【短編集】人の夢~儚~ 作:匿名
俺は、田舎の農家の次男の長男に生まれた。伯父は東京へと出て肩書持ちのサラリーマンをしている。家庭的で息子も3人いて伯母さんとの中もいい。
ただ、うちの父と母は年中喧嘩をしていて、父はサラリーマンで母はパートをしている。俺は養護学校を卒業して就労支援で就職したが、それも続かずハローワーク通いの日々だ。
六つ離れた弟は、今養護学校中等部にいる。家にいると父や母の喧嘩がひどいので盆正月以外は寮で暮らしている。
そんな俺を拾ってくれたのは近所の九つ下の娘だ。俺の嫁には勿体ないほどの美人さんで音痴なことを覗けば基本欠点のないすごい人だ。
祖父母は、結婚式を待たず旅立ってしまったが今は黄泉の国で胸をなでおろしているだろう。初孫内孫男孫と喜んだ孫が一生独身で嫁を貰わないなんてことが無かったのだから。
そして、僕は嫁さんにおんぶにだっこで祖父母から相続した田畑を再び耕して今は農家組合直売所に卸している。
そんなこんなをしていたら結婚から3年が立ち俺が33歳嫁が24歳の頃、嫁が身籠った。
俺はその時嫁が育休に入ると食っていけないぐらいの稼ぎしかなく、保険も嫁の扶養には入れないので慌てて就職口を探したが、
まぁ今まで長続きしたためしのない男をだれも拾ってくれるわけがなく、麓の町のスーパーでパートを始めた。
母が昔務めていたスーパーで短時間パートの姉さん方は知っている方も多かった。僕は少しでも稼ぎがいいようにと水産部門に応募をして無事採用となった。
そうして、安定期も迎え10か月が過ぎた頃嫁の不安定さが増し、母が慌てて救急車を呼び嫁を病院に連れて行ってくれた。
朝の出来事だったので俺は勤務中だったため契約時間までに仕事を片付けて飛んでいこうとしたら、姉さん方が「はよ行ったりな!」とわざわざ休みの人を呼び出してまで送り出してくれた。
僕は、そのやさしさに心打たれながら急いで病院へと向かった。嫁はお産室にもうすでに入っており母方の伯母が待ってくれていた。母は持病の悪化した父のほうに行ったそうだ。
父の回復と無事の出産を祈りながら、お産室の前でうろうろしていると、1時間ほどして元気な泣き声が聞こえて扉から出てきた看護婦さんが「元気な男の子ですよ!」と言ってくれた。
僕は嬉しくなり、嫁のもとに行った後「よく生んでくれた。ありがとう。疲れているだろうから、後でまた来るな。」と声をかけると、
体力がほぼ無いのか「うん。お義父さんとお義母さんによろしく」とだけ言いベットに移してもらい仮眠を取り始めた。
僕は、そのまま看護婦さんに「お願いします」と一声かけてから、休憩室の方へ向かい母へと電話を掛けた。
父も母も電話越しではあったが初孫内孫男孫だと喜んでくれた。伯母や伯父夫婦も知らせると大層喜んでくれた。
その後、僕は休みの日の前は夜泣きの相手をして休みの日は炊事洗濯掃除を出来る限り頑張った。
嫁の負担を少しでも減らそうと。でも、後々考えると嫁からすると邪魔だったのかもしれない。へたくそがいくら頑張ってもへたくそだったのだから。
そんなこんなで、息子が1歳と半年を迎えるころ嫁が再び身籠った。次は女の子らしい。
僕はこの3年間で昇給や昇格があり、水産部門1級社員となった。1級社員になると次の昇給試験が合格すれば店舗水産部門主任になれるまで登ったのだ。
年収も250万を超えて少しは生活に余裕ができ始めた。そして、間もなく娘が生まれるという時期に父が持病の悪化で祖父母の元へと旅立った。享年68歳
僕は父の死を悲しむ間も無く娘が生まれた。流石に父の命日と娘の誕生日が近いのはあまりよろしくないから娘の誕生日を3週間ずらした。
父の49日を終え嫁と娘も退院し、僕ら4人と母と伯母の6人で今は暮らしている。伯母や母のおかげで、
嫁は「ゆっくり夜は休めてしたいときにしたい家事ができる」と喜んでいた。
息子が3歳になり幼稚園へ通い始めた。田舎だったので、分園がありクラスメイトは近所の女の子二人だけだ。
僕は、女の子にトラウマがあったので息子がいじめられていないかと不安だったが、どうもこの間見かけた限りだと仲がよさそうだ。
そうして、息子が年長を迎えた頃娘が入園した。分園は息子の一つ下のクラスは女の子が一人だ。
娘のクラスも娘だけなので、息子以外全員女の子という事実に僕はびっくりしたが、
よくよく考えるとこの田舎村で男の子が生まれたという話を全く聞かなかったので、当たり前のことだった。
そんなこんなをしていると早数年が経ち、息子が中学2年娘が小学6年となった。
父兄会では、"息子が友達と遊ぶのに金が足りないと小遣いをもっと増やせと言ってくる""娘が親父の洗濯物と一緒に洗って干さないでと言ってくる"などが聞こえてくるが、
うちは、そんなことがなく息子は休みの日は畠を手伝ってくれるし、娘も休みの日は家事を手伝ってくれる。6人で楽しい生活が続くと思っていていた。
そんな矢先に、伯母が病に倒れた。伯母は休みの日に息子や娘を連れて遊びに行ってくれていたこともあり、息子や娘はとってもさみしがっていた。
嫁も、伯母には助けられていたのでできる限り見舞いの行けるときは、息子達を連れて行っていた。
その日々も長くは続かなかった。今度は、母まで倒れたのだ。
82歳と80歳だから、年齢的にはいつ倒れてもおかしくなかったのだ。
そして、そんなてんやわんやして居る頃、従弟から連絡があった。"伯父が倒れた"と。
僕は、伯母や母にもう少し頑張ってくれと言って、見舞金を包み慌てて東京へと発った。
僕がついたころには伯父はもう息を引き取っており、伯父方の伯母は泣き崩れていた。
僕は邪魔をしないように、従弟に声をかけて一度待合室へと行った。
僕は、葬式や手続きの手伝いをして今度は地元に帰った。
伯母が、悪化したそうでいつ逝ってもおかしくないということを先生に言われたと嫁から連絡があったからだ。
伯母は僕が着いて手を握ると、少しだけ目を開けて
"もう、おばちゃんはそこまで迎えが来てる。これからは、子供と嫁さんのことをしっかりと見てやりなよ。仕事だけじゃダメいいね"
といった。僕は泣くのをこらえつつも涙を目にため何度もうなずいた。そうすると、伯母が微笑み力が抜け、心電図の機械からピーと連続音が流れ出した。
僕はそのまま泣き崩れた。父や母祖父母と並んで僕のことを気にかけてくれていた伯母がなくなるというのは、やはり大きいことだった。
祖父母や父の時はまだ、心が幼く事実が受け止められなかったのだろう。でも、今は家庭を持ち職場でも水産部門エリア長をしている。
高等部を卒業した時には考えられないほど成長したのだろう。
僕は伯母に言われたことを心に銘じて家族との時間をしっかりとれるようにしようと決めた。
そうして、伯母の葬式も終わりひと段落着いた頃、一度はもう寝たきりと言われた母が日常生活を送れるほど回復した。
伯母が、母を追い返して作ってくれたチャンスだと思い5人で休みの日はいろんなところに出かけた。
そして息子が高3、娘が高1の時ついに母も旅立った。
息子や娘は伯母の時より大人になっていたのか、しっかりと受け止めて自分の歩みを止めず自分の目標に向かって歩む足を速めた。
息子は旧帝大の文系に合格をした。家を出るとき、半泣きになりながら行ってきますなんて言うものだから、
"男が旅立ちの時にに泣くな。二度と会えないと決まったわけじゃないだろう"ときついことを言ってしまったが、
後から嫁に言われたがこの時僕も泣いていたらしい。
高3の時娘が彼氏を連れてきた。なんでも、身籠ったらしい。
僕は激怒したが、嫁に怒っていては話にならんと叱られ、渋々座りなおした。
話をしているうちに、彼の根が誠実なのは伝わってきたから、僕は結婚を許した。
ただ、条件として"高校を卒業すること""自分の親ともしっかり話すこと""覚悟を決めること"を出した。
これは高等部を不登校だった時部長先生や課長先生、担任の先生に示された三箇条
"学校を休まない""自分の言動に責任を持つ""覚悟を決める"
をもじった条件だ。これがなければ、僕は未だに子供のままだったであろう。
娘の出産の費用は、彼が出せるわけもなく僕たち夫婦と相手方の夫婦で出し合った。
元気な男の子が生まれてよかったな。と娘夫婦に声をかけた。
これで、僕たち夫婦の元から子供が二人とも巣立った。
僕はもうすぐ55歳が来る。定年まであと5年ほどだ。嫁は9年僕より長いが、それでも定年まで15年をきっていた。
嫁と僕は定年になったらどんなところに行きたいかなどを話していたが、糖尿病と肝臓病が遺伝していたようで僕の体調が悪化した。
僕は長生きができないことを悟ると、いつの間にか結婚していた息子夫婦と3人目の子供を身籠った娘夫婦を呼んだ。
はじめは茶化すようにバカ息子に「結婚したなら連絡の手紙ぐらいよこさんか」と叱った後、
息子と娘を真面目にみて"大きくなったな""父さんはもうそろそそ伯母やおばあちゃんのもとに旅立つ。もしかしたらこれが最後かもしれん。かあさんを頼んだぞ"
といい、自分の部屋へと戻った。若いころにネットで知り合った2人の親友にも伝えて久しぶりに会った。
そうして、僕は62歳の冬口自分の布団の中で嫁に手を握られ息を引き取った。
END