幻想郷で生き残れるか? ~不運にも迷いこんだ者たち~ 作:ごぼう大臣
空が茜色に染まり、雲に濃い影ができる時間帯。太陽は最後の一仕事とばかりに、山の稜線から草原や集落をあかあかと照らしている。
だが、車の一台も見当たらないそのド田舎さながらの風景の中に、上空の鮮やかな光も届かない一角があった。
青々とした細い幹を高々とのばす、竹がえんえんと連なる場所、竹林である。
踏み込んだ者を見下ろすように成長した竹が、頭を突き合わせて日光をさえぎり、一帯を薄暗くしている。むんむんと湿気がこもり、地面をつつむ枯れ草から生臭さがただよう。
そのただ中に、一人の少年がポツンとうずくまっていた。小柄な体を太めの竹にあずけ、ブレザーの制服に身を包み、隣には小さなバッグが置かれている。
その少年がうつむいていた顔を上げる。真ん中で分けた短髪はよく見ると少しクセが残っており、目は眠たげに細められている。
「なんだろ、ここ……」
ぼやきながら、ふと履いているスニーカーに目をやる。そうとう歩き回ったのか、あちこちに枯れ草や泥がくっついている。
その汚れをしばらく見つめて、彼はため息まじりに目を閉じた。目の下にはうっすらとクマができ、ともすればそのまま眠ってしまいそうに見えた。
日が沈んでいくにつれ闇が濃くなってきた竹林を一瞥し、少年――オオヌキ マサヨシはつい数時間前の記憶を思い返した。
――中学校の修学旅行がはじまり、二日目の朝だった。マサヨシふくむ生徒たちは次の観光地へのバスに乗り込み、移動していた。
しかしその途中で、四台並んでいたバスがあるものに呑み込まれた。なんの前触れもなく発生した、巨大な白い霧である。
そこからの記憶はあいまいであった。気づけばマサヨシだけがこの竹林に倒れ、他の生徒どころか人っ子一人いなくなっていたのだ。
奇妙な事に、その竹林はいくら歩いても出口が見えてこなかった。竹ばかりで景色は代わり映えせず、目印になりそうなものを見つけたかと思えば、何度もその場所に戻ってしまう嵌めになる。
内心ウンザリしていたが、うずくまっていても仕方がない。マサヨシはよたよたと立ち上がろうとする。
が、すぐによろめき、元通りに腰をつけてしまった。ドスンと音を立てて彼は顔をしかめ、それからうめくように言う。
「……吐きそう……っ」
にわかに青ざめ、口元をおさえる。しばらく悪寒と戦い、やりすごしてから、フゥとため息をついた。
頭が重い。彼はふと、朝のバスの車内風景を思い出した。めいめいお菓子を交換したりおしゃべりをしたりする中で、マサヨシは黙って椅子にもたれていた。寝起きゆえの疲労感が抜けず、何もする気力がわかなかったのだ。
実は、午前の授業などでも、彼はいつも同じようなありさまだった。皆朝からあんな風にはしゃげるのが信じられない。彼は常々、内心でそう思っていた。
物思いにふけっていると、急にぴゅう、と冷たい風が吹きつけた。冷気に震えてから、マサヨシはようやく時刻が夜に近づいてきている事をさとった。
このままだと本格的にまずい。マサヨシは竹につかまって今度こそ立ち上がり、あてもなく歩き出す。気温が下がるにつれて、自分が思った以上に汗をかいていたのが分かった。
くしゃみが出そうになり、彼はあわててこらえる。なにせ人がまるで見当たらない竹林だ。夜になればどんな野生動物がいても不思議ではない。神経をとがらせながら、マサヨシはそろそろと歩を進めていく。
と、その時。不意に、背後でがさがさと茂みが鳴った。
「うわっ!?」
マサヨシはとっさに飛びのき、バランスをくずして尻餅をついた。焦って向ける視線の先には久しぶりの人影が、暗闇にまぎれて一人ぶんあった。
白黒を組み合わせたワンピースドレスを着た、黒のロングヘアで背の高い女性。
「…………?」
ただ、その女性の赤い瞳と視線がぶつかってから目をこらし、マサヨシは怪訝な顔をした。
その女性は、頭のてっぺんに二対の獣の耳を、そして腰の後ろに狼のようなしっぽを持っていたのだ。
――
「……なるほどね、そうやって夜までさ迷っていたと」
「ええ……助かりました」
数十分後、マサヨシはその女性の後をついて竹林を歩いていた。視界はますます暗くなっていたが、その女性は迷いのない足取りでスイスイ先を進んでいく。
その頭と腰には、やはり獣耳と尻尾がついていた。
マサヨシは、背後からおそるおそる女性に話しかける。
「あの……大泉さん」
「
「あ……すいません今泉さん。……さっきの話……本当なんですか?」
マサヨシはなにやら深刻な表情で女性、今泉に問う。対して相手は事もなげにうなずき、こう口にした。
「ええ、本当。私から離れちゃダメよ? この"幻想郷"を生きて出たいならね」
幻想郷。その言葉をしゃべる時、今泉の声がやや低くなった。
それは、今泉がマサヨシに語って聞かせた、この恐ろしい世界の名前であった。
いわく、マサヨシが理不尽に迷い込んだこの一帯、幻想郷は科学がほとんど発展しておらず、しかも人間が自然の驚異にくわえて妖怪や妖精といった魔物におびやかされているのだという。
しかも、マサヨシが迷い込んだ竹林は"迷いの竹林"と呼ばれる場所で、幻想郷の住人でも大半が出られなくなる危険スポットなのだとか。驚くマサヨシに、今泉はケラケラ笑って言った。
「感謝してよね。私が人間の匂いに気づかなかったら、今頃きっと天国行きよ」
どうやら彼女の嗅覚は本当に人間離れしているようで、今も鼻をさかんに利かせながら夜道を大胆に歩いていく。彼女が言うには、獣耳に尻尾も実用性のある本物らしい。
いよいよ人外だというのを実感しながら、マサヨシがさらに一言。
「すいません、今泉さん」
「影狼でいいわよ。何?」
「えーと……本当に、俺を食べたりする気は無いんですよね……?」
おっかなビックリな言いざまに、影狼は一瞬だけ鼻白んだ表情を浮かべると、あっさりと答えた。
「ええ。そりゃ妖怪は人間が好物な子も多いけど……私はそんなに好きじゃないの」
「でも……狼って肉食だし」
「別に、鹿やウサギだって肉には違いないわよ。それだって見さかいなく襲うわけじゃないし」
縮こまるマサヨシへ、影狼は穏やかにそう話す。「食べてばかりじゃ太っちゃうし」などとおどけてから、彼女は最後に、こう笑いかけた。
「それにさ」
「?」
「あなただって、死にたいわけじゃないんでしょ?」
何気ない、当然のような確認。誰しも長生きがしたいし、助ければ感謝してくれる。そんな無意識の確信があった。
しかし、マサヨシはその言葉に顔をかすかに曇らせると、無言で目をそらした。何か後ろめたいものでもあるように口をつぐんでいる。
そのしぐさに、振り向いていた影狼が首をかしげた。その時。
歩いていたマサヨシが、突然がくりと膝をついた。
「ちょっと、大丈夫!?」
驚いた影狼があわてて駆け寄る。マサヨシは地面に手をついて倒れるのをこらえつつ、笑みをつくって答える。
「すみません……俺、ちょっと体弱くて」
それは嘘ではないのだろう。間近で見た顔には脂汗がにじみ、声にも荒い吐息が混じっている。
影狼はしばらく、その場にしゃがんでマサヨシの様子を見守っていた。さいわい大きな疲労ではなかったようで、休むうちに顔色も元に戻っていく。
「もう平気? 行ける?」
「ええ……すみません」
「悪いけどなるべく急がないと。夜中になったら何が出てくるか……」
影狼はそわそわと周りを見回してつぶやく。どうやら彼女がついているからと言って絶対安全ではないらしい。察したマサヨシもふらつきながら腰を上げる。
しかしそんな彼の耳に、かすれるような何かの鳴き声が聞こえた。
「きゅうぅーーん……」
「うわあああっ!?」
直前に警告されていたマサヨシは、その鳴き声に仰天して悲鳴をあげた。ついでに飛びのいた拍子に影狼にぶつかり、1メートルほど吹っ飛ばしてしまった。
「きゃっ!!」
「あ、わっ、あわわわ」
ひっくり返る影狼に、マサヨシは慌てふためきながらすがりつくようにして這い寄った。その姿を一瞥して、影狼が険のある声で言った。
「どうしたのよ急に……何かいたの?」
「あ、あれ……! います! 誰か見てますよ!」
マサヨシは震える声で声の方角を指さした。そこには、地面に近い位置から見つめる、二つの黄金色の小さな瞳だった。影狼はその瞳をジッと凝視し、マサヨシを静止させてゆっくりと近づいた。
その見つめる何者かは少しも動かなかった。触れられる位置まで接近して、影狼はマサヨシへ振り向き、平気な声で言った。
「大丈夫よ。ただの狼の子供だわ」
「こ、子供?」
「ええ、手で持てるわよ。ほら」
影狼はその幼い動物を抱き抱えると、マサヨシに見せた。子犬が少し大きくなったようなそれは、ふわふわとした茶色の毛玉のように見えた。「可愛い」などとつぶやきながら影狼はその狼をなでていたが、マサヨシは不安げな表情でささやく。
「大丈夫ですかね……? 今に親が飛び出して、襲いかかってきたり……」
「ああ、それなら大丈夫よ。この子……」
マサヨシの疑問にふと、影狼の表情が陰った。そしてまた体のあちこちをなで、神妙な口調で語る。
「……どうも体が弱いみたいなの。たぶん生まれつきでしょうね……。だから、家族にも捨てられたんでしょう」
「えぇ!?」
「こんな場所に子供を置き去りにして、気づかない訳がないもの。野生動物は育てられる数にも限界があるし」
驚くマサヨシに対して、影狼は冷静だった。野に暮らす妖怪である分、人間よりも動物の事情には詳しいのだろうか。マサヨシはしばし押し黙り、影狼に抱かれている狼を見つめていた。
「……影狼さん」
「ん?」
「その子……ちょっと貸してくれませんか?」
「……?」
その声色に、わずかに思い詰めたようなものがあったので、影狼は眉をひそめた。しかし深く考えずに言われた通り狼を手渡す。
「…………」
腕の中に収まった狼の子供に、マサヨシは無言で目を落とす。弱っているのか鳴き声もろくに出さず、目を閉じて聞こえるのがやっとの息をしている。
置き去りにしてしまえばたやすく死んでしまいそうな、儚い姿。人間に置き換えれば十歳にも満たないであろうその小さな狼を、彼は哀れむような目で見つめていた。
唇をかみ、視線をわずかに泳がせる。そしてふと、持ち方を変えた。両手で頭を支えるような……いや、首にちょうど親指を食い込ませられるような形に。
影狼が息を呑んだ瞬間、マサヨシは顔を苦しげに歪め、手に力を込めた。首を絞められた狼が、かすかな吐息を漏らす。
「何してるの!」
一瞬遅れて、影狼がマサヨシの手をはたく。狼を手から落としかけ、マサヨシはあわてて抱きかかえた。
彼は自分でも驚いたようにハッとなって、痛いほど見開いた目で影狼を見た。影狼も驚きと戸惑いに染まった目を丸くし、互いに呆然とした顔で見つめ合う。
パニックがうかがえる荒い息が、二人の口から盛んに出入りしていた。体も細かく震え、マサヨシも無意識にか狼を自分の胸元へ胸元へと引き寄せている。
「……何のつもり?」
十秒ほどして、やっと影狼が問いかけた。その声は当然、とげとげしくなっている。
問われたマサヨシは、ばつが悪そうに目をそらすと、うつむいた。そして少しだけ口をモゴモゴ動かして、小さく答える。
「……だって……どうせ、死ぬから」
「何ですって?」
「放っておいても、どうせ死ぬんでしょう? だったら今殺してやる方が幸せじゃないですか!」
マサヨシの語気がわずかに強くなる。その口調は、心なしかすねた子供のそれに似ていた。
言葉に詰まる影狼へ、彼はさらに続けた。
「体が弱くて、親もいない、病院もない。そんなら、むしろ生かしたらダメですよ! よけい苦しむだけに決まってます!」
「…………」
マサヨシは何やら、悲壮がってそう訴えた。そのさまを見ると、影狼もその態度の裏に何かしら理由があるのかと勘ぐって、いぶかしげな視線をよこす。どうしてそう思うの? という気持ちが目に表れていた。
やがて、マサヨシもその視線に気づく。高ぶっていた気持ちが治まると、一転して重く口を開く。
「……俺、さっきも言ったけど、体が弱いんです。それも、生まれつき」
「…………」
「昔、お母さんが妊娠中にトラブルがあって……予定より早く生まなきゃならなかったって。それで……発達が遅れたまま、今まで生きてきたんです」
訥々と語られる身の上を聞かされて、影狼はようやく合点がいった。弱くて置いていかれた、その小さな狼に、自分を重ねているのだ。
おそらくマサヨシも、虚弱がゆえの受難があったのだろう。でなければ、いくら野生で生きるのが難しいとはいえ、唐突に殺そうとはしないはずだ。
そんな影狼の予想を裏付けるように、マサヨシはボソボソ、自嘲ぎみに過去を話し続けた。
「小さい頃は、色んな病気にかかって……せきが止まらなかったり、すぐお腹をこわしたり……今だって、こんな風に体力ないし」
「ふぅん……」
「おかげで、地元の病院の小児科の先生と、いまだに顔なじみなんです。お世話になりっ放しだったみたいで」
「…………」
「それにホラ、俺、なんか顔デカくないですか?」
「え、いや知らないけど」
「いや生まれ方のせいか、デカいんですよ実際。みんなと並んでみたら分かります。ただでさえ周りとなじめないのに、このせいでバカにされてばっかりで」
乾いた笑いを漏らすマサヨシを、影狼は気まずい表情で見つめていた。どうやらデカい顔の話は彼の精いっぱいのユーモアだったようで、薄笑いしながらおずおずと影狼の顔をうかがってくる。
影狼はそんな彼に向けて一つせき払いをすると、厳しい顔になって言い聞かせるように言った。
「あのね。私は別に、その子を生かせとも殺せとも言う気はないの」
「……え?」
「元に戻しておきなさい。自然の動物なんて生きる時は生きるし、死ぬ時は死ぬのよ」
影狼の冷徹な言葉が意外だったのか、はたまた、自分の人生に同情してもらえなかったせいか、マサヨシは虚を突かれたように固まった。彼女はかまわず、さらにマサヨシを促す。
「置いてきなさいよ、さあ」
「そんな……」
「動物も妖怪も、下手な情けはかえって害になるわよ。さっさとしなさい」
影狼はなおも言ったが、マサヨシは煮え切らない様子で狼を抱いていた。そうしてグズグズした後に、彼は絞り出すような声でつぶやいた。
「……やだ」
「は?」
「せめて……死ぬまで、こうして見てます。連れていきます」
先ほど殺そうとしたにも関わらず、彼は泣きそうな声で言った。影狼は髪を鬱陶しげにかき上げ、半ば呆れたように言う。
「……あっそ。好きになさい」
そうして、影狼はさっさと背を向け、先を歩きだした。マサヨシも狼を抱き直し、トボトボと後をついていく。
少しして、マサヨシが背中に向けて尋ねた。
「影狼さん」
「何?」
「影狼さんは、どうして俺の方は助けたりしたんです?」
狼は置いていこうとしたクセに、と言外に含めていた。影狼はそれに気づいているのか、素っ気なく答える。
「んー……アンタは理不尽に巻き込まれたタイプだから、可哀想になって」
「
「じゃあ何? アンタは死にたいわけ?」
振り返って鋭い口調で問われ、マサヨシは口ごもってしまった。実は、死にたい気持ちも無くはなかった。体が弱ければ、苦しむだけ……。それは、彼自身の経験からくる言葉でもあったのだから。
しかし、いざ聞かれてみると素直にハイとは言えなかった。人の気持ちは複雑で、思い切れないものである。
そうして答えに窮しているうちに、影狼はまた先を歩き始めていた。マサヨシは我にかえって、小走りに後を追った。
死にたいと思っている方を、死なせてはくれないだろうか。マサヨシは歩きながらそう思った。いや、わざわざ聞かずとも、死にたい気持ちくらい、察してくれないだろうか。続けてそんな身勝手な考えまで浮かんだ。
影狼は別に、悪事をしているわけではない。自然の間引きは肯定し、被害者と言えなくもないマサヨシは助ける。そういう考えでいるだけだ。
ただ、マサヨシはそれを素直に受け止められなかった。死にたい気分で、それでも踏み切れずにいるのに、わざわざ助けようとなんてしやがって。そんなひどい逆恨みの気持ちまで湧いてきたのだ。
ただ、それをそのまま口にするのは流石にはばかられたので、代わりに彼は、ネガティブな気持ちを独り言として吐き出す事を選んだ。しかも、自分ではなかなか格好いい文句が出て来ないので、著名人の言葉を借りてした。
「"人間、生まれてくるとき泣くのはな、この阿呆どもの舞台に引き出されたのがかなしいからだ。"(ウィリアム・シェイクスピア『リア王』)」
「…………」
「"僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。生きていたい人だけは、生きるがよい。人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です。"(太宰治『斜陽』)」
「…………」
「"生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。"(太宰治『桜桃』)」
「……………………」
「"しかるに、赤ん坊が生まれた時に泣いているのは世に生まれ出た感動からではなく、母親から離れ、世界に初めて孤独を感じるから泣くのかもしれない。だから、誕生日とは孤独のスタート――"」
「だぁーっもう! うるっさいわねぇ、グチグチグチグチ!!」
「"――なのだ。"(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。~ぼーなすとらっく! 「たとえばこんなバースデーソング」~』)」
止む気配のない独り言に、とうとうたまりかねた影狼が叫ぶ。マサヨシはムッとした顔をして言い返した。
「嫌なら、聞かなきゃいいじゃありませんか」
「聞きたくなくても聞こえてくるの! 耳がいいから! つうか、だんだん声がでっかくなってったし!」
影狼は詰め寄り、自身の耳を引っ張りながら言った。マサヨシはすねたように鼻を鳴らす。そりゃ、いくらかは当てつけの気持ちもあったかもしれないが、そこまで怒らなくてもいいじゃないか。そんな風に思っていた。
「はぁーっ……」
マサヨシのふてぶてしい顔を見て、影狼は深いため息をついた。もう見捨ててしまおうか。そんな非道な気持ちまで、かすかに頭をもたげてきたのである。
そのウンザリした顔に当てられてか、マサヨシはますます意固地になった。わざとらしく片手を(残った片手は狼を持っていた)ポケットに突っ込むと、影狼をにらんで、こんな事を言い放った。
「……影狼さん、俺のお母さんにそっくりですね」
「何の話よ。やぶから棒に」
「思い通りにいかないと、すーぐ嫌な顔をするんだ。それも、いかにもあなたの為って顔をしてさ」
ほとんど八つ当たりのようなその愚痴に、影狼は困惑する。それをよそに、マサヨシは地面に目を落とし、幼少のある記憶を思い出していた。
小学校に入る前、特に病弱だった頃。腹膜炎だったか、髄膜炎だったか、とにかく大きな病気で入院した時があった。
点滴につながれ、退屈だと思いながら何日もベッドに小さな体を横たえていた。そんなある日、看病していた母親が話しかけてきた。
『マサヨシ、苦しくない?』
『んー……』
『頑張って。お母さんがついてるから』
などと言って、母親はマサヨシの小さな手を強く握った。その先は寝てしまったのか、よく覚えていない。
しかし、あのお母さんがついてるというセリフだけは、記憶から消えずにいる。思えばあれを始め、マサヨシは似たような言葉を何度も聞かされた。
お母さんだけは味方だ。負けないで。辛くなったら言いなさい。
死にたいと思うたびに、それらの言葉がよみがえり、彼を引き止めた。その身に、重くのしかかるのだ。生きろ、生きろと、事あるごとにグイグイ後押ししてくる。
思えば、あの腹を痛めたと主張する所帯くさいオバチャン一人在るが為に、彼はどれだけ苦しんできたか知れないのだ。
「……口を開けば、頑張れ、大事だ……聞きあきたよ」
悶々とした思いはいつしか口に出ていた。影狼はそれを自分ではなく、完全に母親への文句だと察していたが、それでもおせっかいに彼をなだめた。
「お母さんってそういうものでしょ。気にしても仕方ないわよ」
「……ふん、皆そう言うんですよね。あーやだやだ」
あからさまに渋面をつくるマサヨシ。生まれたがゆえの苦しみ、生まれてしまったがゆえの悩み、そして恨み。それらに耳を傾けてくれる者が、世間にどれだけいるだろう。
生まれてこの方、愛情やらエゴやらの荷物を周りからしつこいほどに背負わされ、いつしかその人々と離ればなれになり、一人で終わりの見えない道を、息も絶え絶えにひたすら歩く……。人生なんてのは、そんな代物ではないだろうか。いつしか荷物を取り出す事すらおっくうになり、捨てたくなっても捨てられず、中途で誰もが行きだおれ、くたばるのではなかろうか。
それが、今のマサヨシが持つ人生観であった。とかく人生観というものは、単純に正誤で判断できず、自らが認識を変えなければどうにもならないものである。
「ねぇ、マサヨシ! いいかげん歩きなさいよ!!」
いじけた態度に耐えかねた影狼が急かしたが、マサヨシはそのまま地べたにうずくまってしまった。狼を大事そうに抱えて、彼は消え入りそうな声で言った。
「……俺、もう死にます」
「はい!?」
「この子と一緒に死にます。もしかしたら、潮時かもしれないので」
そして、彼はテコでも動かないという風に膝を丸めた。この見知らぬ世界は、思い切って死んでしまうのに最適かもしれない。そんな思いが頭いっぱいに膨らんできたのだ。
しかし、どうして。その声色には、多分に思わせ振りな響きもあった。
「…………」
甘ったれと言おうか、なんとも面倒くさいマサヨシの態度に、影狼も眉間にシワをつくった。夜風で乱れる髪もそのままに、焦れたように歯噛みする。
しばらく、無言の時間が続いた。マサヨシはうずくまったままうつむき、影狼は険しい顔をしながら彼を見下ろしていた。
「…………!」
しかしふと、影狼が何かに気づいたように鼻を動かした。マサヨシは顔を上げてそれを見つめていたが、彼女は不意に視線を合わせ、低い声で呼びかける。
「マサヨシ」
「は、はいっ」
「……もしもさ。私が人を喰う妖怪だったら、どうする?」
その声は、今までと打って変わって凄みのあるものだった。戸惑うマサヨシの目の前で、影狼の爪が二倍ほどに伸び、鋭く尖る。
マサヨシはしどろもどろに口を開く。
「え……や、だって。人を食べるの好きじゃないって、言ったじゃないですか」
「それがもし、油断させる為の罠だとしたら?」
影狼の声色はいっこうに変わらない。彼女はマサヨシの頭上で、伸びた爪を軽く振るった。
直後、ドザザッと音を立て、マサヨシの背後で何本もの竹が将棋倒しになる。マサヨシがおそるおそる振り返ると、ちょうど彼の頭上の高さで竹が一斉に切断されていた。
まさか影狼がやったのか。そう思って向き直ると、自分に向けて彼女が再び爪を振りかぶる姿が目に映った。
とたんに尻込みし、中途で切れている竹に背をつける。そんなマサヨシへ、影狼はさも楽しそうに言った。
「……さぁて、どこまで逃げられるかしら。少しは楽しませてくれるんでしょうね」
「わ、わあああぁっ!!」
並々ならぬ殺意を感じ、マサヨシは狼を抱えたまま、一目散に逃げ出した。その後ろで、ザワザワと草をかき分けて追ってくる足音がする。彼は捕まりたくない一心で必死に逃げた。
影狼の態度の急変や、自身の自殺願望の事など、今は考えていられなかった。いくら殺して欲しいと願っていても、怖い思いをするのは嫌だったのだ。
夜もふけ、道も見えない竹林の中を必死に駆ける。辺りに生える無数の竹が、右も左もひっきりなしに切り倒される。その度に肝のつぶれるように怯えながら、マサヨシは泣いて逃げた。妖怪に、影狼に追い立てられるかのように。
何分たっただろうか。冷や汗にまみれ、息を切らし、それでも殺されたくない一心で逃げ回っていた矢先。
突然、マサヨシの視界が開け、彼は藪を突き抜けて芝生に転がった。パニックになりながら振り返ると、そこにはついさっき途切れた竹林の姿があった。
いつの間にか、竹林を抜けられたのだ。彼は影狼がどこかにいるのではないかと忙しなく辺りを見回したが、不思議と人っ子一人出てくる気配はなかった。
追うのをあきらめたのだろうか。釈然としない思いでマサヨシが突っ立っていると、横から別人の声が聞こえた。
「ちょっと」
「ぎゃっ!?」
「……アンタ、誰?」
初めて聞く声。マサヨシが目をこらすと、そこには自分より少し年下ていどの、紅白の奇妙な巫女服を着た少女が立っていた。
「あ……オオヌキ マサヨシです」
ふぬけた顔で答えるマサヨシを、その巫女は足の先から頭の先まで無遠慮に眺める。そして一つうなずくと、断定的な口調で言った。
「アンタも迷い込んだクチね」
「へ……?」
「私は博麗 霊夢。幻想郷の巫女よ」
その言葉にマサヨシはハッとなった。影狼から聞いた、幻想郷を管理しているという人物の名が、他でもない霊夢だったのだ。
そして、幻想郷と現代を行き来させられる数少ない人物でもあった。
マサヨシは、反射的にすがりつくようにして言った。
「あ、あの! 俺、どうにかして元の世界に帰れませんか!? 今朝、いつの間にかここに来てて……」
「あー、そのつもりよ。元から気がかりで探してたんだし。ついて来て」
マサヨシの言葉をさえぎりそう言って、霊夢は背を向けて歩き出す。あっさりしたものだった。
マサヨシもついて行こうとすると、霊夢が振り返って口を開く。
「それにしても運が良かったわね。このド深夜に、たまたま私が勘づくだなんて」
「え?」
「しかも、あの迷いの竹林から出てきて、ドンピシャに出くわすんだもの。大したものだわ」
「…………」
霊夢は肩をすくめて簡単に言っていたが、マサヨシはどうにも引っかかった。助かったのは事実だが、考えてみると確かに都合が良すぎる。霊夢と会えた他にも、彼は影狼から傷の一つももらっていないのだ。
直後、彼の頭に襲われてからの出来事がチラチラと思い出された。
影狼が何故か盛んに鼻を動かしていた事。
自分を追う最中に、まるでどこかへ追い立てるかのように左右の竹が切断されていった事。
(まさか影狼さん……ここまで俺をわざと?)
さっきまでいた竹林を振り返る。月に照らされた大きな竹の群れは無言で、景色の中で黒い塊のように鎮座していた。内部の様子はうかがい知れないが、マサヨシは何故か、影狼が自分を見守ってくれているような、そんな気がしていた。
「どうかしたの?」
「あっ……いえ」
ボンヤリしていると、先を歩く霊夢が声をかけた。マサヨシはあわてて彼女のそばへと駆け寄る。
すると、霊夢の視線がふと、マサヨシの手元に留まった。
「そういえば、その子は飼い犬かなんか?」
「え、犬?」
「ほら、それ」
霊夢に指さされ、マサヨシはあの狼をずっと抱いていたのに気づいた。逃げる間中、無意識にずっと抱えていたのだった。
連れて帰ろうか、マサヨシは内心で迷った。動物園などに贈れば、死なずに暮らせるかもしれない。しかし、それはこの子にとって幸せなのだろうか。
悶々としていると、いつの間にか目を開けた狼と目が合った。驚く彼の腕の中で、モゾモゾと身をよじり出す。
マサヨシは少し躊躇したが、そっと屈んで狼を地面に下ろす。狼はへたり込みそうになりながらも、短い手足で体を支え、ゆっくりと竹林へ歩いていった。
マサヨシも、霊夢も、その姿をジッと見つめていた。しばらく歩いて、狼は一度だけ振り返った。本来の住みかへ戻る前に、最後に目が合う。
「……頑張れ」
マサヨシは無意識にそう口にしていた。それしか言えなかった。生を受けて立ち向かっていこうとしている者へ送る言葉は、それ以外に思いつかなかった。
やがて、狼は藪の中へと入って見えなくなった。マサヨシはそれを見届けて立ち上がり、霊夢に言った。
「行きましょう」
彼はその時、幻想郷に来て一番の笑顔を見せた。心のどこかで、少しずつ夜明けが近づいてきた、そんな気分だった。
オオヌキ マサヨシ――生存