「お願い教えて! チサトちゃんの事もっと! もっと!」
「や、ちょっと……!」
なおもグイグイ迫るメルランに、たまりかねたチサトが席から立とうとした時。
「はいはい、そこまで」
黙っていた金髪の少女が、ぱんぱんと手を叩く。いわくルナサという名で、三人の中の長女らしい。彼女は二人の妹を見回して、ため息まじりに言った。
「ほどほどにしておきなさい。チサトさんが困ってるでしょう」
「はぁーい」
「ごめーん」
リリカとメルランはしぶしぶといった様子でうなずいた。場が静かになると、ルナサはチサトの方を見て、おだやかな口調で言った。
「で、チサトさん。今さらだけど、聞きたい事が色々あるでしょう?」
「ま、まぁね……。つか、ここは何なの?」
「今から説明するよ。決して冗談ではないから、覚悟して聞いてね」
仰々しい物言いと共に、ルナサは信じられないような話を語りだした。
チサトの迷い込んだ場所は幻想郷というらしく、普段は現代から隔絶された異境であるという。その異境たるゆえんは、現代では信じられない、妖怪などの幻想的な存在がたくさんいるかららしい。
今まで人家の灯りを全く見なかったのは、その妖怪などによって人間が少数に追いやられているせいだと言われた。
そんな話を聞かされたチサトは、いかにも半信半疑という顔で眉をくねらせていた。その表情を見て、苦笑いしながらルナサが続ける。
「まぁビックリするのは仕方ないけど……信じてほしい。それにあなたは、とても幸運だよ」
「幸運?」
「うん。私たちは、他の妖怪たちと違って人を食べたりしないから。それに、現代に帰す手立てもちゃんとある」
ルナサの言葉に、他の二人もうなずく。しかしチサトはしかめっ面のまま、ためらいがちに言った。
「でもだって……あなたたちも妖怪なんでしょ? 信じていいの?」
その言葉にルナサはしばし困ったような顔をしていたが、すぐになにやら妹二人に目配せする。すると彼女らの背後に、一斉に楽器が浮き上がった。ルナサの後ろにヴァイオリンが、リリカの後ろにキーボードが、そしてメルランの後ろにトランペットが。チサトも思わず楽器を凝視したが、手品のたぐいではなさそうだった。
目を細めてしかめっ面をしていると、リリカがキーボードを触れずに振り回しながら言った。
「私たちは騒霊っていってね。楽器の幽霊なの。珍しいでしょー」
「楽器の……?」
「そうそう。こんな風にね」
リリカはぴょんと飛びはねたかと思うと、なんと楽器と同じようにふわりと宙に浮き、キーボードを手にとった。
すると、実際に鍵盤を叩いてもいないのに、軽やかなシンセサイザーの音が流れはじめる。その音は音響効果もないその廃墟で、不思議なほど高らかに響いた。
初めて聞く浮き立つような音に、チサトは気づけば聞き惚れていた。いつしかメルランも一緒になり、キーボードとトランペットの陽気な二重奏が部屋中に広がる。
「…………」
中学で吹奏楽部にいた頃、練習も含めれば飽きるほどの演奏を耳に入れていたが、このような音楽は聞いた事がなかった。楽器は二種類だけにも関わらず、彼チサトが生涯で聞いたどの曲よりも心を揺さぶった。
感動して言葉を失うチサトの頭に、ある過去の映像が浮かぶ。
放課後、誰もいない音楽室で、数少ない男子の先輩と二人きりでいる……。窓からの茜色の夕日に照らされ、二人の頬は真っ赤で……。
「二人とも。ストップストップ」
その時、ルナサが二度目の静止をする。演奏が鳴りやみ、我に返ったチサトを見ながら、ルナサは言った。
「気分いいのは分かるけど、そこまで。チサトさんが泣いてるじゃない」
そう言われて、チサトは自分の目に手をやった。確かに指先に生暖かい水滴が触れる。ルナサがハンカチを差し出し、チサトの涙をぬぐった。
「ごめんなさい。私たち騒霊の音楽は、どうしても人間には刺激が強くて……」
「まぁ……不思議な音だとは思ったけど」
「魂のこもった音といえば聞こえはいいけどね。下手すると理性や記憶に影響が出ちゃうから」
ルナサはばつが悪そうに言った。チサトはなんだか心をあけすけに見られたような気分で、恥ずかしかった。
そんな二人の間に、やけに口角を上げたメルランが割り込んだかと思うと、楽器を片手に早口でまくし立てた。
「チサトちゃん! もっと聞きたいなら遠慮しないでよ! 良い音だったでしよ? もっともっと聞かせてあげるからー。ていうか、私もまだ演奏したい!」
「メルラン、あなたねぇ……」
一人よがりにはしゃいでいるメルランを、ルナサは眉をひそめて見つめる。そんな二人から目をそらし、チサトはテーブルに向かってふさぎこみ、ある過去を思い出していた。
まだ彼女が二年生だった頃の、吹奏楽部での思い出。
――その頃のチサトは、部内では少し失敗の目立つ生徒だった。下級生や同級生たちと比べればそれほどでもないが、上級生の一部から見ると、困ったタイプに見えたらしい。
中でも一人、チサトの失敗にやけに突っかかる三年生がいた。その先輩女子は気が強く、部内でもリーダー格といっていい立ち位置だった。そのせいかその先輩女子に叱責される時のチサトは、もっぱら部内で孤立ぎみになっていた。
そうなると、いくらミスをしたといっても気分はよくない。チサトは徐々に萎縮し、先輩女子との仲もピリピリしてきた。
そんな頃のある日、放課後に楽器の片付けで残っていたチサトへ、吹奏楽部のある男子の先輩が声をかけてきた。
彼は吹奏楽部で数少ない男子である上に、見た目も性格も人気のある生徒だった。彼はチサトに笑って近寄ると、こう切り出した。
『最近、演奏が上手くいってないみたいだね』
『…………!』
相談に乗ってくれた先輩男子に、チサトは一発でよろめいた。それから二人は余った時間などに、少しずつ練習を共にするようになった。先輩女子と違って優しく手ほどきしてくれる先輩男子に、チサトはどんどん好意を持つようになる。気持ちが上向くせいか、楽器の腕前も加速度的に上がっていった。
また、それに反比例するように、先輩女子への態度がおざなりになっていった。注意をされると表面上は大人しいが、内心で反発するようになった。
アンタよりあの人の方が、ずっと教えるのが上手い。
そんな風に怒ってばかりだと、きっと彼氏なんて出来ませんよ。
先輩女子に怒られても、もう屁でもない。あの先輩男子が教えてくれるからいいのだ。もはやチサトの思考は、平静を通り越して慇懃無礼、見下しのそれになっていった。それでも、先輩男子のおかげで腕前は相変わらず上がっていった。
そうしていくらか経ったある日、チサトは用事の折、三年生のいる三階へ行った。もしかしたら先輩男子に会えるかもしれない、と淡い期待もしていた。
そして偶然、廊下に先輩男子の姿を発見した。チサトは一気に華やいだ表情で駆け寄った。日頃のお礼を言いたい、少しでも話したい。頭の中はそんな思いでいっぱいだった。
しかし次の瞬間、チサトの顔は凍りついた。
先輩男子の隣に、あのいつも怒る先輩女子がいたのだ。それも、二人ともいかにも楽しげな表情で。
『あ……』
名前を呼びかけた口から、うめくような声が漏れる。廊下の真ん中に立ちすくんでいるチサトに、やがて二人が気づいた。
『あれ、チサト?』
『えっ……と』
『珍しいな、三階に来るなんて』
二人は何て事ない風に話しかけてくるが、チサトはそんな姿になかなか返事ができなかった。一緒に歩いている、その光景の裏に知りたくないものが潜んでいる気がしたのだ。
そんなチサトの心境などつゆ知らず、先輩男子は明るい調子で言った。
『最近、ずいぶん調子が上がってきたな! こいつも褒めてたぞ』
『……へ? 先輩、が?』
『"チサトがスランプ気味だから教えてやってよ"って、頼まれてたんだよ』
先輩男子は、隣の先輩女子を指して言った。その途端、チサトの表情がいっそう青ざめた。そしてすぐに、先輩女子も口を開く。
『ごめんねー、私いつもカッとなっちゃうから……。練習じゃああ言っちゃったけど、本当にマシになってたのよ?』
『…………』
他意なく笑う先輩女子。それを見て、チサトもついに真相が分かった気がした。それ以上その場におれず、チサトは一目散に走り去っていってしまった。
後日、それとなく同級生に聞いてみて、あの二人の先輩が付き合っている事実を知ったのだった。
――
「…………ちゃん、チサトちゃーん?」
「…………はっ」
「もー、ボーッとしないでよ。私たちの演奏、本当に嫌なの?」
気づくと、チサトの顔をメルランが不満げに覗き込んでいた。チサトはあいまいに目線を泳がせ、また過去の事を思い出した。
チサトはやがて三年生になり、先輩たちは卒業した。今でも付き合っているのかは分からない。チサトはただ、あの二人がいなくなってから部活に情熱をなくし、退部してしまった。元から吹奏楽が好きではなかったのではないか。そんな気がした。
「……いいよ。音楽、あんまり好きじゃないの」
「えー、信じられない! 音楽キライ!?」
「つまんなーい」
「まあまあ、メルランもリリカも。その辺にしておきなさい」
文句を言う妹たちをなだめるルナサ。そしてチサトへ視線を移すと、彼女は仕切り直すようにして言った。
「……チサトさん、音楽が好きではないのにこう言うのはなんだけど……。明日、私たちのライブに来ない?」
「ライブ?」
チサトは顔を上げて聞き返す。対して三人は察したように顔を見合わせた。
「明日、人間の里の広場でね。私たちプリズムリバー三姉妹、改めプリズムリバー楽団のライブをやるんだ」
「……私は別に……」
「まぁ、気乗りしないかもしれないけど、ライブ会場はにぎわうし、運がよければ学校のお友達にも会えるかもしれないよ?」
ルナサの言葉に、チサトはぴくりと眉を動かす。同じく迷い込んだ知り合いに会えるかもしれない。それは確かに重大だった。
続けて、メルランとリリカもメリットを口にする。
「それに、現代に帰してもらうにも時間がかかるし。できればライブの後の方がいいなー」
「そうそう。じゃないと会場に行ってる間中、チサトだけ
二人の言葉に、チサトは小さくうなる。時間や安全の面からも、ライブとやらについていった方がいいらしい。彼女は浮かない顔でしばらく考えていたが、やがてうなずいてこう言った。
「……分かったわ。お邪魔させてもらいます」
――
次の日、チサトは三姉妹に連れられ、江戸時代を思わせる古めかしい集落の、その一角に来ていた。
「うわ、すごい人出ね……」
三人と共に物陰に隠れながら、会場となる広場を眺めつつ、チサトは息を呑んだ。着物を着た老若男女にくわえ、獣耳を生やした異形の人種や、異国を思わせる派手な格好をした人々など、さまざまな観客がところ狭しと詰めかけ、無人の即席ステージを囲んでいる。後ろでリリカとメルランがくすくすと笑った。
「すごいでしょ~。我らが音楽団はいつも盛況なのだ~」
「あ、一緒にいるところ見つからないようにしてねー? ファンの皆さんがたちまち詰め寄ってくるから」
「う……うん」
チサトは二人の言葉にうなずきつつ、観客たちに視線をめぐらせる。中に学校の知り合いはいないか、蟻も見逃さない気持ちで目をこらした。
「どう? お友達はいる?」
「……ううん、いないや」
ルナサの問いかけに、肩を落として答える。そんなチサトの肩をたたいて、ルナサは微笑んだ。
「まぁ、ライブの後にもチャンスはあるから。今いるお客さんは、絶対に最後まで聞き惚れさせてあげる。心配しないで」
「……分かった」
「じゃ、私たちはそろそろ行くよ。せっかくだからしばらく楽しんで」
そう言って、三人はチサトと別れてステージへ歩いていった。チサトはトボトボと反対側に歩き、観衆の中にまぎれる。
人妖が入り交じった人混みの中で、チサトはそわそわと周りを見回した。親子連れ、同性の若いグループ、お年寄りと孫……見る限り色々な組み合わせの客がいたが、彼女が一番に目をひかれたのが、カップルだった。
人間か妖怪かという違いはあれど、観客の半分以上いるであろう若い男女たち。彼ら彼女らはめいめいおしゃべりをし、腕を組み、楽しそうに笑っている。
その直後、ステージ上の姉妹が景気のいい声をあげた。
「お待たせー! メルラン・プリズムリバーです! 今日もよろしくねー!」
「リリカ・プリズムリバーです。来てくれてありがとう!」
「ルナサ・プリズムリバーです。本日はお越しいただきありがとうございます。では早速ですが、始めたいと思います」
三人の挨拶が終わると、ひとしきり大きな拍手が巻き起こる。それが止むと、ルナサたちの楽器が手元へ移動し、その周囲に音楽が流れ出した。
耳をくすぐり、胸に染み入り、空気に溶ける不思議な音色。気分の高揚するトランペットとキーボードにくわえて、ルナサの奏でるヴァイオリンの低音が、ただ明るい曲調にならないようにバランスをとっている。
その音に観客はそろって魅了され、顔をほころばせている。ただただ姉妹の演奏に夢中で聞き入り、中には感極まって涙を流す者さえいた。
チサトも同じように、頭に流れてくる曲に聞き入っていた。昨晩と同じく、いやそれ以上に感慨深い、三人の心が合わさった深みのある音楽。
しかし同時に、彼女の胸中にざわざわとうごめくものがあった。よみがえるのは、あの吹奏楽部での失恋の思い出。
昨晩に姉妹の演奏を聞いた時より、人数が増えた分いっそう克明に思い出される。
先輩女子のうんざりした顔。恋した男子と笑い合う光景、自分の知らないところで付き合っていた先輩たち、そして蚊帳の外にいた自分。
音が感性を揺さぶる度に、その記憶の数々が容赦なく胸をしめつけてくる。
チサトは歯を食い縛り、胸をかきむしりたい思いにかられた。その苦痛は尋常ではなかった。
その要因は、チサトの記憶だけではない。ステージから流れてくるあの姉妹の合奏が、彼女の煩悶を増幅させていた。
チサトは覚えていなかったが……プリズムリバー三姉妹、もとい楽器の幽霊の演奏は、人間にとって刺激が強かったのだ。チサトはその影響で、失恋と失意の恨みに再び
姉妹たちは知るよしもなかったが、チサトの心の傷は本人が思う以上に深かったのだ。
チサトは顔を上げ、周りにいるカップルたちに視線をめぐらせる。誰も彼も音楽に聞き惚れ、時にうっとりして互いに見つめ合っている。
幽霊の音のせいだ。幽霊の特別な音のせいだ。チサトはひがみっぽくバイアスがかかった頭でそう考えた。たかが音楽に人を引き合わせる力があるなら、なぜあの人と私は付き合えなかったのだ。
演奏が進むにつれ、チサトの思考はどんどん偏狭になっていった。頭の中からはもはや現代の事も、同級生の事も抜け落ちている。ただただ、あの先輩男子が向けてくれた笑顔が繰り返し焼きついて離れない。
やがてそれは、一つの狂気へと結実した。
("幽霊"って……すごい!!)
――
「……チサトさん! チサトさーん! ……おかしいな、どこに行ったんだろう」
……二時間ほど後、三姉妹はライブを終え、サインや握手を求めてくるファンをいなしつつチサトの姿を探していた。ステージを一心に見つめていた観客たちも、今ではめいめい連れ立ち、少しずつ帰途についている。
しかし、その中には何故かチサトの姿がなかった。ルナサが焦ってあちこちを見回していると、人混みをかき分けてリリカとメルランがそれぞれ駆け寄ってきた。
「どうだった?」
「ダメ。見つかんないや」
「もー、ちゃんと待っててって言ったのにー」
リリカもメルランも首を横に振り、不満げに口をとがらせた。ルナサも焦燥の色を深くする。ライブ中に事故にでもあったのだろうか。背筋に緊張がはしり、ルナサは二人に向けて言った。
「……まずいわね。私はこっちで引き続き探すから、あなたたちは巫女を呼んできて。早く!」
「う、うん!」
「分かったー!」
ルナサの頭にはさまざまに嫌な想像が浮かんでいた。妖怪にかどわかされたか、悪い霊にでも憑かれたか……。とにかく即急に見つけなければ命に関わる。そう思って広場を駆け出した。
しかし、彼女は知らなかった。探している当のチサトは、広場も、周りを囲む集落も離れ、ただ一人誰もいない場所を目指していた。
――
「……これなんだけどさ」
それからしばらくして、現代のある場所で一人の青年が眉をひそめていた。手には一枚の写真。隣には同じ年頃の娘が似たような難しい顔をしている。
青年の自室らしい散らかりぎみの部屋で、二人はその写真を見つめ、顔を見合わせた。娘の方が口を開く。
「……これ、こないだの演奏会の写真だよね?」
「そうそう、俺ら吹奏楽部の」
写真には、娘と青年をふくめ吹奏楽の合奏をしている高校生らが写っていた。青年は眉間にシワをつくり、おそるおそるたずねる。
「チサト……って覚えてるか? 後輩の」
「……うん。あの事件以来、行方不明だよね……」
二人は自然と声をひそめた。そう、彼らは他でもない、あのチサトの先輩たちであった。二人は高校生になっても付き合い続け、吹奏楽部に所属していたのだ。
そのチサトの意中の人物だった青年は写真を凝視し、苦々しくつぶやいた。
「……これ、アイツの顔だよな……」
写真の脇、青年が座っている席の真後ろの、誰もいないはずのそのスペースには。
青白い肌をした、上半身だけの姿となったチサトが、死んだような目で青年に覆い被さろうとしているのが写っていた。
トミザワ チサト――死亡