血霧が舞う
あたりを包み込んだのは飽きの夜明けのような濃霧。それは先ほどまでの昼の陽光すらも遮りあたりを薄暗く隠す。結界の様に彼らを包み込んだそれは鉄のような、錆のようなその匂いがあたりに立ち込める。腐ったような腐食したような生き物の死の匂い。水よりも濃いべたりと皮膚にまとわりつくような不快感がぬぐえない。暗がりの中を微かな赤色があたりに舞い、視界を染める。
視界の端に映るのは赤黒く、刃のように鋭利な血液の棘、人の背丈ほどのそれが地面から唐突に吹き出し、彼らを襲う。地面から湧き上がるように迫りくる棘をよけきることは不可能ではない。しかし、棘から放たれる水滴すら遮ることは難しい。水よりも柔らかなそれは小さな水滴となり彼らの服へと張り付くと、そのまま小さく、そして鋭くその形を変えた。液体であったはずのそれは服すらも容易く切り裂くような刃へと姿を変える。小さく彼らを切りつける。致命にいた届くほどではない。ただ小さな裂傷から流れ出た血液はその刃とまじりあい、彼らから離れていく。
「カドック、生きているか」
「生憎とまだ迎えは来てない」
「ならば上等だ」
白かった彼らの服は多くが裂け、自分の血液に濡れていた。
「本当にしぶといのね、あなたたち」
「このカドックはそれが持ち味なのさ」
「それは褒めてんのかよっ」
血棘を振り払いながら、女から距離を取る。
「そんなこと、出来ると思っているのかしら」
血液は石畳の間を縫うように動き、広場から彼らを逃すことはない。幸いだったのは市民が避難し、残されたのが彼らと女だったことだろう。広場を囲むように薄く張られたのは脆く、しかし剃刀のように鋭い血液の膜、つまり広場全体が閉ざされた狩場となっている事。
女が軽く腕を振るう、飾られた真っ赤な爪、それに呼応するかのように鋭利な血爪が飛来する。
「Limit」
青年の声とともに振るわれた指先に触れるとすんでのところで液体へと変じ再び小さな刃となったそれは青年の頬を深く切り裂いた。代わりに攻撃の緩んだ女から僅かながら距離をとる。
女から飛来する爪ならば対処はできる。しかし、問題はどこから立ち上がってくるのか分からない血の刃、石畳の間にしみ込んだ血液は、その細管の中を自在に通り過ぎ、見えない地中から棘となって襲い掛かってくる。二つの連携はそのタイミングを予期することはできず、命をつなぐだけで精いっぱいとしか言えない有様。詠唱などできる時間など与えられるはずもない。
青年の視線に入ったのは彼が何かを殴り倒している光景だった。それは鉄塊ともいうべき巨大な箱、少女の姿を模した大きな棺桶。女はそれをたたきつけるように彼へと放つ。一つよけ、石畳が割れる。似たような破砕の後はすでに六つ、砕けた地面からは下地だった土が見え始めている。二つよけ、噴水が崩れる、あふれ出したその水は行き場を無くし、広場へと広がっていく。三つめをいなしきれず胴体に当たったそれに彼は小さく呻きを上げたものの再びそれを蹴りはなす。彼のほうもいささか苦戦でもしているのか出血は避けれない、しかし青年に比べると明確にその量は少ないように見える。
「地力の差ってやつかよ」
「年の甲といってほしいな」
呼吸を整えながら二人は女を見据える。
「真名の検討はついたかい」
彼の言葉に青年は鼻に詰まった血を追い出す。
「血の逸話を持つ、少女型の棺桶を使う女なんて言ったら一人しか思い浮かばない」
青年は鼻を紅くさせ、わずかに指先を震えさせながら返す。
「まったくおとぎ話の有名人にこうして歓待を受けるのは悪くはないのかもしれないが、随分と手荒い歓迎だな。血の伯爵夫人」
バートリ・エルジェーベト
十六世紀、ハンガリーに実在したある女。
自らの美しさを保つために年若き乙女の生き血の湛えられた浴場を作り、また快楽のために無数の民を切り分け、刻み、そして吊るしたとされる享楽殺人鬼。その行いはシェリダン・レ・ファニユによって創作の元とされ吸血鬼カーミラへと名を変え知れ渡ることとなる女。
「まぁ、よくもまぁ私の名を言えるのね」
小さく鼻をすすりながら青年は女へと相対する。
「鉄の処女なんて使うのはお前くらいのものだろうさ」
女の傍らに出でたるは人が一人入れるほどの大きな大きな鉄の棺桶、外には少女の意匠が施されているものの、その蓋を開け得れば内壁には無数の鉄串が埋め込まれ人体が中に入れられれば確実に急所を串刺しにされる処刑器具、鉄の処女を女は愛おしそうに眺める。
「そう、それはもったいないわね。どのオペラよりも素晴らしい音色を奏でてくれるというのに」
「私には武骨な鉄のきしむ音しか聞こえないが」
「今でも聞こえるの」
少女たちの鼓動も走り回っていたその足音も
部屋へ呼ばれた時の動揺も
恐怖に歯の成る小さな音も
暴れ泣き喚き蹴倒す破砕音も
そしてそれでもなお縛り付けられて母を呼ぶ声も
そして最後に事切れるまでの絶叫さえも
「いまだに反響してくる」
流し目に女は彼らを見る、彼らの傍らに現れたのは二つの開かれた棺桶、彼らを飲み込まんと迫るそれを青年がまとめて薙ぎ払う。
「確かに強力だ。英霊だけある、いいや反英霊だけある分、より残虐性が高いといえるかな」
けれど
「貴方は領主であり戦士ではない」
彼の言葉を待たずして青年は手にしていた枝に息を込めるとそのまま地面へと投げつける。震える青年の指先、赤く染まった鼻、それはまるで寒い冬の日のように、いたずら好きな誰かが鼻をつまんだように、そして彼の頭にはわずかな霜が乗っていた。
「働け霜男っ」
落ちた枝が地面へと触れる。同時に広場を走り始めるのは小さく、そして真っ赤な霜柱、石畳の間を流れるのは女の操る血液だけでなく、砕けた噴水からあふれ出でる水、石畳の間、細管へと浸透し、血液を含んだその水は凍り、彼女の刃すらも、脆くやわらかな霜へと変性させる。
広場は凍り付き、彼女の見えざる刃すらもすでにとどかない。
「それだけかしら」
しかし、彼女の優勢に変わりはない。ただの魔術師二人が英霊相手に優勢をとれることなどありえない。現時点での見えざる刃を封じただけ、決定打には程遠い。それも氷とともに下がり続けるカドックの体温がどれだけ持つかという時間起源すらついている。
「私が使うのは天体魔術でね。戦闘用の魔術なんてほとんど使えない。その戦闘用の魔術もひどく効率が悪い上に実用性はないに等しい。もっぱら空を見上げるしか能がない」
そういって、彼は手にした魔杖で地面をたたく。
「人に身にとってその寿命は短すぎてね、儀式を行うための星の配置となるのに次のチャンスは数百年なんてこともざらにある」
青年が体を震わせながら催促してくる視線を感じる。刻一刻と下がっていく体温、しかし、その反骨的な視線を見る限り、幾分時間はある。
「そんな時に雲だ雨だなんだと空が遮られたら人生に一度の魔術が使えなくなってしまう。ならばどうする」
意図を理解したのか、女の爪が迫り来る。
「晴らせばいいだけさ」
彼に触れる前に、その刃は、血液という水の塊は霧散し、彼たちを覆っていた霧が晴れ始める。薄暗い霧は晴れ、真昼の陽光が女を照らす。あたりの風景は戻り、先ほどと変わらない町の風景へが視界へと戻ってくる。あたりを覆っていた暗闇は消え、聖なる陽光があたりへと戻ってくる。唐突な明るさに目を馴らしながらもとらえた視界の中、映るのは太陽の光に焼かれる女の姿。火の光に灰へと至るはずの吸血鬼の姿。
「やったのか」
「やれることはやったかな、あとは天命に任せる」
白い皮膚が日に焼けるように爛れていく。ただの人間のように焼けるというにはあまりに激しく、その表皮は炎を上げ燃える。
「ひとつ聞いていいか」
魔術を終えたのか、ゆっくりと体温が戻ってきたらしい青年は溶けていく霜柱とともに血液が石畳の奥、上がってこれないような地中へとしみ込んでいくのを確認すると燃え盛るような女へと視線を向けながら彼へと問う。
「吸血鬼カーミラは読んだことがあるか」
「少年のころに一度だけ見たことはあるな」
青年はその言葉を聞くとさらにその額の皺を深くしながら言った。
「吸血鬼カーミラに出てきた少女カーミラとミーラカにあった共通点。眠るときに鍵をかけることや讃美歌を嫌悪すること、長い犬歯を持っている事、そして」
「正午を過ぎた昼日中に目を覚ますこと」
焼けた女の声が聞こえた。燃えていたはずの女はゆっくりとそして何事もなかったように立ち上がった。その白い皮膚にやけどの跡などみじんも感じられず、霧の中の彼女と寸分たがわない姿で立っていた。
「ヴォーダイムっ」
青年の声に彼は視線をやることもなくただ立ち上がった夫人を見つめる。
「久しぶりに焼けてしまったわ、なんてことをしてくれるのかしら」
そう言いつつも女の顔には笑みが浮かぶ。それは獲物を追い詰めた獣のような目。得物の全ての力を知って尚それすらも容易く凌駕し圧倒して見せる支配層の特権。女はそれを表すように唇を引き絞り、笑った。
「言ったろう、私たちにできることはもう終わった」
その言葉に女は一層笑みを深める。
「最後に一つ、聞いてもらってもいいかな」
彼女は彼へと視線を向けた。
「私が使うのはさっきも言ったように天体魔術でね」
彼はただ雑談でもするようにそこから動くことも、そして魔術を使うそぶりすら見せず、ただ言葉を投げかけた。
「魔術を使うにもいちいち星の光だなんだと用意しなければならない。植物科とか降霊科とか鉱物科とかなら目の前にあるものを触媒に使えばいいから楽なんだけど天体かはそうもいかない。宇宙に散らばる光を何とかかき集め無ければならないからね、術者は一人で高性能なパラボラアンテナ並みの感度を持っていなければならない。簡単に言えば私はとても目が良くてね。つまりなにが言いたいかというと」
女は彼の言葉を最後まで聞く前にようやく察知することができた。その気配を。自分の最も天敵とする女の、いいや小娘の姿を。
「お前を殺す、お前のお出ましだよ」
来訪者の名はエリザベート・バードリー
竜の角と尾を持ったある少女の姿だった。
即席の塹壕の中、白髪の青年は深く、とても深く息を吐いた。
後ろから聞こえていたどうしようもないような歌声もすでに無くなり、静まりかけた広場には余波によって半壊していた建物がバランスをついに崩し、地面に落ちる破砕音が聞こえる。先ほどまで聞こえていた激突の音が嘘のように消え去り、洗ったような青空にどこからか鳥の声すらも聞こえてくる。少し湿った土の感触、立ち上がると広場の中央には昏倒した少女、エリザベートを介抱するもう一人の英霊の少女の姿が見て取れた。二人とも傷を追ってはいるものの消滅するほどの痛手ではないらしい。僅かな凍傷を負った指先は感覚が鈍いもののさして重症とは言えない。魔力は底を突き、それによる酷い倦怠感が青年を襲う。
しかし、彼は見上げた。
広場の中に、いいや、もはや吸血鬼カーミラはもういなかった。
「一つ聞いていいか」
「別に一つといわず、私が答えられることならな」
傍らに座る彼へと青年は問いかけた。
「どの時点であの二人の英霊が召喚されると見込んでいたんだ」
それはまるで劇的に表れた二人の英霊、そしてそれを予期していたような彼の行動、底知れぬ彼の思慮に青年は問わずにはいられなかった。
「見込んでいたも何もないさ、見たら居たから呼んだだけさ」
吸血鬼カーミラのカウンターとしてでも呼ばれたのか少女時代の、まだ吸血鬼となる前のエリザベート・バードリー、知っていなければその来訪まで計画に組み込むことはできない。
「というか、太陽に焼かれてくれなければ私たちは詰んでいたからな」
取り出した水を飲みながら彼は軽くそう言った。
「はぁ」
青年の胡乱な視線が彼へと渡る。
「言ったろう、カーミラの話は子供の時にテレビか何かで見ただけだ。そんなに詳細まで覚えていなくてね。吸血鬼なんていうくらいだから太陽に弱いと思うにきまっているじゃないか」
その言葉に青年はピタリと動きを止め、食い入るように彼を覗き込んだ。
「まてまてまて、じゃあお前はいったいいつあれがカーミラだと知ったんだ」
「何を言うんだ、カドック、君が教えてくれたんじゃないか『吸血鬼カーミラを読んだことはあるか』って」
あっけらかんという彼に青年は大きく頭を抱えた。
「じゃあお前はあれか、戦闘中も何かよくわからないものと思って戦っていたのか」
「失礼な。攻撃手段とカドックが血の伯爵夫人なんてかっこいい名前で呼ぶから、ああ、吸血鬼なんだろうなぁって思いながら戦っていたさ」
思わず絶句した青年は何かを振り乱すように頭を掻き毟り、そして最後に大きく、大きくため息をついた。
「お前は馬鹿なのか」
「たまに言われる」
彼はその言葉を懐かしいように聞いて、そして笑った。
「どうだい、カドック、英霊をただの魔術師が倒した感想は」
傍らに座る彼は楽しそうにすこし笑いながら青年へと問いかけた。
「倒したのはほとんどあの英霊二人じゃないか、僕らはその周りをうろちょろしていただけだ」
「そうかもしれない、ただ君の援護がなければ我々が負けていたこととも事実だよ」
青年は力を抜くように塹壕の壁へとその背中を預けた。
「別に、何も変わらない。誇らしくもないし、達成感なんてない」
彼の言葉をすべて信じられるわけもなく、上手くはぐらかされたことだってわかっている。彼には何か秘密があり、青年にそれを伝える気はないだろう。
だとしても
「疲れた、さっさと終わらせて家に帰って寝たい」
英霊を前に青年とともに震えていた彼はさほど変わらないただの年相応な青年に見えたから。
「すまないカドックっ。話の途中だがワイバーンだっ」
そういう彼の表情は少し笑っていた。
おわり