「灰原ぁッ!!! ここにいるのかッ!!!!」
ドンドンドンと扉を叩く音とともに、大きな怒声が部屋の外から飛び込んできた。
「なんだっ!?」
男が驚愕の面持ちで扉の方に向く。
(ああ、そんな!!!)
この声を聞き間違えるはずもない。哀にとって、これほど心を奪われる声の持ち主はどこにもいなかった。
「灰原、返事しろっ!!! おい、いるんだろ!!! 灰原ぁ!!!!!」
「くどっ……!」
どうして彼がここに来たのだろう。どうしてこの場所がわかったのだろう。
哀には何もわからなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、どうにかなってしまいそうだった。
「ちっ……面倒なことになった」
男はバッグから何かを取り出した。黒ずんだ、L字型の金属の塊。
(拳銃……!)
ごく小型のものとはいえ、人間を殺す程度の威力は間違いなくあるだろう。
「駄目よ! そこから離れて!」
哀は力いっぱい叫んだ。
(お願い、届いて!)
男は哀の声にはなんの反応もせず、ゆっくりと扉の前に歩みを進めた。
「逃げて!! お願い!!」
男は扉の前に立ち、右手で銃を構えた。
ほぼ同時に、扉を叩くドンドンという音が鳴り止む。哀を呼ぶ声も止んだ。
あの扉はオンボロではあっても金属製だ。あの手の小型拳銃で扉越しの相手を的確に狙い撃つことはおそらく難しい。確実に仕留めたければ、扉を開く必要があった。
右手で眼前に銃を構えたまま、男は左手でゆっくりと鍵を回し、慎重に内開きの扉を開いていく。
そして半歩ずつ歩みを進め、暗闇に包まれた廊下へとじりじり前進していく。もちろん引き金には指がかかったままだ。
哀は生きた心地がしなかった。喉はカラカラに乾いていて、心臓は壊れたように激しく脈打っている。
男が鍵を回してからほんの10秒足らず。哀にとってその時間は永遠にも等しく感じられた。
そしてその均衡は突然破られた。
バコンッ!!!
大きな音。銃声ではない。男はのけぞっていた。いや、吹き飛ばされていた。男の顔面に何かが直撃していた。
(バケツ……?)
宙を舞っていたのは、オンボロのアルミバケツだった。
男は背中から地面に激突し、その後ろでバケツも落下して転がった。
それと同時に、人影が扉の向こうから飛び出してきて男の上にのしかかる。なんなら馬乗りになると同時に顔面へのパンチを手土産として。
「ぐふっ!」
「てめえ灰原をどうしたっ!! おいっ、灰原はどこだっっ!!!!」
人影は――コナンは、鬼の形相で男の襟首を掴み、叫んだ。
「工藤君っっっ!!!」
考えるより先に叫びが出た。涙が溢れ出てきた。
何が起こっているのかまともに理解できていないことは変わらない。だがもはやそんなことはどうでもよかった。
彼が、助けに来てくれたのだ。
「灰原……!」
コナンが哀を向き、唇を震わせる。こちらはこちらで今にも泣き出しそうな表情だ。
「よかった……間に合ったんだな……」
「それはどうかな?」
地面に押し付けられたままの男が笑った。
コナンは驚き下を見る。男の手には、まだ拳銃が握られていた。
「くっ……!」
銃口が動く。コナンは先に勝負をつけようと、反射的に腕時計を構える。
(いける、間に合う、オレの麻酔銃の方がこいつが引き金を引くより速い!)
だが次に起きたことは完全にコナンの意表をついた。
男は銃をコナンにではなく、己のあごに向けた。その予想外の動きがコナンの行動を一瞬遅らせた。
パン!!!
銃声が鳴り響き血しぶきが舞う。だがその血はコナンのものではなかった。
「まさか……」
男は自分の下顎から脳天に向けて銃口を突きつけ、放ったのだ。凶弾は一瞬にして男の頭蓋を破壊し、全身が一度だけ激しく痙攣してそれきり動かなくなった。
コナンは数秒だけ放心していたが、無言のまま立ち上がり足元のその男をあわれな目で見下ろした。軽蔑と憐憫こそがその男にふさわしい弔いのように思えた。
コナンは振り返り、哀のもとに駆け寄った。
「大丈夫か、灰原」
優しい声。コナンとて相当に動揺しているだろうに、必死で声量を抑えて哀を落ち着かせようとしていることが伝わる。
そんなささやかな気遣いがたまらなく嬉しかった。
コナンは哀の背後で少し悪戦苦闘していたが、拘束をほどいて哀を開放した。
腕が自由になった哀が立ち上がり、コナンの方に振り向く。
そして、その胸に飛び込んだ。
「……もう大丈夫だ」
哀はコナンをきつく抱きしめ、コナンは哀の頭を撫でた。哀の目から一層の涙が溢れた。
コナンは昔、哀が一度だけコナンの胸で泣きじゃくったことを思い出した。まだ出会ったばかりの頃、「どうしてお姉ちゃんを助けてくれなかったの」と責められた時のことを。
あの時と今とでは何もかもが変わった。もちろん体格も違うし、置かれている状況も違う。
だけど一番変わったのはそれらではないことにコナンは気づいた。
(ああ、そうだ――。一番変わったのは、オレの気持ちだ)
(オレの、灰原に対する気持ちなんだ)
(ちくしょう、どうして今さら気づくんだろうな)
哀が顔を上げ、コナンを見つめて微笑む。涙は止まっていたが、目は真っ赤で酷い顔になっていた。
だけど、この上なく優しい笑顔だった。
「ありがとう、工藤君。本当にありがとう。……私のために、あんな危険な目にあってまで」
「気にすんな、バーロ」
こんなぶっきらぼうで、だけど優しい「バーロ」があるなんて。哀は思わずクスリと笑った。
「帰ろうぜ、灰原」
哀は、うなずかなかった。
少しコナンを見つめた後、笑みとともに首を横に振った。
「だめよ、工藤君。私はもう、帰れない」
「はあ?」
コナンが片眉を釣り上げる。
「ここでお別れよ」
「あのなー、つまんない冗談はよせって」
哀はもう一度首を振る。
「いいえ、冗談で言ってるんじゃないわ」
哀は横たわっている男の死体に視線を送る。男のジャケットの、裏ポケット。そこではまだ盗聴器が作動しているはずだ。
「まずはここから出ましょう、それから話すわ」
非常階段を下れば出口はすぐだった。どうやらここは今ではほぼ使われていない幽霊ビルらしい。
外に出ると、静かな車道が点々とした街頭に照らされていた。中心地から外れた、寂れた業務エリアといったところらしい。
哀は人目を避けるためにビルとビルの隙間に移動した。
「まず聞かせて。どうやってこの場所がわかったの?」
「いや、まあ、その……」
コナンがぽりぽりと頭をかく。
「実はおめーに発信器をつけてたんだ。映画の途中でこっそりとな」
メガネのフレームをポチリと押すと、レンズに地図が浮かび上がった。地図の中で今いるこの場所が点灯している。博士の偉大な発明品である犯人追跡メガネだ。
「そんなことだろうと思った」と哀はため息をついた。腕を組んで冷たい目でコナンを睨む。
「それじゃまるっきりストーカーじゃない」
哀は映画中にコナンが一度自分に肩を回そうとしていたという歩美の証言を思い出す。それを聞いた時は驚いたが、結局は綺麗にオチがついたというわけだ。
「わ、わりいって! だけど今回は仕方なかっただろ? 現におめーの信号が夜にいきなり移動しだして、おまけに電話も繋がらなかったんだ。絶対に何かあると思って……」
「……そうね、それが正解だったわ」
2人の視線が重なり合う。
「本当に、ありがとう」
哀が微笑んだ。
「あ、ああ……」
コナンの頬が少し染まった。
2人はしばらく無言でお互いを見つめ合っていた。
「だけど、ここでお別れよ」
そう言って哀が背を向ける。
「それがわかんねーんだよ! お別れってどういうことだ!? あのヤローはもう死んだだろ!?」
「……あいつは単に雇われただけの使い走りよ。組織の生き残りがあの男を利用して私を……シェリーを探していた。そして、見つかってしまったの」
コナンが息を呑む。
「あの男と私との会話は、盗聴器を通じて全部筒抜けだった。今さらあの男が死んだところでもう何も変わらない……。灰原哀の正体が
「そんな……!」
「私はもう逃げられないわ。わかるでしょう? かつて子どもの体の私達が組織に対抗できたのは、正体を隠し通せたから。だけどもう、終わったの」
哀が大きく息をつく。
「終わったのよ、全て」
コナンには何も言い返せなかった。
哀は気休めのような笑顔を作って言葉を続ける。
「奴らのやり口なら、私に関わった者はみな殺されるわ。博士もあの子達も……もちろんあなたも。だけどね、私はあなた達を守ってみせるわ。奴らに投降して、取引するの。私ね、駆け引きには少しは自信あるのよ。きっとなんとかしてみせるわ」
「な……っ!」
コナンが哀の肩を掴む。
「ふざけんな! それじゃおめーだけ生贄になるってことじゃねーか!」
コナンに揺さぶられ怒鳴られても、哀の表情は冷静そのものだった。
「ええそうよ。他にあなた達を守る方法がある? 逃げようとすればきっと私の大切な人たちが先に殺されるでしょうね。私は、そこまでして自分だけが助かりたいわけじゃないの」
「……っ……!!」
コナンの手が震える。きっぱりと反論してやりたかった。お前はこう間違っている、こうすれば解決だと言ってやりたかった。
だが何もなかった。
鮮やかな名案、探偵としてのひらめきなど何一つなかった。
哀の言うとおりだ。
逃れるすべなど、どこにもなかった。
「でもね、私は本当に嬉しかった。あなたが助けに来てくれたこと。私をあそこから救い出してくれたこと」
哀はコナンの手に自分の手を重ね、微笑んだ。
「確かに結果的には一時の気休めだったのかもしれない。だけど、あなたは私を助けてくれた。こうして、お別れを言わせてくれた。それだけで私は嬉しかったの」
「そんな……」
「知ってる? 工藤君。……私、幸せだったの。本当に幸せだったのよ。この10年、10年もよ? 私は灰原哀として新しい人生を生きることができた。あなたのそばで生きることができた。何度も死のうと思った私を、そのたびに助けてくれて……そして最後の最後に、また助け出してくれた。私はもう何も怖くないわ。死ぬことなんて全然怖くない」
哀がコナンの手をぎゅっと握る。
「だから生きて、江戸川君。あなた自身の新しい人生を」
「ふ……」
コナンの腕が震える。
「ふざけんじゃねえっ!!!!!」
それは、魂からの叫びだった。
哀は思わず後ずさる。
「えっ……」
コナンは鬼のような形相になっていた。これほどの怒りの顔を哀に向けるのはいつ以来のことだろうか。
「おめーを見捨てて……おめーを身代わりに生かしてもらって……それで新しい人生だと!? できるわけがねえだろうが!!!」
コナンが怒鳴る。理性のタガが外れているかのように。
だが哀とて引くわけにはいかなかった。
「だったらどうするの!? あなたやみんなを犠牲にして逃げろと!?」
「違う、そうじゃねえ……!」
「そうじゃないなら何!? あなたの言っていることは非現実的な絵空事じゃない!!」
「違う!!!」
コナンが哀の腕を掴む。全力で、痛いほどの力で。
「おめーはずっとオレのそばにいてくれた。組織と戦った時も、オレが打ちのめされた時も腐っちまった時も、いつだってそばにいてくれた! 今までずっと、オレ達はずっと一緒だったんだ!!」
そして自分の胸に手を当てて、言った。
「……一緒に、捕まろう」
今度は哀が息を呑んだ。
コナンはまっすぐに哀を見つめる。その表情は本気そのものだった。
「奴らはオレのことだって恨んでいるはずだ。オレはお前に関係ある人間というよりは完全に共犯者だろう? どうせ助かりゃしねーよ」
「……そうかもしれないけど……! でも、あなた一人なら逃げることだって……!」
コナンが首を横に振る。
「オレだってお前と同じだ。大切な人を犠牲にしてまで、生き延びようとは思わねえ」
「くど……」
強く、抱きしめられた。胸元で顔をふさがれ、哀はそれ以上反論できなかった。
だけどもう、反論しようとも思わなかった。
しばらくの間、2人はそうしていた。
(ああ、なんてあたたかいのかしら)
(私ったらバカね。もう未来なんてないというのに、こんなにも満ち足りた穏やかな気持ちになるなんて……)
その静寂を破ったのは、けたたましいエンジン音とブレーキ音だった。
「……!」
ビルに挟まれた路地裏のこの場所が、眩しいヘッドライトに照らされる。黒づくめの大型車。路地を抜けた先の反対側の道路もまた、同じような黒い車によってふさがれた。あっという間に前後を包囲されたのだ。
コナンは哀の前に一歩踏み出し、彼女をかばうように左手を広げる。
黒い車から、ゆっくりと何者かが降りてきた。逆光によって顔はわからない。
だがコナンは直感した。
恐ろしい奴が出てきたということを。
そいつは車の前で立ち止まり、不自然なほどに爽やかな声でこう言った。
「はじめまして、ミス・シェリー。君に会いたかった」
それは歓喜に満ちた声だった。