幻想郷で生き残れるか? ~不運にも迷いこんだ者たち~ 作:ごぼう大臣
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「はっ……はっ……!」
ショウゴは洞窟を出てから、暗闇の中を無我夢中に駆けていた。濡れた制服だけの姿で、スニーカーを泥だらけにしながら、明かりも持たずに山内を走る。
暗くなった空は暗雲におおわれ、叩きつけるような豪雨と雷がいそがしく五感をふるわせる。
彼はまたたく間に濡れネズミに逆戻りし、まとわりつくような冷気に襲われた。強風が木々をゆらす度に、体の芯が冷えていく。
だが、ショウゴはそれでも止まらなかった。視界もろくに利かないのに、茂みをかき分けて道なき道を走り続ける。まるで恐れるものなど無いかのように。
否、恐れるものならあるのだ。彼は数時間前に、山中で狼やカラスをおもわせる異形の怪物たちに出会っているのだから。その恐怖のために仲間が止めるのも聞かず、闇に沈んだ見知らぬ山を下りている、はずだった。
しかし今は、そんなものは意識の外に追いやられていた。仲間をおいて、空腹や寒気をものともせずに走る彼にあるのは、ただ見知った環境への渇望のみ。灯りも建物も、人通りもまるでない山中で高まった不安は、ショウゴから冷静さを根こそぎ奪い去り、"現代"への執着にとって変わった。
(俺は帰る。帰るんだ。母ちゃんと父ちゃんが待ってる家に――)
無我夢中で走る彼の頭に、ぼんやりと幼い頃の風景が浮かび上がる。家からの道のりがとても長く思えた小学校、放課後によく野球をした猫の額のような公園、近所の大型スーパーの、今は亡きゲームコーナー。
シュンスケやマコトとよく遊んだものだった。
(そういえばあの二人、今どうしているんだっけ……)
みずから置き去りにしたにも関わらず、ショウゴはぼんやりとそんな事を考えた。どういう訳か、数十分前のことを上手く思い出せない。
いや、思い出すのを脳が拒絶している。このまま走れば帰りつける。そうしたら家族が出迎えてくれて、また三人で元の中学校に通える。――そんな根拠のない妄想が、まるで膨らむワタアメのように彼の頭に満ちてゆく。
彼は前もろくに見ず、さらに道なき道を走り続ける。道順など知る訳がなかった。山とはつまり巨大な坂だ。坂を下れば帰れるのは当たり前じゃないか。そんな単純な理論にしたがい、足に伝わる感触のみを頼りにひたすら駆け降りた。
彼はもう、すでに極限状態だったのかもしれない。表情にはかすかに笑みさえあった。
「……うっ」
すると、ショウゴは小さくうめき、忙しなかった足をふと止める。前に転がりそうになって、あわてて手探りで近くの木をつかむ。
ショウゴは腹のあたりをまさぐり、その感覚に顔をしかめた。腹の中で、かすかな痛みと重たい感覚。嵐で体が冷えたのだろうか。それは強烈な便意だった。
いかに思考がおぼろげになっていようと、生理的な欲求には素直になる。
彼は近くの茂みを探り当て、そこにすごすごと隠れた。用をすませ、持っていたティッシュでふくと、一つ息をつく。
「ふぅー……」
理由はどうあれ立ち止まったからだろうか。少しだけ頭が
とりあえず、先ほどまで考えなしに走っていた斜面を迂回し、どうにかゆるい下り坂を見つける。とはいっても道とはとうてい言えないものだったが、浮き足だっていた歩みが、少し確かなものになった。
(そうだ。まずは下りることだけ考えよう。そうしたらシュンスケとマコトに助けを呼べる)
慎重に足を進めながら、ショウゴはそう結論づけた。さすがに化け物の正体まで考える余裕はなかったが、生き残るための目先の判断くらいはできた。
さいわい、彼は一人で飛び出して以来、あの狼人間のような者たちに出くわさなかった。嵐の危険を避けるためだろうか。
もちろんショウゴも危険だったが、追っ手がいないだけで十二分にありがたかった。焦らずにふもとを目指せば、きっと帰れる。
そんな風に、彼が希望を抱きはじめた頃。
「アオオオオォォーーーン…………」
「っ!?」
不意に、ショウゴの背後で、長く大きな、広く響く声が聞こえた。それはまるで、狼の遠吠え……。
彼の脳裏に、あの化け物たちの姿がよみがえる。さっきまで忘れかけていた恐怖が、またぶり返してきた。
(やばい、見つかったのか!?)
ショウゴは凍りついていた体をはじかれたように動かし、山道を一目散に駆け出した。何度もつまずき、転びそうになるが、かまってはいられない。直感で、あの遠吠えの発生場所がすぐ近くのような気がしたのだ。振り返れば、すぐそこに追っ手がいる。そんな嫌な想像が消えなかった。
手足をちぎれるかと思うほど動かす。踏みしめたつま先がずきりと痛む。夜もふけ、絶えず息を吐く。雨に打たれた体とは裏腹に、喉の奥がからからに渇いた。
そうして走ってしばらくして、彼は視界の隅に妙なものを見た。小さく並んだ、二つの光の点。はじめは気のせいかと思ったが、横にぴったりとつき、次第にその数が増えていく。彼が左右へ首を動かすと、いつしか、取り囲むかのように光点がひしめいていた。
(何なんだこいつら、まさか……)
足を止められないまま、ショウゴは嫌な予感に冷や汗をかいた。テレビなどで見た覚えがある。暗闇の中に二つそろった光の点。その正体は……。
その時、まばゆい雷光が、ぱぁっと天と地を照らし、ショウゴの周囲が白く染まる。
ほぼ同時に、まるでカメラのフラッシュのように、取り囲んでいた光点の正体をさらけ出した。
「ひぃっ!」
それを見て、ショウゴは雷にうたれたかのように肩をはね上げた。そこにいたのは、あの狼人間の群れだった。夜行性の瞳をギラギラ光らせ、太い刀を持って一様に彼をにらんでいる。
「うわああああああぁーーっ!!!」
とどろいた雷鳴に張り合えるほどの悲鳴が、ショウゴの口から飛び出した。そしてきびすを返そうとした彼は足をもつれさせ、あっという間に斜面を転がり落ちていく。
何十メートルも体を打ちつけ、一本の木にぶつかって、彼は止まった。その周りに、すばやく狼人間が集まる。
「くっ……!」
「こんな天気でも、人員は割いておくものですね」
狼人間の一人が、冷徹な口調で言った。ショウゴは上半身を起こして木に寄りかかり、震えながら怒鳴った。
「な、なんなんだよテメェら! 俺をどうする気だ!?」
十数人ぶんの狼の瞳をにらみ返す。狼人間の中から一人の女が進み出て、厳粛な口調で言った。
「誠に申し訳ありませんが、あなたには死んでもらいます」
「……は、はぁ?」
「詳しくは省きますが……この"妖怪の山"が気安く出入りできる場所だと思われれば、我々の威厳と存在意義にかかわるのです。あいにくあなたは例外にはなりえません」
その女の言葉を、ショウゴはうつろな顔で聞いていた。理解が追いつかず、かすれた声で抗弁する。
「そ……そんな」
「まあ、テリトリーを抜ければ深追いはできないのですけど、あなたは痕跡を残していましたので」
「こん、せき?」
ショウゴは聞き返す。頭が混乱し、思い当たるものがすぐに出てこない。そんな彼に、女はおもむろに腰にさげた巾着袋を差し出した。
「雨で臭いがたどれず苦労しましたが……これのおかげで目星をつけられました」
女が巾着袋を開けてみせる。ショウゴはおそるおそるそれを覗き込むと、あっと声をあげた。
そこに入っていたのは、太い芋虫のような茶色い物体。彼は、つい先ほど用便を済ませた後に、それを放置してしまったのだ。犬や狼が排泄物を埋めるのは、外敵に居場所を知られないようにする為だという説を、彼はなんとなく思い出していた。
「さて、最期に言いたいことは?」
「あ……あぁ……」
「……そんな顔しないでください。妖怪は怖がられるのが存在意義なんですから」
わずかに悲しげな顔をして、女は刀を振り上げる。また雷が鳴り、刃が光を反射した。
「あああぁぁーーーっ!!」
ショウゴは背中を向け、泣きながら逃げようとした。その直後、女の刀が横凪ぎに振られ、木の幹と一緒にショウゴの首を飛ばした。
泣き顔で固まった生首は、数メートル上へはね上がり、ゴロゴロと斜面を転がっていった。残された胴体は首の断面から血しぶきをあげ、膝をつき、がくんと地面に突っ伏した。流れ出る血が雨にまざり、土に無情に染み込んでいく。
狼人間たちはその様子をしばしながめていたが、やがて何でもないことのように刀をしまうと、背を向けて歩き出した。例の女が、声を張って指示を飛ばす。
「さあさあ、まだ終わりではありませんよ。見たところ侵入者はあと二人いたんですから」
「うっす、
「早く終わらせて風呂はいりてぇわ~」
人を殺したことなど嘘のように、彼らは軽口をたたいて散っていく。雨の中で、死体は弔われることもなく、山の風景の一部となってしまった。
カトウ ショウゴ――死亡