10年越しの再始動〈リビギンズ〉   作:ヘイドラ

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14 生き延びたいわけじゃない

「がっ……はっ……」

 

ドスン、という鈍い音ともに巨体が地面に倒れ伏す。

強靭な耐久力がついに限界に達した瞬間だった。

 

「やれやれ……呆れたタフさだな。これでもまだ死んでいないのだから驚くほかないよ」

 

ジョナスは元太を見下ろし、自分の手をさすりながら薄く笑う。無傷の完勝でありながらも、ジョナスは両の拳骨に多少なりとも痛みを感じていた。これほど何度も人間を殴り続けたことなど一度もなかった。誰もが数発ともたずに沈んでいたからだ。

 

「まだまだ……終わりじゃねえぞ……」

 

うつ伏せで床に突っ伏しながらも、元太はかろうじて意識を残していた。だがどれほど強くジョナスを睨みつけようとも、もはや彼には立ち上がる力など残っていなかった。

 

「ふん……あのカシワギに勝つわけだ。殺してしまうには惜しい人材だよ」

 

そうぼやいて、ジョナスが脇腹を蹴り上げる。

 

「ぐふっ!」

 

「だけどやりすぎたな」

 

ジョナスはゆっくりと脚を上げ、元太の頭の真上に掲げていく。ここから一気にかかとを蹴り落とせば、堅い地面とのサンドイッチによってどんな頑丈な頭蓋骨も()()()。ジョナスはそれを実戦経験において知っていた。

元太はなんとか手足を踏ん張ってそこから離脱しようとするが、もはや全身が言うことを聞かなかった。

 

「ちく……しょう……!」

 

ジョナスが脚という名のギロチンを振り下ろそうとしたまさにその時。

 

「ジョナス!!! もうやめなさい!!!」

 

すんでのところで動きが止まり、ジョナスは片足立ちのまま数秒止まっていた。

その声の主が誰なのかわからなかったからではない。顔を見ずともすぐに理解したからこそ止まったのだ。

 

「シェリー、何しに来たんだい?」

 

ジョナスは足を下ろしてゆっくりと斜め後ろに振り返る。

そこにいたのは白いコートを無造作に羽織った、赤みがかった茶髪の女性。

 

(シェリー? シェリーって誰だ? あれはどう見ても……)

 

元太は困惑していたが、同時に安堵もしていた。彼女は無事だったのだ。

 

「いい加減にして……! 私の()()()()には一切手出ししないという約束のはずよ……!」

 

「もちろん約束したさ。だけど彼らは自分からここに押し入ってきたんじゃないか。侵入者を排除するのは当然のこと。約束とはなんの関係もないよ」

 

哀は唇を噛み殺し、床に這いつくばっている元太を睨んで声を震わせた。

 

「どうして……どうしてここに来たの……! 殺されるってわかっていて、こんな無茶なことを……」

 

「……へへっ、コナンも似たよーなこと言ってたぜ。あいにくオレは負けた後のことを考えるのは苦手だからよ……」

 

「馬鹿よ、あなた達は……! わかっているの、あなた達のせいで私の立場が余計に悪くなるってことを……! 私は何不自由なく快適に生きていけるはずだったのよ! くだらないヒーローごっこなんて迷惑なだけよ!」

 

哀は一層語気を強め、あらん限りの力で元太をなじった。

しかし元太はまるで驚くことなく、むしろ苦笑いする。

 

「おめーらまじでよく似てんな……いざとなったらデタラメ並べて自分が悪者になって丸く収めようとするところなんてそっくりだぜ……」

 

「……!!」

 

「コナンのバカもそうだったからよ……まあぶっちゃけ、おめーらのそういうところは嫌いだぜオレは……」

 

「……だったら、放っておいてくれればよかったのに……!」

 

力なく声を震わせる哀を見て、ジョナスは床に這いつくばる元太の頭部に足を置いて口の端を吊り上げた。

 

「まさにその通りだ。君たちは彼女が望んでさえいないことを勝手にやって、彼女を苦しめている。トモダチなら少しは彼女のことを理解してあげることだ」

 

「ハ……ふざけろ」

 

吐き捨てる元太だったが、ジョナスが足に力を込めて横顔を踏みつけるとさすがにうめき声が漏れる。

 

「グゥッ……」

 

「……っ! ……いい加減にして。もう勝負はついているでしょう……!」

 

「そうだな……。今ごろ向こうもマチルダが片を付けているだろう。君たちの悪あがきもここまでというわけだ」

 

「……!!!」

 

マチルダの名を聞いて哀の背筋が凍りつく。コナンと歩美が、今まさに彼女と対峙しているとしたら――どれほど楽観的に考えようとしたところで、最悪の事態を想定せざるを得ない。

 

哀の脳裏に、つい数時間前の光景が蘇る。哀を部屋まで連れて行くよう指示された巨漢の黒服が、「シェリーはくれぐれも丁重に扱うように」というジョナスの命令を無視して粗暴に振る舞い、哀を手荒に部屋に突き飛ばした。後ろでその様子を見ていたマチルダが男を睨みつけると、男はそれがどうしたと言わんばかりの態度で適当な言い訳を並べ――次の瞬間、彼の手首より先は地面に落ちていた。マチルダによる超速の剣捌き。それは、そばで見ていた哀にとっても戦慄的な光景だった。

 

(……なんて疾さ……! 見えなかった、今の太刀筋……! それにあの氷のような眼、一体今までにどれだけの人間をああやって斬り捨ててきたと……)

 

コナンがかつての力を取り戻したのであれば、あるいは有象無象の黒服たちだけならなんとかなるかもしれない。だがジョナスとマチルダは明らかにそんなレベルの相手ではなかった。哀がかつて対峙した、いかなる凶悪犯たちと比べても次元の違う戦力の持ち主であるということ。彼女の危機意識はそれを正確に見抜いていた。

 

ジョナスは天井を仰ぎ見る。

 

「ひとつ不可解なのは……彼らがどうやってこの場所を知ったのかということだ。それもこんな短時間で……。()()()手引きをしたとしか思えない」

 

「!!!」

 

「連絡は取れないようにしていたはずだけど、ね」

 

横目で哀をにらみつけるジョナス。

その通り、もちろん哀の方から連絡など取ってはいない。同時に、自分に発信機がついていることを黙っていたのも確かだ。彼らはその信号を頼りにここまで来たに違いない。しかし博士の発信機の有効範囲を考えれば、この場所を探知することなど不可能なはずだった。そう判断したからこそ、哀はあえて何もせずに放っておいたのだ。

 

だけど彼らは来てしまった。

それもおそらくは探偵団の4人だけで。

どう希望的に見たところで、それは自殺行為に等しい。はたして、目の前の光景はその現実を映し出していた。

 

「……ま、君の隠しごとを調べるのは後にしておくよ。もはやこの場所が秘密ではなくなった以上、とっととここを離れるべきだからね」

 

ジョナスは元太の顔から足を離し、淡々と歩いて哀を横切る。

 

「ついてくるんだ」

 

静かだが、有無を言わせない声。

哀は元太にちらりと目をやったが、まだ意識があることだけを確認して背を向けた。

どういう気まぐれなのかはわからないが、ジョナスは彼にとどめを刺すつもりはないらしい。そうであるなら、これ以上話すべきことは何もなかった。ジョナスの気が変わらないうちにさっさとこの場を去るのが、今自分にできうる最善の行動のはずだ。それが哀の下した判断だった。

 

「おい、灰原」

 

立ち去ろうとした哀の背後から、振り絞るような声が届く。

一瞬立ち止まった哀は、しかし振り返ろうとはしなかった。

 

「コナンは、おめーを諦めねーぞ」

 

「!!」

 

床に這いつくばったまま、元太は哀の背中をまっすぐに見据えていた。

 

「オレもバカだけど、あいつのバカはオレ以上だ……そんな下手な嘘であいつを止められると思ってんじゃねーぞ……!」

 

哀の手が震える。無視するつもりだった。聞いていないふりをするつもりだった。

それなのに、心臓の鼓動が身勝手に高鳴ってしまう。

 

「フン、くだらない……」

 

ジョナスは元太を一笑に付してそのまま去った。哀は少しだけためらって、小走りでそれを追った。

 

 

 


 

 

 

月明かりが夜の闇を照らしていた。都心に比べれば星もよく出ていた。屋上のヘリポートでは、そんな夜の光に無機質なヘリコプターが照らされていた。

 

潮風が哀の髪を揺らしていた。そんな季節ではないはずなのに、ひどく冷たい風だった。

 

ヘリポートの中心まで歩いて来たジョナスはヘリのドアを開き、「乗るんだ」とだけ言った。哀はそれに応えず、しばらく立ち止まっていた。

 

「……いいえ、私は乗らない」

 

 

 


 

 

 

「元太、おい大丈夫か! 元太!」

 

コナンが元太の肩をゆする。元太はかろうじて身を起こして床に座るところまではできていたが、ひどくダメージを負っているのは誰の目にも明らかだった。

 

「ったく、おせーんだよこのバカ」

 

「すまねえ、やたらしぶといヤローがいて手こずっちまった……」

 

コナンも先程のポニーテール男に一発殴られて口の中を切っていたが、こちらは軽症だった。

 

「灰原は、多分屋上だ。おめーらが予想した通り、いざとなったらあのヤローは屋上のヘリで逃げるつもりだろう。オレのことはいいからとっとと追いかけろ」

 

「……ああ、わかった」

 

コナンがきびすを返す。

 

「なあコナン」

 

「?」

 

「オレは探偵団の団長だからよ。まあホントは昔っからずっとおめーが実質オレらのリーダーやってたってことも、一応わかってたんだけどよ」

 

「……」

 

「そのおめーがグチグチとワケわかんねーこと言って灰原を見捨てようとした時は、まじで本気でぶん殴りたい気分だったぜ」

 

「ああ……」

 

それから元太は思い切り声を張った。

 

「リーダー命令だ、コナン……ぜってえに灰原を助け出してこい!!!!」

 

「ああ!!!!」

 

 

 


 

 

 

「……乗らない、とは?」

 

ジョナスが片眉を吊り上げる。

 

「私は、彼らを置いてここを去るなんてできないわ。だってそうでしょう? 彼らは私を助けに来てくれたんだから」

 

やれやれと言わんばかりにジョナスが首を横に振る。

 

「くだらない希望にすがるのはやめるんだシェリー。彼らはここに来れはしない。さっきのゴリラくんはもう動けやしないし、もう一人の女の子も工藤新一も、生きてここまでたどり着くことなど不可能だ」

 

「……あなたの部下に、彼らに手出ししないよう命じてくれればいいだけよ」

 

「それが不可能だと言ってるんだよ。言っただろう、彼らは君の友達である以前に侵入者だ。実力をもって排除する以外の選択肢はないよ」

 

「……だったら、私もあなたに一切協力はしないわ。永遠にあの薬が手に入らなくなったらどうするつもりかしら?」

 

哀は静かに、しかしこの上なく語気を強めてジョナスを睨みつける。だがそれを聞いてもジョナスの表情はしごく涼しいものだった。

 

「やれやれ、困ったものだ。シェリー、君もあのファイルを見たなら気づいているはずだ。断片的とはいえ、やがて薬を完成させるには充分なほどのデータが既に揃っているということがね」

 

「!!」

 

「君がいなくても、充分な資金と時間さえあればいずれ確実にあの薬は蘇る。それは既に見えている未来なんだ」

 

哀はジョナスがでまかせを言ってるわけではないことを理解していた。相応の設備を構えて人材さえ集めれば、時間はかかるとしてもAPTX4869を蘇らせることは間違いなくできる。それがデータを確認した哀の下した結論だったのだ。

にもかかわらずジョナスが自分を探していたということは、この男にはまともな化学薬学の知識などないがためにAPTXの再生には宮野志保(シェリー)の助力が不可欠だと思い込んでいたということ――論理的に考えれば、それ以外の可能性はない。

 

だが、そうではなかった。

どれほど不可解な動機ではあっても、ジョナスは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()彼女を探し求めていたのだ。

 

「……じゃあどうして……」

 

呆然と立ちすくむ哀。ジョナスは、まるで同情しているかのような目で哀を見つめる。

 

「難しく考えなくていいんだよシェリー。これは君の運命なんだ。ただ受け入れればいいだけだ。誰もがそうしているようにね」

 

「……」

 

「心を落ち着ける時間が必要だというなら、もう少しここにいるといい」

 

ジョナスがきびすを返し、向こう側を向く。

 

「それを待つぐらいなら、僕は構わないよ」

 

ジョナスは完全に背中を向けていた。両手はポケットに突っ込まれていて、まったく無防備な体勢だった。それを見た瞬間、哀の鼓動が一気に高鳴る。

 

千載一遇。

 

哀のコートの内ポケットには、先ほど見張りを不意打ちで倒した時に奪っておいたナイフが入っていた。だがそれを使ったところで、正面からジョナスに挑んでも勝ち目がないことなどわかっていた。

 

だからこの好機を哀は待っていた。ジョナスが油断し、完全に背中を見せるこの一瞬を。

ここは屋外のヘリポートだ。周囲は夜間照明(航空灯火)に照らされているとはいえ、ビルの中よりはずっと暗い。

どんな達人であっても、こんな暗さの中では反応が遅れる。ましてや真後ろからの不意打ちであれば、避けきれるはずがない。

さらにはこの風の音が哀の物音を紛れさせてくれるだろう――

 

哀は、迷わなかった。心臓は激しく暴れ打ち、口はカラカラに乾き冷汗が垂れ落ちていたが、それは恐怖ではなかった。

 

(私が、すべてを終わらせてみせる――!)

 

哀はナイフを抜き、同時に踏み込んだ。

背中の真ん中を目掛け、まっすぐにナイフを突き立て――

 

「――!!!」

 

ジョナスは、一瞬にして身をひるがえしていた。ナイフを持っていた哀の手首を掴み、勢いとともに捻り上げると哀はたまらずナイフを落とした。

 

「残念だ。君がこんなにも愚かだったなんて」

 

「ぐっ……!」

 

苦痛に歪む哀の顔を、ジョナスは冷たく見下ろす。その瞳は怒りでも憎しみでもなく、失望の色だった。

ジョナスは哀の手首を掴み、動きを封じながら冷たく見下ろしていた。

 

「なぜそんなに死に急ぐ? 生き延びさえすればいくらでも新しい人生は見つけられるのに。なぜ終わった過去に執着する?」

 

「ふざけないで……! それを決めるのはあなたじゃない……!」

 

哀は先ほどから必死でジョナスの手を振り払おうと力を込めていたが、いかんせん腕力差がありすぎてぴくりとも動かない。しかし突然ジョナスが手を離し、哀は勢いあまってたたらを踏んでしまった。

 

「くっ……!」

 

ジョナスはふうっとため息をつき、気だるげに背を丸めた。

 

「希望と欲望というのは、言葉のイメージはずいぶん違うけれど僕は同じものだと思っている」

 

「……?」

 

「今の君の目には、欲望が宿っている。ぎらぎらとした、意欲に満ちた目だ。ほんの数時間前とはまるで違う……彼らがここに来てから明らかに変わった」

 

「……人の心を持たないあなたが、一人前に心理分析のつもり?」

 

哀は精一杯強がって笑う。

 

「だけど僕にとって最もわからないのは、君ほど頭のいい人間がこの状況を理解していないかのようにふるまっているということだ。奇跡など起こらない。彼らは全滅する。君はそれを知っている。状況は昨日より悪くなることはあっても良くなることはない。……なのになぜ、君は希望を抱いているかのようなふりをしているんだ?」

 

「……」

 

「実を言うと、君が彼らを助ける方法は一つだけあったんだ。僕に泣いてすがって彼らの命乞いをすることさ。君が心から忠誠を誓ってくれるなら、彼らが役立たずの部下どもに与えた損害なんて鼻で笑える程度のものだ」

 

ジョナスはくすりと笑ってから、ぼうっと空を見上げて言葉を続けた。

 

「こんな簡単な解決策は君の頭脳なら当然に気づくはずだと僕は思っていた。だからわかったうえでその選択肢を拒んだのだと……。いや、もしかしたら本当に単に、頭に血が昇って思いつかなかっただけなのかもしれないな」

 

「じゃあこうしよう。今からでも君が本気で懇願してくれるなら、彼らの命は助けるとね。ああ、さっき僕を殺そうとしたことは気にしなくていい。どうせ最初からそんなことは不可能なんだから」

 

「……!」

 

哀はごくりと生唾を飲み込む。

ジョナスが嘘を言っていないことは直感で理解(わか)った。

この男は本当に、自分が本気ですがりついて許しを乞えば彼らの命を助けるだろう。ジョナスにとって、彼らの命は()()()()のものでしかないのだ。生かそうが殺そうが本当はどうでもいい。それをカードとして、"シェリー"の服従を買えるならそうするというだけだ。

 

「私は……」

 

哀は唇を震わせてうつむく。

 

(ジョナスの言う通り……私は欲深くなっている。あの時私は、彼らを助けるためなら自分のこの先の人生を捨ててもいいと思った。だから降伏することを選んだ。10年間も分不相応に幸せに生きてきたのだから、残りの人生は死んだも同然の魂の監獄暮らしでかまわないと思った。それが私の償いだと……)

 

だけど彼らは、ここに来てしまった。無茶を承知で死地に来てしまった。

 

(私はとっくに諦めていたのに、彼らは私を諦めてくれなかった。私の決意を無駄にしたのに、悲惨な結末しか待っていないはずなのに、私は……)

 

哀は両の拳を目の前で握り、震わせる。

 

(私は……嬉しかった。どうしようもなく嬉しさを感じてしまった。今までもずっとそうだったように、どんな時でも彼らは……そして彼は、私を諦めてくれなかった。そのことがただただ嬉しかった)

 

そして再びジョナスの目を見据えた。

 

「……あなたの言う通りよ。今の私は欲望にまみれている。"生きたい"と思ってしまっている。もう……この気持ちはごまかせない」

 

「"生きたい"? 僕が君を殺しはしないということは知っているだろうに」

 

「それは生きてるってことじゃないわ。私はただ生き延びたいわけじゃない……生きたいのよ。自分自身が選んだ人生を」

 

哀は心から皮肉を込めて微笑んだ。

 

「あなたには理解できないでしょうけどね」

 

「……」

 

ジョナスはしばらく押し黙っていた。その真顔からは心情は伺いしれなかった。たっぷり十数秒も沈黙が流れてから、ようやく口を開いた。

 

「どうやら、君を説得するのは無理のようだ」

 

「ならどうすると?」

 

ジョナスは足元のナイフを拾い上げ、その切っ先を見つめて笑った。

 

「言葉で無理なら、"力"を使うしかないだろう」

 

そう言って歩きだした。下のフロアへと続く階段に向かって。

 

「君の目の前に彼ら全員の死体を並べたら、君はどんなふうに後悔するんだろうね」

 

「……!!」

 

ジョナスはもはや振り返ることなく、淡々と進んでいく。

哀は走って前方に回り込み、ジョナスの前に立ちふさがった。

 

「行かせない……!」

 

体当たりで肩をぶつけ、必死でジョナスを止めようとする哀。それで止められるはずがないことなどわかっていたが、考えるより先に体がそう動いた。

哀は思い切りジョナスの顔面を殴った。素人丸出しの非力なパンチだ。なんのダメージも与えられず、自分の拳の方がずっと痛い。今度は左手で殴った。

ジョナスは哀の肩を掴み、腕力だけで無造作に振り投げた。

哀は地面に腕を強打した。鈍い痛みが走ったが、すぐに立ち上がってまたジョナスを睨みつけた。

 

「理解できないな……。どういう勝算がある行動なんだ」

 

「さあね……! 人間ってのは不合理な生きものなのよ……!」

 

「やれやれ……」

 

ジョナスが踏み込む。一瞬、哀は殴られると思って身構えたが、その魔の手は哀の首を掴んでいた。

 

「ぐっ……!」

 

「いちいち君の癇癪に付き合うのも面倒だ。しばらく眠っていてくれ」

 

「……!」

 

ジョナスは片手だけで巧みに頸動脈を押さえていた。振りほどけるような腕力差ではない。十数秒と経たないうちに哀の意識は失われるだろう――

その時だった。

 

カツン、カツンと音が聞こえた。

 

誰かが階段を登ってくる音だった。

 

「マチルダか?」

 

哀の首を締めていた力が緩み、止められていた血流が開放される。

 

「どうやら手遅れだったようだねシェリー。マチルダがここに来るということは、全員片付いたということだ」

 

(……違う)

 

哀はこの足音を知っていた。

誰よりも、誰のことよりも知っていた。

それに気づいた時、哀の瞳からは自然と涙がにじみだしていた。

 

カツン――

 

夜の闇の中で、その足音の主の顔は最初見えなかった。

ジョナスは予想と異なる人影に一瞬戸惑い、それから目を見開いた。

 

「お前は――」

 

 

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