ターボエンジン付きスケートボード。
阿笠博士の数々の発明品の中でも、おそらくは最も多くの命の危機からコナンを救ったものの一つだろう。
光彦の手によって大人サイズで蘇ったものを手にした時、コナンはひどく懐かしい気分になった。だから自然と、コナンはこの物言わぬ機械のことを「相棒」と呼んだ。
今、コナンはそのスケボーに乗って屋上全体を縦横無尽に疾走していた。
中央に立つジョナスを中心としてその周囲を回りながら速度と角度を次々と変化させ、ひたすらに"機"を伺っていたのだ。
「はっはっは! そうやってくるくる走り回るのが君の戦い方なのかい? それで僕が目を回すとでも?」
ジョナスはわざわざコナンを追いかけようとはしなかった。
振り向きもせず、その場に立って目だけでコナンの動きを追跡していた。肩幅に足を広げてただ突っ立っているだけのような、構えとさえ言えないようなごく自然な立ち姿。
それでも、ジョナスに隙はなかった。後ろから襲いかかろうがどうしようが、一瞬で反応し迎撃してくるだろう。コナンは正確にそれを見抜いていた。
ましてや今、ジョナスの右手にはナイフが握られている。ただのナイフではあっても、ジョナスほどの達人が使うならそれは兵器となる。
コナンはジョナスの戦闘場面を見たわけではないが、探偵としての勘は初めて会った時からこの男の恐ろしさを理解していた。おそらくは、蘭でさえ勝ち目がないほどの実力者だろう。
――そんな相手に、どうやってオレが勝てる?
――オレは弱くなった。本当に弱くなった。
――だけど、オレは変わった。
仲間に頼ることを知った。
かつて自分が守っていた彼らの成長を認め、対等になったことを受け入れた。
自分の弱さを知ったからこそ、できる戦い方があるということを知った。
――そして――
コナンは一層腰を落とし、姿勢をスレスレにまで低くした。そして急角度でターンし、一気にジョナスに向き合い最高の出力で加速した。
エンジン音が唸りを上げ、一体の塊となった物体が弾丸の如き速度でジョナスに迫る。常人であればまともに反応もできないまま撥ね飛ばされる疾さで――だがジョナスは一瞬にして迎撃の姿勢を整えていた。
ナイフを構え、邪悪に笑う。カウンターでナイフが刺されば、コナンは間違いなくその瞬間にあの世行きだ。
だがコナンは止まらなかった。曲がりも減速もせず、一直線にジョナスに向かって突き進んだ。
残り数メートルに迫った瞬間、ジョナスが刃を突きつける。
「――――!!」
哀はその瞬間、心臓が止まったような気がした。コナンが串刺しになる光景が脳裏によぎった。
だが――それは起きなかった。
ジョナスの刃は、空を切っていた。
「!!?」
ジョナスの視界を強い光が覆う。突進する時、コナンは航空灯火を背後に背負う角度を選んでいた。だからコナンが
だがコナンはどこに?
コナンは
スケートボード競技のトリックプレーのように、加速したスケボーの勢いを活かして空に跳んでいたのだ。その高さは2メートルにも満たない。だが夜の闇の中で、灯火の目くらましも相まってその動きは一瞬だけジョナスの虚を突き、超人的な反応速度をも上回った。
ドンッッッ!!!!
スケボーの先端が、回転の勢いのままジョナスの顔面を打ち抜く。
フルスピードのオートバイに撥ねられたも同然のとてつもない衝撃が頭部に炸裂し、ジョナスを吹き飛ばす。
ナイフがどこかに吹っ飛んでいくとともに肉体が舞い、二度三度ときりもみして後方に飛んでいく。
それでもなお、ジョナスは即座に空中で体勢を立て直した。
手をついて着地し、地面を滑って吹き飛んだ勢いを減速させ間髪入れずに立ち上がる。
だがその時既に――コナンは第二の突撃を放っていた!!!
「ガハッ……!!!」
今度は顔面ではなく腹にスケボーの側面が突き刺さる。コナンの狙いは地面に伏していた瞬間の顔面だったが、立ち上がるのが一瞬早かったことで狙いが外れたのだ。
だが衝撃の大きさは変わることなく、ジョナスを再び後方に吹き飛ばす。
(勝った――?)
少し離れた距離から目撃した哀にとって、それは決着の一撃かに見えた。
だがジョナスはまたしても空中で体勢を立て直し、今度は先程よりも安定した姿勢で着地する。顎の骨が折れ、口からは血が吹き出ていたがそれでもなお、ジョナスは殺気をギラつかせ二本の足でしかと立ち上がった。
(さすがにとんでもねータフさだ……だけどもうフラフラのはず……あともう一発だ!)
コナンは間髪入れずに再び加速し、最高速に達する。
そしてジョナスの目前で跳ね、体を捻ってスケボーの先端を振り抜き――
ゴッ
「…………ッッ!!」
哀は我が目を疑った。
コナンは先程と同じ動きを繰り出したが、その瞬間にジョナスも飛び上がって身をひねり、突進をかわすと同時に回転蹴りを放ったのだ。
その蹴りは完璧なカウンターとなってコナンの頬を打ち抜いた。
スケボーは慣性で後方に飛んでいき、コナンの身体だけがその場で半回転して落下した。
「ぐあっ!!!」
前のめりに地面に叩きつけられたコナンの全身に激しい痛みが走る。
蹴りの衝撃で脳が揺らされ、視界がぐちゃぐちゃに歪み耳はガンガンとでたらめな信号をかき鳴らす。へし折れた眼鏡もどこかに飛んでいってしまった。
即座に失神していてもおかしくないほどのダメージだったが、コナンは両手を突っ伏し全力を込めてなんとか立ち上がることができた。
問題はこの時点で、もはや戦う力も手段も失われたということだった。
「はあ、はあ……」
脚が震え、激痛が体中を暴れ狂う。それでもコナンはジョナスに向けて顔を上げ、なんとか両手を上げてファイティングポーズを取ろうとする。まるで形になっていないとしても……。
「よくやったよ君は……。この僕にこれほどの手傷を与えた人間なんてどこにもいない」
ジョナスが一歩一歩ゆっくりとコナンに近づく。
コナンの身体はまだまともに言うことを聞かなかった。
だがジョナスは、深いダメージを負いながらも既にかなりの力を取り戻していた。
ドゴン!
コナンのみぞおちに鈍い衝撃が走る。教科書通りのボディアッパー。その一撃で横隔膜が悲鳴を上げ身体が"く"の字に曲がる。
「か……は……!」
「おっと、この程度で倒れるなよ」
ジョナスはコナンの髪を無造作に掴んで頭を引っ張り上げ、右脚へのローキックを見舞う。激痛が電流のように激しく走り、コナンの顔が苦痛に歪む。再びボディブローが今度は脇腹に突き刺さり、肋骨がきしむ感覚がはっきりと意識に伝わる。ジョナスは更に一発一発と、連打ではなくいたぶるようなゆっくりとしたペースでコナンを痛めつけていく。
意地でも倒れないコナンだったが、ふらふらと力なく後退し、フェンス際にまで追い詰められていった。
(……! もうこれ以上は……!)
哀はコナンのもとに駆け寄ろうとした。何ができるわけでもないが、とにかく体が勝手にそう動いた。
しかし、
「……!?」
ジョナスの攻撃に耐えながら、コナンは哀に向けて手を伸ばしていた。手のひらを大きく広げ、それを哀に向けていた。
コナンの横目がちらりと哀を見る。その瞳と手は、はっきりと言っていた。「来るな」と。
それは強がりでもなく、哀をかばっているわけでもなかった。少なくとも哀はそう思った。
コナンは、何かをもくろんでいる。「オレを信じろ」と言っている。
そう思えてならなかった。
「ぐっ!」
ジョナスが左手でコナンの喉を掴み、体ごと押し込む。ドンという鈍い音とともにコナンの後頭部がフェンスに叩き付けられた。
「工藤君!」
先ほど哀の首を掴んだ時のような"優しい"絞め方ではない。ギリギリと音が聞こえてきそうなほどの強い力で首を絞められ、コナンの顔が苦痛に歪む。
さらにさっきと異なるのは、ジョナスがコナンの頸動脈を
「気に障るヤツだ、工藤新一! これほど絶望的な状況であっても、まだなんとかなるかのような目をしている。何もできやしないくせに!」
コナンをフェンスに押し付けながらジョナスが叫ぶ。
「なぜこれほどまでに力の差があるかわかるか……!? 僕は地獄を生き抜いてきたからだ! お前のように家族や大人に守られ仲間に恵まれてきたわけじゃない!」
ジョナスは一層首を掴む手の力を強め、首の骨までもを押しつぶさんばかりにギリギリとフェンスに押し付ける。
「だけどその困難こそが僕を強くした……。かつて哲学者が言ったとおり、"死"以外の試練はなんであれ人を強くする。それこそが"適応"、人間の持つ最も優れた力だ!!」
その時、コナンは少しだけ――しかしはっきりと――口の端を吊り上げ、笑みを浮かべた。
「へ……へへ……」
「……?」
「おめーが何を言いたいのかさっぱりわかんねーけどよ……知ってるかジョナス、たった一つだけ、揺るがない真実ってやつがあるんだぜ……」
「ああ?」
「おめーが、負けるってことだ」
「!!!」
コナンは右脚を曲げて引き上げ、その足首付近に手を添えていた。
コナンの履いている赤い靴が奇妙な形をしていることにジョナスは初めて気づいた。靴の側面、くるぶしの辺りに何か妙なダイヤルのような部品がついていたのだ。
コナンがそのダイヤルを回した瞬間、かすかな光がそこから溢れ出る光景をジョナスは見た。
ジョナスの本能はそれに最大限の警報を鳴らしたが、頭脳がその意味を理解するにはあまりにも一瞬の出来事だった。
電気と磁力が筋力を極限まで高め、超人的なキック力をその身に与えた次の瞬間――
コナンは右脚でジョナスの腹を打ち抜いていた!!
「がはっ!!!!」
後方に数メートル吹き飛ぶジョナス。あばら骨がへし折れ、内臓が断末魔の叫びを上げる。激痛と苦痛が全身を飲み込み、肉体の自由を奪いジョナスをひざまずかせる。
「馬鹿な……なんだこの力は……!!!」
ジョナスは血反吐を吐いて驚愕していた。いかなる強靭な肉体の持ち主といえど、すぐに立ち上がれるような
コナンはよろよろとふらつきながらも歩みを進め、ジョナスを見下ろした。
足取りは不確かで弱々しく、全身に酷い傷を負っていたがコナンの決意を阻むものではなかった。
靴は今なお微弱な光を放っていた。
「う……ぐ……!」
立ち上がろうとするジョナスだが、脚が言うことを聞かない。
一方でコナンもまた深刻なダメージを負っていた。
(今の蹴りの反動で、多分あばらがイッちまったな……光彦のヤローめ、もうちょっと体に優しいバランスで作ってほしいもんだぜ……)
ジョナスの攻撃によって既にいくつもの骨に亀裂を負っていたコナンにとって、外的な作用で無理やり筋力を高めるキック力増強シューズの反動は深刻なものだった。
脇腹でも脚でも激痛が暴れ狂っている。
だがそんなことはもうどうでもよかった。
コナンは思い切り右脚を後ろに振り上げ、大きく大きく振りかぶった。
膝をついて低い位置になっているジョナスの顔面がその先にあった。
全力で。
ただ全力で。
「うおおおおおおおおおお!!!」
――あら、私ホントはあなたとお似合いの18歳よ
――じゃあ眼鏡をとったあなたはスーパーマンってわけ?
――逃げるなよ灰原……自分の運命から……逃げるんじゃねーぞ
――あなた、言ったじゃない。逃げるなって、運命から逃げるなって。守って、くれるんでしょ?
――だからお前の答えを聞かせてくれ。オレは、そのためにここに来たんだ
――工藤君……助けて
「おおおおおおおお!!!!!」
その足は顔面を捉え――――
強く、何よりも強く――――
打ち抜いた。
「はあっ、はあっ……!」
コナンはその場で前のめりに倒れ込み、うつ伏せで苦痛をこらえていた。
ボロボロの体でありながら限界を超えた力を出した反動で、間違いなく複数の骨が折れている。肋骨数本と右脚のどこかは確実だろう。
「工藤君、工藤君!!」
哀が駆け寄り、コナンの顔に手を触れる。
コナンは顔を起こして哀の目を見つめ、微笑んだ。
「終わったぜ、灰原」
「ええ……ありがとう」
哀の目は涙でにじんでいた。
ぽとりと一粒、コナンの頬に落ちる。
「ハハ、おめーを泣かせちまったから、また光彦にどやされそうだな」
「バカ……」
その直後、突然橙色の光が闇夜を照らし、ドカンという轟音が響いた。
「!!!」
振動が体を揺らし、コナンと哀は倒れていたジョナスに目を向ける。
ジョナスは仰向けで倒れ伏していたが、その左手になんらかの小さな機械を持っていた。震える手が、赤いスイッチを押し込んでいた。
「ククク……どうせこのビルは僕が去った後で灰にする予定だったんだ……ここには僕の"足跡"が残りすぎているからな……。ちょっとばかり予定が早まっただけさ……」
ジョナスは横たわりながら血まみれの顔をわずかに起こしてコナンを睨み、笑った。
その背後では既に火の手が上がっていた。
「この勝負は君の勝ちだ、工藤新一……だけど、最後の結果は……引き分け、だな……」
「あいつ……!!!」
コナンは立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かない。
「無茶よ工藤君、私に肩を貸して!」
哀はコナンの腕を取り、肩に背負って立ち上がる。それだけでも全身に激痛が走り顔をゆがめるコナンだったが、今は哀に体を預けるほかないことは明らかだった。
「大丈夫よ、あの階段はまだ燃えていない……下の階に行けばすぐ隣はエレベーターよ、逃げ切れるわ!」
「オレのことよりも、あいつらは……元太と歩美が下の階にいるはずだ。あいつらを助けないと……!」
その時だった。
少し離れた場所に落ちていたコナンの眼鏡から、ノイズ混じりの音声が聞こえてきたのは。
『コナン君! そっちは大丈夫ですか!?』
「光彦!? おめーか!?」
「円谷君、無事なの!?」
『灰原さん!? よかった、無事だったんですね! 僕はつい先ほどこのビルを出たばかりです。さっき上の階に行ったら歩美ちゃんと元太くんを見つけて……二人ともボロボロだったので、先に二人を連れて外に出ることを優先したんです』
「じゃあおめーら全員無事なのか!?」
『コナンく~ん! 哀ちゃ~ん! あたし達はもう大丈夫だよ~~!』
『おめ~らも早く逃げてこ~~い!!』
「みんな……よかった……」
哀の頬が緩む。
「……行こうぜ、灰原」
「……ええ」
哀はコナンの腕を肩に背負ったまま歩き出した。
だが既に屋上のかなりの面積が炎に包まれつつあった。ヘリポートの中央にあったヘリも火の手に飲み込まれてしまっている。
「……おい、オレを引きずってたんじゃ間に合わねーんじゃ……」
「……心配いらないわ、あなただけは決して死なせないから」
哀は少し押し黙ってから、ふとコナンの顔を見て微笑んだ。
「工藤新一は、私が殺した……だから……江戸川コナンは、守り抜いてみせる」
それを聞いた途端、コナンは思わず吹き出した。
「ったく、そんなこと気にしてやがったのか」
「え?」
「バーロー、オレは一度も死んだことはねえよ。お前の隣で……ずっと生きてきた。だろ?」
「工藤君……」
「今までも、そしてこれからもずっと……オレは、お前の隣で生きていきたいんだ」
「ええ、私もよ」
哀はコナンと見つめ合い、微笑んだ。
「あなたと、一緒に――」
その二人の後姿を、ジョナスは倒れ伏しながら目で追っていた。
既にジョナスの服には炎が引火していた。高熱がたちまちのうちに全身にをむしばんでいく。
(……夜の闇と、炎の熱。ああ、"あの時"のようだ)
(あの時からずっと……いや、それよりもずっと前から僕は……)
哀の背中が小さくなっていく。その時、ふと一瞬だけ哀がこちらに顔を向けた。
冷徹さと憐れみとが入り混じった瞳で。
(ああ、あの目だ……子どもの頃、たった一度遠くから君の姿を見た時……君が僕に向けた目がそれだった……。僕はその目にずっと……もう一度会いたかったんだ……)
皮膚がただれ、体毛が灰となり、赤い血が焦げ落ちていく。
灼熱が人体を、かつて人間だったものに変えていく。
(後悔は、ないさ……僕は、生きたいように、生きたんだから……)
(君も、そうするが、いい…………)
――。
そして――――