10年越しの再始動〈リビギンズ〉   作:ヘイドラ

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12 反撃開始!

0時をとうに過ぎた深夜でも、そのビルの1階と最上階は明るかった。

コナンは探偵メガネのズーム機能を解除してつぶやく。

 

「やっぱりあのビルの上だな、灰原は」

 

「ええ、おそらく……。発信器からの信号は途絶えてしまいましたけど、ここ数時間は移動していませんでした。今も灰原さんがあの建物の中にいることはほぼ間違いないでしょう」

 

膝をつき、地面に置かれたノートPCを囲んでいるコナンと光彦、それにその後ろで周囲を警戒している歩美と元太は、抑えた声で状況を確認しあっていた。

大きな埋立地であるこのエリアは土地にやたら余裕があって、一つ一つの建物がたっぷり間隔を空けて建てられている。

コナンたちはその中のひとつのビルの影に身を隠し、広々とした道路を挟んだ向かい側の建物を観察していた。

深夜ともなると人通りも車通りも皆無に近い区域ではあるが、だからこそ目立ってしまわないよう慎重に振る舞う必要があった。

 

「でもよぉコナン、こんな普通の会社が本当にそんなヤバいことやってんのか?」

 

「まあ確かに、表向きは完全に普通の会社なんだよな。こんな立派な自社ビルまで持ってて、怪しい企業には全然見えねえってのは確かだ……」

 

とはいえ、かつての黒の組織は立派な薬品会社を傘下に収めていたし、なんなら有名自動車メーカーの会長が構成員の1人だった。それを思えば、中堅企業のひとつやふたつ隠れ蓑として持っていてもなんらおかしくないのかもしれない。

 

「やっぱり人は見かけによらないよね。毛利のおじさんだって名探偵には見えないし」と歩美。

 

「でもヨメさんの方は見た目どおりに超コエーぞ」

 

コナンは「ハハハ……」と汗を垂らして苦笑いした。

 

「ここで話していてもらちがあきませんよ。とりあえず偵察してみましょうか?」

 

「偵察? 一階は警備員がうろちょろしてんのにどうやって偵察すんだ?」

 

元太の疑問に、光彦はさっきまで肩にかけていた大きなバッグに手を突っ込んで自慢げに応える。

 

「じゃじゃーん! この僕の新発明、超小型偵察用ドローンです!」

 

光彦の手に乗っているのは、新品の消しゴムほどの大きさしかない丸っこいグレーの物体だった。本体の上にはちょこんとプロペラがついている。

市販の小型ドローンはプロペラを含めれば手のひらからはみ出す程度の大きさだが、これは光彦の手相さえ覆えていない。

 

「オイオイ、まさかそのサイズで普通にドローンとして使えるってのか……?」

 

「そのまさかですよ。ちなみに騒音も虫レベルに小さくて、運動性能は大型の高級ドローン並みです」

 

光彦はゲーム機のコントローラーのような――というより実際に市販のゲーム用コントローラーを流用しただけのもの――を取り出し、両手でそれを操作し始めた。

ドローンがゆっくりと浮上していき、そしてターゲットとなる建物へと向けて加速しながら飛んでいく。

 

「光彦くんすごーい! 画面もきれいに写ってるよ!」

 

光彦ご自慢のゴツい風体のノートPCには、ドローンから送られてくる映像がくっきり写っていた。目当てのビルの1階ロビーはとても明るいので、光量はまったく不足していなかった。ガラス張りの正面エントランスの外側から容易に中の様子が伺える。

 

「ロビーの中は、警備員がずいぶん多いですね……普通の会社の夜間警備にしては厳重すぎる」

 

「ああ、表向きと違って実態はろくでもねえ会社だっていう証拠みてーなもんだ」

 

「でもよぉコナン、こいつらフツーの警備会社のスタッフじゃねえか? あの制服のロゴ見たことあんぞ」

 

元太の言う通り、彼らの制服もそのロゴマークも、テレビCMなどでお馴染みの大手警備会社のものだった。そして彼らの顔立ちや雰囲気も、悪の組織の構成員というよりは普通の会社員にしか見えないものだ。

 

「ああ、おそらく彼らは単に雇われて派遣されているだけのただのスタッフだろう。この会社が裏で何をやっているかなんて知りもしねーはずだ」

 

「となると、彼らは上の階には行けないようになっているということでしょうか?」

 

ロビーの奥には自動改札のようなゲートがあって、そのゲートの向こう側にエレベーターが見えていた。しかしドローンから見る限り、警備員は全員そのゲートの手前に配置されているようだった。ゲートの先には組織の人間しか入れないようになっているというのはいかにもありそうな話だ。

 

「おそらくな……。なあ、なんとかしてドローンで建物の中に入れねーか?」

 

「それは無理です。誰かがエントランスを開けてくれないことには……。ここでじっと待っていれば、警備員の誰かが出入りする時に潜り込めるかもしれませんけどね」

 

それはもちろん可能な方法ではあったが、同時にずいぶんと気の長い話でもあった。仮にもしシフト交代の時間まで誰も今の持ち場を離れないとしたら――その可能性は大いにある――侵入のチャンスが来る頃には朝になっているかもしれない。

 

「ねえ、他の入り口はないの? 裏口とか?」と歩美。

 

「そうですね、とりあえずグルッと一回りしてみましょうか」

 

ビルの裏側に回ると、それはあっさりと見つかった。地下へと降りる下り坂の入り口があって、そこに扉はなくゲート式駐車場用の可動バーがあるだけだったのだ。地面にはわかりやすく矢印が書かれていて、奥に進むよう示している。

 

「トラックの搬入口兼地下駐車場の入り口ってとこだな。とりあえず入ってみよう」とコナン。光彦はうなずき、暗い地下へとドローンを進めた。

 

駐車場の中は薄暗かったが、非常灯のような光で照らされていてそこまで視界には不自由しなかった。映像のノイズが増えた程度で、普通に周囲を見渡すことができる。

広いスペースの半分ぐらいが車で埋まっていて、中には大型トラックや重々しい大型車両も見受けられた。その中の一台にコナンの目が止まる。

 

(あれは……ジョナスが乗っていた車……!)

 

見間違いようもない。初めてジョナスがコナンの前に現れた時に乗っていた黒づくめの大型SUVだ。ナンバープレートの数字もあの時とっさに覚えていた――間違いなく、それと同じ数字だった。

 

(やっぱり、奴はここにいる……! そして灰原も……!)

 

コナンはごくりとつばを飲み込む。手汗もじんわりと滲んでいた。

 

「ねえ、あれってエレベーターじゃない?」

 

歩美が指差した先には、ガラスの仕切りの向こう側で他の照明とは色味の違う明かりに照らされた扉が映っていた。その隣には操作パネルもついていて、誰が見てもそれがエレベーターであることがわかる。

ついでにそのそばには非常階段とおぼしき古びたドアや管理室、そして電気設備室らしき部屋もあった。管理室の中に誰かいるのかどうかはこの角度の映像ではわからない。まさか無人ということはあるまいが。

 

「やったぜ、誰もいねーじゃねーか。あそこから忍び込めばすぐに上まで行けそうだぜ!」と大喜びの元太。

 

「いや……いくらなんでもそんな簡単なはずがねえ。正面をあれだけ固めているのにこっちは手薄ってことは、こっから上に上がれるようにはなってねえってことだ」

 

「当然の結論ですね」

 

「うぐぐ……」

 

言葉に詰まる元太を尻目に、光彦は言葉を続けた。

 

「あのエレベーターが物理的に上まで繋がっているのか、それともせいぜい1階のロビーぐらいにしか通じていないのか……。どちらかはわかりませんが、いずれにせよカードキーか何かで認証しないと、たとえエレベーターに乗れても上の階へのボタンは押せないでしょうね」

 

「それってうちのマンションと同じってこと?」と歩美。

 

「まあいずこも似たようなものでしょう」光彦が肩をすくめ、ちらりとコナンの方を見る。

 

「さて、どうしましょうかね」

 

「……これがもしキッドやルパンなら、どうにかして華麗にキーを盗んじまうんだろうな」コナンがつぶやく。

 

「だけど俺たちにはじっくりキーを探しているような時間はねえ……。オレの予想通りなら、そう遠くないうちに灰原は海外に連れ出されちまう。そうなっちまったら助け出せる可能性は完全にゼロだ。そしてそれはもしかしたら明日のことなのかもしれねえ……」

 

コナンは己の左拳を右手で握りしめ、自分がかすかに震えていることを確かめる。手汗はもうぐっしょりとしていて、喉もひどく乾いている。間違いなくコナンは、この先待ち受けているものを恐れていた。

 

「へへっ、今さらビビってんのかコナン?」と元太が口の端を吊り上げる。

 

「……そうだな、オレはビビってるよ。強がったって仕方ねーしな」

 

だが同時にこの震えは武者震いでもあった。それはもう何年も味わっていない、決意と高揚の感情だった。

コナンは一瞬だけ笑みを浮かべるとまっすぐ立ち上がり、3人を見回した。

 

「……みんな、聞いてくれ。オレはずっと逃げてきた。自分がしたことの責任からも、あいつの気持ちからも……何もかもから目を背けて、あげくには何もかも面倒になってオレは腐っちまった。光彦の言うとおり、最低だよオレは」

 

「……」

 

光彦は無言でコナンを見つめ返す。

 

「だけど……オレはもう逃げない。オレはあいつに……灰原に、どうしても伝えたいことがあるんだ」

 

歩美はその言葉を聞き、目を輝かせ胸をときめかせた。

光彦はやれやれとばかりに肩をすくめた。

 

「まったく、待ちくたびれましたよ……。さて、現実にこの目下の難関を前にどうします?」

 

「……ちょいとばかり無茶するしかねーだろうな」

 

コナンは口の片方を吊り上げて笑みを浮かべる。

 

「へへっ、それでこそだぜ」元太が鼻をこすって笑う。

 

「コナンくん、あたしだって準備万端だよ!」

 

 

 


 

 

 

伊藤明人、28歳。

彼は実直な会社員だった。中学高校と柔道部でそこそこの成績を残し、その腕を買われて大手警備会社に就職した。過去には駅でたまたま居合わせた暴漢を背負い投げ一本で取り押さえ、警察署から表彰されたこともある。とはいえ、つまるところ彼はごく普通の一般市民だった。腕力には多少の自信はあるとしても。

 

その日彼は、とある貿易会社の夜間警備に派遣されていた。聞いたこともない会社だったが、なぜ夜のロビーにこんなにも多くの警備員が配備されているのかはよくわからなかった。

 

(まあそんなことはどうでもいい、ただ自分の仕事をするだけだ。)

 

伊藤はそう考えて正面エントランスの自動ドアの前でどっしりと構えていた。

 

「うん……?」

 

ふとこんな時間に、外から誰かが歩いてやってきた。小脇に何か大きな荷物を抱えているようだった。

伊藤は目を細めて観察していたが、外は暗すぎて最初はほとんどよく見えなかった。やがてその男が充分に近づいてくると、ロビーの明かりに照らされ男の顔が見えた。いかつい男だった。かなり大柄な体格で、服の上からでも鍛えられた分厚い肉体の持ち主であることがわかる。男はうっすら笑みを浮かべていた。抱えている荷物はひどく重そうだった。それが一体何なのか、理解するのに少し時間がかかったのは、こんな場所にあるにしてはあまりに場違いなモノだったからだ。

 

(石……?)

 

バスケットボールよりも一回り大きな石。気づいた瞬間、男は邪悪に笑うと同時に、思いきり踏み込んで加速をつけ全身を振り回してその石を放り投げてきた。

 

「はいいっ!!??」

 

伊藤はとっさに横に飛んで石から逃げた。当たり前の行動だった。あんなデカい石をぶつけられたら、人間は死ぬ!

伊藤と石との間にはロックされていたガラスの自動ドアがあった。しかしそんなものはなんの役にも立たなかった。けたたましい音とともにガラスが砕け、破片が足元に飛び散る。外の風がロビーに入り込む。そしてその男も。

 

「なんのつもりだお前っ!」

 

伊藤は即座に体勢を立て直し、ロビーにへと侵入してきたその男に飛びかかった。

走る勢いのまま脚を掛け、腰に腕を回して投げを仕掛ける。

その瞬間、伊藤は「何か」にぶつかった。いやぶつかったわけではない。こちらが技を仕掛けたのだ。だが――

 

(動かない)

 

男はピクリとも動かなかった。まるで……電柱――? 巨木――? 自分は一体何を投げようとしている――?

 

背筋に寒気が走った瞬間、伊藤は顔面をその男に掴まれた。分厚い大きな手のひらに視界が覆われ、強烈な圧迫とともに体の自由が一瞬にして失われた。思考ではなく、肉体(からだ)が理解した。

 

(人間の力じゃな――)

 

次の瞬間、伊藤は宙を舞った。男が伊藤を放り投げたのだ。それは柔道や格闘技の投げ技などではなかった。そもそも技でもなんでもなかった。

わんぱくな子どもが飽きたおもちゃを放り投げるように、ただ腕力で適当に投げただけだった。

 

「なんだこいつ……!」

 

「全員で取り押さえろっ!!」

 

周囲の警備員たちが次々と駆けつける。彼らは全員がなんらかの武道や格闘技の経験者だった。空手の黒帯もいれば、キックボクシングのプロ志望練習生もいた。その全員が、侵入者――小嶋元太を取り囲んで飛びかかろうとしていた。

 

 

 


 

 

 

「ボス! ロビーからの警報です。侵入者のようです!」

 

ソファーの上でうたた寝していたジョナスは、部下の声によって身を起こした。

モニターにはロビーの様子が映っている。熊のような大男が、まったくの素手で複数の警備員を相手に暴れ回っていた。

 

「へえ……シェリーのお友達かな? ずいぶんと活きのいいやつがいたもんだ」

 

形勢は一方的だった。武器といえばアルミ製の警棒ぐらいしか持っていない警備員たちでは到底歯が立たないようだ。

 

「私が行こうか?」

 

背後からジョナスに声をかけてきたのは、背の高い赤髪の女だった。女は氷のような冷たい目でモニターをじっと見ていた。

 

「まあそう焦るなよマチルダ。君の出番はもっと後さ。あそこにはカシワギを行かせれば充分だろう」

 

マチルダと呼ばれた女は、うなずくでもなく無言のままだった。その表情はなんの感情も表しておらず、眉一つさえ動かしていない。

ジョナスはソファーに背をもたれながらそんなマチルダを見上げ、クスリと笑った。

 

「それにしても今出てきているのはあの男一人か……あからさまな陽動もあったもんだ。となると本命は地下から来るか、あるいはそちらも誘いなのか……?」

 

ジョナスは文字通り手ぐすねを引いて口の端を吊り上げた。

 

「ククク……歓迎するよ、工藤新一。僕の首を獲りたいんだろう? まずはここまで辿り着けるか……ぜひそうであって欲しいけどね」

 

 

 


 

 

 

元太がロビーで暴れ始めたちょうどその時、コナンは地下駐車場の車の陰で身をかがめ息を潜めていた。

1分と経たないうちに、それまで静寂に包まれていた地下空間に複数の人間の足音と話し声が響き始めた。

コナンの探偵メガネの片方のレンズには、駐車場のあちこちに拡散していく黒服たちの姿が映っている。光彦のドローンの映像を転送してくるように設定したのだ。

 

「(思ったとおり……こいつらは表の警備員じゃない。全員が銃を持っているみたいだ)」

 

コナンは声を潜めて目の前の人物に耳打ちした。

 

「(さっすがコナンくん! コナンくんの予想通りだね)」

 

歩美は嬉しそうだったが、コナンは改めて身を引き締める。

 

表で元太が暴れれば、それが陽動作戦であることはすぐにバレる。それこそがコナンの狙いだった。

こちらが地下から潜入するつもりだと向こうが判断してくれるなら、必ず一般の警備員ではなく武装した組織の人間が送り込まれてくる。

そして彼らの中には必ず、上階へのキーを持っている人間がいるはずだ。

危険なアイディアではあったが、手っ取り早くキーを入手するのにこれ以上早い方法は考えられなかった。もとより危険は百も承知なのだ。

 

(今のところ確認できるのは5人か……はたしてこれで全員かどうか。どっちにしろ、麻酔銃や他のアイテムを駆使しながら不意打ちで一人ひとり倒していくしかねえか……)

 

コナンはあごに手を置き、昔懐かしい推理ポーズでまずはこちらの方向に近づいてくるひげもじゃの黒服を倒す方法を考え始めた。

だがその思考は、歩美の声によって遮られた。

 

「(ねえコナンくん、あたし行ってくるね)」

 

「(へ? い、行ってくるって?)」

 

「(ここはあたしに任せて)」

 

自信満々に拳で胸を叩く歩美。

 

「(ちょ、ちょっと待って歩美ちゃん! 奴らは銃を持ってるんだよ!?)」

 

「(大丈夫大丈夫! あたしこういうの得意だもん)」

 

次の瞬間、コナンはわが目を疑った。歩美は目の前にいた。彼女はまだピクリとも動いていなかった。

それなのにまさに目の前で、歩美の存在が"薄く"なったのだ。まるでそこに人間がいるという事実自体が薄れてしまったかのように。

 

「……ッ!!」

 

コナンの頬に冷や汗が流れる。

歩美は最後にコナンに微笑むと、身を一層低くかがめてスウッと去って行った。なんの足音も、衣擦れの音さえしなかった。完璧なまでの気配断ちと無音移動。

こんな技術を持っているとしたら、それは探偵というよりもむしろ一流のスパイか暗殺者のような――

 

(歩美ちゃん……一体どこであんな技を身につけたんだ……?)

 

 

 


 

 

 

「おらああああああっ!!!!」

 

元太は叫びとともに小太りの男を放り投げた。

既にかなり暴れていたが、まるで疲れる気がしなかった。体がエネルギーに満ちあふれている。こんな感覚は初めてのことだった。

 

「おいっ! 誰か上に行く鍵持ってねーのかよ!!」

 

元太は辺りを見回して床に転がっている警備員たちに大声で尋ねる。既に彼らは全員戦意を喪失していた。

 

「そ、そんなこと言われても……」と伊藤が首を振る。

 

「くっそー、そんなにうまくいかねーか……」

 

元太が舌打ちしたその時、背後に誰かが立っていた。振り返った元太が目にしたのは、筋骨隆々の鋼の肉体。黒いタイトTシャツを隆々と盛り上げる、風船のように膨らんだ大胸筋。頭蓋骨より太い首、滑稽なまでに盛り上がった二の腕、全身で異様なまでに浮き上がった血管――それらの情報は一瞬で元太の脳裏を駆け巡り、全力で警報を鳴らした。

男は元太めがけてその強大な拳を振り下ろした。ガードの上、しかしまるで土木用ハンマーの一撃かのように重く激しい衝撃が全身を揺るがす。

 

「ぐっ……!」

 

歯を食いしばった元太が体勢を立て直すより早く、30センチを優に超える靴底が腹を撃ち抜く。

それは、ただの前蹴りだった。

なんの変哲もない基本技にして、しかしすさまじい破壊力。

巨体が後方に吹き飛ぶ。

むしろ吹き飛ぶことで、多少はダメージを逃がした。

しかしなんというパワーか!

 

「オイオイ、オレよりつえーじゃんこいつ……」

 

元太は一瞬にして目の前の男の実力を感じ取った。

自分よりも大きく、強い。

スキンヘッドに整ったあごひげを蓄えたその男は、首を傾けながら二コリともせず冷徹な目で元太を見下ろしていた。

一目で格上とわかる相手を前にするのは、中学1年生以来初めてのことだった。

膝がわずかに震えているのは、ダメージのせいなのかそれとも恐れのためか?

自分自身にすらその答えはわからない。

 

(だからって、退けるかよ……!)

 

元太が拳を固める。息を大きく吸い込み、一瞬湧いた恐怖の心を押し込める。

まずは一発言葉でカマしてやろう。元太はそう思ってウィットに飛んだ悪口でやり込めることにした。光彦の得意技だ。

 

「どけよ、ハゲ」

 

やっぱり光彦みたいにはうまいこと言えないなと元太は思った。

 

 

 


 

 

 

「そっちは見つかったか?」

 

「いや、まだだ」

 

音がよく響く地下駐車場の中で、黒服たちは地声で連絡を取り合っていた。

その一人であるひげもじゃの男は、両手で銃を構えながら周囲を警戒しつつ歩みを進めていく。

その男から見て柱の陰、死角の位置で歩美は息をひそめていた。

 

歩美から見てもその男はもちろん死角に位置しているから、直接その姿を見ることはできない。しかし、男は自分の発する音に対してまるで無頓着だった。男の位置は歩美にとって手に取るように把握できた。

男が柱のすぐそばにまで近づいたその時、歩美は獲物を狙う猫のように一切の音も立てることなく半身で動き出し、するすると男の背後に回り込んだ。

銃を構えてあちこちを見渡すその男は、しかし真後ろに忍び寄る何者かの存在に気づくことはなかった。

 

残り80センチにまで接近した歩美は、その瞬間"ハント"を開始した。

縮地の踏み込みで左腕を男の首に回すと同時に右腕でロックし、全体重を腕に乗せて一気に後ろに引き倒す。

どれほどの体格差があろうとも、まったくの不意打ちでこれほど完璧に頸動脈を絞められて抵抗のできる人間はいない。

歩美の背中が地面に着く時、男は既に意識を失っていた。

 

「そこに誰かいるのかっ!!」

 

さしもの歩美も、敵を仕留めたその瞬間の物音まで消せるわけではない。異常に気づいたもう一人の男がただちに迫ってきていた。

男は躊躇なく銃を撃ち、柱に一発、車体に一発が命中する。

歩美はとっさに身をかがめて這うような低い姿勢で脱兎し、車の背後から別の車の背後にへと移動していた。

 

「そこかっ!!」

 

ほんのわずかな物音に反応した男がもう一発の銃弾を放つ。その銃弾は車のドアを貫通しただけだったが、それは歩美にとって間一髪のタイミングだった。幸いにして男はそのことに気づいてはいなかったが。

 

(あの人、さっきの人より手強い)

 

歩美は即座に相手の力量を感じ取っていた。うかつに仕掛ければ、腹に風穴が開くだろう。

冷汗が頬を垂れ落ちる。これほどのピンチはいつ以来だろうか。

だがたとえどれほど命の危険があったとしても、それは歩美にとって人生初の出来事ではなかった。

なんの力もなく、ただ誰かの助けを待つことしかできなかった子ども時代の危機の数々を思えばさほど恐ろしくもなかった。

 

歩美は足元に落ちていた小さな石ころを拾い上げる。タイヤの溝かどこかに挟まって迷い込んできたのであろう、ただの石ころ。小さすぎて直接ぶつけたところで人間は倒せそうにない。

しかしそれは彼女にとって願ってもない武器だった。

 

 

 

コンッ

 

男の背後で乾いた音が鳴り響く。

考えるより先に、男は即座に振り返り三度引き金を引いた。

その音がただ石ころが車にぶつかっただけのものだと気づくには、次の出来事はあまりにも一瞬すぎた。

側頭部への強烈な衝撃。

体を崩され、横にあった柱に叩きつけられ頭が再度揺れる。

視界に火花が散った直後に襟首を極められ、呼吸が止まると同時に体が宙を舞う。

"絞める"と"投げる"を同時に行う歩美必殺の奇襲技。

後頭部からコンクリートの地面に叩きつけられた男は、しかしかろうじて意識を残していた。吐き気をこらえながら銃を握り直し、目の前の誰かに銃口を向けようとする――だが、次の瞬間かかとが男の顔面に踏み落とされていた。

男はもはやその日のうちに目を覚ますことはなかった。

 

 

 

「あっちだっ!」「囲めっ!」

 

銃声を聞きつけ、既にそこには地下フロア全体の黒服たちが集まり始めていた。

彼らはかすかな物音や動く影に反応して躊躇なく銃弾を放っていく。武装だけでなく動きの洗練ぶりや判断の速さも、歩美がこれまで相手にしてきた素人犯罪者たちとは確かに格が違った。

 

しかし彼らは知らなかった。

歩美がこの緊迫に満ちた実戦において、その技能と感性を急速に研ぎ澄ましつつあることを。

 

「どこに行った……?」

 

確かに複数人で囲ったはずだというのにまたたく間に姿を消した標的を、顔中ピアスだらけの男が慎重に探していた。

柱や車の陰はいくらでもあるから、どこかに隠れていることは間違いない。

ピアス男は中型トラックの周りを一周し、それからふと足元に視線が向かう。

 

「下か……?」

 

膝をつき、トラックの下を覗き込む。暗くてすぐにはわからなかったが、どうやら誰もいないようだった。

 

「ちっ、一体どこに……」

 

次の瞬間、何かが真上からピアス男の頭に直撃しその衝撃で地面にキスをすることになった。さらにもう一発の衝撃が加えられ、同時に意識がブラックアウトした。

 

 

 

「また誰かやられたぞっ!」「くそっ、姿を見せやがれっ!」

 

(あと2人……)

 

歩美はトラックの荷台の上でうつ伏せになりながら、下の様子を観察していた。

命がかかっている状況だというのに、ひどく落ち着いている自分に気づく。

 

(大丈夫、あの人達には負けない)

 

歩美は総攻撃を開始した。荷台から飛び降り、子猫のように静かでなめらかな着地からロン毛男の背後に低く忍び寄り、またしても奇襲の一撃が成功した。

最後の一人である顔面タトゥーまみれ男の銃撃を前転でかわし、柱や車の陰を次々に移動しながら徐々に接近、そして死角からの急襲によって金的を打ち抜き、悶絶するタトゥー男を立ち関節からの投げ技でコンクリートに叩きつけ失神させた。

 

地下フロアにようやくの静寂が訪れる。

さしもの歩美も大きく安堵の息をつき、それからタトゥー男の背広に手を突っ込む。

 

「あった! 絶対これだ!」

 

ICチップ型のカードキーが透明のカードホルダーに入れられたものを内ポケットで発見し、歩美の表情がパッと明るくなる。

休憩している暇はなかった。

すぐに1階の元太と合流して上に行かねばならない。本当の戦いはおそらくここからだ。

 

歩美はエレベーター前に走り、呼び出しボタンを押した。扉の上の階数表示に気を取られていたまさにその時だった。

 

「手を上げろ」

 

背後から響く冷徹な声。

撃鉄が起こされる音。

 

「こちらを向くな。両手を上げてゆっくりとひざまずけ。それ以外の動きをするなら殺す」

 

歩美は己の油断を恥じた。おそらくは黒服の一人が、出動することなく待ち伏せていたのだろう。

目に映る範囲の敵を仕留め終わった時点で警戒を解いた――それは未熟さの現れだった。

声の距離からして、相手は後方3、4メートル離れた位置にいる。彼らの銃の腕は確かだ。この状況から逃走や反撃ができる可能性はない。

 

歩美はゆっくりと両手を上げ、静かに目を閉じた。

 

「さて……まずはこれ以上暴れられないように脚でも撃っておこブベッ!!!」

 

鈍い打撃音が響き、歩美は後ろを振り返る。男は前のめりに倒れ、尻を突き出した姿勢で気絶していた。

 

「ふう……無茶しすぎだよ歩美ちゃん」

 

何かを蹴飛ばしたらしきコナンが胸をなでおろす。

 

「えへへ~、ありがと、コナンくん!」

 

 

 


 

 

 

「ぐあっ……!」

 

プロレスのようなラリアットで吹き飛ばされた元太がかろうじて踏ん張って耐える。

大男の拳がうなりをあげて迫り、ギリギリのところで身をよじってかわす。

元太はほぼ防戦一方の戦いを強いられていた。単純な力で凌駕される戦闘など、元太はまったく慣れていなかった。

目の前の男は自分と同じだ。戦術やテクニックなどではなく、純粋なフィジカルとパワーでねじ伏せるいわば"腕力屋"。同じタイプだからこそ残酷なまでに力の差が表れてしまう。

 

(やっぱクスリやってるよな~コイツ……)

 

男の筋量や体型、そして異様な血管の浮き方は明らかに不自然だった。元太に薬物の知識はない。しかしナチュラルな人間は"こう"はならないということはわかる。

ただでさえ恵まれた骨格や才能を、さらに薬物で増強したのがこの怪物的腕力の正体だ。年齢的にもまだまだ発展途上である元太がかなわないのはむしろ当然とさえ言えた。

 

(あ……ちょっと笑ってやがる)

 

仏頂面だった大男のいかつい顔にうっすらと笑みが浮かぶ。勝利を確信し、哀れな獲物をあざ笑っているのだろう。

男は元太のパンチによって鼻血を流していたが、さしたるダメージがあるようには見えない。その鼻血を舌でなめ取り、ニタニタとした笑みがますます不気味さを増す。

 

(獲物を前に舌なめずりは三流って言うけどよぉ……)

 

大男が元太に襲いかかった。豪腕が次々と叩きつけられる、竜巻のようなノンストップ連打。

腰を落とし全身を固め全力で防御する元太だったが、徐々に後退していくとともにガードが壊されていく。

 

(その三流より弱いオレはしょせん雑魚ってこと……)

 

いつの間にか元太は壁を背負っていた。もはやこれ以上後ろには下がれない。

男の連撃はまだ止まらなかった。

元太の腰が少しずつ落ちていく。

 

決着がつく――誰もがそう思ったその時だった。

 

腰が地面にまで落ちかけていた元太が、一気に飛び上がった。

男は、近づきすぎていた。だから真下から襲ってくるそれに対する備えはなかった。

 

頭突き。

 

ほぼあらゆる格闘技で禁止されている、最も原始的で最もシンプルな打撃。元太の脳天が、真下から男のあごを打ち抜く。

ゴンッ!!!という、ボーリング玉の衝突ような音がロビーに鳴り響く。

男はよろめき、力なく後退した。間違いなく彼の視界には星が飛んでいる。

 

「どけっつっただろハゲ」

 

頭を前に出し、全速力でタックルを仕掛ける。頭突きがみぞおちに突き刺さる。そこから間髪入れずに金的への膝蹴り。苦悶の声が聞こえる。

顔を上げれば、男の横顔が目の前にあった。

 

元太は躊躇しなかった。

かつて超有名ボクサーが犯した世紀の大反則・耳かじり。しかしルール無用の戦いにおいてはそれも"合法(リーガル)"だ。

 

「うぎゃああああっ!」

 

強烈な痛みに男が絶叫する。耳から血が吹き出す。

完全に無防備に腰を丸めるその男を見下ろし、元太は大きく脚を上げ背中が前に出るほど上体をひねって振りかぶった。

それは技として教わるようなパンチの打ち方ではなかった。あまりにも大振りで、あまりにも隙だらけだった。それはパンチというより、もはや投擲種目だった。

全身の力を軸足に溜め、一気に踏み込む。

最大の加速をつけ、全体重を拳に乗せてただただ力いっぱいに――振り抜いた。

 

 

 

「はあっ、はあっ……」

 

大の字で地面に転がる男を見下ろし、元太は膝に手を置いて呼吸を整えていた。

 

(まだまだだな~、オレ)

 

しかし今は勝利を味わっている場合でも反省している場合でもない。ここはまだ入り口なのだ。

ロビーの奥のエレベーターに目線を移したちょうどその時、その扉が開いてお馴染みのメンツが現れた。

 

「元太くん、そっちは大丈夫!?」

 

「歩美! コナン! そっちもうまくいったのか!?」

 

「うん、バッチリ♪」

 

歩美は笑顔でカードキーを掲げる。

その瞬間、元太の体にみるみる精気が戻っていく。自分の拳と拳を突き合わせて元太は笑った。

 

「おっしゃあ、乗り込むぞおめーら!!」

 

 

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