「はあっ! はあっ……!」
歩美は両ひざをついて大きく息を切らしていた。三半規管は一時的に機能を失っていて、目の前の景色が壊れたメリーゴーランドのようにぐらぐらと不安定に回っている。手足は痺れ、全身が鉛のように重く感じる。
(これが……脳震盪……)
理解はできても、解決はできない。歩美はこれまで、何人もの敵をこうやって脳震盪の状態にすることで倒してきた。だが今、自分がその状況に陥っている。
(ああ……あたしって自信過剰だったんだなあ……)
戦いは歩美の思惑通りに進んでいるはずだった。物陰から物陰にへと移りながらあらゆる搦め手や小細工を尽くし、マチルダの攻撃を避けきった歩美はついに奇襲を成功させた。剣を握っていた手首への蹴りを命中させ、即座の連続攻撃によって剣自体を蹴り飛ばしたのだ。
マチルダは素手となり、そこからは歩美が一方的に勝つ――はずだった。
最大の誤算は、素手でもなおマチルダの方が歩美よりも強かったということだ。
マチルダは歩美の猛攻の大半をさばき切り、息切れによって連打が鈍った瞬間にカウンターを打ち込んだ。
一体どういう技を喰らったのか、歩美は理解できなかった。それほどまでに技量の差があったということだ。
脳を揺さぶられた歩美は脚の支えを失って真下に落下し、そのまま膝を床に強打した。床にぶつかったのが頭でなかったことはまだ幸いだった。もし頭だったら、その場で失神していただろう。
だがかろうじて意識は残っていたとはいえ、脳震盪状態ではまともに立ち上がることは不可能だった。
(せめてあと1分……1分あれば体を動かせるようになるはず……だけど、この人が1分後もあたしを生かしておいてくれるなんてありえない……!)
既にマチルダは再び剣を手にしていた。そして目の前で歩美を見下ろしていた。
眉一つ動かすことなく、マチルダがその剣を歩美の首にそっと添えた。ひんやりとした空気が首筋に触れ、背筋がゾクリと震える。
「ここまでね」
「……」
万策尽きてなお、歩美は口を真一文字に結びマチルダを睨み上げた。そんな歩美のまなざしを見て、マチルダは薄く笑みを浮かべた。
その時だった。
ブーッ、ブーッ……ブーッ、ブーッ……
(……電話?)
マチルダは左手で上着の内ポケットから電話を取り出し、着信した。右手は相変わらず剣を歩美に向けたままだ。
「……あら、そう」
マチルダは二言三言、その電話に返事を返してから、かすかに微笑んで歩美に目を向けた。
「……お嬢さん、地下でいたずらしようとしてたお友達は捕まったそうよ?」
「!!」
(光彦くん……!)
「このビルの電気設備になにかしようとしてたみたいだけど、いい度胸ね。もしかしてそっちの坊やの方が本命だったのかしら? まったく、大した子どもたちだこと」
マチルダの推理どおり、それこそが探偵団の策だった。うまいこと3人が上階に侵攻できれば、その隙に光彦が地下の電気室に潜入して仕掛けを施す計画だったのだ。だがそれも、光彦が捕まってしまったのならもはやどうしようもない。
「あなた達の健闘には拍手を送ってあげる」
再びマチルダが剣を構えた。
「悲しむことはないわ。すぐに再会できるから……あの世でね」
歩美はゆっくりとうつむき、目を閉じた。手はだらんと垂れ下がり、全身から力が抜けていた。
(ふふっ、ようやく諦めたようね)
マチルダは気づいていなかった。歩美は全身を弛緩させるとともに全神経を呼吸に集中させ、一秒でも早く回復することに専念していたということを。
そして彼女が目を閉じたのは、諦めたからではないということを。
(光彦くん……信じてるよ……!)
「まったく、とんでもねえガキだぜてめえらは……!」
男は銃口を光彦に向けながら電話を切ってポケットに入れた。光彦は両手を上げて静止したままだった。
つい先ほどまで、光彦は電気設備に向き合って作業を行っていた。あまりに夢中になりすぎて、背後から男が近づいてきたことにも気づかなかったのだ。
光彦は知らぬことだったが、このロン毛の男は駐車場で歩美によって失神させられた黒服たちの一人だった。
目を覚ました直後のこの男に、電気室に入る姿を目撃されてしまったのは不運だったとしか言いようがない。
「ええっと、僕もしかして、どこか怖いところに連れていかれちゃいますか?」
「ハッ! それだけで済むわけねえだろ! てめえ自分たちが何やらかしたのかわかってんのかよ!?」
「そうなんですね……。あの、それじゃあせめて両親に電話してもいいですか? 帰れなくなるって連絡したいので……」
「ハァ~!? ……ふざけたガキだ。おい、電話持ってるならこの場で渡しやがれ!」
「はい……」
「おっと、妙な真似はするなよ? 変な動きをしやがったらこの場でぶっ殺すからな?」
光彦はゆっくりとした動作でポケットからスマホを取り出し、指先でつまんでロン毛男に手渡した。そいつはスマホを受け取るとニタニタと笑い再び銃口を向けた。
「さ~て、この場でぶち殺すか後でたっぷり痛めつけて殺すか……」
光彦はロン毛男のそんな言葉など聞いていなかった。目を伏して、ひどく申し訳なさそうにぼそりとつぶやいた。
「すまない、
『Sir, 謝罪には及びません』
「?」
Haileyの返答は、ロン毛男には聞こえていなかった。それは光彦のワイヤレスイヤホンにのみ流れた音声だった。だからロン毛男には、光彦がわけのわからない独り言をつぶやいたようにしか思えなかった。
ほんの一瞬、光彦は躊躇した。光彦にとってはHaileyもまた、大切な仲間の一人だからだ。だけど本当に必要な時はそうしなければならない。それは覚悟していたことだった。
「Hailey、自爆しろ!!!」
光彦が叫ぶ。その瞬間、ロン毛男が手に持っていたスマホが激しく発光した。
「!!!!」
光彦はスマホを自ら改造していた。その改造の一つは自作のAIアシスタントであるHailey。そしてもう一つは自爆装置――もとい、高圧電流発生装置だった。要はスタンガンと同じことをやる装置を仕込んでいたのだ。
「がっ……!」
高圧電流がロン毛男の体内で暴れ狂い、一瞬にして体の自由を奪う。白目を剥き膝から崩れ落ちる。しかし意識はまだ失われていない。スタンガンは気絶させる道具ではなく、あくまで筋肉をけいれんさせる道具なのだ。
だから光彦はすかさず荷物満載のリュックを掴み、全力でフルスイングした。無防備な状態の側頭部に数キログラムのリュックが叩きつけられ、ロン毛男の意識はうつろに消えていった。
「はあ、はあ……」
当然、愛用のスマホはこれ一発でオシャカになる。だからこその「自爆装置」だ。
(ごめんねHailey、またすぐに君をよみがえらせるよ)
光彦は立ち上がり、先ほどまで作業していた電気設備に再び向き合った。既に作業はほとんど完了していた。
あとは、最後の操作をするだけだ。
(コナンくん、歩美ちゃん、元太くん……。あとは頼みましたよ!)
マチルダが剣を振り上げ、歩美の首を跳ね飛ばそうとしたまさにその瞬間。
「!!!?」
照明がすべて消え、周囲が一瞬にして暗転する。完全なる暗闇。
「なっ……!?」
非常灯が点灯するまでのタイムラグはほんの数秒だった。だがその数秒こそが、歩美が待ち望んだ好機だった。
歩美は目を見開き、立ち上がると同時に手刀を突き込む。マチルダのみぞおちに、完璧な角度で槍のような一撃が突き刺さる。
「がはっ!!!」
呼吸を止められ背中が丸まったマチルダの、無防備な顔面を肘打ちが跳ね上げる。急所である人中(鼻と口の間)への完璧な打撃だった。
(そうか、目を閉じたのは暗闇に目を慣れさせるため……こうなることを読んでいたというのか!)
もはや歩美は止まらなかった。鎖骨、肝臓、下腹部。あらゆる攻撃が次々と急所に命中する。マチルダは力なく後退し、次々と被弾し続ける。
(バカな……! 目を慣らしていたとはいえ、この暗闇でこれほどまで正確に急所への連撃を……!)
「う、うおおおおおお!」
どれほどの攻撃を浴びせられても、マチルダはなお剣を手放してはいなかった。
いまだ何も見えてはいなかったが、正面に歩美がいることはわかっている。だからマチルダは、渾身の力を振り絞りその剣を思い切り水平に振り切った。
獲物を捕らえた感触は――なかった。
(空振り――? バカな――)
歩美は半拍速くその場で跳躍していた。
崩れ切っていた体勢の中で無理に剣を振ろうとしていたマチルダの姿が完全に見えていたからだ。
マチルダの剣は空を切り、がら空きの顔面がその場に残された。驚愕と愕然の表情とともに。
歩美は空中で身をひねり、体を反転させながらかかとを突き出した。
空中後ろ回し蹴り。
完全なるカウンターの一撃。
鮮やかな轟音がフロアに響き渡り、血が飛び散った。マチルダは後頭部からゆっくりと落下し、大の字となって崩れ落ちた。
「はあっ、はぁっ……!」
歩美もまた、苦悶の表情で膝をついて胸を抑えていた。
ダメージのある体を酷使して無理を押した猛攻撃。その無茶によって彼女は酸欠状態に陥っていたのだ。
(紙一重、だったけど……あたしの勝ち、だよね……)
歩美は大きく息をついてその場に座り込んだ。しばらくの間は指一本動かせそうにない。しかし鼻骨を破壊され完全失神したマチルダはそれ以上に長く行動不能だろう。
(あとは任せたよ、コナン君……)
「工藤、新一……」
夜の闇の中から浮き出てきたのはジョナスの右腕であるマチルダではなく、コナンの姿だった。
その右腕には派手な色のスケボーが抱えられていて、夜間照明に照らされた眼鏡が光を反射している。
「ち……なんでお前なんだ」
ジョナスは哀の首から手を離し、コナンに対して正対した。その距離、およそ15メートル。
潮風が強く吹き、三人の髪と服を揺らした。
「わかっているのかい? 工藤新一。君が"まがいものの希望"なんかを持たせたがために、シェリーはそれにすがりついてしまった。これからすぐに君が死んでも、一度抱いてしまった希望が呪いとして彼女の心を縛りつけることになるだろう」
ジョナスは禍々しい笑顔とともに言葉を続ける。
「君が愚かな行動をしなければ、彼女は運命を受け入れることができた。過ぎ去った過去と訣別し、新しい人生を受容して前に進むことができた。つい昨日、彼女が自ら選択したようにね」
「……」
「つまり……彼女を苦しめているのは君だとい「お前には何も聞いてねえよ」
せっかくの演説に割り込まれたジョナスは、虚を突かれたことで口を開けたまま言葉に詰まった。
ジョナスから見て、コナンの態度はずいぶん奇妙だった。少しも恐怖を抱いておらず、なおかつ虚勢も過信も感じられなかった。これほど等身大の態度の人間が自分の前に立ちふさがることにジョナスは慣れていなかった。
コナンはしばらく口を固く結んだまま、ただ黙って前を見ていた。
それから哀に目をやって、ようやく口を開いた。
「灰原。オレは確かにお前の選択を無視してここまで来た。オレ自身のわがままのためにだ」
「……」
「オレには……灰原、お前がいない人生なんて、考えられない。お前にはずっと、オレのそばにいてほしい」
こんな状況だというのにコナンの声は、不思議なほど自然で優しい声だった。
「だからお前の答えを聞かせてくれ。オレは、そのためにここに来たんだ」
そう言って、コナンはじっと哀を見つめた。
その瞳の色は怒りでも憎しみでもなかった。
優しくて、まっすぐで、少しだけキザったらしくて。
哀がよく知っている、そして何よりも心を奪われてきた、あの瞳だった。
「……工藤君」
哀は震える拳を握りしめた。
(あなたのおかげで、私は強くなれた……そして、弱くもなった。私はもう、一人で死を選ぶなんてできなくなったわ。一番大切な人を巻き添えにしてでも、その人とともに生きたいと思うような身勝手な人間になってしまった)
(これだけの罪を犯して、あなたの人生をめちゃくちゃにして、とうとうあの子達までもを巻き込んで……それなのに、私はみっともなく生に執着しようとしている。なんの正当性もないのに、ただ自分がそうしたいというだけの理由で)
(もしも、もしも生きて帰れたら、いくらでも償いをするから。だからごめんなさい工藤君。だから……)
涙がこぼれ落ちた。
ぐしゃぐしゃになった顔で、哀は精一杯に微笑んだ。
ひょっとしたら今この場で彼は殺されてしまうかもしれない。最悪の結果への恐れを抱きながらも、それでもありったけの希望を振り絞って、言葉に変えた。
「助けて……」
風によってかき消えてしまいそうなほどその声は小さく――だけど、コナンはぴくりとも表情を変えず、哀を見つめながらはっきりとうなずいた。
「わかった」とだけ言って、それからジョナスに顔を向けた。
抱えていたスケボーを地面に落とし、足で押さえた。
歯を強く、強く噛みしめ、腰を落として前かがみになった。
「離れてろ、灰原」
コナンの
ジョナスがゆるやかに構え、口の端を吊り上げ、笑う。
しばしの沈黙。
ひときわ強く風が吹いた。
その風が、合図となった。