幻想郷で生き残れるか? ~不運にも迷いこんだ者たち~ 作:ごぼう大臣
『ホノカ……その手、ケガしてない?』
『大丈夫? 保健室行ったら?』
『ううん……平気』
いつからだろう。時々、知らないうちに傷ができている事があった。
『ホノカ! お前この頃、塾をサボっているそうじゃないか! この時期に何を考えてる!?』
『ごめんパパ……なんか、記憶があいまいで……』
『ふざけるんじゃない! これ以上なまけるような事があれば許さんからな!』
いつからだろう。内心で拒んでいた物事が、知らないうちにみんな過ぎ去っていた事があった。
普段通り過ごしていたはずなのに。キチンとやっていたはずなのに。誰かが、私の邪魔をする。
頭が痛む。まただ。いい加減、頭の中に問いかける。
誰?
ねぇ、
誰 な の?
――
「……ノカちゃん、ホノカちゃん?」
「……はっ」
隣から少女に呼びかけられ、ナカノ ホノカは我に返った。ずきり、と頭が痛み、彼女はあわてて周囲を見回す。
周囲には温かく湿った空気が充満し、30畳ほどあるその室内は全面が
その洗面台、銭湯などによくある設備の一角に、ホノカは木の椅子を置いて座っていた。正面の鏡には、中学三年の中ではスレンダーな、高身長の自分の姿が映っている。
濡れた黒のロングヘアをかき分けると、寝起きのようなボンヤリした視線がぶつかった。
「大丈夫? のぼせた?」
「え、ああいえ、その……」
少女に心配そうに声をかけられ、ホノカはまごついてしまう。水色の髪をショートに切り、赤と青のオッドアイを持つ彼女。小柄ながら発育のいい体をさらさらと洗う姿は、まるで知り合い同士のようにリラックスしていた。
(……誰だっけ、この人)
ホノカは愛想笑いをしながら、湯のしずくと共に冷や汗をかいた。
何故、自分がこんな浴場にいるのか。
何故、この名前も知らぬ少女と入浴しているのか。
彼女には、どうしても分からなかったのである。
「大丈夫です」などと生返事をして、ホノカは手元にある桶からタオルを取り出し、体を洗いはじめる。俯いて肌をこすりながら、彼女は今までに何があったか、思い出せる記憶をたどった。
まず、ハッキリと思い出せるのは今朝の事。修学旅行の二日目で、バスで移動している最中だった。
しかし、途中である異変が起こった。走行中に突如、この浴場の湯気を思わせるような、白い霧がたちこめたのだ。
そこで、記憶は途切れる。他の同級生らはどうなったのか、どこまで移動したのか、まるで思い出せない。
実は少し前から、彼女には記憶がところどころ無くなっているという事態が頻繁に起こっていた。ある時には覚えのないケガをし、ある時には行きたくなかった塾をサボり、そして不思議に思いながらも心配や叱責を受けるのである。
それと共に、記憶の欠けた原因なのか、頻繁に頭痛にさいなまれた。
だから、不自然に記憶が途切れているのはそこまで気にならなかった。しかし
、今回のように見知らぬ少女と風呂に入るなど、どのような経緯なのか想像できなかった。この少女と関係する人たちに保護されたという事なのだろうか。それならば、なぜ自分一人だけ?
あれこれと考えながら、何度も体にタオルを往復させる。そんな彼女を見かねてか、少女が苦笑いしつつまた声をかけた。
「ホノカちゃん……本当に大丈夫?」
「わっ! えっと……」
思考にふけっていたホノカは驚き、声をあげてしまった。二人しかいない浴場内に音が広く反響する。
まずい、この先とりつくろえない。どうにか不信感を持たれまいとホノカは必死で頭を回転させるが、元より困惑しっぱなしで上手いゴマカシなど出来るはずがない。
たちこめる熱気で脳のヒートアップに拍車がかかる。少女の顔がいよいよ気がかりそうになってきた頃、ホノカの頭に、また鋭い痛みが走った。
『……ガサ、……コ…………サ』
(…………っ!?)
『……コガ……コガサ……』
脳内に、ひどく聞き取りづらい、低い声が響く。ホノカは思わず頭を押さえながら、声に圧されるようにしてその言葉をつぶやいた。
「こが……さ?」
「え、今私の名前よんだ?」
苦しげにつぶやいた瞬間、少女がはたとオッドアイをしばたかせる。そうか、この子はコガサというのか。そう察したホノカはとっさに笑顔をつくり、何て事ない風に言った。
「いえ、ごめんなさい。私、実は頭痛持ちで……」
「そっか、だから時々うわの空だったんだね」
小傘(ホノカは思い当たる漢字をテキトーにつけた)は幸い、裏のない微笑みと共に納得してくれた。ホノカはほっとため息をつき、強調するように何度も頷いた。
「ごめんね、頭痛なんて知らないで横から色々と……」
「へ、ああいえいえ、気にしていませんよ」
ホノカの口調はぎこちなく、他人行儀なものであったが、小傘はそれに気付かず申し訳なさそうに頭を下げた。ああ、この人は良い人なのだなぁとホノカは仕草から察した。
「……湯船、入りましょうか」
「うん、そうだね」
二人は立ち上がると、並んで浴槽の方へと歩いていった。ご機嫌に鼻唄を歌う小傘を横目に見ながら、先ほど名前を教えてくれた声は何だったのだろう、とホノカは頭の隅で考えていた。
―ー
「んーっ、気持ちいい~」
「…………」
横で思いっきり伸びをする小傘を、ホノカはちらちらと眺める。湯に浸かって頬笑む姿はいかにもリラックスしていて、はたから見てうらやましくなるほどだった。
一方、ホノカの方はどうにも落ち着かず、たゆたう水面を俯いて見つめたりなどして黙っていた。
名前が分かり、敵意もおそらく無いとはいえ、彼女にとって小傘は素性の分からない人物だ。このように裸の付き合いを、しかも二人きりでするとなると、どうにも堅くなってしまう。
体をすぼめ、さりげなく小傘から遠ざかろうとした時、またホノカは声をかけられた。
「ホノカちゃん、なんだかゆっくりできてないね」
「な、何がデスカ?」
内心を見透かされたような気がして、振り向いたホノカは思わず声がうわずる。それに加えて笑顔もぎこちなく、かえって小傘の指摘の通りになってしまった。
「もっと肩まで浸かりなよ。大丈夫、誰にも遠慮する事なんてないんだから」
「うぅ……」
優しく言われ、ホノカは湯に肩どころか顔半分までをざぶりと沈めた。照れと気まずさで目を合わせにくい。そんな彼女に、小傘は気にしていない風で、クスクス笑いながら言った。
「お互いあんなに泥まみれになったんだから、ちゃんと温まらないとね」
「……泥まみれ?」
覚えがなかったホノカは思わず聞き返してしまった。後から気づいて口を押さえた彼女を、小傘は不思議そうな顔で見つめて言う。
「うん、ホノカちゃんも私も、すごい汚れてたじゃない。外は大雨だったし」
「あ……そうでした、ね」
「もー、早く寺に入れば良かったのに、ヤダヤダって聞かないから、お墓でひっくり返って……」
ホノカは相づちでごまかしながら、小傘のセリフに聞き入っていた。そして自分が今いる場所が墓地つきの寺なのだと分かった。続いて、自分がその寺に入るのを渋ったらしいと察しをつけ、わざとしおらしい顔で頭を下げる。
「すみません……私ったらとんだ失礼を」
「いや、いーのいーの。こんな目にあったらパニックになって当たり前だから」
小傘はひらひらと手を振って笑う。そして、また気になるような事を言った。
「いきなり妖怪だらけの世界に迷い込んじゃった、なんて一人じゃ分かるワケないよ」
「妖怪……? おっと」
「"幻想郷"は怖いよ~? 取り乱しただけで済むなら、十分にラッキーだよ」
妖怪というワードに反応しかけ、ホノカはあわてて口をつぐむ。そして新たに幻想郷というワードを頭の中で反芻する。
どうやらここは幻想郷とやらで、妖怪とやらが跋扈する恐ろしい世界らしい。にわかに信じられなかったが、小傘が嘘を言うようには見えなかった。
……しかし、その幻想郷であっけらかんとしている小傘というのは、一体何者なのだろう。そう疑問に思ったホノカは、小傘の姿を改めて盗み見る。
すると、小傘がちょうど前髪をかき上げたその時に、あるものが目についた。
髪の下に隠れるように、赤いアザのようなものがある。それは直径1センチほどもあり、間近にいなくとも目立っていた。
「そのキズ……!」
ホノカが反射的に小傘に飛びつき、額のアザへと手を伸ばす。小傘はそれに気づくと一瞬めんくらい、そして何かに気づいたように笑った。
「ああ、これ? 気にしなくていいってば。私も妖怪なんだから、すぐふさがったし」
「…………」
気にしなくていい、そう言われただけで、自分が何かやったのではないかとホノカは疑った。本当に気にならない物事に対しては、わざわざそうは言わない。
しかも、小傘は妖怪だから大丈夫だとも言った。てっきり人間だと思っていたホノカは驚いたが、それ以上に、人間なら大事になっていたかもしれないケガを負わせたのかと思うと、彼女は湯船の中で寒気に襲われた。
その瞬間、またもやホノカの頭に痛みが走る。しかも欠けた記憶に対するストレスのせいか、先ほどより痛みが長く続いたような気がした。
すぐさま小傘に目を移す。記憶が途切れ、中途半端に会話のつじつまを合わせている今、あまり気を引いてはまずいと思った。幸い、小傘は気づかずに鼻唄などを歌っている。
今のうちにあがってしまおうか。ホノカはふとそう思い立つ。どうにか怪しまれないようにしつつ周りの情報を集め、そして信用できるとなったら記憶の件も打ち明け、改めて助けを求めよう。
それが良い、と決めたホノカはおずおずと「あの、私そろそろ……」と切り出す。
しかし、直後に浴場の扉ががらがらと開かれ、誰かが入ってきた。
「あ、小傘ー! お風呂の準備ありがとー!」
小傘より若干高い、威勢のいい声が響く。その少女は黒い癖のあるショートヘアで、細身だが背は低く、小傘と同じくらいだった。背中には赤と青の奇妙な形をした大きな羽根が生えている。風呂に来て作り物はつけないだろうし、あの子も妖怪なのだろう……とホノカはとりあえず納得した。分かりやすい証拠を見て、彼女の中で疑いが薄れていく。
「あ、ぬえちゃん」
気づいた小傘が、手を振りながら答える。やはり妖怪同士の知り合いらしい。妖怪と二対一……疑いが薄れた代わりに、ホノカの中で恐怖が増した。
「ありゃ? お客さん?」
ぬえと呼ばれた少女がホノカを見つめながら歩み寄ってきた。全裸を隠しもせず、無遠慮に視線を向けてくる。
「あ、ナカノ ホノカちゃんだよ。外来人の子なんだけど、道に迷っちゃったみたいで」
「は、はじめまして」
「へぇー、そりゃ災難だったね」
ぬえは驚きと同情が半分ずつの声をあげて、湯船に一番近い洗面台に座る。そして小傘の方を見ながら話しだした。
「いやーまいったよ。雨降ってきたかと思ったら、全然やまないんだもん」
「しかもみんな出払ってるしねー。大急ぎでお風呂わかしたけど、きっと今に一斉に入ってくるよ」
「いやいや、それでも助かったよ。私だったら、絶対にお風呂の準備なんかしないし」
「……そこは嘘でもやるって言おうよ。一応は部外者だよ、私」
二人は浴場に響く声でおしゃべりを始める。そこでホノカは「先にあがります」と言えなくなった。恩人と仲がいいらしい初対面の人が来た、その直後に去るなど、なんだか失礼のように思えた。
のぼせてしまいそうだなどと理由は色々言えたかもしれないが、ホノカはどうしても自分のワガママを通したり、場の空気を無視するなどという事ができないのだった。家では親のいいつけを守り、学校ではおとなしく控えめに過ごす。
だからこそ、知らないうちにケガをしたりサボったりしたなどの事件があると、自分でも驚いたのだ。我が事と分かっていても、なんだか別人がやったような不気味さがある。
「よっと」
一人で悶々と考えていると、体を洗い終えたぬえが隣に入ってきた。ホノカを真ん中にする形で、ぬえがくつろぎだす。
これで雰囲気からして、脱出はますます難しくなった。さらに追い撃ちをかけるようにぬえが話しかける。
「ねぇ、ホノカだっけ」
「……あ、はい」
「ここに来るまで、どんな感じだった? 一人だけで来たの?」
ぬえは小傘と話す時の笑顔を切り替え、神妙な顔で尋ねる。その目は同情の色が浮かび、彼女なりに労おうと思っているのが窺えた。
しかし、今のホノカにとってその気づかいはありがた迷惑だった。なんせ、ホノカは現代で霧に呑まれた時から風呂で気がつくまで、記憶がまるで残っていないのだ。
ヘタに失言などして機嫌を損ねてはまずい。またもやそんな警戒心にとらわれた彼女は、あいまいな笑みを向けて目を泳がせていた。
すると、横から小傘が助け船を出す。
「……ぬえちゃん、あんまりそういうの聞かない方がいいよ」
「ん?」
「ただでさえ慌ててたんだから。話したくない事もあるでしょ」
「あー……うん。ごめん」
たしなめるような口調で言われ、ぬえはややしょげた顔になる。その隣で密かに安堵して、ホノカはすかさず話題を変えた。
「で、でも。本当に会ったのがお二人で良かったです。なんていうか、人間とほとんど変わらない感じだから」
「へ?」
半分お世辞のようなセリフに、ぬえが顔を上げてニンマリと笑う。ホノカはその豹変に身を固くしたが、ぬえはバシャバシャと詰め寄ると、いかにも楽しげに問いかけた。
「……ホノカ、私が人間っぽく見える?」
「え、まぁ……」
「ふふー。ま、この格好じゃしょうがないかなー?」
ぬえは何故かわざとらしくニヤニヤしながらホノカを上目遣いに見る。上機嫌なのを示すように、背中の羽根がウネウネと滑らかに水をかいた。
その動きはなるほど妖怪らしかったが、ぬえは得意げに歯を見せて笑うと、更にこう宣言した。
「じゃさ、妖怪だってところを見せてあげようか。こっち来て」
「え……」
ぬえは浴槽の
「……何ですかそれ?」
「これはね、私の使ってる"正体不明の種"。相手の正体をおぼろげにしちゃう、不思議な種だよ」
正体をおぼろげにする、その意味が分からずホノカは眉をしかめた。ぬえはその反応をも楽しむように、ホノカを見下ろしながら説明する。
「ちょっとややこしいんだけどね。例えば今、『湯船に座ってるホノカ』から"ホノカ"って分かる情報をあやふやにして、『湯船に座ってる"誰か"、"何か"』にしちゃう力があるんだ」
「誰か……」
「あくまでそう見えるだけなんだけどね。深く知っている仲だと効果うすいし。けど、これでもけっこう面白いんだよねー」
「…………?」
ぬえは種を手のひらでザラザラかき混ぜて楽しげにつぶやくが、ホノカはいまいち理解できずに首をかしげている。それを見たぬえはこっそり噴き出し、また口を開いた。
「よし、なら実際に化けてみせてやろう」
「なっ!?」
「ぬえちゃーん、あんまりからかわない方がいいよー?」
「まあまあ、一回だけだからさ」
ホノカが驚き、小傘も苦笑するが、ぬえはお構い無しである。種をつまんだまま、ホノカへこう促す。
「よく見ててよ。今から種の力で姿が変わるから」
「み、見るんですか……?」
他人の裸体を見つめるのをホノカは少々ためらったが、ぬえはむしろ見やすいようにグンと背筋を伸ばす。あきらめて注目すると、ホノカの目に映るぬえの姿に、変化があらわれた。
(…………っ!)
まず体の輪郭がじわじわと崩れ、次に肌の質感が変わっていく。物体としてあったものが、まるで絵画のように平面的になったかと思うと、水を落として絵の具を溶かすがごとく、ぬえの全体が形を失っていく。
変形はまたたく間に顕著となり、ホノカがまるで水中にでも潜ったかと思うほどに、ぬえとその周りの空間まで歪み、隅々に色がにじんでいく。
それはまるで、夢の中で見覚えのない人物を見ている時にそっくりだった。
「……え、な……誰?」
ホノカがおびえた声をあげると、ぬえらしき何者かは低く底冷えするような声を発した。
「ほらね、こんな風に正体が分からなくなる。しかも、ホノカとはまだ初対面だから……」
そう言った瞬間に、ドロドロとしたぬえの塊が、中心からぐるぐると黒ずみはじめる。まるでブラックホールのように黒いものが渦を巻き、ぬえの全身を漆黒に染め上げる。
「ひっ!?」
「おっかない何かに見えてきたでしょ? 正体がつかめないと、偏見がたくさん入るんだ。妖怪だから、まだ怖いイメージがついちゃってんだねー」
ぬえは低く笑いながら言ったが、ホノカはまるで聞いていない様子だった。青ざめて震えながら、一歩、二歩とおぼつかない足取りで後ずさる。
さすがに心配になった小傘が駆け寄ろうとした時、ぬえは上半身を勢いよく近づけ、ホノカに向けてささやいた。
「あ、別に怒っちゃいないよ? ただ、私がちゃんと怖い妖怪だって、分かってほしくて」
「…………」
コールタールを頭からかぶったようなぬえの口があるだろう部分が、セリフに合わせてボコボコと波打った。目鼻の判別もとうにつかず、ただ異様な声をあげる何か。いくらそう見えているだけだといっても、ホノカの理性は限界に近くなっていた。
「あれ、ねえ聞いてる?」
そう言って、ぬえが更に顔を近づけた。黒い塊が間近に迫る。その瞬間、ホノカの体が反射的に動いた。
「いやっ!!」
「うわあっ!?」
ホノカは悲鳴をあげてぬえを突き飛ばす。するとぬえは突然の事に、背中から勢いよく倒れた。
ぬえが持っていたらしい"正体不明の種"が、バラバラと周囲に飛び散った。種を全て手放したせいか、ぬえは元の姿でひっくり返っていた。
「ぬえちゃん!」
小傘があわてて駆け寄り、ぬえを助け起こす。あちこちを触りながら、あわてて声をかける。
「大丈夫? どこも痛くない?」
「あー大丈夫だよ。倒れたくらいで大げさな」
けっこうな音がしたにも関わらず、ぬえはそ知らぬ顔で笑う。小傘はホッとため息をつくと、背後で呆然としているホノカへ目を向け、またぬえに向き直った。
「じゃあ、ホノカちゃんに謝って。ぬえちゃんがやり過ぎたからこうなったんだよ?」
「へーい」
小傘にきつく言われ、ぬえも少しだけ肩を落とす。しかし、当のホノカはといえば、突っ立っているのはぬえが驚かせたせいでも、また突き飛ばしてしまったせいでもなかった。
ホノカは言葉を失ったまま、虚ろに自身の手を見た。ぬえを突き飛ばした時の手の感覚が、何かに似ているような気がしたのだ。
「…………っ!?」
その刹那、彼女の頭に今までとは比べ物にならない痛みが走った。割れるような激痛に思わず目をつむると、まぶたの裏に不鮮明な映像が流れ出す。
殴りつけるような大雨、ぬかるんだ地面、そしてそれらに構わずもみ合っている誰か……。
視点はホノカ自身のもので、視界にはもみ合っている少女らしき人物が主に映り、視点がぶれると墓地らしき一角や、古めかしい家屋がチラチラと映った。
今いる寺の映像だろうか。ホノカがそう考えた瞬間、映像の中の自分が少女を突き飛ばした。
少女があっけなくよろめき、墓石にぶつかる。色はハッキリしなかったが、そのショートヘアには見覚えがある気がした。
視点が、わずかに後ずさる。続いて、少女が顔を押さえながら振り向いた。
手を当てた額から血が流れている。その表情は憔悴してはいたが、まぎれもなく小傘のそれだった。
あの額の傷跡。あれは自分のせいだったのか。そう思った瞬間、映像はぶつりと途切れた。頭痛と入れ替わるように耳鳴りがし、またそれが薄れ、少しずつ意識が元に戻っていく。
「……大丈夫なの……?」
気づくと、小傘とぬえがそろってホノカを見つめていた。怪訝ながらも心配する目。それを見て、ホノカはそぞろに罪悪感に襲われた。
何故今まで忘れていたのだろう。そもそも何故あんな事をしてしまったのだろう。後悔すると同時に、実際にケガをさせた――記憶になかった自分の事を思い、脳内をさまざまな思考が駆けめぐった。
あれは、誰? 私は、知らないうちにあんな事を? そんなの、頼んでもいないのに。
私が、やったの?
混乱を極めたホノカは、内心で半狂乱になりながら湯船を出ると、出口へ脇目もふらずに走った。
「ホノカちゃん!?」
呼び止める声がしたが、無視した。ただ今の困惑から逃れたくて、必死に逃げ出せる場所を探した。
扉を押し開け、脱衣場にたくさんある脱衣カゴの中から自分のを探し当て、シャツ、パンツ、ジャージだけを身につける。洗濯前か後かなども気にしていられない。信じられないほどのスピードで着替えを終えると、脱衣場から廊下へ飛び出した。
「ホノカちゃん、待って!!」
背後で小傘たちの足音がし、逃れるように廊下を駆ける。さすがに裸では追いかけられないのだろう。すぐには近づいて来ない。ホノカはでたらめに寺の中を走り、縁側まで来ると、裸足で傘もなしに飛び出した。誰もいない場所で一人になれば、この見知らぬ世界も、制御できない内心の何者かも、夢から覚めるように消え失せる。彼女は根拠もなくそんな考えを抱いていた。
――
「あの、この辺で薄着の女の子見なかった? 長い黒髪の、ホノカって子なんだけど!」
……数十分後、小傘たちは戻ってきた寺の仲間たちや近くの一般人たちに、ホノカの行方を尋ねて回っていた。詳しい特徴だけではなく、見慣れない人間がいなかったか、それだけでも思い出してほしいとも言った。
しかし、それにも関わらず誰もが「知らない」「分からない」と口をそろえた。
……その頃、当のホノカは誰もいない野道を一人で、びしょ濡れになりながら歩いていた。止む気配のない雨が容赦なく体に染み込み、ぬかるんだ地面に足が沈む。白い素足はとうに泥まみれになり、すそまで汚れていた。
芯まで凍るような寒気をおぼえながら、ホノカは虚ろな目つきで前を見た。同時に視界が白く染まり、低い雷鳴がとどろく。
その轟音に、彼女は反射的に耳をふさぐ。音が聴覚を刺激した直後に、連動するようにして脳の部分が鋭く痛んだ。
「ぐぅっ……う……」
思わず膝をつきそうになり、ホノカは歯を食いしばってうめいた。痛みが引くと同時に、別のあるものが耳をたたく。
『ったく、ちょっと優しくされたら早速
乱暴な、若い男の声。それは本来ならありえない、
ホノカの周囲は、何度見ても誰もいない。にも関わらず声はハッキリと聞こえてくる。
ホノカはこめかみを押さえながら、同じく頭の中で、苦しげに問いかけた。
(あなたは……一体?)
彼女自身、馬鹿げた質問だと思っていた。しかしそれでも、その声は返答をくれる。
『分からないか? 俺は"お前"さ。いつもいい子ちゃんぶってるお前の、分身みたいなもんだ』
(分身……?)
ホノカは意味が分からず顔をしかめる。しかし、分身を名乗るその声はあざ笑うように言った。
『覚えてないだろ? ムカついて壁を殴った時も、塾に行かずに遊んでいたい時も、俺が代わりにやってあげたんだぞ』
(…………あ!)
その言葉に、ホノカはハッと思い当たる。いつの間にか手をケガしていた事、塾をサボってしまっていた事。原因が分からないはずだ。犯人は己の中にいたのだから。
(じゃあ……小傘さんにケガをさせたのも)
『そうさ。あのまま逃げりゃ良かったのに、お前は中途半端にでしゃばりやがって』
彼は憎々しげな口調になって言う。体を乗っ取って、もとい表に出てやってきた事に、みじんも罪悪感は無いようだった。
ホノカは我慢ならず、内心で男に反発した。
(ふざけないで! 恩人なのに……なんて余計な真似を!)
『恩人? 妖怪だとかいう馬の骨が、なんで信用できるんだよ』
それは、と反論しかけて、ホノカは言葉が思い浮かばなくなる。考えてみれば、自分だって終始小傘たちを疑っていたではないか。
そこに漬け込むように、男は更に頭の中で言いつのった。
『どこまでお人好しなんだお前は? 暴力なんて使わない、親には逆らわない、好意は素直に信じる。そんな風にばかり考えてるから、俺が代わってたんじゃねえのか』
うるさい、うるさい。ホノカはそう念じながら何度もかぶりを振った。これは気の迷いだ、精神の異常だ。必死にそう思おうとしたが、彼女はどうしても男の影を振り払えなかった。
暴力性、逃避、不信。そういったものが他ならぬ自分から発生したものだと、薄々分かっていたからだ。何かを殴りたいと思った時はある。何かから逃げたいと思った時も、誰かを信じられないと思った時もある。ただそれを、彼女は知らず知らずに押し殺してきたのだ。今まで積み重なってきたものを、まざまざと"別人格"に突きつけられる。
「ぐ……っ……」
酩酊したように歩を進めながら、ホノカはうっすらとある疑問を抱いた。
"自分"とは、"私"とは何なのだろうか。誰とも波風を立てず、礼は尽くして、勉強は真面目にやり、親にも友人にも世話はかけない。そうやって物心ついてから今までを生きてきた。それが自分の偽りない姿だと信じていた。
しかし実際、心の中には反発してくる者がいる。鏡写しのように、不満を代わりに解消してきた者が。
自分の築き上げてきたはずの、模範的な"いい子"の人格は、きっかけさえあればたやすく揺らぎ、押しのけられる。
(やだ……別人になんか、なりたくない……!)
意識を失いそうになるのをすんでの所でこらえて、ホノカはすがるように自らの体を探った。何でもいい。この場から救ってくれる物が欲しい。
……と思っていると、右手に何かを持っているのに気づいた。携帯だ。逃げ出す事しか考えていなかったが、習慣というのは恐ろしい。
雨でずぶ濡れの携帯を見ながら、ホノカはある事を思いついた。出来るならば、自分というものを示す痕跡を、一つでも多く残しておきたい。自分は今まで自分の意思で生きてきた、他でもないナカノ ホノカなのだという証拠を――たとえ死んだとしても――人々に見てもらいたかった。
どしゃ降りの中、夢中で携帯を操作し、動画撮影モードに切り換える。そして画面に自分の顔を映しながら、ホノカは必死に声を張り上げた。
「――もしもし、この動画を見ている方、どうか付近を探してみてください。そこに私が……生きているかは分かりませんが、いると思います。
私はナカノ ホノカといいます。▼▼中学三年B組の生徒です。202×年度の修学旅行でっ……痛、よく分からない異世界に迷い込みました。嘘では……ありませんっ! 助けてください……! 私はホノカです! 誰でもない私です!! どうか探してください!!」
遅いくる別人格の意識に耐えながら、ホノカはSOSを呼びかけた。自分はここにいる。ここに、十四年生きてきた私がいるのだ、助けてくれと、彼女は悲痛な顔で訴えた。画面の後ろで、映画のワンシーンのように稲妻が走る。
ところが、そこで異変が起きた。
ホノカは気づいていなかったが、彼女の頭に、種が一粒ぽつんと付いていた。
彼女がぬえを突き飛ばした時にばらまかれた"正体不明"の種を、はからずも仕込まれた状態になってしまったのだ。
結果、彼女は他人から見て"ナカノ ホノカという人間である"という情報を失ってしまっていた。ホノカがここまで逃げてきたのも、姿を知らない者には"見慣れない人物"としてではなく、"ただ走っている人間"にしか見えなかった為である。
そんな種を仕込まれた彼女が、"自分とは何か"という疑問を抱いたまま、画面に映った顔を見た時。
彼女の迷いがバイアスとなって、視認したその顔に変化があらわれる。
「ひいぃっ!?」
ホノカは悲鳴をあげ、視線を画面に釘付けにした。映っていた顔がみるみるボヤけて白んでいったかと思うと、目鼻も、口も、表情も、ふっと消え失せてしまったのである。
残ったのは凹凸すらない、全体を白く塗り固めたかのような、妖怪さながらののっぺらぼうだった。
「何……これ……」
ホノカは青ざめながら、震える手で自らの顔を探る。いつもと変わらない感触。だが、正体不明の種に気づかない彼女は、別人格への戸惑いと怪現象の恐怖に、完全に思考を奪われてしまっていた。
そんな時、どのような意図でもってか、脳内にまた別人格の声が聞こえた。
『……いいから、代われよ』
「……いや……嫌ああぁっ!!」
その声に弾かれたように、ホノカは携帯を放り出し、自らの体を抱いて走り出した。行き先なんて考えていない。寺から逃げた時と同じく、ただその場から逃げる事を――そして、今度は自分自身からも――考えるので精一杯だった。
辺りを取り巻く雷雨、地面のぬかるみ、裸足、そして精神的な混乱……今の彼女に、正常な注意力などあるはずがなかった。
その報いは、わずか数秒後に訪れた。
「え?」
足元に違和感を覚え、ホノカはふと下を見る。先ほどまで携帯ばかり見つめていたのも悪かったのだろう。
ホノカの眼下には、雨で崩れた、高い崖が広がっていた。
「きゃああああぁぁーーーーっ!!!」
つんざくような悲鳴は一瞬で下へ下へと吸い込まれ、やがて聞こえなくなった。ドサッ、とかすかに物が落ちた音がして、その後は絶え間ない雨の音が、無情にいつまでも響いていた。
――
それから数時間ほどして、ぬえと小傘がホノカを見つけた。落下したダメージの為に、すでに息絶えていた。
同時に動画を保存した携帯も発見されたが、ぬえたちは、画面の中のホノカが何故急に取り乱しはじめたのか、どうしても分からなかったという。
ナカノ ホノカ――死亡